「信仰があなたを救った」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第34編1―23節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第5章21―43節
・ 讃美歌:294、127、449、76
主イエスによって新しく生かされた人々
本日の礼拝においても先週と同じく、マルコによる福音書の第5章21―43節をご一緒に読みます。先週読んだのは、会堂長ヤイロの十二歳の娘の話でした。主イエスは父親ヤイロの願いを聞いて、病気で死にかけているその娘のところに向かいましたが、その途中で、その子が死んだという知らせが来たのです。「手遅れだった」という絶望が皆を支配する中で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」「子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃり、家に着くとその娘に「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と語りかけました。すると少女は起き上がり、歩き出したのです。死んでしまった少女を主イエスが復活させたというこの話は、にわかには信じられない話です。しかし先週も申しましたように、この出来事は、主イエス・キリストご自身の復活と切り離して考えることはできません。この少女は、この後主イエスの復活によって実現する新しい命、父なる神様が、十字架にかかって死んだイエスを、死の力から解放して与えて下さる復活の命を、先取りして与えられたのです。ですから私たちがここで先ず見つめるべきなのは主イエスの復活です。父なる神様が主イエスを復活させ、その復活の命を私たちにも与えると約束して下さった、その救いのみ業を信じるなら、主イエスがこの少女を復活させたというのもさほど不思議なことではありません。逆に、主イエスの復活によって与えられている救いを信じないなら、たとえこの少女の復活を何らかの超自然的現象として信じたとしても、そんなことには何の意味もないのです。大事なことは、この出来事を、主イエス・キリストの復活によって実現する新しい命が、一人の少女に、そしてその家族に与えられ、彼らが新しく生き始めることができた、という恵みの出来事として捉えることです。マルコはそういう出来事としてこれを描いているのです。
そしてこの少女の復活と織り成されるように、もう一人の女性の癒しがここには語られています。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性の癒しです。彼女も、主イエス・キリストの恵みによって病を癒され、新しく生き始めることができたのです。先週申しましたように、この二つの出来事は密接に結び合っており、両方合わせて一つのことを語っているのです。その一つのこととは、主イエス・キリストによって新しく生かされる恵みです。本日はこの癒された女性の話を中心に、その恵みを見つめていきたいと思います。
この女性の苦しみ
さてこの女性は25節に初めて登場するのですが、彼女に関する話は24節の後半から始まっています。24節で主イエスは、娘が死にそうだから、来て、癒して下さいというヤイロの願いを聞いて出かけました。そこに「大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た」とあります。この「押し迫って来た」という言葉が後でもう一度出てきて大事な役割を果します。その群衆の中に一人の女性がいました。彼女は、十二年間出血の止まらない病気に苦しんでいました。26節に「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。ここには、彼女がこれまで体験してきた様々な苦しみ、そして恥辱が凝縮されています。そのあげくに全財産を使い果たし、それでも病気はますます悪くなるばかりだったのです。主イエスが34節で彼女に「娘よ」と呼びかけておられることからして、彼女はまだそれほど年をとってはいなかったでしょう。十二年間というのは、彼女が大人の女性の体になり、生理が始まってから十二年間ということだと思います。その出血が止まらないのです。そのために彼女は結婚もできずにとうに婚期を過ぎ、家庭を持つという人並みのささやかな幸せも得ることができず、しかも全財産を使い果たして貧しさの中にいるのです。さらに彼女のこの病気は、ユダヤ人の社会においては、宗教的な「汚れ」として忌み嫌われるものでした。旧約聖書レビ記15章19節以下には、生理期間中の女性は汚れているとされています。その間は、彼女に触れた人も、また使った寝床や腰掛けもすべて汚れてしまうのです。ですから出血のある間、女性はほとんどまともに人との交わりを持つことができませんでした。そういう状態が十二年間ずっと続いてきたのです。そしてそれは人との交わりが持てないというだけでなく、神様のみ前に出ることができない、礼拝を守ることができない、ということでもあります。汚れた者は礼拝に、宗教行事に参加することができないのです。ユダヤ人にとって、主なる神様を礼拝する群れに連なることが、神の民の一員である印であり、喜びでした。彼女はその喜びをも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまっているのです。自分は神様の恵みから落ちている、神様は自分のことなど顧みては下さらないのだ、という絶望が彼女を捕えています。彼女が背負っていた苦しみ悲しみ絶望は、病気による肉体的な苦しみのみに止まらない、もっとずっと根の深いものだったのです。
