「受難の予告」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編第38編1-23節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第18章31-34節
・ 讃美歌:295、156、453 聖餐79
今年の受難節
4月に入り、2011年度を歩み出しました。昨年は、この4月の第一の主の日がイースター、復活祭でした。イースターの日は年によって違います。それは、旧約聖書にある「過越の祭」を受け継いでいるからで、その決め方は、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、ということになっています。春分の日の後いつ満月になるかによって、ほぼ一か月の幅で日が動くのです。本年のイースターは4月24日ですが、これは最も遅くイースターを迎える部類です。1900年から2100年までの201年間のイースターの日を記した表を見ると、最も遅いのは4月25日です。今年はそれに次いで二番目に遅い年となります。
このイースターから遡ること七週前の水曜日から、受難節、レントに入ります。教会はその日からイースターまでの期間を、主イエスの十字架の苦しみと死とを特に覚える時として歩んでいます。その時期もイースターに連動して動くわけで、今年は3月9日の水曜日からレントに入りました。そしてそのレントの二日目、3月11日の金曜日に、東日本大震災が発生しました。今年の受難節を私たちは、この大震災による未曾有の被害とそれによる多くの人々の様々な苦しみ悲しみの中で、そして今なお収束できずにいる福島第一原発の事故の影響による被害と不安の中で歩んでいるわけです。受難節、レントに入ると同時にこの大震災が起ったことに、私たちキリスト信者は特別な思いを抱かされます。今私たちは、被災して苦しみ悲しみの中にある人々のことを思い、その苦しみ悲しみにできるだけ寄り添い、支えの手を差し伸べようとしていますが、被災した方々の苦しみ悲しみが、主イエス・キリストの十字架の苦しみ悲しみと必然的に重なり合って感じられるのです。今年、主イエスの十字架の苦しみと死に思いを致すならば、今地震や津波によって家族を失い、家を失い、あるいは原発の事故のために避難を強いられている方々の苦しみ悲しみを同時に覚えずにはおれません。またその被災者の苦しみ悲しみを覚えようとする時に、主イエスを信じる信仰に生きる私たちは、十字架につけられて殺された主イエスのことを覚えずにはおれないのです。二万人を超える、おそらく三万人にも及ぼうとする人々が命を失いました。その亡くなった方々のことを覚える時にも、十字架にかけられて殺された主イエスのお姿を私たちはそこに重ね合わせて見つめるのです。私たちは今年、そのような受難節を歩んでいるのです。
受難の予告
その受難節のさ中、本日は主イエスが、ご自分の受難、死を予告なさったお言葉を読みます。主イエスは今、エルサレムへと向かう旅路を歩んでおられますが、それは、エルサレムにおいて、異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打たれて殺されるため、そして三日目に復活するためでした。そのことを主イエスは弟子たちに前もってはっきりとお告げになったのです。小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」とありますように、主イエスがご自分の受難を予告なさったのはこれで三度目です。一度目と二度目はいずれも9章に語られていました。その二度の予告の後、9章51節から、主イエスははっきりとエルサレムに向けて歩み始められたのです。
乱暴な仕打ちを受け
主イエスがこのように三度ご自分の受難を予告なさったことは、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が共通して語っていますが、三つの福音書におけるこの第三の受難予告の言葉を比べてみますといくつかの違いがあります。そのいくつかの違いの中の一つの言葉にここで注目したいと思います。それは32節の、「乱暴な仕打ちを受け」という言葉です。これは、マタイにもマルコにもない、ルカのみが語っている言葉なのです。マタイには、侮辱されることと鞭打たれることのみが語られています。マルコはその他に、唾をかけられることをも語っています。ルカはさらにそこに、「乱暴な仕打ちを受け」を加えているのです。主イエスがお受けになる苦しみを最も詳しく語っているのがルカであると言うことができます。この「乱暴な仕打ちを受け」は口語訳聖書では「はずかしめを受け」と訳されていました。「乱暴な仕打ち」というと肉体的暴力という感じですが、「はずかしめ」というともっと精神的な事柄という感じです。これはその両方の意味を含んだ言葉です。この福音書の11章45節には、ある律法の専門家が主イエスに「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言ったとありますが、その「侮辱する」がこの言葉です。またマタイ福音書の22章6節では、主イエスのたとえ話の中で、王様から婚宴に招かれていた人々が、招きを伝えに来た王様の家来を「乱暴し、殺してしまった」という所にこの言葉が「乱暴する」という意味で使われています。このようにこの言葉は「乱暴する」とも「侮辱する」とも訳せるわけです。
