「怖がらず、信じなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第46編1―12節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章35―41節
・ 讃美歌:57、456、469、75
新しい区切りの始まり
マルコによる福音書第4章35節以下を本日はご一緒に読みます。章の区切りから言うと、ここは第4章の終わりですが、内容的にはむしろここから、5章の終わりまで続く新しい区切りが始まるのです。これまで読んできた4章1-34節には、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話が記されていました。主イエスはたとえ話を多く用いて、人々に、神の国、神様のご支配の到来をお語りになったのです。それらのたとえ話が集められた箇所、つまり主イエスの教え、み言葉が集められていた箇所が先週で終わり、本日の所からはまた、主イエスのみ業を語る部分に入っていくのです。
イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した弟子たち
35節に「その日の夕方になって」とあります。「その日」とはどの日なのか、はっきりしません。しかしこの日の夕方になって、主イエスが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」とおっしゃると、弟子たちは36節にあるように「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」のです。この「イエスを舟に乗せたまま」という文章は、4章1節に語られていたことを前提としているように感じられます。4章1節には、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにおびただしい群衆が集まって来たので、主イエスは弟子たちと共に舟に乗って岸から少し漕ぎ出し、その舟の中から岸辺にいる群衆たちにお語りになったことが語られていました。大勢の人々が押し迫って来たので、そういう仕方で群衆と少し距離を置いて教えを語ることがしばしばなされていたのでしょう。「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」というのは、この日もそのように舟の上から群衆に教えておられた主イエスが、夕方になって話を終えると「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったので、弟子たちはそのまま沖へと漕ぎ出していった、ということであるように思われます。
弟子たちの群衆
そしてここに「群衆を後に残し」とあります。岸辺にいて主イエスの話を聞いていた群衆を後に残して、主イエスと弟子たちは向こう岸へと漕ぎ出したのです。ここに、弟子たちと群衆との区別、違いが見つめられています。彼らはどちらもこの日、主イエスの教えを聞いてきたのです。弟子たちは主イエスと共に乗っている舟の中で、群衆は岸辺で。しかし夕方になってその話が終ると、弟子たちは主イエスのみ言葉に従って、主イエスを乗せたまま沖へと漕ぎ出していき、岸辺の群衆は後に残されて自分の家へと帰っていくのです。そこに、弟子たちと群衆の違いが描き出されています。弟子たちと群衆とのこのような区別は、たとえ話が語られてきた中にも示されていました。4章11節に「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とありました。「あなたがた」とは弟子たちのこと、「外の人々」とは群衆のことです。たとえ話は、群衆たちに、神の国の秘密を秘密のままで、つまり隠された謎として示すために語られたのであって、弟子たちには、その神の国の秘密が打ち明けられ、説き明かされたのです。主イエスはそのように群衆と弟子たちを区別しておられました。それは主イエスが弟子たちだけをえこひいきしていたということではありません。弟子たちと群衆との間には大きな違いがあったのです。その違いとは、群衆は自分の思いや願いをかなえてもらおうとして主イエスのもとに集まっていたのに対して、弟子たちは、主イエスに従い、主イエスと共に歩んでいた、ということです。その違いが本日の箇所にも描き出されています。弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」という主イエスのみ言葉に従って、主イエスと共に漕ぎ出したのです。それに対して群衆は、み言葉を聞きましたけれども、それが終ればそれぞれの家へと、自分の生活へと帰って行ったのです。「今日はいいお話を聞いて心が洗われた」と言いつつかもしれません。「何だか難しくてよく分からなかった」と言っていたかもしれません。しかしどちらにしてもそれだけのことで、家に帰ればそれまで通りの日常の生活が始まるのです。つまり彼らは、主イエスのみ言葉を聞いても何も変わっていないのです。しかし弟子たちは、主イエスのみ言葉を聞き、そのみ言葉に従って、主イエスと共に沖へと漕ぎ出したのです。主イエスに従って、主イエスと共に、何が待ち受けているか分からない新たな旅へと出発したのです。
