主日礼拝

聞いて、行う

「聞いて、行う」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第107編1-43節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第8章19-25節
・ 讃美歌:6、55、395

二つの別な話
 この礼拝においてご一緒に読みます聖書の箇所、ルカによる福音書第8章19~25節には、二つの全く別な話が語られています。小見出しで言うならば、「イエスの母、兄弟」という話と、「突風を静める」という話です。初めの方は主イエスのお語りになったお言葉を中心とする話、後の方は奇跡物語です。両者は全く関係がない独立した話であるように思われます。しかし著者ルカがこの二つの話を並べたことには何か意味があるのではないか、その意味を探り求めつつ本日はここを読んでいきたいと思います。

主イエスの母と兄弟たち
 先ず前半の話です。主イエスが多くの群衆たちに教えを語っておられた時、主イエスの母と兄弟たちがやって来ました。主イエスの母はマリアです。ルカはこのマリアに焦点を当てて、主イエスの誕生の物語を詳しく語りました。このマリアが最後に登場したのは主イエスが12歳になった時の話です。主イエスが伝道を始めてからはここに初めて登場しています。またここには主イエスの兄弟たちが出てきます。主イエスはマリアの最初の子だったわけですが、ヨセフとマリアの間にはその後何人かの子供たちが生まれたのです。そういう主イエスの兄弟たち、弟や妹たちのことが新約聖書のところどころに語られています。この主イエスの家族が、主イエスに会いに来たのです。しかし多くの群衆たちが周りを取り囲んでいたので近付くことができませんでした。それで群衆の輪の外側から内側へと、伝言ゲームのように、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせが伝えられていきました。それを聞いた主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とおっしゃいました。前半はそれだけの話です。
 この話はマタイ、マルコ福音書にも語られています。それらの箇所に比べてルカ福音書におけるこの話はずいぶん簡略化されています。マルコ福音書の第3章31節以下にこの話があるのですが、マルコはその前の21節に、主イエスの家族たちが何のために来たのかを語っています。そこには「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。つまり母マリアも兄弟たちも、家を出てあちこちを巡り歩きながら人々を教えたり、奇跡を行なったりしているイエスのことを、「気が変になった」と心配して、もうそんなことはやめさせて家に連れて帰ろうと思ってやって来たのです。そのような彼らの思いが、群衆の輪の外に立つ、という姿に現れています。マルコでは「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」(31節)となっているのです。これは明らかに、人がいっぱいで近付けなかった、というのとは違うニュアンスです。そしてそういう母や兄弟たちに対して主イエスは、ある意味とても冷たい言葉を語っておられます。33節以下で、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたのです。その後に、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」という、本日の箇所と重なる言葉があります。この話によれば主イエスは、今外に立って私を取り押さえ、連れて帰ろうとしている実の母や兄弟ではなく、私のもとに集まって来て話を聞いているあなたがたこそが私の本当の家族なのだ、と言っておられるのです。マタイ福音書12章の話もほぼこのマルコと同じようになっています。これら二つの福音書と違ってルカは、母や兄弟たちが主イエスを取り押さえるために来たとは語っていませんし、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」という冷たい言葉も記していません。ルカは、肉親たちと主イエスの間の対立的な関係を見つめてはいないのです。

神の言葉を聞いて行う者
 それではルカがここで見つめ、語ろうとしていることは何なのでしょうか。その答えは、ルカがここでただ一つ語っている主イエスのお言葉、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」にあると言えるでしょう。ルカはこの主イエスのお言葉に私たちの思いを集中させようとしているのです。主イエスの本当の母や兄弟、つまり真の家族とは、神の言葉を聞いて行う人たちです。主イエスはご自分の周囲に集まって来た人々がその「本当の家族」になることを願い、期待しておられるのです。私たちにもそのことが期待されています。そのためには私たちも、「神の言葉を聞いて行う者」とならなければなりません。主イエスはそのことを私たちにも求めておられるのです。そうすると問題は、神の言葉を聞いて行うとはどういうことか、何をすれば神の言葉を聞いて行うことになるのか、ということです。ルカは私たちをその問いへと導こうとしているのです。

