「もっと強い者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第49章22―26節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第11章14-23節
・ 讃美歌:325、205、455
傍観者として
本日ご一緒に読みますルカによる福音書第11章14節以下には、主イエスが悪霊を追い出されたことが語られています。それは口を利けなくする悪霊でした。主イエスがその悪霊を追い出すと、口を利けない人がものを言い始めたのです。主イエスが行われた癒しの奇跡の一つですが、このような箇所についてよく受ける質問は、悪霊とはどういうものですか、それは本当にいるのですか、というものです。悪霊の存在をすんなりと信じることはできない、という思いが現代の人々にはあります。それゆえに、これを合理的に理解しようとする人は、主イエスはここで精神的な病の癒しを行ったのだと考えます。この人は心の病あるいは極度のストレスによって口を利くことができなかったのを、主イエスが彼の心を抑圧から解放して話せるようにしたのだ、という理解です。その場合主イエスは偉大な心理療法士だったということになります。しかし今日は同時にオカルト的なものが流行っている時代でもあって、そういう線で悪霊の存在を受け止める人もいます。そうするとここでの主イエスのお姿は、いわゆる悪魔祓い、エクソシストとして理解されるわけです。そのように私たちは、主イエスが悪霊を追い出したというこの出来事についていろいろに議論し、考え、それぞれなりにいろいろな受け止め方をしています。しかしその私たちに共通していることがあるのではないでしょうか。それは、この話をどう受け止めようと、そのことが私たちの人生に、生き方に、何の影響も及ぼさない、自分が変えられることがない、ということです。それは私たちが、ここに出てくる悪霊を、またそれを追い出した主イエスのお姿をも、傍観者として眺めているからです。受け止め方の違いはいろいろあっても、主イエスによる奇跡を傍観者的に眺めている、という点において皆同じなのではないでしょうか。そしてそれは、この奇跡を目撃した群衆たちと同じである、ということです。
群衆たちは、主イエスの悪霊追放の奇跡を見て驚嘆しました。そして彼らの中にいろいろな反応が生じました。ある人は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言いました。つまり、イエスが悪霊を追い出すことができるのは悪霊の親分だからだ、親分が子分に「出ていけ」と命じているのだ、ということです。またある人は、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。この人たちは、主イエスの悪霊追放の力がどこから来たのかを確かめたいと思っているのです。「天からのしるし」とは、主イエスの力が天からの、つまり神様からの力であることの証拠です。それを示して欲しい、そうすればあなたの力が神様によるものであると認めてやる、ということです。これらの人々は今日の私たちのように悪霊の存在を疑ってはいません。しかし主イエスが悪霊を追い出したのを目の前で見ても、そのみ業によって何の影響も受けず、ただそれをどう受け止めたらよいかと論じているだけなのです。それは、彼らも悪霊を、また主イエスのみ業を、傍観者として眺めているだけだからです。
あなたがたは戦場にいる
そのように傍観者として眺めている彼らに対して主イエスは、17~19節のみ言葉を語られました。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。ここで主イエスは、「悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という中傷に対して反論しておられます。「私がしていることは、サタンの中での内輪もめではない。もしそう言うなら、あなたがたの仲間で悪霊を追い出している者はどうなるのか。それも悪霊の親玉の仕業だなどと言ったら彼らは怒るぞ」ということです。つまり主イエスによる悪霊追放だけを悪霊の頭ベルゼブルの力によることとするのは無理があるのです。主イエスはそのように見事に反論しておられるわけですが、しかしこのお言葉はそういう反論あるいは弁明ではなくて、もっと大切なことを宣言しています。それは、「あなたがたは今激しい戦いが行われている戦場の真ん中にいるのだ」ということです。