「命に通じる門」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 詩編第51編1-21節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章13-14節
・ 讃美歌 : 274、275
狭き門
本日与えられました聖書の箇所は、マタイによる福音書第7章13節と14節です。主イエスは「狭い門から入りなさい。」と教えられました。「狭き門」という言葉を聞いて私たちは何を思い浮かべるでしょうか。苛烈な受験戦争、入学試験、採用試験などのことでしょうか。主イエスの教えられる「狭い門」とは14節に記されている言葉を用いれば「命に通じる門」です。「命に通じる門」は「なんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。」とあります。命に通じる門は狭く、道は細く、その門を見出す者は少ないのです。見つかりにくい門なのです。その門を見出す者が少なく、見つかりにくい門とは、そこに入り口があり、道があり、しかも命に至る道があるということに、なかなか気づかないということです。たとえ門があることには気づいたとしても、そこから入って行きたいと思う人は少ない、そういう門なのです。ですからこの門は、多くの人々が殺到してみんなが入ろうとする、ということではありません。入学試験などの「狭い門」は、皆が入ろうとするから狭くなるのです。しかし、この「命に通じる」門は、元々狭く、みすぼらしく、見栄えがしないのです。多くの人々は見向きもしない門なのです。
主イエスはそのような多くの人々が見向きもしない、元々狭く、みすぼらしい、見栄えのしない門、「狭い門から入りなさい」と教えられました。ここでは、門のことだけではなく、その「道」のことが語られています。13節の「滅びに通じる門は広く、その道も広々として」とあります。それに対して、「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」となっております。広々とした道と細い道、そのどちらを歩むか、という教えでもあります。広々とした道とは、楽な、歩きやすく楽しい道ということでしょう。細い道とは、険しく歩きにくい、苦労の多い道でしょう。主イエスはその二つの道の内で、険しい、苦労の多い道の方をこそ歩め、と教えておられると言うことができると思います。広い道、楽な道を歩んでいくことは、その時はいいかもしれないが、後になって決してよい結果を生まない、結局モノにならずに終わってしまう、細い道、険しく苦労の多い道を歩くことはその時はつらいことだが、しかし後になってよい結果が生まれる、よい実を実らせることができる、そのようにこの教えを理解することができるのです。
主イエスの語られた教え
しかし私たちは勿論この主イエスの教えをこのように人生の教訓として読むのではありません。主イエスが教えられた信仰の教えとして聞きます。その場合には、この狭い門、細い道は、単に苦労の多い困難な道というだけではないでしょう。この狭い門、細い道とは信仰の道です。信仰の道とは神を信じ、イエス・キリストを信じて生きる道です。信仰の道は細く、この門を見いだす者が少ないということです。多くの人々は、神様のこと、その独り子イエス・キリストのことを見向きもしません。そんなところに命に通じる門があり、歩むべき道があり、それが真実の命につながっているとは思わないのです。しかし主イエスはここにこそ本当に入るべき門があり、歩むべき道がある、と教えられます。神様を信じて、主イエス・キリストによる救いを信じて歩むことこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。それはまさに狭い門であり、みすぼらしい、見栄えのしない門であり、それを見いだす者は少ないのです。それは、私たちの国、日本という国だからであるということではありません。欧米の、いわゆるキリスト教国と呼ばれるところならばそうではないのかというのではないのです。欧米諸国では確かに教会が市民権を得ており、多くの人々がなお洗礼を受け、クリスチャンとして生涯を送るのです。しかしそれは、その人々が、主イエス・キリストこそ命に至る門であり道であると本当に信じて、その道を歩もうとしているということではありません。
主イエスは御自分のことをこのように言われました。ヨハネによる福音書第14章6節です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われました。またその少し前の10章9節では「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。」主イエスは御自分が門であり、道であると言われております。この門であり、道である主イエス・キリストを本当に信じて、主イエスによって与えられる命にあずかっていこうとする、その狭い門から入り、細い道を歩んでいく者は、いつの時代にも、どこの場所においても、決して多くはありません。それを見いだす者も少ないのです。