後ろからイエスの服に触れた
この女性が、「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」。彼女は、イエスという方が、神の国の到来を宣べ伝えながら、人々の病気を癒し、悪霊を追い出しておられることを聞いたのです。そのイエスが今この町に来ておられることを知った彼女は、群衆の中に紛れ込んで近付いていきました。おそらく、誰だか分からないように顔を隠してでしょう。彼女のことを知っている人に見られたら「汚れている者はこんなところに来るな。汚れが人に移るではないか」と言われてしまいます。そっと身を隠しつつ、しかし人々をかき分けかき分け、主イエスに近付いていったのです。そして彼女は後ろからそっと主イエスに向かって手を伸ばしました。この方の服にでも触れれば癒していただけるのではないか、という切なる願いをもって、震える手で主イエスの衣の裾に触れたのです。
後ろからそっと主イエスの服に触れた彼女の姿は、先週のあの会堂長ヤイロとは対照的です。ヤイロは正面から主イエスの足もとにひれ伏して「娘が死にそうです。おいでになって、手を置いてやってください」と願ったのです。大勢の群衆の目の前で主イエスの足もとにひれ伏すのは、会堂長という名誉ある地位にいる彼にとっては思いきったことだったろうと思います。しかし彼がこのように主イエスに正面から救いを求めることができたのは、会堂長だったからだとも言えます。彼が主イエスに会いに来れば、群衆たちも敬意を表して道を開けるのです。しかしこの女性は、先ほどのような事情によって、主イエスの前に正面から出て救いを求めることができません。汚れた者であり、人に触れたらその汚れが相手に移ってしまう彼女は、そもそも主イエスのみ前に出ることすら憚られるのです。だから群衆に紛れて後ろからそっと触れることしか出来ないのです。このように彼女とヤイロの姿は対照的です。しかしそれは彼らの置かれていた立場の違いであって、主イエスの救いを切に願い求める思いは同じなのです。
この方の服にでも触れればいやしていただける
ただそこで一つ気になるのは、彼女が、主イエスの服にでも触れれば癒していただける、と思っていたことです。そして実際に、主イエスの服に触れると、29節にあるように、「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」のです。このことは何を意味しているのでしょうか。主イエスの服には病気を癒す特別の力があった、ということでしょうか。そうではありません。この癒しをもたらしたのは、主イエスの服の力ではなくて、30節に「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とあるように、主イエスご自身の力です。マルコは主イエスの服のご利益を語っているのではないのです。しかしこの女性は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思った。つまり主イエスの服のご利益にあずかりたいと願ったのです。正面から主イエスの前に出て救いを願うことができないので、せめてこのような仕方で主イエスの力におこぼれにあずかりたいと願ったのです。これは、主イエス・キリストを信じ、従っていくという信仰の本来のあり方からすれば問題に満ちたことです。後ろからそっと気付かれないように近付いて、恵みだけをいただいて帰ろうというのは、信仰のあるべき姿ではありません。それでは主イエスの力を自分のために利用しようとしているだけではないか、と言われても仕方がないのです。しかしこの話の最も大事なポイントは、このように本来の信仰とはかけ離れた、相応しくない思いで、しかし主イエスの救いを切に求めて後ろからそっと触れた彼女の手を、主イエスが敏感に感じ取って下さったということです。主イエスはすぐに立ち止まって振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」とおっしゃったのです。弟子たちは31節にあるように「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と言いました。ここに先ほどの「押し迫る」という言葉が出てきます。みんなが主イエスのもとに、押し合いへし合いしてきているのです。誰かの手が触れることぐらい当たり前なのです。しかし主イエスは、押し迫る群衆の中で、救いを求めて必死の思いでご自分に触れた人の手をちゃんと感じ取っておられるのです。そして足を止め、振り返ってその人を探し出そうとなさるのです。今主イエスの一行はヤイロの娘のもとへと急いでいるところです。ヤイロは一刻も早くとやきもきしていたでしょう。しかし主イエスは、ヤイロの切なる願いを受け止めたのと同じ真剣さをもって、この女性の、後ろからそっと触れた手に応えて下さるのです。
わたしの服に触れたのはだれか