その戦いとは、神様とサタンとの戦いです。しかもそれは局地的な小競り合いではありません。神の国とサタンの国の、滅ぼすか滅ぼされるかの全面戦争、総力戦です。ここに出てくる「国」という言葉は「支配」という意味です。神の国は神様のご支配、サタンの国はサタンの支配です。神様とサタン、どちらの支配が確立するのか。あなたがたはその決戦場にいるのだ、と主イエスは告げておられるのです。主イエスがある人から悪霊を追放したというみ業は、その戦いにおいて、一人の人が悪霊の支配から神様の支配へと取り戻されたということです。悪霊とサタンとは区別して考えなくてもよいでしょう。いずれも、神様に敵対し、その恵みから私たちを引き離そうとする力です。一人一人に取り付き支配するそのような力が「悪霊」と呼ばれているのです。私たち一人一人が、神様とサタンの戦いの戦場であり、主イエスと悪霊とが私たちをめぐって戦っているのです。その戦場において、私たちは暢気な傍観者でいることはできません。悪霊は、少しでも隙があれば、私たちを虜にし、支配下に置こうと狙っているのです。いやもう既に悪霊が私たちを支配してしまっているのではないでしょうか。ここに出てくるのは口を利けなくする悪霊です。この悪霊に私たちも捕えられており、そのために、神様を賛美する言葉、祈りの言葉を失い、また隣人に対する愛の言葉を失って、神様に対しても隣人に対しても、本当に語るべきことを語ることができなくなり、語るべきでないことを語ってしまう者となっているのではないでしょうか。口が利けなくなるとは、交わりを失い、共に生きることができなくなることです。悪霊はいるとかいないとか、それをどう理解するかなどと暢気に考えたり議論している間に、悪霊は既に私たちを捕え、支配しているのです。主イエスはその悪霊と戦い、私たちから追い出そうとしておられるのです。その戦いにおいて傍観者であることはできません。中立を守る、などということはできません。私たちは、主イエスと共に神様のご支配のために戦うか、それとも悪霊、サタンの支配に自らを開け渡すか、どちらかなのです。23節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というみ言葉はそういう意味です。「わたしに味方しない者は」、つまり主イエスと共に戦わない者は、傍観者として中立を守っているのではなくて、サタンの支配下にいるのです。主イエスは、暢気に傍観者であろうとしている私たちに、主イエスの側に立ってサタンと戦う者となる決断を求めておられるのです。
ところでこの23節の「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」というお言葉を読んで、9章50節の「あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」というお言葉を思い起こし、ここはあそことは打って変わった厳しいお言葉だと感じる方がいるかもしれません。9章50節は、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出しているが、弟子たちと一緒に従って来ようとしない人を見た弟子のヨハネが、悪霊追放をやめさせようとしたことに対して主イエスがお語りになったお言葉です。敵対しない者は味方だ、というこの言葉と、味方しない者は敵だ、という本日の箇所の言葉は矛盾するようにも感じます。しかし9章の方は、「あなたがた」つまり弟子たちと歩みを共にしないけれども、主イエスの名によって悪霊を追い出している、つまり悪霊と戦っている人は悪霊との戦いにおける味方だ、ということです。本日の箇所は、「わたし」つまり主イエスと共に悪霊と戦わない人は敵対している、ということです。いずれにしても、主イエスの側に立って悪霊としっかり戦うことを求めておられるわけで、主イエスのお言葉は首尾一貫しているのです。
もっと強い人