傲慢
これは原語のギリシャ語で「ヒュブリゾー」という言葉ですが、その元になっているのは「ヒュブリス」という名詞です。その意味は「傲慢」です。ギリシャ神話で「ヒュブリス」は「傲慢の女神」です。この女神の名によってこの言葉を聞いたことのある方もいるのではないでしょうか。ちなみに、この傲慢の女神ヒュブリスの夫が戦いの神ポレモスです。ヒュブリスの行く所にはいつもポレモスがついて回る。つまり傲慢こそ戦い、戦争の源であると言われるのです。その傲慢、ヒュブリスからこの「乱暴な仕打ちを受け」という言葉は生まれました。つまりこれは、「傲慢による苦しみを受けた」ということです。肉体的な乱暴も、精神的な侮辱も、人間の傲慢の下で起ることです。主イエスが、異邦人に、つまり神様を知らない人々に引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺された、それは、肉体的にも精神的にも、人間の傲慢による苦しみをお受けになったということだ、ということをルカは見つめているのです。主イエスを苦しめ、死に追いやったのは人間の傲慢です。そしてそれは、人間の数々の罪の中で、特に傲慢の罪が主イエスを苦しめ、死なせたのだということではありません。人間の罪の本質がこの傲慢なのです。傲慢は様々な罪の内の一つではなくて、人間の罪の根本、根源なのです。
罪の根源である傲慢
聖書が語る人間の罪は、神様によって造られ、生かされている人間が、造り主である神様の下で生きることをやめ、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとすることです。神様に従うのでなく、神を退けて自分が神の立場に立ち、自分の思い、考え、主張を絶対化すること、それが罪なのです。それはつまり神様に対する人間の傲慢です。最初の人間アダムの罪以来人間は、この神様に対する傲慢の罪の中にあるのです。その傲慢のゆえに、私たちは生まれつき、神様は勿論、隣人をも、愛することができずにむしろ憎んでしまい、傷つけてしまうことを繰り返しています。造り主である神様を傲慢に退け、自分こそが主人となって生きようとしている者が、隣人に対してだけは謙遜に、人を尊重し生かすようなことができるはずはありません。隣人に対する様々な具体的な罪、悪、それによる人間関係のいろいろな問題は、私たちがお互いに対して傲慢であることに原因があります。それは根本的にはこの神様に対する傲慢から生じて来ているのです。
これまでに語られてきたこと
そのことを分かりやすく表現していたのが、9節以下に語られていた「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」です。ファリサイ派の人は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈りました。彼は神様の前に自分がいかに正しい人間であるか、信仰深い生活をしているかを並べ立てています。そのようにして神様に対して自分を誇る傲慢に陥っているのです。その彼は、神様への感謝を装いつつ、周囲の人々を見下し、特に徴税人のことを罪人として軽蔑しています。つまり彼は隣人への傲慢によって人を傷つけ、交わりを破壊するような生き方をしているのです。それに対して徴税人は、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしをお赦しください」とのみ祈ったのです。「神に義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と主イエスはおっしゃいました。神様との関係が確立し、救いにあずかることができたのは、傲慢なファリサイ派の人ではなくて、悔いる罪人である徴税人だったのです。傲慢の罪によって私たちは神様との関係を失い、同時に隣人との関係をも失っていくのです。続く15節以下には「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という主イエスのみ言葉が語られていました。「子供ように神の国を受け入れる」とは、自分が主人になり支配しようとする傲慢を捨てて、神様のご支配を信じて受け入れる者です。そういう者こそが、神様のご支配、即ち救いにあずかることができるのです。また先週読んだ18節以下には、十戒の掟を子供の頃からしっかり守っていますと言う議員に主イエスが、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っているものを売り払い、貧しい人々に分けてやり、わたしに従いなさい」とおっしゃったことが語られていました。持っているものを手放して主イエスに従うというのは、自分の持っているものに頼り、それを誇る傲慢を捨てて、子供のように神の国を受け入れる者となることです。つまり主イエスはこの議員の傲慢を問題にされたのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」というお言葉は、神様に対して、自分の持っているもの、自分の正しさを主張し、それを誇り、それに依り頼もうとする傲慢な者は神の国、神様の救いに入ることができない、ということを語っているのです。
