夕礼拝

神の国の成長

「神の国の成長」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エゼキエル書 第17章22-24節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第4章26-34節
・ 讃美歌 ; 15、412

 
はじめに
 マルコによる福音書4章には、主イエスが語られた「神の国のたとえ」記されています。4章の最初には、「種を蒔く人のたとえ」が語られていました。本日の箇所は、たとえの締めくくりの部分ですが、同じく種を用いたたとえが語られています。「成長する種のたとえ」「からし種のたとえ」という二つのたとえです。これらのたとえは、最初のたとえに比べると短く簡潔です。しかし、「神の国は次のようにたとえられる」とあるように、神の国がどのようなものであるかを示すたとえであることが明確に述べられています。主イエスが語った福音というのは、神の国の到来を告げるものです。神の国、神様の恵みのご支配がこの世に来ているのです。そして、そのご支配が、私たちの内で少しずつ実現されているのです。それがどのようなものであるかが、本日のたとえにおいても示されているのです。

たとえに繰り返し聞く
 何故主イエスは繰り返し、たとえで語られるのでしょうか。たとえというのは示そうとするものの一部しか現すことが出来ません。ですから、様々なたとえでより立体的に示そうとしたとも考えられます。しかし、一番の理由は、繰り返し語らなければならないほどに人々が思い描く神の国が、主イエスの到来によって近づいている神の国と異なるからであると言ってよいでしょう。主イエスがいくら語っても、人々は神の国を誤解してしまう。そこに自分の思いや理想を読み込んでしまうのです。そのような人々に、本来の神様のご支配を見失わないように、主イエスは繰り返し語られるのです。たとえで話されるとともに、ご自身の周りにいる者にはたとえの説明もされました。
確かに、神の国は秘義であり、簡単に理解できるものではありません。私たちは、そのご支配を見出せず、本当にこの世に神様のご支配が来ているのかと思うことがあります。そのような中で、神様の御支配がこの世に及んでいることに気づくこともなく歩んでいるということがあります。又、一方で、神のご支配を自分なりに見出そうとします。時には、人間が、自分が思い描く神の国を、強硬に実現しようとすることすらあります。そのような形で実現されるものは、神様のご支配というものではなく人間の支配に過ぎません。しかし、そのような私達の現実の中で、主イエスは、神の国の到来を語る御言葉を繰り返し語っておられるのです。私たちの目からすると人間の支配のみがあるかに見えるこの世の只中で神の支配を告げているのです。私たちは、主イエスの下に留まりつつ、私たちの内で実現されつつある神様のご支配を聞けるようになることを求めて行きたいのです。

「ひとりでに」成長する種
 主イエスは、先ず、神の国を種が芽を出して育つ様にたとえいます。「人が土に種を蒔いて夜昼、寝起きしている内に、種は芽を出して成長するが、どうしてそのようになるのか、その人は知らない」。ここでは私たちが夜昼寝起きしている時、知らない間にひとりでに育つ種のことが記されています。
私たちは、種を蒔きますが、その種が、「どうして」育つかは分かりません。もちろん経験によって知っていることや、科学が解明した知識に従って、植物が成長することの理屈は知っています。しかし、根本的に、一粒の種が「どうしてそのようになるか」は分からないのです。それは種を作った人にしかわからないと言って良いでしょう。私たちは植物を育てるときに、その神秘と触れ合うことになります。もちろん、種を蒔いた人は、何もしないわけではありません。水を与えたり、肥料を与えたりすることがあるでしょう。しかし、そのように成長の助けになるためのことは出来ますが、実を結ばせることは出来ません。「土はひとりでに実を結ばせる」のです。蒔いた人が極力良く育つように努力することはあるとしても、その種を芽生えさせ、成長させるのは蒔いた人ではないのです。
「ひとりでに」という言葉は「アウトマテラー」という言葉で、英語のオートマチックという言葉の下になっている言葉です。自動的に育つのです。そして、自動的になされることは、私たちがそれに手を加えることが出来ないということです。「ひとりでに」なされていることを、わたし達の働きによって思い通りにすることは出来ないのです。
そして、自動的になされることの「どうしてそうなるか」を私たちは知ることが出来ません。車のオートマ車を運転する者は、オートマチックトランスミッションの内部でどのようにしてギアが変わっているのかがわかりません。理屈では知ることが出来たとしても、本当の意味では理解してはいないのです。「ひとりでに」育つということは、そのことの「どうして」を私たちが知りえないということです。神様のご支配が「隠されている」というのは、それが不完全ということではなく、私たちが知りえない部分があるということなのです。神の国は、確かに私たちの内で実現されることです。しかし、神のご支配が、どうしてそのようになるのかは、分からないのです。
本日お読みしたエゼキエル書17章24節には、「『そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。』主であるわたしがこれを語り、実行する」とあります。語り、実行するのは主なのです。神の手の内にあるからこそ、それが神の支配なのです。
人間は自分の計画、予定によって神の国を実現しようとすることがあると思います。大抵、そのような時に意味されている「神の国」というのは、その人が描く理想であったり、主義、主張であったりします。そこで起こることは自分を絶対化して、他人を否定することです。本当の神の国、神様のご支配とは、人間の業、人間の努力でもたらされるものではないのです。それは私たちが知りえない内に成長していくのです。私たちが自分の手によって神の国を実現させようとする時には、いつもこのことに立ち返らなければならないでしょう。

