主日礼拝

見えるようになるとは

「見えるようになるとは」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: サムエル記下 第12章1-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第6章37-42節
・ 讃美歌: 326、152、506

敵を愛しなさい
 先週に続いて、ルカによる福音書第6章後半の、主イエス・キリストがお語りになった説教、いわゆる「平地の説教」を読み進めていきたいと思います。本日は37節以下を読むのですが、37節と38節は、先週読んだ27節以下の続きであると考えることができます。先週の箇所には、一言で言えば「敵を愛しなさい」ということが語られていました。「敵」と言うだけでは抽象的ですが、ここには、自分を憎み、悪口を言い、侮辱する者、自分の頬を打つ者、自分のものを奪おうとする者、というふうに、具体的なことが語られています。そのような人を、憎むのではなくてむしろ愛し、親切ににし、祝福を祈り、その人のためにとりなし祈り、頬を打つ者にはもう一方の頬をも向け、奪い取ろうとする者を拒まずに与えよ、と主イエスは言われたのです。37、38節には、「人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい」と語られています。「人を裁く」とは、人のことを判断するということで、良く判断することも悪く判断することもあり得るのですが、しかし私たちはしばしば次の「人を罪人だと決める」という仕方で人のことを裁きます。それは、人を自分の敵と判断することです。私たちは、自分に危害を加えて来る人がいる時にその人を敵と思うだけではなくて、誰かを裁き、罪人と決めつけることによって自分から敵を作っていく、ということもあるのです。そのように人を裁き、敵を作ることをやめ、また敵だと思っている人を赦し、その人に与えなさい、と言われているのです。ですからこれらの教えは、「敵を愛しなさい」の続きなのです。

いと高き方の子として生きる
 しかし27~30節にあった「敵を愛しなさい」という教えと、この37、38節とでは違う点もあります。それは、本日の箇所では、それぞれの教えに、「そうすれば」以下がつけられていることです。「人を裁くな」には「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」、「人を罪人だと決めるな」には「そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」、「赦しなさい」には「そうすれば、あなたがたも赦される」、「与えなさい」には「そうすれば、あなたがたにも与えられる」というふうに、ここで教えられ、勧められていることがそっくりそのままあなたがた自身に返って来るのだ、と語られているのです。これはどういうことなのでしょうか。そもそも、ここに語られていることは真実でしょうか。人を裁かなければ自分も裁かれないですむのでしょうか。人を罪人だと決めなければ自分も罪人とされることはないのでしょうか。人を赦せば自分も赦されるのでしょうか。人に与えれば自分にも与えられるのでしょうか。これを、社会における人間関係についての教え、この世を生きるための処世訓として受け止めようとすると、私たちは、「必ずしもこうなるわけではない」という現実がいくらでもあることに直ちに気づきます。「世の中そんなに甘くはないよ」という声が聞こえてくるのです。しかし主イエスはこれを、この世を生きるための知恵としてお語りになったのではありません。「そうすれば」以下に語られていることは、人間どうしの間で起ることではなくて、神様との関係において与えられることなのです。ですからこれは正確に言えば、「人を裁くな。そうすれば神様によって裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば神様によって罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば神様も赦して下さる。与えなさい。そすれば神様も与えて下さる」ということなのです。つまり「そうすれば」以下に約束されているのは、神様の恵みによって支えられ、生かされるという、神様との良い関係なのです。その点においてここは、35節以下とつながっています。35節にはこうありました。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」。「そうすれば」という語り方はここから始まっていたのです。「敵を愛しなさい」という教えにおいて「そうすれば」と約束されているのは、「いと高き方の子となる」ことです。神様の子となる、つまり神様に愛され、守られ、養われ、神様との良い関係に生きる者となる、そのことが「敵を愛する」ことによって与えられる恵みなのです。そして、これは先週お話ししたことの再確認ですが、「いと高き方の子」という言葉によって見つめられているのは、35節後半にあるように、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」ということです。その「恩を知らない者、悪人」とは私たちのことです。神様によって命を与えられ、守られ、支えられているのに、そのことを思わず、神様からそっぽを向いて生きている私たちはまさに恩知らずの悪人であり、神様の敵となってしまっている者です。その私たちに対して、いと高き方である神様は、情け深くあって下さり、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。主イエスは、何の罪もない神の独り子であられるのに、罪人である私たちに代って裁きを受け、敵である私たちに代って罪人と決められ、十字架につけられて死んで下さいました。この主イエスの十字架の死によって、裁かれるべき私たちがもはや裁かれることのない者とされ、罪人である私たちがもはや罪人だと決められることがなくなり、敵である私たちが赦され、恵みを豊かに与えられたのです。「いと高き方の子となる」とは、この独り子イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスと結び合わされて私たちも神の子となることです。その時私たちも、主イエスと同じように、敵を愛する者となるのです。37節以下はその私たちの姿を、情け深い方である「いと高き方」の子とされ、憐れみ深い父なる神様の子とされて自分も憐れみ深い者となって生きる、その姿を具体的に語っているのです。ですから、ここに語られているのは、人を裁くことをせず、人を罪人だと決めることをせず、赦し、気前良く人に与える、そういう立派な人になれば、私たちも神様の子となることができる、神様によって裁かれない、罪人と定められない、赦され、恵みを豊かに与えられるという良い関係を神様との間に結ぶことができる、ということではありません。そうではなくて、私たちは神様の独り子イエス・キリストによって、もはや裁かれることのない、罪人だと決められることのない、赦され、恵みを豊かに与えられる者とされるという救いを与えられている。その救いに本当にあずかって生きるならば、私たちも、主イエスと共に、人を裁くことのない、罪人だと決めることのない、赦し、気前良く与える神の子となるのだ、ということです。つまり、「敵を愛すること」は、救いを得るために私たちが成し遂げなければならない条件ではなくて、主イエスが私たちの救いのために成し遂げて下さったみ業なのであり、その救いにあずかることによって私たちは、神の子である主イエスと結び合わされ、私たちも神の子とされるのです。その神の子としての新しい生き方が、「敵を愛すること」なのです。

