「ともし火をあらわに」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第49章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第4章21-25節
・ 讃美歌 ; 12、469
神の支配を聞く
主イエス・キリスト宣教を始めるにあたって、「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。神様の国、神様のご支配がこの世に来ているということを主イエスは示しているのです。御言葉をもって語られると共に、ご自身の業、行いを持って、神様のご支配を示しているのです。
しかし、時に、私たちは、その神様のご支配が分からないことがあります。この世の現実を見る時に、とても神の支配が来ているなどとは言えないような現実があります。様々な悲惨を生み出す人間の支配だけがこの世にあるのではないかと思わされます。人間による支配が、あまりにも強く、不公平なものであることに直面する時、もしくは、私たち自身の歩みに、不幸が降りかかったりする時に、いったいどこに神の国、神の支配があるのだろうかと思うことがあります。そのような中で、倦み疲れてしまい、神の支配に目を向けることをしなくなってしまうこともあるのではないでしょうか。
本日お読みしたイザヤ書49章には神の言葉を語る預言者の次のような言葉があります。「わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそわたしの力」。この預言者は疲労の中にあります。自分のなして来たことが無駄であった。それはむなしいことであったと思うのです。しかし、そこで、預言者は神に信頼しています。世の現実の中で、人間の支配にのみ目を向けることなく、そこでこそ、神の支配が及んでいることに目を向けるのです。それは、この人が、与えられた神様の言葉から、神の支配を聞き取る耳を持つことが出来たからではないでしょうか。
たとえで語られる神の国
本日聞いた聖書箇所の最初に、「また、イエスは言われた」とあります。主イエスは、直前に語られた、「種を蒔く人のたとえ」に続いて、新しいたとえを語られるのです。マルコによる福音書4章は、主イエスが語られた神の国、神様の支配についてのたとえが集中して記されている箇所です。おそらく主イエスは、生涯の中で何度も神の国についての教えを語られたことでしょう。福音書は、そのような教えを4章にまとめて記しているのだと考えられます。今日共に聞いた箇所の前には、「種まきのたとえ」と、「たとえを用いて話す理由」が語られていました。主イエスはご自身が示そうとする神の国を、分かりやすく示すためにたとえを用いたのではありません。むしろ、たとえを聞いて理解しない人がいることを承知の上でたとえで語られたのです。主イエスは、ご自身の周りにいるもの達だけにたとえの説明をされました。その一方で、「外にいる人たち」については、「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない」という非常に厳しいことを語られたのです。神の国、神様のご支配は、私たちに、現されていますが、それと同時に隠されているのです。神の国というのは私達にとって秘義なのです。
あらわにされるために
神の国が秘義であるというのは、それが完全に隠されてしまっているということを意味するのではありません。それは、確かに現されているのです。私たちは、主イエスが、外に立つものに、このように厳しい言葉を投げかける主イエスのお姿に、少なからず躓きを覚えるかもしれません。何故主イエスは、神の国、神の支配をもっとはっきりと示して下さらないのかと思ってしまうかもしれません。しかし、主イエスは、意地悪をするために、神様のご支配を隠されていたのではないのです。本日の箇所には、はっきりと次のように語られています。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」。隠れているものは、あらわになると言うのです。神様のご支配は、ずっと隠されているのではないというのです。むしろ、そのご支配は現されるために、隠されているのです。そのご支配を信仰によって私たちが知ることが出来るようにして下さるのです。
本日の箇所で主イエスは神様のご支配をともし火にたとえています。主イエスは、ここで「ともし火のたとえ」を語られています。「ともし火を持ってくるのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」。ともし火を灯す時に、升の下や、寝台の下に灯すということは無意味なことです。ここで、升というのは、ともし火を消す時に使われるものです。当時の窓の無い家では、ともし火を消す時、煙が充満しないようにともし火の上に容器をかぶせたのです。升を上からかぶせることで、煙を出すこともなく、ともし火を完全に消すことが出来ます。ともし火を持ってきて升の下に置くというのは、ともし火を消すために、つけるようなものです。又、寝台の下のともし火というのは、升の下と異なり消えてしまうことはないでしょうが、それはほとんど明かりとしての意味をなしません。これらは、どちらも、全く意味のないことです。ともし火は燭台の上に灯すことで明かりとしての意味をなすのです。主イエスが語り、指し示している神様のご支配というのは、そのような無意味なものではないというのです。神様のご支配は、隠されるために、世に来ているのではないのです。
