「隣人とは誰か」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: レビ記 第19章17-18節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章25-37節
・ 讃美歌:14、165、481
ルカの文脈は?
本日ご一緒に読む聖書の箇所、ルカによる福音書第10章25節以下には、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話の中でも最もよく知られている、「善いサマリア人」の話が語られています。この話は単独でもよく読まれ、例えば特別伝道礼拝の聖書箇所などに取り上げられたりすることがあります。そのように前後と切り離して読むこともできる話ですが、私たちは今、このルカによる福音書を連続して読んでおり、先週は24節までを読み、本日はこの25節以下を読み、来週は38節以下を読んでいくわけです。そのような読み方をしている私たちは、この箇所が何を語っているのか、ということのみでなく、この話が先週までの所とどう結びついており、また来週の所へとどうつながっているのか、ということにも関心を持ちます。つまりルカによる福音書の流れ、いわゆる文脈の中でこの話がどのような意味を持っているのか、ということです。本日はそのことに焦点を当てつつこの箇所を読んでいきたいと思います。そうすることによって、この箇所を単独で読む時とはまた違ったことが見えてくるだろうと思うのです。
さてそうは言ったものの、この箇所とその前の所とのつながりはなかなか見えてきません。25節に「すると、ある律法の専門家が立ち上がり」とあります。「すると」というのは直訳では「すると見よ」であり、これから語られることが24節までの話の続きであることを示しています。主イエスが語り終えると、それまでそこに座って主イエスの教えを聞いていた人の一人が急に立ち上がったのです。その人は「ある律法の専門家」です。これまでの所にも、「律法の専門家」と「律法学者」とが出てきました。違う言葉ですが、口語訳聖書はどちらも「律法学者」と訳しています。内容は同じと考えてよいでしょう。6章14節には「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。本日の所の律法の専門家も「イエスを試そうとして」とありますから、彼らと同じ思いで主イエスのもとに来ていたのです。つまりこの人は主イエスの弟子ではなくて、むしろ敵対している人です。そういう人が突然立ち上がったというのですが、24節までの話において、そこに弟子以外の人がいることは不自然です。先週読んだ17節以下には、主イエスが派遣した七十二人の弟子たちが帰って来て喜んで報告をしたこと、それを受けて主イエスが父である神様をほめたたえ、弟子たちに「あなたがたは幸いだ」とおっしゃったことが語られていました。そこに弟子以外の、しかも敵意を持っている人がいることは考えにくいのです。口語訳聖書はこの25節を「するとそこへ、ある律法学者が現れ」と訳していました。「立ち上がった」よりはこの方が納得がいくかもしれません。しかし立ち上がったにせよ現れたにせよ、ここに律法の専門家が突然登場することの意味は何なのでしょうか。その問いは保留にしたまま、その先を読み進めていきたいと思います。
悪意ある問いとユーモアたっぷりな答え
彼は「イエスを試そうとして」「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いました。この問いは、それだけ読むと真摯な信仰の問いに思えます。永遠の命を受け継ぐ、それは神様の救いにあずかるということです。救われるためには何をしたらよいのでしょうか、と彼は問うたのです。しかしそれは「イエスを試すため」の問いでした。「試す」とは「テストする」ことです。テストして、合格か不合格か決めてやろう、というのです。彼は永遠の命を、自分の救いを、真剣に求めているのではなくて、イエスがこの問いにどう答えるか、その答えを律法の専門家の立場から採点して批評してやろうとしているのです。
この悪意ある問いに対して主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆にお問いになりました。ここに主イエスのユーモアがあります。律法の専門家に対して、「それは律法に書いてあるだろう。あなたは律法をどう読んでいるのか」と逆に問うというのは、ユーモアたっぷりなことであり、大変な皮肉です。悪意ある問いに対して主イエスはしばしばこのようなユーモア、皮肉をもってお答えになるのです。
立場の逆転