「わたしの服に触れたのはだれか」という問いは何のためでしょうか。後ろから黙って人の力をかすめ取るとは失礼ではないか、と責めるためでしょうか。あるいは、責めはしないが、少なくともちゃんと名乗り、感謝しなさい、ということでしょうか。そのどちらでもありません。主イエスは、人々の中に隠れて、後ろからそっと触れるという形でしか救いを求めることができないこの女性と、ご自分の方から出会おうとしておられるのです。顔と顔とを合わせて対面し、言葉をかけ、交わりを持とうとしておられるのです。そのために主は振り返り、顔を彼女の方に向けたのです。「触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」とありますが、主イエスは誰が触れたのかをちゃんと分かっておられたのだと思います。しかし、その人が自分の方からも主イエスの前に進み出て、顔と顔を合わせて対面し、主イエスと交わりを持つことを願っておられるのです。
主イエスは私たちにも同じことを願い、待っておられます。私たちもこの女性と同じように、様々な悩み苦しみ悲しみをかかえ、救いを求めて主イエスのもとに来ます。そこでの私たちの姿勢は、主イエスを信じ従っていくという信仰の本来のあり方からすれば、まことに問題に満ちた、欠けの多い、罪だらけのものです。私たちも、正面から主イエスの前に出ることを避けて、人々の間に紛れて、後ろからそっと恵みだけをいただこうとするようなことがあります。主イエスに従っていくのではなくて、自分に何か困ったこと、願いごとがある時だけ、思い出したように教会に来て、祈ったりすることがあります。礼拝堂の片隅に、目立たないように座って、何か慰めになる、励まされる教えを聞いて、そして誰にも気付かれずに帰りたい、という思いでここに来ている人もいるでしょう。また自分の具体的な悩み苦しみの解決だけ求めてここに来ているという人もいるでしょう。この礼拝に集っている私たちの思いはそのように様々であり、そこには信仰の本来のあり方からすれば相応しくない、問題に満ちた思いもたくさんあります。しかし本日のこの話が教えてくれるのは、私たちが主イエス・キリストによる救いを求めて、主イエスに触れようとして手を伸ばす時に、その私たちの思いがどんなに不完全な、問題に満ちた、相応しくないものであっても、主イエスはその私たちの手を敏感に感じ取って下さり、それに応えて下さるのだということです。主イエスは私たちの方に顔を向けて、「わたしに触れたのは誰か」とおっしゃって、私たちと出会おうとしておられるのです。私たちが、人ごみの中に隠れていないで、自分から主イエスの前に進み出て、主イエスと顔と顔を合わせ、交わりを持つことを願い、招いておられるのです。
恐れとおののきの中で
この女性は、主イエスの招きに応えてみ前に進み出て、すべてをありのままに話しました。「自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し」とあります。主イエスの服に触れたことによって、十二年間苦しめられてきた病気が治ったのです。切に願っていたことが実現したのです。彼女の身に起こったことはそういう喜びの出来事だったはずですが、彼女はむしろ恐れ、震えています。それは、藁をもつかむ思いで手を伸ばして触れたイエスが、自分を本当に癒し、救うことができるまことの神であられることを示された驚きと恐れであり、そのまことの神がこの自分に救いのみ業を行なって下さったことへのおののきです。そしてそのまことの神である方のみ前に進み出て対面しなければならないことへの恐れとおののきです。それらの恐れおののきの中で、主イエス・キリストの前に進み出て、自分の全てを、ありのままに、何の取り繕いもなく語る、そこに、主イエスと私たちとの交わりが生まれます。主イエスは私たち一人一人と、そのような交わりを結ぶことを願い、そこへと招き、また待っておられるのです。
あなたの信仰があなたを救った
恐れつつ、震えながら進み出てありのままを話した彼女に主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と語りかけて下さいました。「あなたの信仰があなたを救った」。しかし彼女の病気を癒したのは主イエスの力です。「わたしがあなたを救った」と言った方がここで起ったことの正確な表現でしょう。しかし主イエスは敢えて「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのです。彼女の信仰とは何でしょうか。それは既に見てきたように、彼女が、深い苦しみの中で、本来は信仰とは呼べないような、欠けの多い、相応しくない仕方で、しかし主イエスの救いをひたすら願ってすがるように手を伸ばしたことです。それを主イエスは「あなたの信仰」と呼んで下さり、それがあなたを救ったのだと言って下さったのです。私たちが、主イエスの救いを求めて、人ごみに紛れて後ろからそっと手を伸ばす、その信仰はまことにあやふやな、不完全なものです。しかし主イエスは、そのように問題に満ちた私たちの、信仰とは呼べないような信仰を受け止め、それをきっかけにして、私たちがみ前に進み出て主イエスと出会い、すべてを話して主イエスとの交わりに生きる者となるように導いて下さるのです。