「あなたの父母を敬え」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記第5章16節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第7章1-13節
・ 讃美歌:327、546
信仰における父母と肉における両親
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十戒を読んでいます。先月も、本日と同じ第五の戒め「あなたの父母を敬え」を読みました。先月は、この第五の戒めを、十戒の前半つまり「神に対してどのようにふるまうべきか」を語っている部分の最後に位置づけるか、後半つまり「隣人に対してどのような義務を負っているか」を語っている部分の最初に位置づけるか、という問題を中心にお話ししました。その位置づけによってこの戒めの意味が変わってくるのです。そして先月お話ししたのは、この戒めを、神に対するあり方を語っている前半に位置づけて読むことの大切さです。神の民であるイスラエルにおいて父母とは、神の言葉を子どもたちに教え、子どもたちが神の祝福を継承する者となるように育てる責任を負った者です。その父母を敬うことによって子どもたちは、親から伝えられた神の言葉を大切にし、神を敬う者として生きていくのです。つまりこの戒めは、単なる家庭の倫理ではなく、イスラエルの民が、神の言葉を世代から世代へと語り伝え、神の祝福を親から子へと受け継いでいく神の民として歩むために与えられている戒めなのです。ですからここでの「父母」を、血のつながりを越えた神の家族における父母として受け止めるという読み方が大切なのです。
しかしそのことを指摘した上で、先月の説教においても終りの方で、血のつながりにおける父母を敬うことについても語りました。この戒めが与えられた時のイスラエルの民においては、神の家族としての父母と、肉における両親とは重なっていました。今日の私たちにおいては、両者は必ずしも一致していません。肉における両親が同時に信仰における父母であるというのは恵まれたケースですが、両親は信仰における父母ではない、という場合の方がむしろ多いのです。ですから肉における両親との関係をどう考えるかは、私たちがこの戒めを受け止める上で非常に大事なことです。本日はそのことに焦点を当てて考えたいと思います。
親孝行の教え
今申しましたように、十戒を与えられたイスラエルの民においては、信仰における父母と肉の両親は一緒でした。「あなたの父母を敬え」において、「父母」はその両方を意味していたのです。ですから私たちはこの戒めを、信仰における父母と肉の両親の両方を敬うことを教えているものとして読まなければなりません。肉の両親を敬うことだけを考えてこれを単なる「親孝行の教え」としてだけ読んでもいけないし、信仰の父母を敬うことだけを考えて肉の両親はどうでもよい、というのも間違っています。私たちは、信仰における父母も、肉における両親も、共に敬わなければなりません。そういう意味でこの戒めは確かに「親孝行の教え」でもあるのです。
しかしそこで大事なことは、この「親孝行の教え」が一般的な道徳として教えられているのではない、ということです。十戒は主なる神のみ言葉です。父母を敬えと命じておられるのは主なる神なのです。だからこの戒めを世間の一般的な道徳律と同じに考えてはなりません。世間の道徳が教える親孝行の根拠は、生んでくれた恩があるから、自分が生きているのは親あってのことだから、ということでしょう。しかし十戒が教えているのは、父母を敬うことは神の命令であり、それが神のみ心に適うことだからなのです。この違いは大きいと言わなければなりません。生んで育ててくれた恩に報いるために敬う、ということなら、その恩の感じ方は人によって違うわけで、中には、自分は親に恩など少しも感じない、生んでくれと頼んだ覚えはないし、こんな親の下に生まれたことは不幸だったと思っている、という人もいるでしょう。罪に満ちている私たちにおいては、親と子の関係もともすればそのようになってしまうのです。そうなると、親孝行の教えは納得できない重荷としか感じられないのです。しかし十戒においては、私たちが父母を敬うのは、父母に恩があるからではありません。私たちが恩を感じるかどうかという私たちの側の理由によってではなくて、それは神が命じておられることなのです。神は、たとえそれがどうしようもない、親として失格な、何の恩も感じない、むしろ迷惑にしか思わないような親であったとしても、その親を敬うことを求めておられるのです。
