夕礼拝

わたしの選んだ僕

「わたしの選んだ僕」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第42章1―4節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章9-21節
・ 讃美歌 : 37、577

安息日
 主イエスはその場所を去って、会堂にお入りになりました。その場所とは、本日の箇所の前の場面になりますが、12章1節から8節までのところです。そこでは、ある安息日に主イエスは麦畑を通られました。主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べていたところを、ファリサイ派の人々に「安息日にしてはならないことをしている」と非難されました。主イエスは旧約聖書を引用して応えられました。神様がご自分の民であるユダヤ人に与えられた律法に定められていることで、週の七日目のこの日には、一切の仕事を休まなければならないと言われていたのです。ファリサイ派の人々は律法の専門家であります。人々に、律法に基づく生活の仕方を教えている人たちです。ファリサイ派はそのような立場から、弟子たちの行為を律法違反として批判しました。麦の穂を摘んで、殻を取って食べることは、「収穫」「脱穀」という仕事に当り、そのような行為は安息日にしてはならないことだというのです。ここでの「仕事」というのは、人間の労働行為全体を指しており、安息日は「仕事」をすべてやめ、休むべき日として、定められていました。

神の求められるのは憐れみ
 主イエスはこのようなファリサイ派の人々の批判に対して答えられました。その中心も旧約聖書を引用され答えられました。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という神様のみ言葉です。神様が安息日の律法を人々に与えられたのは、人々に対する憐れみのみ心によることであるというのです。空腹な人が、目の前に食べ物がありながら、安息日であるということを理由に、空腹な人が何も食べられずに過ごさなければならないようなことは、神様の憐れみの御心に反することであるというのです。安息日の掟を正しく守ることだけが目的になってしまい、律法を通して示されている神様の憐れみの御心が見失われてしまうというのです。

ファリサイ派の問いかけ
 本日の箇所の出来事も8節までの話の続きであります。「安息日」についての事柄です。主イエスはユダヤ人たちの会堂にお入りになりました。会堂では、安息日に人々が集まって律法を学び、祈る礼拝をしております。多くの人々が会堂に集まっていました。「すると、片手の萎えた人がいた。」(10節)とあります。主イエスの周りにいた人々はイエスを訴えようと思って、主イエスに問いかけます。そこには「片手の萎えた人がいた。」ので、この人のことを意識しております。主イエスに対して「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(10)と尋ねました。人々は主イエスを訴えようと思っていました。この10節の「人々」とう言葉は原文にはありません。ここでは、「彼ら」となっています。誰が主イエスに尋ねたかということははっきりとは書かれておりません。「彼ら」が尋ねたのです。「彼ら」とは2節の「ファリサイ派の人々」のことです。主イエスがこの時、入られたのはユダヤ人の会堂です。9節にあります「会堂にお入りになった」という箇所に、「彼らの」という言葉が使われております。ですから、9節は「彼らの会堂にお入りになった」と言うのです。その「彼ら」もファリサイ派の人々です。ファリサイの人々はユダヤ人たちの会堂の主導権を握り、指導していました。その会堂に主イエスはお入りになったのです。そして、ファリサイ派の問いかけを受けました。ファリサイ派の人々は主イエスが、病人や体の不自由な人を癒しておられることを知っていました。ファリサイ派の人々は主イエス片手の萎えた人が目の前にいれば、きっとまた癒しの業をするに違いない、と考えました。病気の人を癒すことは明確に、医療行為という仕事です。安息日にはそれは休まなければならないことなのです。ファリサイ派は安息日に、人々が集まっている会堂の真中ですれば、多くの証人の前で、明確に、イエスは安息日の律法に違反していると訴えることができる、と考えました。そして、主イエスに「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問いました。