このように、本日の箇所の最後の23節で主イエスは私たちに、傍観者を決め込むのではなく、主イエスの悪霊との戦いに参加するようにと求めておられるわけですが、その促しに先立って、21、22節が語られていることに注目しなければなりません。そこにこうあります。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。ここにも戦いのたとえが用いられています。しかも略奪というまことに乱暴なたとえです。このたとえは何を語っているのでしょうか。21節に出てくる、「武装して自分の屋敷を守っている」「強い人」とは誰のことでしょう。それはサタンです。サタンが十分に武装して自分の屋敷を、あるいは城を守っているのです。そうである限り、サタンの持ち物、サタンが自分の支配下に置いているものは安全です。安全であるというのはサタンにとって安全なのであって、つまりそれらはサタンの支配からぬけ出すことはできないのです。しかし22節には、「もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」とあります。その「もっと強い者」とは、主イエス・キリストのことです。主イエスが、サタンの城を襲撃し、サタンを武装解除してその城の中にあるサタンの持ち物を略奪し、分捕り品とするのです。このたとえはそのように、サタンに対する主イエスの戦いと勝利を描いているのです。
神の国はあなたたちのところに来ている
この主イエスの戦いにおいて、私たちはどこにいるのでしょうか。サタンの城を攻撃する主イエスの軍勢の兵卒として勇敢に戦っているのでしょうか。そうではありません。このたとえにおいて私たちのことを語っているのは、サタンのもとに置かれている「持ち物」であり、サタンに勝利した主イエスによって略奪され、主イエスのものとなった「分捕り品」です。私たちは、主イエスと共にサタンと戦っていると言うよりも、既にサタンの虜になり、悪霊の支配下に捕えられてしまっているのです。その私たちを、主イエスがサタンに勝利し武装解除することによって救い出し、ご自分のものとして下さったのです。サタンとの決定的な戦いは既に主イエスによって戦われ、主イエスの勝利に終っているのです。神の国はサタンの国に既に勝利しており、私たちはサタンの支配から神様のご支配の下へと移されているのです。そのことを語っているのが20節です。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスが悪霊を追い出し、口の利けなかった人を癒された、それは悪霊の親玉のではなく「神の指」によるみ業だ、つまり神様のみ手の業だ。「神の指」という言い方によって、「み手の業」と言うよりもより丁寧な、繊細なみ業がイメージされると言えるかと思いますが、いずれにせよそれは神様のみ業なのであって、そのことによって神の国があなたたちのところに来ている、サタンの国は敗北し、神様のご支配が実現しているのです。そのように、サタンに対する主イエスの勝利が既に実現しているのです。それを明確にするために21、22節の略奪のたとえが語られているのです。ですから23節で私たちに参加が促されている戦いは、もう決定的な戦闘が終わり勝敗の帰趨が見えている、主イエスの勝利が決定的となっている戦いです。最終的勝利が約束されているこの戦いへと、主イエスは私たちを招いて下さっているのです。
十字架と復活によって
サタンとの戦いにおいて主イエスが既に決定的に勝利しておられる、その勝利は、本日の箇所の、口を利けなくする悪霊の追放によって実現したわけではありません。その決定的戦いは、主イエスのご生涯全体において戦われたのであって、その最後の山場は十字架の死と復活です。神様の独り子であられる主イエスは、神様をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまう罪の中にあり、悪霊の虜となって語るべき言葉を失い、神様とも隣人とも良い交わりを失っている私たちの罪を全て背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。主イエスが十字架につけられて殺されたことによって、神様に敵対するサタンの力が勝利したかのように見えます。しかし主イエスはまさにそのことによって、サタンが強力な武装をして守っている城に捕えられてしまっている私たちのところにまで来て下さったのです。そして父なる神様は、死の力を打ち破って主イエスを復活させ、新しい命と体とを与えて下さったのです。復活された主イエスは、サタンの武具を全て奪い取り、そこに捕えられていた私たちを分捕り品としてサタンから奪い、その支配から解放して下さったのです。サタンに対する主イエスの決定的勝利はこの十字架の死と復活とによって実現しています。本日の箇所の奇跡も含めて、主イエスのみ業は全てこの十字架と復活による勝利を指し示しているものです。神の国、神様のご支配は、主イエスの十字架と復活とによって私たちのところに来ているのです。私たちは主イエスが十字架と復活によって得て下さった決定的勝利の後の、しかしなお世の終わりまで続いていくサタンとの戦いへと招かれているのです。既に主イエスの、神様の勝利は決定的となっています。私たちを、またこの世界を支配しているのは、サタン、悪霊ではなくて、主イエスの父である神様なのです。その神様のご支配があらわになり、完成する終わりの日を待ち望みつつ、私たちは主イエスと共に戦っていくのです。