み言葉に従って旅立つ信仰者
この弟子たちの姿こそ、信仰者、教会の姿です。主イエス・キリストを信じる信仰者とは、主イエスの弟子となった者であり、教会は弟子たちの群れです。弟子となるとは、主イエスに従っていくということであり、それは、み言葉を聞いたけれども家に帰ってそれまで通りの生活を送る中で結局それを忘れてしまうというのではなくて、聞いたみ言葉に従って、主イエスと共に新たに旅立っていくということです。どこへと向かっていくのか。それは私たちが決めることではありません。主イエスが「向こう岸に渡ろう」とおっしゃる、そのみ言葉に従って漕ぎ出すのです。その「向こう岸」がどんな所なのか、そこへと渡る間に何が起るのか、私たちには分かりません。主イエスの示し、促しに従って、行き先を知らずに旅立つのです。それが、信仰の父アブラハム以来の信仰者の歩みです。幕末の日本に来てキリスト教を伝え、指路教会を築いたヘボンもまた、そのように主イエスのみ言葉に従って旅立った人だったのです。
嵐が襲う
そのように漕ぎ出した弟子たちの舟を突風が襲いました。37節「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。主イエスの促しによって、主イエスと共に漕ぎ出した信仰者の旅路には、このような苦しみが襲いかかるのです。それが私たちの日々の生活なのではないでしょうか。私たちは礼拝においてみ言葉を聞き、神様の恵みと祝福によって派遣されてそれぞれの生活へと漕ぎ出していきます。しかしその現実はいつも平穏無事なものではありません。この世に吹き荒れる突風、大波に翻弄され、水浸しになり、舟が沈みそうになるのです。今は丁度受験のシーズンです。若い人々が、自分の将来を切り開くべく努力しています。しかし受験においては、努力して頑張っても願いがかなわない、ということも起ります。そういう苦しみにあう時私たちは動揺します。しかし学生時代のそのような苦しみは、社会人になり、仕事の上での責任による重圧や失敗によって味わう苦しみに比べたら何ほどのことはないとも言えます。また今の時代、決まった仕事を持ち、それによって安定した収入を得ること自体を困難にする雇用不安という嵐が吹きすさんでいます。どこかの会社に就職しても、その会社という舟が沈んでしまうかもしれないし、リストラによってその舟から放り出されてしまうかもしれないのです。また家庭を持てば、それは大きな喜びでもあると同時に、家族の関係における様々な苦しみもまた生じてきます。そして病気や老いの苦しみが私たちを脅かします。自分の病気や老いの苦しみや不安だけでなく、家族の病気や老い、それに伴う看病や介護の重荷もまた私たちを脅かし、その重さに舟が沈みそうになるのです。そして最後に死の苦しみがあります。自分の死への恐れ、不安だけでなく、愛する者、親しい者の死が、まさに私たちの人生の舟を転覆させかねない大波として襲ってきます。それらの嵐が吹き荒れているのが、私たちがこの礼拝を終えて漕ぎ出していく人生の現実なのです。
信仰者をこそ襲う嵐
けれども、本日の箇所に語られているこの突風は、今申しましたような、誰の人生にも起る様々な苦しみ悲しみのことを言っているのではありません。この突風に遭うのは、舟を漕ぎ出した人たちです。陸の上にいれば、突風によって舟が沈みそうになることはないのです。屁理屈を言っているように聞こえるかもしれませんが、これはとても大事なことです。つまり岸にいた群衆たちはこの突風、嵐には遭っていないのです。主イエスのみ言葉を聞いて、私たちに当てはめて言えば礼拝を守って、それだけで元通りの自分の生活へと戻って行った者たちはこの嵐に襲われることはないのです。嵐に襲われているのは弟子たちです。み言葉を聞き、礼拝を守り、そして主イエスの促しによって主イエスと共に漕ぎ出した者が、この嵐に遭うのです。つまりこの突風は、信仰者をこそ襲う嵐、主イエスに従って旅立った者に襲いかかる嵐なのです。それは別の見方からすればこういうことです。人生において誰もが体験する様々な苦しみや悲しみの嵐は、その人が信仰をもって生きている時にこそ、舟が沈みそうになるような本当の危機をもたらすのです。信仰は、私たちに平安や安心を与えるという面もありますが、逆に人生の危機において私たちに本当の動揺をもたらすと言うこともできます。信仰をもって生きているからこそ、人生の苦しみは本当に深い危機となるのです。
弟子たちの動揺
それはどういうことなのでしょうか。この嵐の中で動揺している弟子たちの様子からそれが見えてきます。38節には「しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った」とあります。嵐の中で弟子たちは動揺し、うろたえています。うろたえて主イエスに「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったのです。これは「先生溺れそうです、怖い、助けてください」という叫びとは違います。彼らは主イエスに助けを求めたのではなくて、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と文句を言ったのです。