突風を静める
 次に22節以下の「突風を静める」話を読んでいきたいと思います。ある日主イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう岸へと船出しました。弟子たちの中にはペトロを初めガリラヤ湖の漁師たちがおりましたから、舟をあやつることは彼らに任せて、主イエスはじきに眠ってしまいました。すると、「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」とあります。要するに嵐になり、ベテランの漁師たちの力をもってしても舟が沈みそうになってしまったのです。嵐の中で必死に舟を漕ぎ、水をかい出している弟子たちの傍らで、主イエスは眠り続けておられました。弟子たちはついにたまらなくなり、主イエスを起こして、「先生、先生、おぼれそうです」と言ったのです。主イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになりました。すると風と波は静まって凪になったのです。そして主イエスは弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とおっしゃいました。

あなたがたの信仰はどこにあるのか
 この話において私たちが注目すべきなのはやはりこの主イエスのお言葉です。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」、これは、溺れ死んでしまうという恐怖の中でパニックになっていた弟子たちをたしなめる、お叱りの言葉です。「そんなことでどうする」と弟子たちは叱られたのです。けれどもここも、マタイ、マルコ福音書の同じ場面と読み比べてみると、ある違いに気付きます。マタイでは主イエスのお言葉は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」でした。マルコでは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」でした。いずれも、恐怖に捕われてしまった弟子たちへのお叱りの言葉です。しかしマタイとマルコにおいては、「信仰が薄い」(この「薄い」は「小さい」という言葉ですが)とか、「信じていない」という否定的な言い方がなされているのに対して、ルカにおけるお言葉は、「信仰はどこにあるのか」という言い方なのです。それは微妙な違いですが、このルカにおける言葉は、「あなたがたの信仰は本当ならここにあるはずではないか」という積極的な期待を込めたお叱りの言葉だと言えると思います。私たちも、苦しみや悲しみの中で、あるいは突然の出来事にあわてふためく中で、この弟子たちと同じようにあわてふためいてしまうことがあります。そういう時に、「あなたの信仰はどこにあるのか」と、ある意味でどやしつけてくれるような、信頼できる信仰の友を持っている人は本当に幸いです。あるいは私たち自身が、後から振り返って見て、「あの時私の信仰はどこへいってしまっていたのだろう」と思うこともあります。これらのことはいずれも、私たちが信仰者であること、神様を、主イエスを信じていることが前提となっています。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」という主イエスのお言葉も、弟子たちが主イエスを信じている、信仰をもって生きていることを前提として語って下さっている、励ましあるいは期待の言葉であると言えるのです。

主イエスの期待
 このように、他の福音書と比較しつつ、ルカ福音書におけるこれらの二つの話の特徴を見てくることによって、この二つの話が並べられていることの意味が見えてくるのではないでしょうか。マタイにおいてもマルコにおいても、この二つの話、主イエスの母や兄弟たちが訪ねて来た話と、ガリラヤ湖の嵐を主イエスがお静めになった奇跡の話は並べられておらず、全く関係づけられてはいません。しかしルカはこの二つを並べたのです。そのことによってルカは、主イエスが弟子たちに、つまり私たちに、期待しておられること、こうなって欲しいと願っておられることを示そうとしているのではないでしょうか。主イエスは私たちに何を期待しておられるのか。それは、私たちが、「神の言葉を聞いて行う人」となることです。そうなることによって、嵐の中でも「信仰がどこへも行ってしまわずにちゃんとここにある」ことができるのです。

神の言葉を聞いても行わない者の姿
 このようにこの二つの話をつなげて読むことによって、先ほどの第一の話において示された問い、「神の言葉を聞いて行うとはどういうことか」、に対する答えも示されていくと思います。いや正確には、答えが示されると言うよりも、神の言葉を聞いて行わない人の姿が後半の話において示されていることが分かってくるのです。弟子たちは、「湖の向こう岸に渡ろう」という主イエスのみ言葉に従って船出しました。彼らの舟には主イエスが乗り込んでおられるのです。主イエスが共にいて下さる舟を彼らは漕ぎ進めていたのです。それは、主イエスを信じる信仰をもって生きている私たちの人生を象徴していると言うことができます。私たちは神様のみ言葉を聞くことによって主イエスを信じて、主イエスと共に人生を歩んでいくのです。それが信仰者になることです。そのような信仰の旅路、この話で言えば船旅において、嵐が起って舟が沈みそうになることがあります。そのような危機の時に、弟子たちは慌てふためき、「先生、先生、おぼれそうです」と悲鳴をあげました。そのことを主イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とお叱りになりました。この慌てふためいた弟子たちの姿が、「神の言葉を聞いても行わない」者の姿なのです。そしてこの弟子たちとは反対の姿こそが、「神の言葉を聞いて行う」者の姿なのです。