逆に問われてしまった彼は、27節で「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えました。流石は専門家、律法の勘所をきちんと捕えています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これは申命記第6章5節であり、イスラエルの人々が毎日祈りにおいて唱えていた言葉です。「隣人を自分のように愛しなさい」これは本日共に読まれた箇所、レビ記第19章18節です。この二つの教え、神様を愛し、隣人を愛することが、律法全体の要約であり、その基本構造です。十戒も前半と後半でこの二つのことを教えているのです。このように答えた彼に対して主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいました。これは、すっかり立場が逆転してしまったということを描いています。つまりいつのまにか彼の方が主イエスによってテストされ、「あなたの答えは正しい。合格だ」と言われてしまったのです。ですから、28節の主イエスの言葉もやはり皮肉です。私たちはここの読み方を間違えないようにしなければなりません。ここは、永遠の命を得るには、つまり救いにあずかるには、律法の中心である二つの教え、神様を心から愛し、隣人を自分のように愛する、という二つのことを行うことが必要だ、それを行えば救いを得ることができる、と主イエスがお教えになった、というふうに読むべきではないのです。律法の専門家が、イエスを試そうという悪意をもって「何をしたら永遠の命を得ることができるか」と問うてきた、それに対して主イエスは、「あなたは常日頃このように考え、主張しているはずではないか。その通りにしたらいいだろう」と皮肉を込めて答えられたのです。
言い訳
すると彼は、自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言いました。「自分を正当化しようとして」は口語訳では「自分の立場を弁護しようとして」となっていました。つまり彼は、主イエスのこの言葉の中に、「あなたは自分が考え主張している通りに生きていないのか」という問いが含まれていることを感じ取ったのです。このことは一般的にも言えることです。人を試したり批判する時には、自分自身がどう生きているかが当然問われるのです。自分のことを棚に上げて人を批判するのは、単なる意地悪です。彼が自分を正当化し、自分の立場を弁護しようとしたというのは、「いや私は意地悪でこんなことを言っているのではない、こういう疑問を抱いているからなんだ」という言い訳です。意地悪な思いで質問や批判をしておいて、「いや意地悪でこう言っているのではないですよ」と言い訳をすることは、私たちもしばしばしているのではないでしょうか。その言い訳として彼が持ち出したのが、「わたしの隣人とはだれですか」という問いでした。神様と隣人を愛することが、律法の中心であることは勿論知っている。私はそのように生きようとしている。しかしその中で、神様を愛するというのは分かるが、隣人を愛するというのは、誰を愛することなのか、私が愛すべき隣人とは誰であり、どこにいるのだろうか、そういう疑問を持っているのだ、と彼は言ったのです。これは見え透いた言い訳であって、それなら最初からそう問えばいいではないか、というものですが、しかしこれはこれで一つの大事な問いではあります。この問いに対する答えとして主イエスがお語りになったのが、「善いサマリア人」の話なのです。
主イエスの問い
このように、この話が語られる前提には、少し込み入った、また皮肉を込めた対話がなされています。そこには、私たちも身につまされるような事柄が描かれているわけですが、ここから私たちが受け止めるべき最も大事なことは何でしょうか。それは、主イエスを試そうとしたこの人と主イエスとの立場が逆転し、主イエスが問い、この人が問われる立場になった、ということだと思います。主イエスと私たちとの間には、こういうことが常に起るのです。私たちは、疑問や疑いや場合によっては悪意をもって主イエスにいろいろなことを問い、試そうとします。主イエスのことや教会の教えをテストして、合格か不合格か、信じるに値するか否かを判定しようとします。そのように主イエスに問いをぶつけていくことは決していけないことではありません。疑問は大いに持ち、ぶつけていったらよいのです。しかしそのような中で、あるところで私たちは、主イエスの方から逆に問われていることに気付きます。問う者と問われる者の逆転を体験するのです。主イエスご自身が私たちに問いかけて来られるのです。生きておられる主イエスとの出会いがそのようにして与えられます。それが信仰の始まりだとも言えます。信仰者として生きるというのは、何らかの信念を持って生きることではなくて、生きておられる主イエスから常に問われつつ生きることです。問う者から問われる者へと変えられることが、信仰者となることなのです。この話において、律法の専門家と主イエスとの間に立場の逆転をもたらしたのは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」という主イエスの問いです。この主イエスの問いこそ、この箇所の中心であると言うことができると思います。そしてこの問いが、「善いサマリア人」の話を読む上でも鍵となるのです。この問いを鍵として読む時に、「善いサマリア人」の話から何が見えてくるのでしょうか。
善いサマリア人