父母を敬うことは神を敬うこと
神はどうしてそのように無条件に父母を敬えとお命じになるのでしょうか。それは、父母を敬うことによって私たちが神を敬うことを学ぶためです。父母を敬うことと神を敬うことは一つなのです。先月はそのことを、父母が神の言葉を、信仰を伝えてくれるからだ、と申しました。イスラエルの民においてはそうでした。私たちにおいては必ずしもそうではないと先程も申しました。しかしその私たちにおいてもやはり、父母を敬うことと神を敬うことは一つなのです。どうしてそう言えるのでしょうか。
私たちに肉における父母がいる。そのことは、私たちの命と人生が、自分で造り出し獲得したものではなくて、与えられたもの、生み出されたものであることを意味しています。私たちは父と母から生まれたのです。父母によって生み出されずに生きている人は一人もいません。「生んでくれと頼んだ覚えはない」というのは裏を返せば、自分の意志で生まれてきたのではない、ということです。そのように私たちの命、人生は、自分の意志や力によって存在しているのではなくて、父母によって生み出され、与えられたものなのです。だから両親に感謝しなければならない、という話ではありません。私たちが生んでくれと頼んだのではないのと同様に、両親も、こういう私たちを生もうと思って生んだわけではないのです。どのような子供が生れてくるかは親にも分からないことであり、自分で何も決めることはできません。そこに見えてくるのは、私たちが父と母からこの世に生まれて来たことは、私たちの意志によることでも、親の意志によることでもなくて、神のご意志によることだ、ということです。私たちを造り、命と人生を与えて下さったのは主なる神なのです。私たちの産みの親は、その神のみ心とみ業のために用いられた人々なのです。その両親を敬えと主は私たちにお命じになりました。それは私たちに、自分の命は両親によって生み出され与えられたものであることを見つめさせるためであり、そのことを通して、その両親を用いて私たちに命を、人生を与えて下さったまことの造り主なる神を見つめさせ、神を敬うことを学ばせるためなのです。自分を生んだ両親を見つめることを通して私たちは命のまことの造り主である神を見つめていくのです。父母を敬うことと神を敬うことが一つであるのはそのためです。ですから私たちは、生んでくれたから父母を敬うのではなくて、自分に命を与え、生かして下さっている神を敬い、そのみ心に感謝し従うからこそ父母を敬うのです。本当の意味で父母を敬う生き方、つまり親と子の祝福された良い関係はそこにこそ生まれるのではないでしょうか。
親子関係、世代間関係の現実
先程も申しましたように、私たち罪ある人間の親子関係においては、親が子を愛し、子がその愛に報いて親を敬うということは決して当然自明のことではありません。親の子どもへの愛はしばしば罪によってねじ曲げられ、自分では子どもを愛しているつもりでも実は自分の願望を子どもに押しつけようとしていたり、子どものためと言いつつ実は自分のプライドを守ろうとしているだけだったりもします。子どもの方も、親は自分のことを思っていると口では言っているが、本当に気にしているのは自分の対面、世間体でしかない、ということを敏感に感じ取って反発するのです。親も子も同じように罪人である私たちの現実においては、「父母を敬え」という道徳律をいくら語っても本当に良い親子関係は生まれないのです。
またこのことは、一つの家族の中での親子関係に留まらず、世代と世代との関係の問題でもあります。いわゆる世代間ギャップが今日非常に大きくなっており、前の世代の人々の生き方や考え方が次の世界の人々に継承されず、次の世代の人々が前の世代の人々に敬意を払いその言葉に耳を傾けることが少なくなっています。教会においてもそういうことが起っており、それが信仰の継承を難しくしていると言えます。親と子の関係は、世代と世代の関係でもあるのです。そこにおいても、若者は年長者の言うことを尊重せよ、などという道徳律を語っているだけでは何も解決しません。道徳律によっては、親と子の、世代と世代の良い関係は生まれないのです。
年老いた親との関係