主イエスの語られた意図
そのような中で、私たちは、このように神様を礼拝し、聖書のみ言葉を聞き、主イエス・キリストと共に生きるためにここに集ってきたのです。招かれたと言えるでしょう。そのこと自体が、狭い門から入り、細い道を歩むことです。主イエスは「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」と教えられました。決して見栄えのよい道でもなく、楽な道でもない道を歩き、狭い門をたたくのです。しかし、この道こそ命に通じる道であり、主イエス・キリストと共に歩む道です。本当の命に通じる道があるのです。しかし、私たちがこのことを自分たちの自負や誇りにしてはいけないのです。自分たちの自負や誇りにするということは「自分は世間の人々とは違って、神様を信じ、信仰者として生きるという狭い門から入り、細い道を歩んでいる。けれども多くの人々はこの門に気づかず、そこを歩もうとしないが、我々はこの正しい門、命に至る道を見出したのだ」というふうに受けとめてしまうことです。そのように考える時には、私たちは、自分の歩んでいるこの門、この道こそが、立派な、そして将来を約束された門であり、道であると言っていることになるからです。
主イエスの教えはそのようなことではありません。信仰を持っていない人々に対して、信仰者である私たちが、自分たちこそ正しいのだと誇る語られたものではありません。もしも私たちがそのように自分の信仰を、自分が信仰者として生きていることを、誇るような思いになるとしたら、その時私たちにとって、信仰は、「広い門、広い道」となっているのです。「広い門、広い道」というのは、見栄えのよい、つまりそこを歩んでいる者が誇り得るような門であり道です。「狭い門、細い道」とは、みすぼらしく見栄えのしない、つまり誇りようがない門であり道です。主イエスは私たちに、そのような門から入り、そのような道を歩めと教えておられるのです。ところが私たちは、自分が歩んでいる道を誇りたくなる。人の歩んでいる道と自分の歩んでいる道を見比べて、こっちの方が良いのだと言いたくなるのです。けれどもそう思ったとたんに私たちは、「狭い門から入り、細い道を歩め」という主イエスの教えを捨ててしまっているのです。主イエスが求めておられるのは、私たちの歩みが常に、自分の歩む信仰の道が狭く、細いものであることを意識して、自分の歩みを誇らないということです。私たちの入る門はあくまでも狭い門であり、私たちの歩く道はあくまでも細い道なのです。
山上の説教において
この狭さ、細さは具体的にはどういうことでしょうか。狭い門から入り、細い道を歩むとはどのようなことでしょうか。5章20節に、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とありました。狭い門から入り、細い道を歩むとは、この、律法学者、ファリサイ派の人々の義にまさる義に生きることです。それがどのようなことであるかが、5章21節以下に、様々な仕方で示されてきたのです。最初に語られていたのは、「殺すな」という律法の教えに対して、ただ人を殺さないというのではなくて、むしろ積極的に人を愛し、敵対する者との和解に努めなさいということでした。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。そしてそれらの教えは、5章43節以下の、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えへと集約していきます。そしてそこには、「あなたがたの天の父の子となるためである」とあります。神様が、「あなたがたの天の父」と呼ばれています。神様が、天の父として、私たちを恵み、養い、守り、導いていて下さる、その天の父の下で生きるところに、敵を愛し、迫害する者のためにも祈る歩みが与えられるのです。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。そして6章に入ると、偽善に対する警告が語られていきます。偽善とは、「見てもらおうとして、人の前で」何かをすることです。偽善者の思いは、常に人に向いています。人の評判、人からどう思われるかということを気にして生きているのです。主イエスはそれに対して、「あなたがたの天の父」の報いをこそ求めよと言われます。それは、心を天の父なる神様の方に向けて生きなさいということです。人の評判、人からどう思われるかということではなく、天の父なる神様の方を向いて歩むことによって、人に見てもらおうとする偽善から解放されます。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことです。6章19節以下には、「地上に富を積むのではなく、天に富を積め」という教えがあります。地上の富、それは私たちが何らかの意味で自分のものとして持っているもの、自分の力、自分の正しさです。