主イエスのお答え
 このファリサイ派の人々の問いに対しては、主イエスは応えられました。11節です。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。と主イエスは答えられました。「安息日に善いことをするのは許されている」と言うのです。この「許されている」と言う言葉は、「正しい、適切である」という言葉です。「安息日に良いことをするのは、正しいことである」となっていました。主イエスはそういう主張を、真っ向から彼らにぶつけているのです。そしてその理由として語られているのが、穴に落ちた羊を助けるという話です。穴に落ちてこのままでは死んでしまうという羊を、安息日であっても手で引き上げてやるのは当然ではないか、と主イエスは言われました。ファリサイ派の人々や当時の律法の専門家たちはこのようなことを真剣に議論していました。安息日にどこまでのことはしてよいか、どこから先はいけないか、ということを真剣に議論しました。例えばこのように羊が穴に落ちた場合はどうするのか。羊を手で引き上げることは「仕事」に当るのです。今でも、イスラエルのホテルのエレベーターは、安息日になると各階止まりになります。それは、行き先の階のボタンを押さないですむためです。ボタンを押すことすらも労働行為と考えられているのですから、穴から羊を助け上げることは立派な仕事なのです。だからそれは基本的には許されない。ただ、その羊が、すぐに治療をしなければ死んでしまうような緊急の状態になっているなら、引き上げることができる、その場合には緊急事態ということで例外が認められる、しかしそうではなくて、1日ぐらいそのままでも大丈夫ならば、穴の中に餌を投げてやっておいて、安息日が終ってから引き上げるべきだ、そんなことを彼らは一生懸命議論していたのです。つまり彼らの考えていることは、安息日の掟を始めとする律法を正しく守るにはどうしたらよいか、ということだけだったのです。それに対して主イエスは、安息日だろうとなかろうと、穴に落ちた羊を引き上げてやるのは当然だと言われます。主イエスがそこで見つめておられるのは、穴に落ちてしまった羊のことです。羊がかわいそうだということです。主イエスは羊のことを言っているのではありません。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」とあります。たった一匹の羊を持っている人の話としてこれは語られているのです。その一匹がかけがえのない、生活の支えであるような貧しい人です。その人に対して、「今日は安息日だから羊を引き上げてはならない」と言うのか、ということです。主イエスは掟よりも人間を、貧しさや苦しみ悲しみを負っている人間のことおっしゃっているのです。主イエスはそのような人間たちに対する、父なる神様の憐れみのみ心を示されております。「人間は羊よりもはるかに大切なものだ」と言います。羊と人間とどちらかが価値が高いかということではありません神は人間を羊よりもはるかに大切だと思っておられるのです。神様が、一人の人間を本当に大切に思っておられる、一人でも、飢えたり、傷ついたり、悲しむことがないようにと願っておられるのです主イエスはそのような神の憐れみの御心を示されております。安息日の掟も、その神様の憐れみの御心によって与えられているものです。人々が神様の恵みのみ心の中で、一週間に一日、安息を与えられる、神様の憐れみの中で憩うことができる、そのために安息日はあるのです。だから、安息日に癒しの業をするのは正しいことなのです。ファリサイ派の人々は、今この会堂に、片手の萎えた人がいることを知っています。しかし彼らは、その人の苦しみや悲しみには全く関心がないのです。彼らが考えているのは、「イエスが今日この人を癒すなら、それは安息日の律法の違反だから訴えてやる」、ということだけです。この人が癒されようと、苦しみの中に留まろうと、彼らにはどうでもいいのです。しかし主イエスは、この片手の萎えた人のことを見つめています。彼の苦しみと悲しみを見つめています。そしてその人のことを本当に大切に思い、慈しんで下さる神様のみ心を示し、与えて下さったのです。それが、ここで行われた癒しのみ業です。主イエスが「手を伸ばしなさい」と言うと、この人の萎えた手が癒されたのです。

主イエスの挑戦
 主イエスはこの癒しのみ業を、安息日に、会堂の真中でなさいました。日が暮れれば安息日は終るのです。それから、人々の見ていない所でそっと癒しをすることもできたのです。しかし、主イエスは安息日に癒しの業をなさったのです。これは、ファリサイ派に対する挑戦です。ファリサイ派は律法を正しく守ることのみ考えていました。律法を与えられた神様の憐れみの御心を見ず、律法によって権威をふりかざしていました。そして、14節にあるように、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。「イエスを殺そう」という思いが、ファリサイ派の人々の中にはっきりと形をなしたのです。主イエスを十字架の死へと追いやっていく人間の最初の一歩がここに記されたのです。このことはとても意味深いことです。主イエスは、父なる神様の人々への憐れみの御心を実現するために、この地上に来られました。主イエスによって人々が本当の安息を得ることができるために、安息日の主としてこの世に来られました。しかし、人間はその主イエスを殺そうとするのです。本当の安息を与えて下さる安息日の主を、安息日の掟を破るものとして拒否してしまうのです。神様が与えて下さる安息をいただくことによってではなくて、自分が掟を守って正しく生きることによって安息を得ようとするところには、そういうことが起こるのです。