この第五の戒めについてはさらにもう一つ見つめておかなければならないことがあります。これまで語ってきたことは、親とその下にいる子ども、社会の中心として活躍している年長者と若者たち、という図式の中での事柄ですが、この「父母を敬え」という戒めにおいて見つめられているのはむしろ、成人して今や社会の中心となって生きている人々と、年老いた両親との関係なのです。つまり「あなたの父母を敬え」は、年を取った両親を祖末にせず、しっかりと守り支えなさいということです。親に養われ、育てられている子どもに、親を敬い従いなさいと教えているのではなくて、大人になり、親から独立して自分の生活を営んでいる者たちに、年老いて肉体的にも社会的にも弱い者となっている父母を敬い大切にしなさいと教えているのです。それは今日の私たちの「超高齢化社会」の切実な課題です。そしてこの問題はもはや家族の中だけで解決できることではなくて、前の世代の人々を、次の世代の人々がどう支えていくかという社会全体の問題となっているのです。そういう意味でこの第五の戒めは、今日の社会の問題を考えていく上で鍵となる教えであるとも言えるのです。
神を敬うことと父母を敬うこと
本日共に読まれた新約聖書の箇所、マルコによる福音書の第7章において主イエスはそのことについて語っておられます。その10~12節にこのように語られています。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」。これは明らかに、成人した子どもたちが、年老いた父母を支え養っているという前提におけることです。ファリサイ派の人々は、本来父母を支えるために用いるべきものでも、これは神への供え物だと言うことによって、子どもは父母への義務を免れると教えていたのです。主イエスはそのような人々を、6節にあるように「偽善者」と呼んで厳しく批判なさいました。神への供え物をするという信仰の事柄を、親をちゃんと支えないことの口実にすることは偽善だ、と言っておられるのです。偽善というのは、神を信じ敬うふりをしながら、実は自分のこと、自分の願いや欲望を満たすことしか考えていない、ということです。つまり主イエスはここで、親の世話をしないことを一般的な道徳律に反することとしてではなく、信仰における間違い、神のみ心に反する罪として批判しておられるのです。しかし主イエスは、神に供え物をする礼拝よりも親の面倒を見ることの方が大事だ、信仰より親孝行が優先だ、と言っておられるのではありません。主イエスは他の所では、「私に従って来る者には親も兄弟も捨てる覚悟が必要だ」ということも言っておられます。神との関係つまり信仰よりも親兄弟との関係の方を大切にしてしまっていては、主イエスに従う信仰に生きることはできないのです。しかしその信仰が、父母を敬うことをないがしろにすることの口実となってはならない、と主イエスは言っておられます。神を信じ、神との関係を大切にすることと、父母を敬い、父母との関係を大切にすることは一つなのであって、両方が共になされていかなければならないのです。
「敬う」とは
このことは、最初に申しましたように、肉における両親と信仰における父母とが必ずしも一致しない私たちの現実においては、時として大きな葛藤を生みます。私たちは、信仰のゆえに、神を信じ従うことのゆえに、親の意に反して生きなければならないようなこともあるのです。しかしそのような時にも、信仰を理由に父母を敬うことをやめてはならないというのが第五の戒めの、そして主イエスの教えです。そんなことができるのか、と思うかもしれません。親の意に反して生きつつ、なお親を敬うことなどあり得るのか。それは大変難しいことではありますが、しかし私たちは真剣にそのことを追い求めていかなければなりません。そこにおいて大切なのは、「敬う」ということの意味です。敬うとは、何でも相手の言う通りに従うことではありません。そこが、日本的なつまり儒教的な道徳における「父母ニ孝ニ」という教えとの違いです。「父母ニ孝ニ」という教えは、親の言うことには批判や反論をせずに絶対服従せよ、という意味を強く持っています。ですから戦前の日本においてこの教えは、「君ニ忠ニ」つまり君主である天皇に忠誠を尽せという教えとセットになっており、いわゆる「忠孝の道」として、天皇を神聖にして侵すべからざる絶対的権威として批判を許さない社会を築くために用いられていったのです。