「すべてはいただいたもの」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 歴代誌上 第29章10-20節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第4章6-7節
・ 讃美歌 ; 4、224、407、73(聖餐式)
述べてきたこと
礼拝において、コリントの信徒への手紙一を読み進めておりまして、本日は第4章6、7節からみ言葉に聞きます。パウロはここで、「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました」と言っています。「このように述べてきた」とは何を述べてきたのでしょうか、先ずそれをふりかえっておきたいと思います。パウロがここで語っていることの前提は、コリント教会にいくつかのグループが出来て、それが対立し合っているという党派争いの現実です。パウロ自身も、ある人々から、自分たちの党派の親玉と見なされて「パウロ派」というのが出来ていました。その他に「アポロ派」「ケファ派」さらには「キリスト派」というのまであったと、1章12節に語られています。そういういくつかの党派が、お互いに、自分たちの主張こそ正しい信仰であると言って対立していたのです。パウロ自身は、派閥の領袖になろうなどとは思っていません。むしろ彼はこのような党派争いに深く心を痛め、それがいかに間違った、無意味なことであるかをこれまで切々と語ってきたのです。そこで彼が述べてきたことは、教会における指導者は、パウロにしてもアポロにしてもケファにしても、自分の下に人々を従えて派閥のボスになろうとしているのではなくて、教会の唯一の主であるイエス・キリストに仕える者なのだ、ということです。3章5節に「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」とあります。4章1節の「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」も同じことを言っていると言えるでしょう。私たちはキリストに仕えている者だ、その私たちを親分とする党派ができることはおかしい、と彼は言っているのです。
裁くことができるのは誰か
これは、パウロという人が威張らない、謙遜な性格の人であった、というようなことではありません。パウロはここで、人間を本当に裁く方は誰か、ということを見つめているのです。党派が生まれるのは、ある指導者のことを特別に高く評価して、その人のもとに集うことで自分がより正しく、優れた者になれると思うからです。また、党派争いが起こるのは、自分が結びついている指導者、グループと、その他の指導者、グループを比較して、その優劣をつけ、もちろん自分のグループが最も正しいとして、他のグループを批判することによってです。そこには、人間が人間を裁くことが行われています。コリントの人々が、パウロとアポロとを比べて、パウロの方が正しいとか、アポロの方が正しいとかの判断を下しているのです。またもし親分に祭り上げられた人が、それに乗って自分のもとにグループを作ろうとするなら、その人もまた、他の指導者よりも自分の方が正しい、という判断、裁きを下していることになります。パウロはそのように人間が人間を裁こうとすることに対して、人間を本当に裁くことができるのは主イエス・キリストお一人だ、ということを強く主張しています。主イエスのみができるはずの裁きを、人間が下そうとするところに、党派、党派争いが生じているのです。ですから、党派争いから脱却するためには、自分が裁き手になることをやめなければなりません。人のことを裁くことをやめ、自分自身のことを裁くことすらやめて、唯一のまことの裁き主である主イエスの裁きに、自分をも人をも委ねることをこそ、パウロは求めているのです。「あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて」、パウロが述べてきたのはそういうことだったのです。
書かれているもの以上に出ない
6節でパウロはそれに続いて、「それは、これこれのためです」と語っています。「このように述べてきた」ことの理由、目的を語っているのです。その理由は二つあげられています。第一は、「あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶため」です。「書かれているもの」とは、聖書を指す言葉です。その聖書とは今の「旧約聖書」のことです。パウロがこの手紙を書いているのですから、まだ「新約聖書」は生まれていません。私がこのように述べてきたのは、あなたがたに、旧約聖書に書かれていること以上に出ないことを学ばせるためだ、とパウロは言っているのです。それはどういうことでしょうか。