この話の内容は、読めば分かる単純なものです。若干の説明を加えるならば、エルサレムからエリコへ下る道というのは、荒涼たる荒れ野の道であり、強盗や追いはぎがよく出没する危険な道だったということを知っておくとよいでしょう。また、半殺しにされて倒れている人を見ながら道の向こう側を通って行った二人の人は、祭司とレビ人ですが、これはどちらも、ユダヤ人の宗教的指導者、神殿の礼拝を司り、それに奉仕する人です。「律法の専門家」と、働きの内容は違いますが、立場としては似たような人だと言えます。追いはぎに襲われて倒れている人はユダヤ人です。同じユダヤ人の、しかも信仰の指導者である人々が、彼を見捨てて通り過ぎたのです。その後、「旅をしていたあるサマリア人」が、この人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。サマリア人は、ユダヤ人とは犬猿の仲にあります。ユダヤ人はサマリア人のことを宗教的な純粋さを失った民として軽蔑し、差別していました。サマリア人もユダヤ人とエルサレムの神殿に対して対抗意識を強く持っていました。9章51節以下には、主イエスの一行をサマリアの人々が歓迎しなかったことが語られていますが、それは主イエスたちがエルサレムへと向かっていたからだったのです。ユダヤ人とサマリア人の間にはそういう敵対関係、敵意がありましたが、彼はそれを乗り越えて、ユダヤ人であるこの人を助けたのです。
教えの通りに生きているか
この話をした上で主イエスは律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお問いになりました。答えははっきりしています。「その人を助けた人です」と彼が答えると、主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃったのです。ここには、先ほどの28節までの問答と同じ構造があります。つまり、主イエスが問い、彼が答えます。その答えは間違っていないのです。正しいのです。それを受けて主イエスは、あなたの答えは正しい、その答えの通りに実行しなさいとおっしゃるのです。つまりこの話において主イエスが彼に一貫して問いかけておられるのは、「あなたは自分が知っていること、分かっていること、その正しいことを、その通りに実行しているか、そのように生きているか」ということなのです。その思いがはっきり現れているのが、「あなたはそれをどう読んでいるか」という問いです。律法の専門家に対してこのように問うのは主イエスのユーモアであり皮肉だと先ほど申しました。しかしここにはさらに深い、真剣な問いかけがあるのです。あなたは律法によってこそ永遠の命が得られると思い、そのように主張している。しかしその律法を本当に真剣に読んでいるのか。それによって救いが得られると信じて本当に真剣に読むなら、律法に語られているように生きているはずではないか。そうなっていないとしたら、あなたはいったい律法をどう読んでいるのか。そう主イエスは問いかけておられるのです。この人は、専門家だけあって律法のことをよく知っています。その中心となる教えは何かを的確に捕えています。しかし主イエスに、あなたはそれを実行しているのか、その教えの通りに生きているのか、と問われた時、彼は、そのように生きていない自分を正当化し、自分の立場を弁護しようとするのです。つまり主イエスの問いによって彼は、自分はこの教えの通りに生きていないということに気付かされたのです。主イエスからの問いかけによって、私たちもこういうことを体験するのです。
神を愛することと隣人を愛すること
彼がここで「わたしの隣人とはだれですか」と、隣人を愛することについての言い訳をしたことは意味深いと思います。彼は、神様を愛することはよく分かるが、隣人を愛することがまだよく分からない、と言ったのです。つまり彼は、隣人を愛することができていなくても、神様を愛しているつもりではいるのです。神様を愛することはできているが、隣人を愛することがなかなか難しい、と思っているのです。しかしそれは錯覚です。神様を愛することと隣人を愛することは不可分に結びついています。それは二つのことではなくて一つです。隣人を愛することができないということは、神様をも本当には愛していないのです。そこで愛しているのは自分自身だけなのです。「善いサマリア人の話」に出てくる祭司やレビ人の姿はそういうことを表しています。彼らは神様を愛し、神様に仕えている人たちです。しかし目の目に倒れている一人の同胞に手を差し伸べることをしない、隣人を愛することができないのです。それで、神様のことは愛していますと言うことはできるのか、とこの話は問いかけているのです。
隣人になる
他方サマリア人は、倒れている人に手を差し伸べ、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました。この人こそ、本当に隣人を愛している人です。ここに、隣人を愛するとはどういうことかが示されています。彼がしたことの中心は何だったのか、そのことは主イエスの「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」という問いから分かります。この人は、ユダヤ人との間の敵意やわだかまりを乗り越えて、倒れている人の隣人になったのです。隣人を愛するとは、隣人になることです。律法の専門家は、「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。それに対して主イエスは、「隣人になった」人の話をなさったのです。つまり隣人とは「誰か」と「捜す」ものではなくて、「なる」ものなのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」というみ言葉は、「あなたも、自分が出会う人々の隣人となりなさい」ということです。それが、隣人を愛するための道です。隣人とは誰か、誰を愛したらよいのか、と考えている間は、隣人を愛することはできません。大切なことは、人生の歩みの中で出会う人の隣人になるかどうかだ。隣人になろうという思いで人と相対するのか、それとも、この人は自分が愛すべき隣人なのか、そうでないのか、と考え、隣人とそうでない人との間に常に線引きをしていくような思いで人と相対するのか、「善いサマリア人」の話を通して主イエスはそのことを私たちに問うておられるのです。