傲慢に支配されている私たち
このように主イエスはこの一連の話において、傲慢こそが、神様の救いにあずかることを妨げ、神様の祝福から人間を遠ざけている根本的な問題、つまり罪の本質であることを見つめておられます。そしてそのことを通して主イエスが語ろうとしておられるのは、傲慢な思いを捨て、へりくだって謙遜になることが大切だ、というような道徳的な教えではありません。主イエスの教えを聞いた人々は、26節で「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。つまり、この傲慢の罪を捨てて謙遜になり、神様の救いにあずかれる人など誰もいないのではないか、という感想を彼らは抱いたのです。そして主イエスもそれを受けて、「人間にはできないことも、神にはできる」とおっしゃいました。人間にはできない、つまり、傲慢を離れ、謙遜になって神様の救いにあずかることは、人間の力でできることではない、傲慢な者になったらだめだ、謙遜になろう、と私たちが思い努力することによってそれが実現することはない、ということです。そもそもあのファリサイ派の人は、神様の前に謙遜な信仰者として立っているつもりでいるのです。そして神様の恵みによって信仰者として生かされていることを感謝しているのです。私たちは、謙遜であろうとすることの中ですら、傲慢に陥るものです。あの徴税人の立場に自分を置いて、「神様、わたしはほかの人たちのように自分の罪を知らない傲慢な者でなく、神様によって自分の罪が赦されたことを信じることができて感謝します。またこのファリサイ派の人のように、自分を正しい者だとうぬぼれて人を見下すような者でもないことを感謝します」という、ファリサイ派の人と全く同じ祈りをすることがある、ということをあの時申しました。謙遜になろうとする私たちの思いすらも、傲慢の罪に支配されてしまっているのです。
人間の傲慢の犠牲となって
「人間にはできないことも、神にはできる」。私たちがこの傲慢の支配から救い出されて義とされ、神の国、神様の救いにあずかる者となることは、神様ご自身のみ業によってこそ実現するのです。その神様のみ業の実現のために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、人間となってこの世に来て下さったのです。主イエス・キリストはどのようにしてこの神様の救いのみ業を成し遂げて下さるのでしょうか。それは、私たち人間のどうしようもない傲慢の罪による苦しみを引き受け、肉体的にも精神的にも「乱暴な仕打ちを受け」て、人間の傲慢の犠牲となって死んで下さることによってです。そのことが、本日のこの主イエスご自身による受難の予告に語られています。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。主イエスはこのようにして、私たちの傲慢がもたらす、肉体的精神的なありとあらゆる苦しみをご自分の身に負って下さり、それによって死んで下さったのです。つまり私たちの傲慢が、神様の独り子である主イエスを殺したのです。
主イエスの復活によって
しかしそれに続いて「そして、人の子は三日目に復活する」ということもここに予告されています。私たちの傲慢の犠牲となって死んで下さった主イエスを、父なる神様が復活させて下さったのです。それは、神様の恵みが私たちの傲慢の罪に打ち勝ったということです。人間の傲慢がもたらした死が、神様の恵みによって打ち破られ、新しい命、永遠の命が切り開かれたのです。神様が独り子主イエスの復活によって、私たちの傲慢の罪に打ち勝って切り開いて下さったこの新しい命にあずかることによってこそ、私たちは神の国、神様の救いにあずかることができます。「人間にはできないことも、神にはできる」という神様の救いが、この主イエスの復活において実現するのです。主イエスはそのことをもここで予告しておられるのです。31節の後半には「人の子について預言者が書いたことはみな実現する」とあります。それはつまり主イエスがここで語られたご自身の受難と復活による救いは、預言者たちが書いたこと、つまり旧約聖書に語られていることの実現だ、ということです。預言者たちが既にこのことを書き記していた、それはさらに言えば、主イエスの受難と復活は父なる神様のみ心によることだ、ということです。どうしようもなく傲慢の罪に捕えられている私たちを救うために、主なる神様は、ご自分の独り子をこの世に遣わし、その独り子が私たちの傲慢の犠牲となって死んで下さることによって、そしてその独り子を死者の中から復活させて下さることによって、私たちの罪を赦し、新しくして、神様の祝福の下に生きることのできる者として下さる、そのような救いのみ業をなさることを決意して下さり、そのご計画を預言者たちによって書き記させて下さったのです。その神様のご意志、ご計画を実現するために、主イエスは今、エルサレムへと上って行こうとしておられるのです。私たちは今、その主イエスのエルサレムへの、十字架の死と復活への歩みを覚えるレントの時を歩んでいるのです。