旧約聖書に書かれていることと言ったら普通、神様の掟である「律法」を指すというのが一般的です。パウロはコリント教会の人々に、律法をきちんと守る生活をさせるために「このように述べてきた」のでしょうか。しかしそれでは、党派争いを戒めているここの文脈とは合いません。ですから「書かれているもの以上に出ない」というのは、単に「律法を守る」ということとは違うと考えた方がよさそうです。それではパウロはここで何を言おうとしているのか。それはおそらく、先程申しました「自分が裁き手になってはならない」ということでしょう。聖書に書かれていること以上に出てしまう、聖書の言葉を越え出てしまうというのは、もはや聖書に規制されずに、自分の思いや考えによって判断を下してしまうということです。「書かれているもの以上に出る」とは、聖書を越えて、自分が裁き手になってしまうことなのです。
聖書はマニュアルではない
聖書を越えて、自分が裁き手になっている、それがコリント教会において起っている問題だ、とパウロは考えています。党派争いの根はそこにあるのです。これは私たちも陥りやすい問題です。聖書よりも、自分の考えや思いによって判断し、行動してしまうことが私たちにもあります。パウロはそのことを戒めているのですが、このことを考える時に気をつけておかなければならないことがいくつかあります。第一は、ここで求められているのは、自分の判断を一切停止して、ただ聖書に教えられている通りの生活をせよということではない、ということです。そもそも、生活上の全てのことについて、聖書から指示を受けようとするのは間違いです。例えば、今晩のおかずは何にしようと思って聖書を開いても答えは得られません。それは冗談としても、もっと重大なこと、人生においてどちらの道に進もうか、どのような職業につこうか、この人と結婚しようかどうしようか、そういうことにおいても、聖書が直接「こうしなさい」と示してくれるわけではないのです。つまり聖書は人生のマニュアルではありません。聖書に従っていれば、人生の歩みを自分で判断しなくていい、ということではないのです。私たちは自分の人生の歩みを、自分で考えて決断し、そしてその決断の責任を自分で負わなければならないのです。「書かれているもの以上に出ないことを学ぶ」というのは、人間の判断や決断を停止することではないのです。
聖書は何を語るか
それでは、「書かれているもの以上に出る」とはどういうことなのでしょうか。それは、聖書が語り、教えていることについて、その聖書の言葉を越えて、自分が判断してしまうことです。今申しましたように聖書はこの世の中の全てのことについて、あるいは私たちの人生の歩みの全てについて教えているのではありません。聖書が語っていることといないこととがあるのです。それをちゃんと見分け、聖書が語り、教えていることについては、自分の思いや考えで判断、行動するのではなく、聖書の言葉に聞き従う、それが「書かれているもの以上に出ない」ということです。ですから私たちは、「書かれているもの以上に出ない」ために、聖書が何を語っているのかをしっかりとわきまえなければならないのです。そしてそこに、気をつけておかなければならない第二のことがあります。それは、聖書の中の一言だけを取り出してきて、「聖書はこう語っている」と考えてしまってはならないということです。聖書には、旧約39巻新約27巻の書物があります。「三九二十七」と覚えるのです。そして39と27を足すと、全部で66巻となります。66巻からなる聖書は、それ自体の中に壮大な歴史を持っています。歴史は変化していくものです。ですから、聖書自体の中に、時代と共に変化しているものがあるのです。それはただ人間の歴史の移り変わりによって事情が変った、というだけではありません。神様の救いのみ業そのものに歴史があり、歴史の中で神様のご計画が進み、深まっていくのです。具体的には、主イエス・キリストが来られる前と後では大きな違いがあるのです。聖書はそのようなダイナミックな変化を内に持っているのですから、その中の一つの文章だけを取り出して「聖書はこう教えている」と考えるのは危険です。聖書は、全体として読まなければならないのです。様々な流れ、変化のある聖書がその全体として語っていることを読み取らなければならないのです。そのような読み方をしないと、字面だけは「書かれているもの以上に出ない」でいても、結局は自分の勝手な思いや判断を聖書に読み込んでしまっている、ということにもなりかねないのです。
神に対する高ぶり