ここで「ともし火を持ってくる」という時の「持ってくる」と言われている言葉は、「来る」という言葉です。「ともし火」というのは、人間によって運ばれて暗闇に持って来られるものですから、「持ってくる」と訳されたのでしょう。しかし、本来は、「来る」という言葉が用いられているのです。ここを読むと、ヨハネによる福音書の最初の部分に記されている、御言葉を思い起こします。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。光とは主イエス・キリストです。光に対して、「来る」という表現が用いられていますが、ヨハネによる福音書は暗闇の世に来た光として主イエスを描いているのです。ここでも、ともし火が来るとは、主イエスが来られることを意味しているのです。ともし火とは、神の国、神様のご支配のことです。そして、それは、神のご支配の到来を告げる、主イエスご自身のことでもあるのです。神様の支配は、主イエスによって、私たちに現されています。神様のご支配は、主イエスによって燭台に掲げられているのです。それがどんなにかすかな光であっても、升の下や、寝台の下ではなく、燭台の上にともされているのです。
主イエスのお姿
神の支配が主イエスによってはっきり現されていると述べました。しかし、ただ、主イエスを見たり、御言葉に聞いたいりするだけで神様の支配を知ることができるのではありません。地上を歩まれたイエスについて研究を重ねれば、神の国が分かるかと言えば決してそうではありません。私たちの周りには、主イエスを見、主イエスの語られた言葉を聞こうとする人が大勢います。しかし、その全ての人々がそれを見て、神の国、神のご支配の到来を知らされるわけではありません。むしろ、自分なりに研究して、自分の解釈を加えて、それぞれのイエス像を思い描いていることが多いのです。
主イエスを見つめることで、私たちが示されるのは、大工の息子、ナザレのイエスであり、十字架につけられた犯罪人の姿なのです。そして復活して弟子達に現れたという人間の理性では受け入れ難い出来事なのです。神の支配を示すには、あまりに無力で、何の力もないものであるかのように思われてしまう主イエスの姿、また常識的に考えれば疑わずにはいられない出来事を聞くのです。私たちから見れば、はっきりとしない神の支配をナザレの大工の息子イエスに見出すのは、信仰によってのみなのです。信仰によって、主イエスを見、御言葉に聞くとは、神のご支配が来ていることを知らされることです。そして、信仰を持って聞くときに、私たちは主イエスの下に留まって聞いているのです。信仰が与えられる中で、主イエス・キリストを見、そして聞く時に、神の国、神様の支配が現されるのです。
聞く耳を持つ
主イエスは、ここで「聞く耳のあるものは聞きなさい」と語られています。種を蒔く人のたとえを語られた時にも語られた言葉です。ここで、「聞く耳」とは、主イエスの語られる言葉から神の国を聞き取る耳のことです。主イエスは私たちに「聞く耳」を持つことを求めておられるのです。主イエスによって、神の国は現されている。だから、その御言葉を聞いてほしいと願っておられるのです。そこに現されていることを聞くことの出来る耳を持ってほしいと願っておられるのです。もし、神の国の到来を聞く耳を持っていなかったら、どれだけ、主イエスを研究して知識を得たとしても、本当のキリストに出会っていることにはなりません。神の国の教えが語られ、現されたとしても、音として聞き流されてしまうだけでしょう。
私たちの日常生活を振り返る時に、聞く耳を持つというのは、簡単なことではないことを思わされます。私たちは、なかなか、人の話を正確に理解するということが出来ないものです。話を聞いても、自分なりに、その話の内容を判断して理解したつもりになってしまうことがあります。相手のした経験についての話を聞いても、それを自分がした経験に照らし合わせて聞いてしまうということもあるでしょう。相手が本来言おうとしていることを、この程度のことを言っているのだろうと、語られている状況を自分なりに見積もってしまうこともあります。そして、実際相手の言おうとすることとは異なったようにとってしまうのです。ここでは聞き手のあり方が問われています。
又、音楽を聞く時にも、聞く耳が問題になることがあります。多くの人に認められる音楽というのもありますが、万人が聴いて良いと思う音楽はありません。又、感動する度合いも人によって様々でしょう。聞いた音楽の豊かさに心打たれ、感動することが出来るのは、その音楽の豊かさを聞く耳を持っているかどうかによるところがあります。ここでは、聞き手の耳が問題になっています。
御言葉にも聞く耳を持つことが必要です。その耳を持っていなければ、語られ、示されることを見聞きしても、神の国、神の支配が現されないということが起こるのです。ここで主イエスは、ともし火のたとえに続けて、「何を聞いているかに注意しなさい」と言われています。「あなた方が聞いていることに注意しなさい」ということが言われています。あなたが聞いている御言葉は神のご支配を示す言葉であるということが言われているのです。聞いていることの中に、神の支配が示されていると言うのです。そのことを注意しないままに聞いたなら、当然、御言葉を聞き逃してしまうのです。そして、ここで注意して聞く耳とは、信仰によって聞く耳のことなのです。
量る秤にしたがって