危機意識
「あなたがたは今激しい戦いが行われている戦場の真ん中にいるのだ」と主イエスは告げておられる、と先ほど申しました。つまり主イエスは、あなたがたは危機的状況にある、危機意識を持ちなさいと言っておられるのです。自分たちは厳しい戦いの中に置かれているという危機意識は、今日の社会を生きている私たちの誰もが肌で感じていることだと思います。いろいろな危機があります。厳しい経済状況の中で、どの企業も生き残りをかけた戦いの危機の中にいます。そこに働く人々も、仕事を確保し、生活の糧を得ることの危機を感じています。そしてそういう競争社会の中で切り捨てられてしまう社会的弱者が直面している生活の危機があります。格差社会が進む中で、豊かな人と貧しい人の間に何の接点もなくなり、一致や連帯感が社会から失われていくという危機があります。しばらく前までは普通にあった倫理観、道徳観が失われ、自分の利益だけを考え、他の人のことを顧みないという深刻な道徳の崩壊の危機があります。様々な局面で、また様々なレベルで危機意識が深まっているのが今日の社会です。しかし私たちは、そのような社会的危機は敏感に察知するわりに、主イエスが語っておられる危機、サタンとの戦いにおける危機、つまり私たちが罪に支配され、神様に対しても隣人に対しても、本来語るべき良い言葉を語ることができなくなり、良いコミュニケーションを失い、愛するよりも憎み、交わりを築くよりも破壊する者、群れを集めるのではなく散らす者となってしまうという危機については、やけに暢気に構え、傍観者を決め込もうとしているのではないでしょうか。しかし実はこの危機こそ、様々な危機の根底にある最も深刻な危機なのです。サタンは、悪霊は、巧妙な手口で私たちを支配し、悪霊に取り付かれているなどという思いを一切持たせずに、しかし私たちをがんじがらめに縛りつけようとしているのです。
この本当の危機になかなか気付かない私たちに対して主イエスは、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」とおっしゃって、私たちの目を開かせ、主イエスと共に戦うように招いておられます。主イエスのみ言葉によって私たちは、この危機をしっかりと見つめ、そして主イエスとサタンの戦いの中で旗幟を鮮明にしていくべきなのです。
主イエスの勝利に支えられて
しかしこの戦いは、主イエス・キリストが既にお一人で戦い、勝利をして下さった戦いです。この戦いにおける決定的な戦闘は既に終わり、主イエスの勝利は確実なものとなっているのです。主イエスは私たちをこの戦いへと招くと同時に、そのことをもはっきりと示して下さっています。私たちは、主イエスが既に勝利して下さった、その戦いへと招かれ、その戦いを共に戦っていく者となるのです。それはなお厳しい戦いであり、甘く見ることはできません。私たちも、緊張感を持って、心して、サタンの攻撃に耐え、私たちを虜にしようとしている罪の力と戦わなければなりません。しかし私たちのその戦いは常に、十字架と復活における主イエスの勝利に支えられているのです。私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さり、私たちを新しい命に生かすために復活して下さった主イエス・キリストのもとで、私たちは戦っていくのです。この主イエスの勝利を見つめることによって、私たちの危機意識は、気落ちさせる不安や心配ではなく、緊張感を伴う希望となります。信仰をもって生きるとは、主イエスの勝利に支えられて、勝利の約束された戦いを、しかし油断することなく、緊張感を伴う希望をもって戦っていくことです。その戦いに連なることによって、私たちは、主イエスと共に集める者となります。主イエスは全世界から、ご自分の救いにあずかる民を招き集めて下さっています。私たちも招かれ、集められて教会に集いました。主はその私たちを用いて、さらに多くの人々を、ご自分のもとへと、主イエスの勝利に支えられて希望ある戦いを戦っていく群れへと、招き集めようとしておられるのです。