夜昼寝起きしている間に
しかし又、このことは、私達にとっての励ましでもあります。この箇所における「夜昼寝起きする」という言葉に注目したいと思います。神の業が、「ひとりでに」進むのに対して、私たちについて記されているのは「夜昼、寝起きしている」ということだけなのです。それにしても、私たち一日の歩みが「寝起きする」ということだけで表現されているのは、あまりにもそっけないように思います。種を蒔いたなら、その人は、当然必死で世話をするだろうと思うのです。しかし、そのようなことは語られていないのです。
この言葉を読んで、思い起こすことがあります。私がかつて入院生活を送っていた時に、隣のベットにいらっしゃった方の口癖です。その人は働き過ぎて疲れがたまったことが原因なのでしょうか。体が自由に動かせなくなってしまったのです。入院中はこれといってすることがありませんから、必然的に、その方と会話をすることが多くなります。その方が良く口にしていたのは「食っちゃ寝、食っちゃ寝の繰り返し」という言葉でした。朝起きて、熱、血圧を測る。運ばれてきた朝食を食べる。検査をこなし昼食を食べる、午後もリハビリや読書等をして、夕食を食べて寝る。毎日このことの繰り返しなのです。自分から主体的に物事に取り組むこともなく、毎日同じことを繰り返している。その生活を「食っちゃ寝、食っちゃ寝」という言葉になって口から出てくるのです。私はそれを聞きながら、自分の生活を振り返り、まさにその通りだと感じていました。
しかし、この思いは、入院生活を送っているものだけの思いではないでしょうか。毎日の日常の繰り返しの生活の中で、倦怠感を覚えることがある。そのような中で、私たちは自分の日常の生活の意味を見失ってしまいます。何の進歩もない、生活を漫然と過ごしているのではないかと考えたりする。そして、ただ疲れの中で一日を終えるということもあるのです。そのような私たちが過ごす日常を、「夜昼寝起きする」という言葉が言い表しているのではないかと思うのです。しかし、そのような私たちの日常の繰り返しに見える生活の中で、神様のご支配が進められているのです。神の国は「ひとりでに」成長しているのです。繰り返される私達の日常を切り開くように、神の業が進められているのです。私たちが「どうしてそうなるか」を知らないままに、「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」というのです。

からし種のたとえ
主イエスは続けて、神の国をからし種にたとえておられます。からし種は本当に小さい種です。一ミリにも満たない大きさです。もし一粒だけであったら、そこに種があると気づかないほどの大きさです。しかし、このどんな種より小さいからし種が、成長してどんな野菜よりも大きくなる。葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝をはると言われているのです。
 この鳥が巣を作るという言葉は、明らかに、本日お読みした旧約聖書エゼキエル書の17章を受けています。エゼキエル書17章では、将来、現されるメシアの到来が示されています。主なる神が、高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その若枝を折ってイスラエルの高い山に移し植える。そうすると、「あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」というのです。ここで、主イエスのたとえと、共通しているのは、「鳥が住むようになる」ということです。鳥が巣を作り、そこに住むというのは、相当丈夫な枝であることを意味しています。大きな風が吹き付けても、巣が落ちることなく、台風や雨風をしのげるようなうっそうとした葉を茂らせていたことでしょう。鳥が住めるというのは、神のご支配の包容力の大きさが示されています。
しかし、この両者の間には、違いもあります。エゼキエル書における植物は、「レバノン杉」ですが、マルコによる福音書においては、「からし種」であるということです。レバノン杉というのは、崇高性、力、枯れることのないみずみずしさの比喩として用いられます。注解者の中には楽園の命の木と同一視されるとする人もいます。それに対して「からし種」というのは、聖書において、それ以上小さいものが無いものの比喩として用いられるのです。主イエスは、ここで、そのようなからし種をたとえに用いられているのです。何にも増して小さいものから、神のご支配が大きくなっていくのです。ここで示されているのは、最も弱いものが力強く成長するという姿です。神の国というのは、そのような、あるかないかが分からない程の小ささ、弱さから始められるのです。