主イエスは、「あなたがたは、自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」と言われています。私たちは、自分の内に秤を持っているというのです。丁度升のようなものを想像すれば良いと思います。自らが見聞きしたことを、受け入れる時に、その秤で自分勝手に量っているのです。そのことが自分にとってどれ程の重みがあるのかを量っているのです。聞く価値が多くあると判断すれば、大きい秤に受け入れるでしょう。それ程聞く価値がないと判断すれば小さな秤で量って受け入れるでしょう。そのようにして、自ら真剣に聞くべきこととそうでないことを判断しているのです。
そして、私たちは、主イエスが語られる言葉も、同じように、量ってしまっていることがあるのです。心のどこかで、神様の恵みはこの位だと判断して、それに見合う秤を用意して、それに受け入れる。時には、自分の都合の良いことだけを受け入れる大きさの秤を用意する。そして、それに入らない部分は、受け入れないということをしてしまうのです。しかし、自らが量る秤に従って与えられるといわれているのです。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われています。とても厳しい言葉にも聞こえます。最近社会で言われるようになった勝ち組、負け組みの発想にも通じるような響きがあります。無制限な市場経済の中での競争原理における弱肉強食を語っているかにも聞こえる言葉です。しかし、ここで語られているのは、神様のご支配を受ける私たちについてです。ここで大切なのは、神様の救いは、自分の量る秤で量り与えられるということです。自分で量った秤に見合ったものが与えられるというのです。どこかで私たちは、主イエスが語られる神様のご支配を、値踏みしているかもしれません。その量に応じてしか与えられないのです。私たちは、主イエスによって示されている、救いのご支配を軽く値踏みして、安っぽいものにしてしまうことはあるのではないでしょうか。その時、主イエス・キリストの十字架を安価なものにしてしまう。当然、そこから与えられるものもそれに応じたものなのです。
御言葉を量る秤
では、主イエスの御言葉を量る秤、救いの恵みを受け入れる秤とはどのようなものであるべきなのでしょうか。それは友人の話や、音楽を聴く時のものとは異なります。御言葉によって語られる恵みは、私たちがはかり知れないものなのです。ここで求められている秤とは、自分の判断で備えるはかりではありません。主イエスによって語られる神のご支配を聞くというのは、自らの判断によって御言葉を聞かなくなるということです。そうする時に、私たちは、神様の支配を聞き取ることの出来る秤をもって御言葉を受け入れることが出来るようになるのです。自分で判断して受け入れる自分の秤を持つことをやめる度合いに応じて、御言葉を聞く秤が用意されるのです。自分の秤を小さくした分だけ、御言葉を受ける秤が大きくなる、そこに、御言葉が満たされるのです。
そして、この秤は、主イエスに悔い改めることによって備えられます。悔い改めるというのは、立ち返ることを意味しています。それは、主イエスに立ち返って御言葉に聞くとういことです。自分の思いにのみ縛られて、聞くことではなく、この方の下で自分を明け渡すことです。明け渡したところに、神様の恵みが満たされるのです。「悔い改めて、福音を信じる」ということによって神の国を聞くことが起こるのです。
神の御子が、罪の中にあるものの罪を担って十字架で命を投げ出され、復活されることによってその罪を贖って下さる。この救いの業の前で、この方に立ち返る。その時に、自分を主人としていた歩みをやめ、自分の判断を主として、御言葉をそれに従わせるのではなく、御言葉を語られるイエス・キリストを主とするようになるのです。そこに真の信仰が生まれ、神様の御言葉を受け入れる大きな秤が調えられるのです。私たちが、本当の意味で悔い改める時、自らの罪の深さを知らされています。神様の恵み深さと、自身の罪深さを知らされる中で、悔い改めるならば、その時に、それに応じた、大きな救いの恵みが与えられるのです。主イエスの十字架によって示されている神の救いの恵み、人間を救われるご支配が豊かに示されるのです。
ともし火を指し示す
私たちは時に、自分の判断で、神様の支配を軽く見積もってしまうことがあるのではないかと思います。そのような時、私たちは、日々の生活の中で、本当に豊かに、主イエスの救いというものに生かされてはいないのです。むしろ、この世の支配に動かされて、神様のご支配に目を向けていないのです。そして、主イエスを重んじるよりもむしろ、軽んじてしまうのです。しかし、主イエスによって、ともし火は燭台の上に来ています。そのともし火に目を向けて歩みたいと思います。種を蒔くたとえにおいて、御言葉を蒔かれたものが、御言葉を聞いて地に蒔かれて行くことが記されていました。それと同じように、神の国のともし火を明らかにされたものは、そのともし火を世に現していくものとなるのです。神様の支配が、私たちを通して現されていくのです。主の支配に信頼した預言者は、自らに語られたことを、次のように記します。「わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」。神のご支配の豊かさを知らされる時に、神の恵みが豊かに与えられ、世に示すものとされていくのです。主イエスが、掲げてくださった、ともし火を見つめつつ、それを示して行くものでありたいと思います。