主イエスに従う群れ
 「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」(15節)とあります。主イエスはファリサイ派の人々が自分を殺そうと相談したことを知って、彼らの会堂から立ち去られました。ファリサイ派を始めとするイスラエルの指導者たちが、主イエスを受け入れず、敵対する、その人々の前から、主イエスは身を引いていくのです。そして主イエスに「大勢の群衆が従った」とあります。主イエスの後に群衆が従いました。そして「イエスは皆の病気をいやして」ともあります。主イエスはファリサイ派の会堂から立ち去り、癒しのみ業を続けられました。主イエスは会堂とは別の新しい群れを作っていかれたのです。律法を守って正しく生きることを第一の目的とするのではなくて、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われる神様の憐れみのみ心を信じ、そのみ心を示し与えて下さる主イエスに従っていく者たちの群れを主イエスは作っていかれました。主イエスは「御自分のことを言いふらさないようにと戒められた」とあります。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(16、17節)とあります。主イエスがご自分のことを言いふらさないように人々を戒められたことがイザヤの預言の実現であるというのです。19節の「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」という言葉を指しています。主イエスは御自分のことを言いふらし、宣伝させて人々を集めるようなことをされませんでした。そこに、イザヤが預言した主の僕、救い主の姿の実現があります。マタイによる福音書は、18~21節までを、イザヤ書第42章1~4節の全体をここに引用したかったのです。それは、この引用が16節だけに関係しているのではなくて、15節に示されていた、主イエスがユダヤ人たちの会堂を立ち去り、従ってくる者たちによる新しい群れを造っていかれる、ということと関係づけられています。イザヤ書の引用の言葉は、主イエスが、ファリサイ派の人々の支配下にある会堂とは別の、ご自分の群れを造っていかれる、その新しい群れが何によって生きるか、どのような群れであるか、を語っています。ここでは主イエスのもとに集められる新しい群れの根拠が語られているのです。

神の僕
 18節にあります、イザヤ書の引用の言葉を見ますと「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」とあります。この言葉は、同じマタイによる福音書第3章16、17節にある言葉です。主イエスが洗礼を受けられたとき主イエスの上に、神の霊が鳩のように降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたという話と結びつきます。主イエスこそ、イザヤが預言した、神が選んで民の救いのために遣わされる僕なのです。ちなみにこの「僕」という言葉は「子供」があります。主イエスは神の子であります。神の僕、神の子である主イエスは「異邦人に正義を知らせる」とあります。主イエスによってもたらされる救いは、異邦人にまで及んでいくのです。異邦人という言葉は、ユダヤ人が自分たち以外の人々のことを包括する言葉です。自分たちは神様の民だ、しかし他の連中は神様の民でない、救いの外にいる者たちだ、という思いがこの言葉にはあります。そのような思いはファリサイ派の人々と同じです。ファリサイ派は、律法をきちんと守る者こそこそ神の民だと主張しました。人を分け隔てしているのです。そういう分け隔ては様々なことに及んでいきます。例えばここには片手の萎えた人がいる。そういう体に障害を持っている人を分け隔てするということも起こるのです。彼らが、この人をネタにして主イエスを訴えようとしているところには、そういうことが感じられます。つまりこの人はファリサイ派の人々によって、異邦人扱いされている、神の民の一員として扱われていないのです。主イエスの救いは、そのような人に及ぶのです。主イエスのもとに集められる新しい群れは、そのような人々をも包み込んでいくのであります。

正義を知らせる
 イザヤ書では「彼は国々の裁きを導き出す」とあります。「正義」と訳されている言葉は「裁き」とも訳せるもので、むしろ「裁き」という意味の方がよく出て来るのです。神の裁きです。神様が私たち人間を裁かれるのです。そこで私たちは神様の判決を受けます。有罪か、無罪かという判決です。裁きとはそのように、白と黒とをはっきりと分けることです。主イエスを通して、その神様の裁きがなされるのです。その裁きを主イエスがどのようにしてなされるか、それが19節以下に語られています。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない」。主イエスの裁きは、「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」。この正義も、18節と同じ、「裁き」です。主イエスの裁きは最終的に勝利するのです。主イエスは世の終りに、まことの裁き手としてもう一度この世に来られます。主イエスの最終的な勝利へと向かう歩みは、「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」歩みです。それはどちらも、傷つき、弱り、衰えて力を失っている者を、大切に養い、守り、導き、育てて下さる慈しみを語っている言葉です。その慈しみのみ心によって、主イエスは、穴に落ちた羊を安息日であっても引き上げるのが当然だと言われるのです。片手の萎えた人を、そのことで自分を訴えようと考えている人たちの目の前で、主イエスは癒されるのです。そして、主イエスは十字架の死への道を歩むことになります。主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さいました。罪深い人間は、神様の裁きの前に立たされれば、有罪の判決を受け、滅ぼされるしかない者です。神様の前で私たちは有罪の判決を受ける者。そのような私たちのために、主イエス・キリストは、私たちの罪を受けられました。全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪を赦しを与えられました。私たちは有罪から無罪のへとされました。主イエスはご自分の身を盾にして、傷ついた、弱い私たちに憐れみを与えて下さったのです。神の憐れみの御心こそ、主イエスのもとに集められる新しい群れの根拠です。

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