弟子たちにこそ、しかし弟子たちは
この受難の予告が語られた相手は、31節の初めに「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた」とあるように、主イエスの十二人の弟子たちです。主イエスを信じ、従い、エルサレムへの旅路を共に歩んでいる弟子たちにこそ、この受難の予告は語られたのです。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、私たち人間の傲慢の罪を背負い、その犠牲となって死んで下さることによって、また神様がその主イエスを復活させて下さることによって、罪の赦しと永遠の命が与えられるという救いのみ言葉は、主イエスの弟子たち、つまり主イエスを信じて従い、み言葉を求めて礼拝に集っている私たち信仰者にこそ告げ知らされているのです。
しかし34節には、「十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」とあります。主イエスの十字架と復活によって与えられる救いを告げるみ言葉は、主イエスに従う弟子たちに、つまり礼拝に集う私たちにこそ告げ知らされます。しかし同時に、それを聞いた私たちが、そのみ言葉を理解できない、私たちにはそれが隠されていて分からない、ということが起るのです。主イエスのお言葉の意味は明確です。理解できない謎では全くありません。では弟子たちは、また私たちは、何が分からないのか、理解できないのか。それは、主イエスの苦しみと死が、私たちの傲慢の罪の結果なのだということ、私たちの傲慢の犠牲となって主イエスが十字架にかかって死んだのだ、ということ、そして父なる神様がその主イエスを復活させて下さることによって、私たちをこの傲慢から解放し、神様が恵みによって与えて下さる神の国、救いを、子供のように受け入れる者として下さるのだ、ということです。つまり、「人間にはできないことも、神にはできる」という神様の救いのみ業が、主イエスの十字架の死と復活において実現しているということです。み言葉を聞いても、誰もがそのことをすぐに理解し、信じることができるわけではありません。それは理解力の問題ではなくて、神の国は私たちにとって隠された真理だからです。子供のように神の国を信じて受け入れ、自分の持っているものにではなくただ神様の恵みに依り頼むことは、人間の理解力や努力によってはできないのです。
聖霊の働きによって
しかしこの時このみ言葉が分からなかった弟子たちも、後に、復活なさった主イエスと出会い、そして聖霊のお働きを受けることによって、心を開かれて、主イエスの十字架と復活による救いを告げるみ言葉を信じて受け入れ、そのみ言葉を宣べ伝える者となりました。今は隠されている神の国の真理が、聖霊の働きによって示され、分かり、その真理によって生きる者となることを弟子たちは体験したのです。私たちもそれと同じ体験を与えられていきます。今私たちは、主イエスの苦しみと死とを覚えるレントの時を歩んでいますが、その主イエスの苦しみと死が私たちの傲慢の罪によるものであることも、そして主イエスの十字架と復活によって神様が私たちの傲慢の罪を赦して、新しい命を与えようとして下さっていることも、なかなか本当には分かりません。半信半疑の思いを抱いていたり、いやむしろそこにどんな救いがあるのか全く分からないという人もいるでしょう。けれどもそのように今は分からなくても、主イエスと共に歩み続けていくならば、復活して今も生きておられる主イエスが出会って下さり、聖霊のお働きによってこの救いの恵みを示し、信じさせて下さる時が必ず来るのです。また既にこの救いを信じて洗礼を受けた者たちには、本日共にあずかる聖餐が備えられています。聖餐のパンと杯にあずかる時、そこには聖霊が働いて下さり、主イエスの十字架の死と復活によって与えられた救いの恵みを、目に見える仕方で、また口で食し味わい飲むという仕方で新たに示し、それを信じる信仰を確かなものとして下さるのです。
また今このレントの時に私たちは、大震災によって被災した人々の苦しみや悲しみを、主イエスの苦しみと死とに重ね合わせつつ覚えています。そこには、あのような悲惨な出来事に神様のどんなみ心があるのか、という問いがあります。その神様のみ心は今私たちには隠されていて分かりません。しかし私たちは、その問いを心に抱きつつ、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエス・キリストのみ言葉を聞き、主イエスに従って苦しみの中にある人々に寄り添いつつ歩み続けたいのです。その中でこそ、今は隠されている神様のみ心が聖霊のお働きによって示される時が来るのだと思うのです。