三つのたとえ
 さて本日の箇所の39節以下には、主イエスが新たにたとえを用いて語られたことが記されています。盲人が盲人の道案内をするという話と、弟子と師についての話、そして目の中のおが屑と丸太という話です。これらはいわゆる「たとえ話」とは違いますが、具体的な事柄にたとえてある教えを語られたのです。この三つのたとえには、それらを貫く一本の線があります。その線は、これら三つのたとえがいずれも「見る」ないし「見える」ということに関係していることに注目することによってはっきり見えてきます。第一のたとえは、盲人、つまり目の見えない人が、見えない人の道案内をすることはできない、そんなことをすれば二人とも穴に落ち込む、という話です。人の道案内をするためには目が見えていなければならない、ということを語っています。第二の、弟子は師にまさるものではない、というたとえはどうでしょうか。これを一般的な諺として読もうとすると疑問が生じます。弟子は師を超えることができないとなると、人間の営みは時代と共に次第にレベルが下がっていく、ということになります。むしろ弟子が師を超えてより優れた境地に到達するということがあってこそ文明は発展してきたのです。「青は藍より出でて藍より青し」という諺の通りです。しかし主イエスが語られたのはそういうことではありません。師というのは人を教え導く者です。人を教え導くためには、物事がよく見えていなければなりません。まだ学んでいる途中である弟子には、見るべきものが十分に見えていないので、人を適切に教え導くことができないのです。「弟子は師にまさるものではない」とはそういう意味です。しかしその弟子も、「十分に修行を積めば、その師のようになれる」のです。修行を積んでよく見えるようになれば、その人も、人を教え導くことができるようになるのです。つまりこれは、人を教え導くためにはものが見えていなければならない、ということを語っているのであって、弟子が師を超えることができるか否か、という話ではないのです。このように読むことによって、このたとえは第一の、盲人のたとえとつながるのです。そしてこれら二つのたとえによって主イエスが何を語ろうとしておられるのかをはっきりと示しているのが第三のたとえです。