話は聖書の読み方へと少し逸れてしまいましたが、パウロはコリント教会の人々に、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ばせるためにこれまで語ってきました。そのことをさらに具体的に言っているのが、第二の理由、「だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」ということです。「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにする」というのは、コリント教会の人々が、パウロとかアポロとかの一人の指導者を持ち上げてグループを作り、他の指導者とそのグループをないがしろにしている、ということです。それは、神様がお立てになり、遣わされた指導者たちを、自分の思いや感覚で裁いている、ということです。そこに「高ぶり」があるとパウロは言っているのです。この「高ぶり」は、人に対して驕り高ぶって誰かを馬鹿にする、ということであるよりも、自分の思いや感覚で人を裁き、評価、判断しようとすることです。そこには、神様を差し置いて自分が裁き手となろうとする思いがあります。つまりこれは神様に対する「高ぶり」なのです。
この「高ぶり」こそ、コリント教会の最大の問題です。これまで読んできた所にも、この教会の人々が、知恵を誇ろうとしていることが語られていました。人間の知恵を誇る思いと、人を裁く思いとはつながっています。私たちは自分の知恵によって人のことを判断し、評価し、「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにする」という高ぶりに陥るのです。自分の知恵を誇ろうとするこの高ぶりによって、コリント教会には党派争いが起っていたのです。それに対してパウロはこれまでのところで、人間の知恵ではなく、神の愚かさ、つまりキリストの十字架の苦しみと死こそが私たちの救いなのだ、ということを語ってきたのです。
高ぶりはなぜいけないか
人のことを評価し、判断し、「一人を持ち上げてほかの一人をないがしろに」することは何故いけないのでしょうか。この問いへの答えはそう簡単ではありません。それは高ぶりだ、とここには言われていて、私たちは、冷静に考えれば、確かに自分は人を裁くことができるような者ではない、そのようなことは高ぶりだ、とも思います。けれども実際の生活の中で私たちはいつも人のことを評価したり、判断したり、つまり裁きながら生きています。そのようにしている時、私たちは、自分は裁くことができると思っているのではないでしょうか。少なくともこのことについては、判断を下す材料を自分は持っている、いろいろな事情を知っている、そう思って私たちは人のことを裁き、判断し、批判するのです。その時私たちは、人を裁くことを高ぶりだとは思っていません。自分には少なくともこれを言う資格と理由がある、と思うから人を裁き、批判するのです。コリント教会の人々もそうだったのでしょう。党派争いが起っていたのは、コリントの人々が特別に党派心の強い、仲間割れしていがみ合ってばかりいる人々だったからではありません。彼らも、私たちと全く同じように、それぞれに何らかの理由、理屈があって、自説を主張し、仲間を作り、対立に陥っていったのです。パウロは、そのように自分が高ぶりに陥っているとはちっとも思っていない人々に対して、あなたがたは高ぶっている、と言っているのです。その根拠は何か。それは、そのような思いは「書かれているもの以上に出」てしまっているということです。人を裁き、判断し、批判する思いは、聖書が教えていることをはみ出しているからです。聖書は何と語っているのでしょうか。それが7節です。「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです」とあります。実は「優れた者」という言葉は原文にはないのであって、直訳すれば「あなたを他の人から区別したのは誰です」となります。それは「あなたを、人を裁くことができる者として他の人から区別したのはいったい誰か」という意味です。そこに予想されている答えは、「そんな者はいない」ということ、つまり、あなたは人を裁くことができる特別な者ではない、ということです。これは、旧約聖書のどこかに出てくる言葉ではありません。しかしこれこそ、聖書が全体において私たちに語っていることです。聖書は、主なる神様こそが人を裁くことのできる唯一の方であると語っています。人間は誰も、人を裁くことができる特別な者とされてはいません。それなのに、神様をさしおいて人間が裁き手になろうとするところに人間の罪があると聖書は語っているのです。つまり自分が裁き手になろうとすることは、聖書の教えを越え出た、自分勝手な思いなのです。聖書は私たちに、「あなたを他の人から区別したのは誰か」と語っているのです。私たちは聖書からこのことを聞かなければなりません。聖書に聞かず、書かれているもの以上に出て、自分で考えている間は、「少なくともこのことについて私は裁くことができるはずだ」という思いが必ず生じてきます。そこでは、私たちは高ぶりから自由になることはできません。自分の高ぶりに気付くことすらもできないのです。
すべてはいただいたもの