この時「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」とあります。このことを、さすがにイエス様は神の子だけあって嵐の中でも眠っている度胸があった、それだけ神様に深く信頼しておられたのだ、弟子たちは信仰が足りず、神様への信頼が十分でないからうろたえたのだ、というふうに、主イエスと弟子たちの度胸や神様への信頼の深さを見比べるような仕方で理解するべきではないと思います。主イエスが眠っておられたというのは、弟子たちが、自分たちが苦しんでいるのに主イエスは何もしてくれない、居眠りでもしているように、我々の苦しみや恐怖に気付いてもくれない、と感じたということです。弟子たちはそのことによって動揺したのです。つまり弟子たちは、人生の歩みにおいて襲ってくる苦しみや悲しみという嵐のために動揺し、うろたえたのではなくて、その嵐の危機の中で、主イエスが何もしてくれない、自分たちの苦しみや恐れに気付いてさえもくれない、これでは主イエスはいないのと同じではないか、主イエスを信じて旅立ったことは、全く無駄なことで、かえって無意味な苦しみを背負うだけのことだったのではないか、そのように感じて動揺し、うろたえたのです。私たちも、信仰をもって生きるからこそ、そのように動揺し、うろたえることがしばしばあるのではないでしょうか。礼拝を守り、み言葉を聞いて、主イエスに従い、主イエスと共に歩み出したけれども、この世の現実には様々な苦しみ悲しみ不安があり、病や老いや死が襲いかかってくる、その嵐の中で私たちは、共にいて下さるはずの主イエスを見失ってしまうのです。主イエスが本当に共におられるのかどうか、分からなくなってしまうのです。主イエスが共におられるというのは嘘ではないか、あるいはいるとしても眠り込んでいて、私の苦しみ悲しみには全然気付いておらず、何もしてくれないのではないかと思ってしまうのです。それは、人生の様々な苦しみ悲しみの中で自分を支えてくれるはずである信仰そのものが揺れ動き、不確かになってしまうということですから、苦しみや悲しみによる動揺とは次元の違う、より深くて深刻な、まさに私たちの舟を絶望の内に沈没させてしまいかねない事態なのです。信仰をもって主イエスに従っていくことの中でこそ、そういう動揺に陥るのです。
主イエスの権威
しかし主イエスは弟子たちの舟にちゃんと乗り込んでおられます。そして神の国、神様のご支配の到来を表すみ業を行なって下さるのです。39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。主イエスの一言で、嵐は止んだのです。主イエスは、何かの呪文を唱えて、魔法や超能力によって嵐を鎮めたのではありません。「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」のです。するとそのみ言葉に、風や湖さえも従ったのです。この出来事によって示されているのは、主イエスは嵐をも鎮める能力を持っていたということではありません。示されているのは主イエスのみ言葉の権威です。主イエスのみ言葉は、風や湖もそれに従うような権威を持っていたのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第46編には、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移っても、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも、主なる神様が避け所、砦となり、共にいて助けて下さるから決して恐れない、という信仰が歌われています。自然の猛威をも治める主なる神様の権威と力が見つめられているのです。主イエスが嵐を鎮めたこの出来事は、主なる神様のその権威を主イエスが持っておられることを示しています。主イエスは、父なる神様から遣わされた神様の独り子として、天地の全てをお造りになった神様の権威と力を持っておられるのです。その主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配は確かに始まっているのです。その主イエスが私たちの舟に乗り込んで下さっているのだから、神の国は、私たちの内に既に来ているのだし、確実に前進しているのです。
信仰への励まし
主イエスは弟子たちに、そして私たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけておられます。私たちがこの世の嵐、荒波の中で怖がり、うろたえてしまうのは、信じていないからです。しかしその信じるとは、何を信じることなのかを正しく捉えなければなりません。信じるというのは、自分は大丈夫なのだ、怖がらなくてもよいのだ、と必死に思い込むことではありません。あるいは、怖がってしまうのは信仰が足りないからだ、どんな嵐の中でも怖がってはならないのだと自分に言い聞かせ、常に平静を保つように努力することでもありません。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」というみ言葉によって主イエスは私たちに、「神の国を実現しようとしている私があなたと共にいる。私があなたを選び、召し出したことによってあなたは私に従って来る弟子となり、私と共に旅立った。そのことによって、今は隠されている神の国、神のご支配が既にあなたを捉え、あなたを巻き込んで前進している。その神の国はいつか必ずあらわになり、完成するのだ。そのことを信じて、怖がらずに勇気をもって旅路を続けなさい」と語りかけて下さっているのです。信仰をもって生きるというのは、この主イエスの語りかけを聞き、主イエスが共にいて下さることを信じて歩むことです。自分自身の中に、どんな嵐にも動揺しない確固たる何かを持つことでは全くないのです。