主イエスからの問い
先ほど、28節の「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」という主イエスのお言葉についても申しましたが、この「善いサマリア人」の話についても、私たちは間違って受け止めてしまわないようにしなければなりません。つまり主イエスはここで、神様と隣人を心から愛し、出会う人々全ての隣人となるならば、そのことによってあなたがたは永遠の命を、救いを獲得することができる、と言っておられるのではないのです。主イエスがここで律法の専門家に、永遠の命を得るための手だてを教えておられるのではありません。むしろ主イエスは彼に、「あなたは自分が知っている教えを、あるいは分かったことを、本当に真剣に行なっているか、そのように生きているか」と問うておられるのです。その問いがそのまま私たちにも向けられています。主イエスの教えを、理解はしていても、それを本当に真剣に受け止め、そのように生きようとせずに、言い訳に終始し、自分を正当化し、自己弁護ばかりしているような歩みに陥っていないか。主イエスがお語りになったことを本当に真剣に聞き、それによって新しくされ、その教えに生きようとしているのか。主イエスからのこの根本的な問いかけを受け止める時に、最初に保留にしておいた問い、なぜここにこの話が語られているのか、前後とのつながりはどうなっているのか、も分かってくるのです。24節までに語られていたのは、主イエスの先駆けとして派遣された弟子たちの話でした。彼らは、神の国の福音を宣べ伝え、悪霊さえも自分たちに服従するというすばらしい体験を与えられ、喜んで戻って来ました。主イエスはその彼らに、本当に喜ぶべきことは、あなたがたの名が天に書き記されていることだ、と告げて下さいました。そして、「あなたがたの見ているものを見る目は、あなたがたが聞いていることを聞く耳は幸いだ」と言って下さいました。主イエスに従い、その救いの恵みにあずかり、主イエスの先駆けとしてこの世に派遣されている信仰者の喜びと幸いを宣言して下さったのです。主イエスを信じ、従っていく信仰者には、その主のみ言葉、幸いを告げる教えを、本当に真剣に聞き、それによって新しくされ、その教えに生きていくことが求められています。この後の38節以下、来週読む所には、主イエスの足もとに座ってひたすらそのみ言葉に耳を傾けた女性の話が語られています。それこそが本当に必要なことであり、そこにこそ幸い、祝福があるのだということがそこに語られています。本日の箇所はそういう流れ、文脈の中にあるのです。それは9章51節から始まっている流れでもあります。そこから、主イエスのエルサレムへの旅が始まっています。つまり主イエスは、十字架の死と復活と昇天との時が近づいたことを知って、エルサレムへと向かっておられるのです。十字架の死と復活と昇天によって救いのみ業を成し遂げて下さる主イエスに従って、そのみ言葉を本当に真剣に聞き、その教えに従って生きることが、弟子たちに、そして私たち信仰者に求められているのです。
主イエスのみ言葉を聞くとは
主イエスのみ言葉を本当に聞き、そのように生きるならば、私たちは、神様を心から愛し、同時に出会う人々の隣人となって生きる者となるはずです。独り子主イエスの十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命の約束を与えて下さった神様の愛に応えて私たちも神様を愛し、そして主イエスがあのサマリア人のように、罪の中に倒れ伏している私たちを憐れみ、私たちの隣人となって下さり、救いを与えて下さったのだから、私たちも出会う人々の隣人となって生きることができるはずなのです。しかし私たちは、この律法の専門家と同じように、主イエスからの問いによって、自分が神様をも隣人をも愛することが出来ておらず、結局は自分自身のみを愛していることに気付かされ、言い訳や自己弁護ばかりしてしまう者です。私たちはどこまでいってもそういう情けない者であり、神様をも隣人をも本当に愛することができないのです。しかし大事なことは、主イエスからのこの問いかけを、「あなたは私の言葉をどう聞いているのか、そしてそのように生きているのか」という問いかけを、常に聞き続けることだと思うのです。具体的に言うならば、この「善いサマリア人」の話をいつも思い起しつつ、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスのお言葉を、自分に対して語られた励まし、勧めのみ言葉として聞き、それぞれが出会う人々との交わりの中で、自分の手を差し伸べて、隣人となろうとしていくことだと思うのです。私たちが主イエスのみ言葉を本当に真剣に聞くとはそういうことでしょう。そのことの中で、私たちは、そのみ言葉のように生きる者へと変えられていくのです。