聖書は「あなたを他の人から区別したのは誰か」と語り、教えています。しかし聖書が教えているのはそのことだけではありません。パウロは7節の後半でこう言っています。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるか、全ては神様からいただいたものだ、これもまた、聖書がその全体を通して私たちに語っていることです。旧約聖書の初めの天地創造の物語から、アブラハムにおけるイスラエルの民の選び、そしてエジプトの奴隷状態からの解放、約束の地への導き、そしてその地でのイスラエルの歩みの全てにおいて、神様が、その恵みによってこの世界の全てを造り与えて下さったこと、何の相応しさもないイスラエルの民を恵みによって選び、神の民として導き、豊かな賜物を与えて下さったことが語られています。本日共に読まれた歴代誌上の29節もそのような箇所です。ここは、ダビデ王が、エルサレムに神殿を建設するために、莫大な財産を寄進した時のダビデの祈りの言葉です。その14節にこうあります。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」。ダビデの持っていた莫大な富は全て、主なる神様から与えられたものだったのです。教会の月定献金の袋にこの言葉が書かれていることに皆さんはお気づきでしょうか。私たちが持っているものは全て、財産だけではなく、命も、体も、家族も、神様が与えて下さったものなのです。それだけではありません。神様は、ご自分の独り子主イエス・キリストを、私たちのためにこの世に遣わして下さいました。そしてその主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエス・キリストによって、私たちは、神様から、罪の赦しと、永遠の命の約束を与えられているのです。これこそ、神様が私たちに与えて下さった最大の賜物です。教会に連なる私たちは、この神様からの最大の賜物をいただいて、その恵みの中で生きているのです。新約聖書を含めた聖書全体が語っていることの中心はこのことです。私たちは聖書から、この「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるか」というみ言葉をしっかりと聞き取らなければなりません。そしてこのみ言葉にしっかりと留まり、このこと以上に出ないようにしなければならないのです。それは、この神様の恵みの中で、自分自身をも、他の人々をも、見つめていくということです。「書かれているもの以上に出ない」ことを学んでいくときに、私たちは、自分をも人をも、神様が独り子イエス・キリストによって与えて下さった豊かな恵みをいただいている者として見つめることができるようになるのです。
高ぶりからの解放
私たちは、人のことを裁き、判断して、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることができるような特別な者、優れた者ではありません。また私たちの持っているすべてのものは神様からいただいたものです。私たちが、自分はこれを持っていると思い、それを誇りとし、拠り所としているものの全てがそうであるだけでなく、神様は、独り子イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと新しい命の約束を、私たち一人一人に与えて下さっているのです。聖書はこれらのことを私たちに語り、教えています。この、聖書が語り、教えていることを越え出て、自分の思いや考えで人のことや自分のことを見つめていこうとする時、私たちは、自分が人を裁くことができる特別な者だと思うようになるのです。また、自分の持っているものはいただいたものではなくて、自分で獲得したものだと思うようになるのです。そしてそれを人と比べて誇り、人を裁く高ぶりに陥るのです。いただいたものを、いただかなかったような顔をして、つまり自分で獲得したような顔をして高ぶる者となってしまうのです。その時私たちは、聖書が語っている、神様が与えて下さっている最もすばらしい恵み、独り子イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと新しい命の約束をいただくことができなくなってしまいます。神様はそれを与えようとしておられるのに、私たちが、いただくことを拒んでしまうのです。ですから私たちは、神様が与えて下さろうとしておられるこの恵みをいただくために、「書かれているもの以上に出ない」ことを学んでいかなければならないのです。自分の思いや考えによってではなく、聖書が語り教えていることの中に留まって、自分自身を、また人を見つめていくことを学んでいくのです。そのことによってこそ、私たちは、独り子イエス・キリストをすら与えて下さっている神様の恵みを知ることができます。そしてその恵みの中で、人を裁く高ぶりの思いから解放されていくのです。