神の言葉を聞いて行うとは
 弟子たちは主イエスに叱られてしまいましたが、それでは、あの嵐の状況の中で、主イエスに叱られることのない、つまり信仰がそこにちゃんとある歩みとはどのようなものなのでしょうか。それは、嵐で舟が沈みそうになっても、この舟には主イエスが乗り込んでおられる、主イエスが共にいて下さるということに信頼して、漕ぐ者は漕ぎ続け、水をくみ出す者はくみ出し続けることです。つまり主イエスのご支配と守りと導きとを信じて、パニックに陥ることなく、今自分に与えられている役割、働きを担い続けることです。主イエスが弟子たちに期待しておられる、信仰がどこかへ行ってしまうことなくちゃんとそこにある状態というのはそのような姿なのです。そしてそれこそが、「神の言葉を聞いて行う」ことなのです。
 私たちは、「神の言葉を聞いて行う」ということの意味を間違って受け止めてしまっていることが多いのです。つまりそれを、神様の命令を実行する、神様の掟や戒めを守る、というふうに理解していることが多いのです。しかしそれは間違いです。何が間違いかというと、「神の言葉」についての理解が間違っているのです。神様が私たちにみ言葉によって語りかけておられることは何か、を勘違いしているのです。神様がみ言葉によって私たちに語っておられることは、根本的には、あれをしなさい、これをしなさい、あれはしてはいけない、これはしてはいけない、という掟や戒めではありません。この掟を守り実行したら、この規則通りにしたらあなたは救われる、という教えは神様のみ言葉ではないのです。それでは神様のみ言葉は私たちに何を語っているのか。それは、独り子イエス・キリストによる救いです。神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、あのベツレヘムの馬小屋で、貧しい一人の赤ん坊としてこの世に生まれて下さった。そしてその主イエスが成長して、神様による救いを告げる福音を人々に宣べ伝えて下さった。さらにその主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを実現して下さった。神様はその主イエスを復活させ、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さった。神様のみ言葉が私たちに告げているのは、この主イエス・キリストによって実現されている救いの恵みです。それを聞いて行うとは、この神様による救いの恵みを信じて、どのような時にも主イエスに信頼して、主イエスと共に生きることなのです。

神の恵みに信頼して生きる
 神様のみ言葉を聞いてそれを行うとは、このような神様の恵みへの信頼に生きることであるということを、私たちはこれまでこの8章の4節以下の「種を蒔く人のたとえ」以来繰り返し聞いてきたのではないでしょうか。種を蒔く人のたとえは、神様が、ご自身のみ言葉の種を私たちに蒔いて下さっていることを語っています。私たちはこのたとえ話をしばしば誤解して、私たちがそのみ言葉を聞いてちゃんと実行することによって実を実らせることができ、それができないと種は無駄になってしまう、と考えてしまいます。しかしこのたとえ話において本当に見つめるべきことは、第一に、種は神様のみ言葉であり、実を結ぶ力はその種の中にこそあるということであり、第二に、神様ご自身が、道端や石地や茨の中であるような、まさに不毛の地である私たちに、根気強くみ言葉の種を蒔き続けて下さり、私たちの心を耕して下さり、良い地へと変えていって下さり、そのようにして神様ご自身が私たちの内にみ言葉の実を豊かに実らせて下さるのだ、ということでした。15節には、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」とありましたが、この「立派な善い心」というのは、神様のみ言葉を神様のみ言葉としてしっかり聞く心のことであり、「よく守り」というのは、聞いたみ言葉を手放さずしっかりと持ち続けることであり、「忍耐して」というのは、神様の力に信頼しつつ、み言葉の種がそれ自身の力で実を結ぶ時を忍耐して待つことだと申しました。また17節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」というみ言葉も、今は隠されており、誰の目にもあらわになってはいない神様のご支配、主イエスによる救いの恵みを、神様がいつか必ずあらわにし、誰の目にも明らかなものとして下さる、そのみ言葉による約束を信じて生きることを勧めているものでした。これまで読んできた所の文脈において、「神の言葉を聞いて行う」とはこのような意味なのです。