そして「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さる、つまり「あなたは私を信じて生きている信仰者なのだ。その信仰によって救いを得ているのだ」と宣言して下さるのです。この主イエスの宣言によってこそ、私たちは信仰者として歩み出すことができます。私たちは、自分が信仰者であることを自分で確認することはできません。自分はこういう信仰を持っている、だから信仰者だ、などと言えるものではないのです。私たちが自分で「持っている」と思っている信仰はまことにあやふやな、心もとないもの、信仰の名に値しないようなものです。しかし主イエスが、そのように相応しくない、欠けばかりで問題に満ちている、信仰とは呼べないような私たちの思いに応えて私たちと出会って下さり、主イエスとの交わりへと導き入れて下さり、そして「あなたの信仰があなたを救った」と宣言して下さることによってこそ、私たちは信仰者として生きることができるのです。
安心して行きなさい
それに続いて主イエスは、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」とも言って下さいました。彼女はこのみ言葉によってこそ、本当に新しく生き始めることができたのだと思います。病気の癒しは既に主イエスの服に触れた時に与えられています。そういう意味では彼女はその時点から新しく生き始めたと言えるかもしれません。しかし彼女が本当に新しくなったのは、むしろこの34節のみ言葉によってだと思うのです。病気の癒しは勿論大きな恵みの出来事であり、人生に新しい一ページを開くものです。しかしそれは、人生を根本的に新しくするものではありません。この病気は治ってもまた他の病気にかかるかもしれないし、病気以外にもいろいろな苦しみ悲しみが襲って来るのです。そして遅かれ早かれ人は必ず死んでいきます。死の力に打ち勝つような新しさは、病気の癒しによっては与えられないのです。しかし主イエスはここで、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と言って下さいました。「もうその病気にかからず」というのは、他の病気にはかかるかもしれないが、という意味に読めてしまいます。しかし以前の口語訳聖書ではここは「すっかりなおって、達者でいなさい」となっていました。原文を直訳すれば、「あなたの病から健康になって」という感じです。主イエスはここで、一つの病気が治ったということではなくて、彼女の人生がすっかり、根本的に癒され、新しくなることを語っておられるのです。それが、信仰によって救われた者に与えられる恵みです。信仰によって救われた者は、安心して生きることができるのです。健康で、元気に、達者に暮らすことができるのです。それはもう病気にならないし老いることもなくなるということではありません。肉体をもって生きている限り私たちは病気にもなるし、老いていくし、最後は死を迎えます。それらのことが無くなるのではありません。しかし、信仰によって癒され、新しくなった者は、病や老いや死においても、安心して、元気に、達者に歩むことができるのです。主イエス・キリストとの交わりによってです。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、それを自ら味わって下さった主イエスが、病や老いや死を味わっていく私たちと共にいて下さるのです。そして私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死が復活へとつながっていたことを知っています。父なる神様は死の力を打ち破って、主イエスに復活の命を与えて下さったのです。そしてその復活の命を、主イエスを信じる者たちにも与えて下さると約束して下さっているのです。ですから、主イエスとの交わりの中で味わう死は、復活の命へとつながっているのです。ヤイロの娘の復活はそのことを示しています。主イエスが父ヤイロの願いを聞いて共に歩み出して下さったからには、肉体の死は、眠っているのと同じなのです。目覚める時が与えられるのです。十二歳だったヤイロの娘の復活と、十二年間病気で苦しんできたこの女性の癒しは一つのことを指し示しています。主イエス・キリストとの交わりに生きる者とされる時に、私たちは癒され、新しくされて、安心して、元気に、達者に生き、そして復活の希望の内に死ぬことができる者とされるのです。
聖餐の恵み
これからあずかる聖餐は、私たちが主イエスの恵みによって新しくされて、安心して、元気に、達者に生きていくための糧です。聖餐において私たちは、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちのために苦しみと死を引き受けて下さった、その恵みを味わい、その恵みによって癒され、安心して、元気に、達者に生きていくことができるのです。それと同時に聖餐は、主イエスの復活において父なる神様が与えて下さり、私たちにも世の終わりに与えると約束して下さっている復活の体、永遠の命を生きる新しい体を、今この地上で先取りして味見させていただく希望の食卓でもあります。聖餐にあずかりつつ生きる者にとっては、肉体の死はヤイロの娘の場合と同じく眠りに過ぎません。私たちは、復活の命に目覚める希望の内に死を迎えることができるのです。