おが屑と丸太
 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中に丸太があることに気付かない」、主イエスはそういう人のことを批判しておられます。目におが屑など入ったら大変ですが、この「おが屑」という言葉は前の口語訳聖書では「ちり」と訳されていました。こちらの方が感覚的には分かります。目に埃が入って痛いということを私たちはよく体験します。ほんの小さな埃でも、目を開けていられなくなるのです。「兄弟の目にあるおが屑は見える」とは、人の目の中にあるそういう小さなちりや埃に気付くこと、人の小さな罪や欠点をあげつらい、ことさらにそれを指摘し、要するに粗探しをして、それを取ってやるという親切を装いつつ人を批判することのたとえです。しかし実はその人自身の目には「丸太」があるのです。この「丸太」は口語訳では「梁」と訳されていました。丸太だろうと梁だろうと、目の中に入るはずはありません。その意味は、その人の目は塞がれていて何も見えていない、ということです。「私には、あなたの目の中のおが屑が、ちりが見える」と言っているけれども、実はその人の目は丸太で塞がれてしまっていて、何も見えてはいないのです。私たちはこのようなことを日常の生活の中でしばしば体験します。重箱の隅を楊枝でつつくように人のことをあれこれ批判している人が、実は肝心なことを何も分かっていない、見るべきものが全く見えていない、ということがよくあるのです。いやそれはあの人がそうだ、この人がそうだ、という話ではなくて、私たちは自分自身がこのようになってしまっていないか、と常に振り返って見る必要があります。なぜならば、「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」と言っている人は、自分はよく見えていると思っているからです。自分は盲人ではないから道案内が出来る、未熟な弟子ではなくて、ものがよく見えている師として人を教え導くことができる、と思っているのです。しかし本当はその人の目は大きな丸太で塞がれてしまっているのです。私たちも、自分は目が見えていて、人のことを批判することができる、あの人を罪人として断罪することができる、と思っている時にこそ、よく気をつけなければならないのです。本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、サムエル記下の第12章1~10節を選びました。それはこの関連でのことです。その内容についてここで触れることはしません。ご自分で、このダビデの物語を味わっていただきたいと思います。

どのような目で人を見るか
 さてしかしそれでは、自分の目が見えているのか、それとも丸太で塞がれてしまっているのか、はどうしたら分かるのでしょうか。つまり本当の意味で目が見えているとはどういうことなのでしょうか。そのことが、先ほど読んだ37、38節に教えられていると言うことができるのです。そこには、人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい、と教えられていました。これらの教えは、先ほど申しましたように、その前の「敵を愛しなさい」という教えの続きであると言うことができますが、別の見方をすると、39節以下の、「本当の意味で目が見えるとはどういうことなのか」ということへとつながる教えでもあるのです。なぜならばこの37、38節に語られていることはどれも、人のことをどのような目で見るか、ということだからです。人を裁く、それは裁く目で人を見ることです。人を罪人だと決める、それはまさに、人を罪人として批判し、断罪するような目で見ることです。そういう目で見ているから相手が罪人に見えてくるのです。赦す、というのはそれとは逆に、人の罪を赦す、寛容な、情け深い目で人を見ることです。よく、「赦します」と口では言っても目は赦していない、ということがあります。本当に相手を赦す時には、相手を見る私たちの目が、厳しい、断罪する目から、相手を受け入れるやさしい目へと変わっていくのです。最後の、「与えなさい」という教えも、私たちが人のことをどのような目で見るかと関係しています。先週の30節には「求める者には、だれにでも与えなさい」とありました。だからこの「与えなさい」もそれの繰り返しとして読み過ごしてしまいがちですが、しかしここには「求める者には」はなくて、ただ「与えなさい」と語られています。その意味は、人をどのような目で見るか、という流れの中で考えていくと分かってくるように思います。つまりこれは、ただ求めて来る人に与えなさいということではなくて、人が何を必要としているのか、何に困っているのか、そういうことをしっかりと見て、つまりその人の必要を見て取って、求められるよりも前にそれを与えなさい、ということではないでしょうか。そのような、与えようとする目で人を見るべきことが教えられているのです。