キリストの歩み
 この救いのご支配は主イエス・キリストご自身において実現されています。このたとえを語られた主イエス・キリストは、ご自身の歩みによって神様のご支配を示して下さった方でした。主イエス・キリストの歩みは、決して力強いものではありません。神の子でありながら人々から軽蔑され、弟子達から見捨てられる中で十字架に赴く歩みでありました。この十字架は、私達が、どうしてそうなるかわからない内に、ひとりでに行われた歩みと言っていいでしょう。主イエスが十字架に赴かれた時、その意味を知るものは誰もいませんでした。又、弟子たちが逃げ去ってしまい主イエスはただお一人で十字架へと赴かれたのです。
しかし、この十字架によって私たちの罪は贖われているのです。私達から見れば弱いものにしか見えない歩みによって、私達を罪から救ってくださっているのです。この神様が、私達と共にいてくださる方であること示してくださっている。この十字架における救いの業にこそ、神様の救いのご支配が示されているのです。
主イエス・キリストの十字架と復活は、世において、決して力強く明確に示されているわけではありません。確かに、主イエスをキリストとして歩む人々がいます。キリストによって新しくされて、この世を歩む人々が大勢います。又、世には多くの教会が建てられています。しかし、私たちの日常の中で、キリストが示している神のご支配が、いとも簡単に忘れ去られてしまうということも事実なのです。人間の支配、この世の現実や、私たちの罪に支配された日常の中で、キリストの救いの支配は弱く小さいものでしかないことがあるのです。しかし、ここから神の国は始まっているのです。

からし種ほどの小ささから
成長する種のたとえでは、神の支配を実現されるのが主であることを知らされました。しかし、神様の支配がひとりでに育つということは、神の国の成長が私たちと無関係に進められていることを意味しません。種を蒔いた人が、その植物が育ちやすい環境を整えることは、植物が育つために用いられています。それと同じように、私たちは、その実現のために関わっています。神様のご支配は、私達の間で実現しているからです。この世で現される神の国は、私たちが神様を礼拝する集いにおいて実現されています。わたしたちがこの世でキリストを礼拝し、祈る時に、確かに、神のご支配は進められているのです。
教会生活の中で時々耳にする言葉に、「私は教会のお役に立てなくて申し訳ない」といったものがあります。その方の信仰生活に対する誠実さがそのような言葉になって現れるのでしょう。私たちの社会は、どれだけ、短期間に多くの経済的利益を生むかという価値観によって支配されています。現代社会は特にそうです。経済的な利益を生み出すことが至上の善とされ、すぐに結果を出すことが求められています。そして、そのような経済的な価値を生み出さないものは意味のないものとされがちです。しかし、神の国の成長において、私たちの視点からだけで量ることは出来ません。それは、ごく小さな「からし種」から始められ、直には成果も現れず、私たちが見てすぐ分かるような成果は生まれないのです。しかし、神様のご支配は、私達から見て「どれだけ役に立ったか」ということだけではかられることではありません。私たちの内に、小さな祈り、キリストに対する礼拝の思いが与えられている、そこから、神様のご支配が始まっているのです。神様が、そのような思いを育ててくださり、大きく成長させて下さるのです。

おわりに
 今日お読みした箇所の最後、たとえがすべて記された後に、主イエスが「人々の聞く力に応じて」御言葉を語られたことが記されています。ここで、聞く力とは、我々の能力を意味しているのではありません。それぞれに応じて、神のご支配が語られているのです。私たちは、それぞれに、この世に来ている神の国が示されています。私達は、この方に神のご支配を見出す時、一方で、人間の支配によって操作しようとし、又、繰り返される日常に倦み疲れている歩みから、真の神様の支配の下を歩み始めるのです。神の国を待ち望むという目的を見出しつつ神様を心から讃える歩みをなすことが出来るのです。
主イエスが語られた、終わりの時、刈りいれの時とは、主イエスの十字架と復活の力がはっきりと示され、その恵みの中で、神様を讃える礼拝が捧げられる時です。その時、神様のご支配は大きく育ったからし種の葉の陰に羽を休める鳥のように、そのご支配の内に安らぐことが出来るほどのものになるのです。主にある者たちは、主イエスを示される中で、神様を礼拝する歩みを続ける中で、神様の支配が完成する終わりの日を待ち望むのです。ことが出来るのです。主イエスの下で御言葉に聞きつつ、神様のご支配を見出すものでありたいと思います。そして、神様を讃えることによって、その業に仕えつつ、希望を持って歩んでいくものでありたいと思います。

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