しかし十戒における「父母を敬え」という教えはそれとは違います。父母を敬うことは、天地を造り支配しておられ、自分たちをエジプトの奴隷状態から解放し救い出して下さったまことの神である主のみを神として信じ、礼拝し、従うことの中に位置づけられているのです。この神を信じ礼拝し従って生きることの中で、私たちは父母を敬うのです。その敬うというのは、相手を尊重し、誠実に受けとめ、軽々しく評価せず、軽蔑しない、という意味です。つまり親を敬うとは、決して親の言うなりになることではなくて、子どもが、親とは違う自分の意見、あるいは信仰をはっきりと持ち、そのために親を批判せざるを得ない、親の思いに反して歩まなければならない、親を乗り越えていかなければならないことがあるけれども、しかしそこにおいて親の思いや主張を無視せずに聞き、それを誠実に受け止め、それとしっかり対話するということです。親を軽々しく批判したり軽蔑することなしに、誠実に対話することこそが敬うことです。誠実に対話をしないで聞き流し無視するのは相手を敬っていることにはなりません。忍耐をもって誠実に対話し続けることによってこそ、本当の意味で「父母を敬う」ことが実現するのです。
忍耐をもって誠実に対話する関係
そしてそのような対話は、片方からのみで成り立つものではありません。子どもの方が父母を敬って誠実に対話していくと同時に、父母の方も子どもとしっかりと対話していかなければなりません。つまり父母の方も子どもを敬うことが必要なのです。親子の関係が本当に祝福されたものとなるためには、そのようにお互いが相手を敬い、忍耐をもって対話していくことが何よりも大切でしょう。それは年老いた父母との関係においても同じです。つまり、ただ親の生活の面倒を見ればよいのではなくて、相手を人間として敬い、しっかり対話し、関係を築いていくことこそが、今のこの高齢化社会において最も大切な課題なのです。それは世代間のコミュニケーションにおいても言えることです。前の世代の者たちが、権威を振りかざして、経験に基づく我々の意見を聞けと主張し、逆に次の世代の者たちが、そんなのはもう古い、今どきそんなことは通用しない、と前の世代の者たちを馬鹿にして相手にしない、という対立からは何も生まれてきません。そこで大切なことは、お互いが相手を敬い、忍耐をもって誠実に対話していくことなのです。
キリストによって開かれた対話の関係
このように、お互いが相手を敬い、忍耐をもって誠実に対話していくことこそ、「あなたの父母を敬え」という第五の戒めによって主なる神が私たちに命じておられることです。そしてそれは、主イエス・キリストがその救いの恵みによって私たちに与えて下さっている生き方であると言うこともできます。父なる神が独り子主イエスを私たちの救い主としてこの世に遣わして下さったのは、神が大いなる忍耐をもって罪人である私たちを赦し、私たちとの誠実な対話の関係を築いて下さるためでした。私たちは主イエスの十字架による罪の赦しによって神の子とされ、神に「天の父よ」と語りかけ、神との誠実な対話の関係を持って生きる者とされているのです。神が主イエスによって私たちとの間に開き与えて下さったこの対話の関係に生きることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは、自分の隣人との間にも誠実な対話の関係を築いていくことへと促され、遣わされるのです。父と母は私たちの最初の隣人です。私たちに命を与え、人生を与えて下さった主なる神が、父と母をそのみ心によって用いて下さって、私たちをこの世に生まれさせて下さったのです。私たちは父母という隣人を通して、自分を愛し、生かして下さっている神の恵みを受けているのです。その父と母にも、また私たち自身にも罪があるために、いろいろな問題が生じ、関係がうまくいかなくなり、お互いに傷つけ合ってしまうようなことが多々あります。しかしそれらの罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは神による罪の赦しの恵みを与えられているのです。その赦しの恵みの中で、私たちは父母との、あるいは子どもたちとの関係を新たに築いていくことができます。相手を敬い、尊重し、忍耐をもって誠実に対話していくことができるのです。そのことによって、私たちの親子関係、世代間の関係は、神の祝福の内に置かれていくのです。