見えるようになるとは
 このように読み返してみますと、本日の箇所には先ず、人を裁いたり、罪人だと決めるような目で見るのでなく、罪を赦そうとする目で、また与えようとする目で人を見なさい、と教えられており、それに続いて、本当の意味で目が見えていない者は人を導くことができない、人の目の中のおが屑は見えるが、自分の目が丸太で塞がれてしまっていることに気付かないような偽善者になるな、と教えられていることが分かります。ということは、主イエスはここで、本当の意味で見えている目とは、人を裁かず、罪人だと決めず、赦し、与えようとする、そのような目なのだ、と教えておられるのです。私たちは、これらのことによって、自分の目が見えているのか、それとも丸太に塞がれてしまっているのかを判断することができるのです。もしも私たちが、人のことを裁いてばかりおり、人を罪人だと決めつけ、赦そうとしない、人の苦しみや悲しみに気付かず、自分から進んで助けようとしない、そのような生き方をしているのであれば、私たちの目は丸太で塞がれてしまっていて、見るべきものが見えていないのです。逆に、人を裁くことをせず、罪人だと決めつけず、罪を赦そうという思いを持ち、また人の苦しみや悲しみによく気付き、そこに手をさし伸べ、進んで助けようとする、そういう生き方をしているなら、私たちの目は見えていると言えるのです。そしてそれは、先週の箇所とのつながりで言うならば、敵を愛し、自分を憎む者に親切にし、悪口を言う者に祝福を祈り、自分を侮辱する者のために祈る、そのように生きている者こそが、本当の意味で目が見えている、見るべきものが見えているのだ、ということなのです。

主イエスの赦しに生きる者として
 主イエスは42節の最後で、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とおっしゃいました。私たちは、本当の意味で目が見えていない偽善者です。見えるようなつもりになって、人を裁き、批判し、それで自分が立派になったように錯覚してしまう者です。そのような偽善者である私たちは、先ず自分の目から丸太を取り除かなければならないのです。しかし、私たちの目を塞いでいるこの丸太を取り除くことは、自分では出来ません。それをすることができるのは、主イエス・キリストお一人なのです。主イエスはそのことを、私たちの目を塞いでいる罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってして下さいました。神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を犠牲にして、この丸太を取り除いて下さったのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかることによって、私たちの目は開かれるのです。本当の意味で見えるようになるのです。その私たちの開かれた目は、人を裁くことのない目です。人を罪人だと決めない目です。自分に罪を犯す者をも赦すことができる目です。人の必要を、苦しみを見て取り、自分のものを与えて助けていくことができるような目です。そのような、本当の意味で開かれ、見えるようになった目で隣人を見ることができるようになった時にこそ、私たちは、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができるようになるのです。つまり主イエスは、人の罪など一切問題にするな、どんなことでも赦せ、と言っておられるわけではありません。地上を生きる私たちの歩みには、やはり問題にしなければならない罪があり、正されなければならないことがあるのです。しかしそれを、人の粗探しをして断罪するようなことによってではなく、主イエスによる赦しの恵みによって生かされている者として、お互いに訓戒し合い、忠告し合い、お互いに悔い改めながら、赦し合いながらしていくことをこそ、主イエスは求めておられるのです。そのためには、私たちの目を繰り返し塞いでしまう丸太を主イエスが取り除いて下さり、本当に見えるようにして下さることを常に祈り求めていきたいのです。

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