眠っている主イエス
 私たちは、神様のみ言葉によって独り子イエス・キリストによる救いの恵みを示され、それを信じて主イエスに従う者となり、主イエスが共に歩んで下さるという約束に信頼して信仰の人生へと船出していきます。しかしその信仰の歩みには嵐が襲ってきます。その嵐の中で、共におられるはずの主イエスが眠っておられることを体験するのです。眠っているというのは、何もして下さらない、自分の苦しみや悲しみに気付いてすら下さらない、いないのと同じだ、ということです。そのような思いに陥る時、私たちは、神様のみ言葉を神様のみ言葉として聞くことができなくなり、それをしっかりと持ち続けることができなくなり、忍耐してその実現を待つことができなくなってしまうのです。つまり神様の恵みと愛を告げているみ言葉が実を結ばない、道端や石地や茨の中のような者になってしまうのです。神様のご支配、主イエスによる救いが隠されており、目に見えないので、そんなものはないのと同じだ、という思いに陥ってしまうのです。しかし、そのように嵐に翻弄され、今にも沈みそうになっている私たちの舟に、主イエスはちゃんと共にいて下さるのです。神様のみ言葉は、主イエスを復活させて下さった神様の力によって必ず実を結び、実現するのです。そのことを信じて、主イエスの父である神様に信頼して、パニックに陥らずに、自分に与えられている働きを忠実に行っていくこと、それこそが神の言葉を聞いて行うことであり、信仰がどこかへ行ってしまわずにちゃんとそこにある者の姿なのです。

足跡
 主イエスは私たちがそのような信仰に生きることを期待しておられます。けれども、弟子たちがそうであったように私たちは、嵐の中でうろたえ、パニックに陥ってしまうのです。漕いでいるオールから手を離し、水をくみ出す桶をほうり出して、眠っておられる主イエスを揺さぶり起し、「先生、先生、おぼれそうです」と悲鳴をあげて泣きついてしまうのです。それはまさに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われざるを得ない有り様です。しかし主イエスはそのような私たちのために、起き上がって、風と荒波とをお叱りになり、嵐を静めて下さるのです。つまり、試練の中で信仰がどこかへ行ってしまうような、神の言葉を聞いて行うことができない私たちを、主は憐れんで下さり、そのみ力によって守り、支えて下さるのです。それはちょうど、先日の150年記念音楽祭で聖歌隊が歌った「足跡」という詩に歌われていることと同じです。主イエスと自分と二つの足跡が並んでいたのに、途中から、しかも人生の最もつらい苦しい時期に、足跡が一つになっている。主よどうしてあの最も苦しい時にあなたは私を離れ、見捨ててしまわれたのか、と嘆き訴える私たちに対して、主は、私はあなたを見捨てたりはしない、あそこから先は私があなたを背負って歩いていたのだ、と告げて下さるのです。試練の中でパニックに陥り、主は私を見捨てて離れていかれた、もはや主はここにおられない、いや、もともといなかったのだ、などと私たちが思う時、実は主イエスが私たちを背負って歩いて下さっているのです。

いったい、この方はどなたなのだろう
 この主イエスによる救いを体験した弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言いました。「いったい、この方はどなたなのだろう」。信仰者として生きるとは、この驚きと問いを常に繰り返し味わいつつ生きることです。私たちが主イエス・キリストのことを、「こういう方だ」と分かってしまうことはないし、またそう思ったとたんにそれは私たちが自分勝手に作り上げた偶像となってしまいます。私たちは、主イエスの恵みの大きさ、深さに常に驚かされつつ、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問いつつ歩むことしかできないのです。しかしその歩みの中で私たちは、神様のみ言葉の力を体験させられていきます。私たちが実行することによってではなく、神様ご自身の力でみ言葉が実を結んでいくことを体験していくのです。そのような体験を、驚きを繰り返していく中で、私たちは、神様のみ言葉を本当に神様のみ言葉として聞き、それをしっかり持ち続け、忍耐しつつその実現を待つ者とされていきます。つまりみ言葉にとっての「良い地」とされていくのです。それが「神の言葉を聞いて行う」者となることです。私たちはそのようにして、主イエスの本当の家族とされていくのです。私がそうなると言うよりも、主イエスご自身が私たちのことを、「この人たちは神の言葉を聞いて行う人たちであり、私の兄弟、家族である」と宣言して下さるのです。

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