そういう自分の中にあるものに寄り頼んで生きようとすることが、地上に富を積むことです。地上に富を積むとは自分の誇りに生きようとすることです。それに対して天に富を積むとは、天の父なる神様の恵みを信じ、神様に寄り頼んで生きることです。自分が何を持っているか、どんな立派ができるのか、ということではなくて、この自分を神様が天の父として養って下さり、導き、守って下さる、ということを信じ生きるのです。そして6章25節以下の「思い悩むな」という教えが生まれます。自分が何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むのは、自分が何を持っているかによって自分の人生が決まると思うからです。しかし主イエス言われます。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様が天の父として、子である私たちを愛して下さる。必要なものを必要な時に与えて下さる、その天の父の恵みを信じ、信頼して生きるところに「思い悩み」からの解放があります。このことこそ、狭い門から入り、細い道を歩むということです。また、7章7節以下には、「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」という約束の言葉がありました。それは、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」からです。天の父なる神様の恵みがあるから、私たちは、大胆に門をたたくことができるのです。命に通じる門を自分の力で開いて入っていくことは私たちにはできません。しかし天の父なる神様がその恵みによって門を開き、私たちを迎え入れて下さるのです。その恵みに信頼して、私たちは門をたたくのです。主イエスが山上の説教を通して教えられてきたことは、私たちの天の父となって下さった神様の下で、神様の守りと導きと養いを信じて、その子として生きることです。山上の説教の中心には、「主の祈り」があるのです。「天におられる私たちの父よ」と神様に呼びかけ祈りつつ生きること、それが天の父の子としての歩みです。狭い門から入り、細い道を歩むとは、主の祈りを祈りつつ生きていくことなのです。そして主の祈りを祈っていく中で私たちは、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈りつつ生きる者となるのです。それは、自分が神様の前に罪人であることを認め、悔い改めて、その赦しを神様に願い求めていくことです。
罪の赦しを願いつつ
先ほどお読みした詩編第51編は、罪の告白と悔い改めを語っている代表的な詩編です。主の祈りを祈りつつ、この詩編51編の詩人と共に自分の罪の赦しを神様に祈り願いつつ歩むこと、それが狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。そしてこのことと分かち難く結びついているのが、自分に罪を犯す者を私たちが赦すということです。自分は赦さないけれども神様には赦してもらうということはできないのです。主の祈りを祈ることによって私たちはこのことに直面させられます。それは大変に困難なことであり、自分が一方的に苦しみを負い、損をしなければならないようなことです。けれどもそのことを、天の父なる神様に祈りつつ受け止めていくことによってこそ、あの「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という教えに生きることができるのです。それこそが、狭い門から入り、細い道を歩むことなのです。
主イエスが歩んで下さった道
私たちが歩む信仰の門は狭く、その道は細いのです。その狭さ細さとは、このように、自分の力や所有に寄り頼むことをせず、人からの評価を求めず、苦しみを負い、自分は損をして人を赦すという狭さであり細さです。それは、決して私たちの誇りにならない歩みです。そのような歩みは時に人々から、何とみじめな生き方かと軽蔑されるような歩みなのです。狭い門から入り、細い道を歩むとはそういうことなのだということを、私たちは忘れてはならないのです。そしてそれは、主イエス・キリストが、私たちのために歩んで下さった道なのです。主イエスは、私たちのために、狭い門から入り、細い道を歩み通して下さったのです。その行きつく先は、全ての人から見捨てられての、十字架の上での死でした。しかしこの主イエスの、みじめな、人々から軽蔑され捨てられる歩みこそが、復活の命に通じる道だったのです。このことによって、主イエスの父なる神様が、私たちの罪を赦して下さり、天の父となって下さり、私たちを神様の子として新しく生かして下さったのです。この主イエスの十字架の死にあずかって古い自分が死に、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きるのです。主イエス・キリストは私たちのために狭い門から入り、細い道を歩み通して下さいました。主イエスと共に、狭い門から入り、命に通じる細い道を歩んでいくのです。