恐れと問い
風を叱り、湖をも従わせる主イエスの権威を目のあたりにし、主イエスからのこの語りかけを受けた弟子たちは、「非常に恐れた」とあります。そして「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったのです。これはおかしな反応です。彼らは嵐の恐怖の中で主イエスに「わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と文句を言ったのです。その主イエスが起き上がって嵐を鎮めて下さった、つまり彼らの苦しみとしっかり関わり、救って下さったのです。そういうみ業を体験したのですから、「イエス様ありがとうございます。やっぱりあなたは偉大な救い主です。あなたに従ってきて良かった」と言ってもよさそうなものです。私たちがこの話を自分で創作するとしたら、おそらくそういう結末にするでしょう。ところが彼らはそうは言わなかった。彼らはむしろ非常な恐れを覚えたのです。それは嵐の恐怖とは違う、ある意味でもっと深い、根源的な恐れです。その恐れは「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いと結びついています。主イエスとは誰なのか、という問いを彼らは抱いたのです。彼らはそれまで、主イエスのことが分かっているつもりでした。だからこそ弟子となり、み言葉に従って漕ぎ出したのです。しかし今、自分たちが分かっているつもりでおり、期待していたのとは全く違う主イエスが目の前に立たれたのです。あの嵐の中で彼らが主イエスに期待していたのは、呑気に寝ていないで、起きて彼らと恐怖を分かち合い、舟を守るために一緒に水をかき出してくれることだったのではないでしょうか。しかし主イエスがして下さったのはそんなことではなくて、風を叱り、湖に命じて鎮めることでした。天地の造り主としての権威を行使して下さったのです。そういう主イエスに直面して、彼らは非常に恐れ、「いったいこの方はどなたなのだろう」と問い始めたのです。この恐れの中でのこの問いこそ、信仰の歩みにおいて私たちが必ず直面するし、しなければならないことです。信仰が深まるというのは、主イエスのことを理解し、分かってしまうことではありません。分かってしまうというのは、自分のものにしてしまうことであり、自分の心の引き出しの中にうまく整理して、必要な時だけ取り出せるようにすることです。それはむしろ主イエスをも自分の手の内に置き、支配しようとする罪です。生きておられるまことの神であられる主イエスと出会う時に私たちは、むしろ主イエスのことが分からなくなるのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」と恐れをもって問うようになるのです。その問いの中でこそ、主イエスとの本当の交わりが、関係が生まれていくのです。この恐れと問いに直面するのは、弟子となって主イエスに従って歩んでいく者だけです。群衆は、このような恐れも問いも抱くことはないのです。
み言葉に従って旅立とう
この恐れと問いを抱きつつ主イエスと共に歩む中で、弟子たちはある時には、主イエスこそ神の子、救い主ですと告白する言葉を与えられました。しかし主イエスが捕えられ、十字架につけられる時には、彼らはまた主イエスのことが分からなくなり、従っていくことができなくなり、みんな逃げ去ってしまうのです。つまり弟子たちの、そして私たち信仰者の歩みは常に嵐に翻弄されており、私たちはその中で動揺し、うろたえ、主イエスに文句を言うようなことを繰り返していくのです。しかしそのように嵐に翻弄されている危なっかしい弟子たちの、そして私たちの舟に、主イエス・キリストが確かに乗り込んでおられます。主イエスは、私たちがどんなに動揺し、うろたえても、神の国を実現する救い主としての歩みを貫いていかれるのです。その歩みは、十字架の死と復活へと向かっていました。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪と死の力に勝利して復活して下さったことによって、神の国、神様の恵みのご支配が、つまり私たちの救いが実現したのです。「いったいこの方はどなたなのだろう」という問いへの答えは、十字架と復活においてこそ与えられたのです。その主イエスが今、私たちの舟に乗り込み、「共に向こう岸に渡ろう」と語りかけて下さっています。私たちも、代々の信仰者たちに倣って、その主のみ言葉に従い、主イエスが示して下さる向こう岸に向けて旅立っていく者でありたいのです。その旅路には嵐が待ち受けているでしょうが、主イエスが乗り込んでおられるこの舟が沈んでしまうことは決してないのです。