夕礼拝

熱情の神

「熱情の神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章8-10節
・ 新約聖書:ヤコブの手紙第4章1-10節 
・ 讃美歌:136、457

何故神の像を造ってはならないのか
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十戒を読んでいるところです。本日は8?10節に語られている第二の戒めを読むわけですが、今月の12日、つまり三週間前の夕礼拝においても同じ箇所を読みました。その時に語ったことをも振り返りながら、本日はさらにこのみ言葉に深く聞いていきたいと思います。この第二の戒めは、神の像を造ってそれを拝んではならない、という教えです。人間が造った像、いわゆる偶像を神として拝んだり、それに願いをかけたり救いを求めてはならない、と主なる神は私たちにお命じになっているのです。何故、神の像を造ってはならないのでしょうか。それは第一には、この天地の全てをお造りになった主なる神は、人間が、木や石や金属で目に見える形に表すことができる方ではないからです。神の像を造ることは、全てのものの造り主であられる神を、造られたもの、被造物の中に閉じ込めてしまうことであり、神の栄光を汚すことなのです。私たちは神を、この世界の目に見るものの全てを越えた方として、それらの中にいるのではなく、それらを支配しておられる方として信じ、礼拝しなければなりません。私たちが神をこの目で見ることができないのは、世界のいろいろなものの中に神がおられるのだけれども、人間の目の見る力には限りがあるので見えない、ということではありません。まことの神はこの世界の全てのものを越えた方であられるので、人間の感覚をどんなに研ぎすませても、あるいはどんなに精度の高いセンサーを作っても、それによって把えてしまうことはできないのです。それゆえに、神を目に見える像にすることはできないのです。

自分のための神
 しかし人間は、洋の東西を問わず、常に目に見える神の像を造ってきました。何故そのようなことをするのでしょうか。その理由は、以前の口語訳聖書においてこの戒めを読むことによって見えてきます。現在の新共同訳では「あなたはいかなる像も造ってはならない」ですが、口語訳ではここは、「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」となっていました。「自分のために」という言葉が原文にはあるのです。新共同訳においてそれが訳されていないことは残念です。神を目に見える像に刻もうとする人間の思いの根本にあるのはこの「自分のため」ということです。つまり「自分のため」の神を確保したい、ということです。自分も含めたこの世界の全てを造り支配しておられる神を崇め、礼拝し、従うのではなくて、自分のためにいろいろなご利益を与え、便宜をはかってくれる神を求める思いを、人間誰しもが持っているのです。その求めに応えてくれるのは、目に見える姿を持ち、ある所に安置されていて、その前で手を合わせ、助けを求め、願いごとをすることができる神です。偶像は、私たちがそのように神を「自分のための神」として所有し、利用しようとする所に生れるのです。ですからそれは、実際に目に見える像を造って拝んでいるかどうかというだけの問題ではありません。私たち指路教会のように、何の像も飾りもない、十字架さえもない礼拝堂で礼拝していれば偶像礼拝はあり得ない、とは言えないのです。主なる神様を目に見えない方として礼拝していたとしても、その神様に自分の願いや望みをかなえてくれることのみを求め、神が自分のニーズに応えてくれるかどうか、ということばかりを考えているならば、その礼拝は偶像礼拝と変りません。そこにおける私たちの願いや望みは、例えば家内安全商売繁盛というような、あるいは志望校に合格できますようにというようなあからさまな欲望ではないかもしれません。しかしたとえそれがもっと精神的な、心の平安を与えて下さいというようなことであっても、自分の願いのために神を利用しようとしているという点では同じです。この第二の戒めは、目に見える偶像を置いていない私たちもしっかりと聞かなければならないみ言葉なのです。

具体的な神
 このようにこの戒めは、主なる神様が、人間のための神、人間に利用されるような神であることを断固拒否しておられる、ということを教えているのですが、しかしそれは、私たちが、自分の具体的な生活において神の恵みや平安を求めてはいけない、ということではありません。前回の12日の礼拝の説教の題は「具体的な神」でした。そこでお話ししたのは、この第二の戒めは、実は、神様が私たちにとって本当に具体的な方となって下さるために与えられているのだ、ということでした。目に見えない神を見える像に刻んではならないというこの戒めは、神は抽象的な方であって、この世を生きる私たちの具体的な生活とは関わりがないと言っているのではないのです。言い換えれば、神は私たちの具体的な生活に恵みと平安を与えることに無関心であられるのではなくて、むしろその恵みを確かに与えようとしておられるのです。神がこの世界を造り、私たち人間を造ってそこに住まわせて下さったのは、私たちに恵みを具体的に与えようというみ心によってです。その神の具体的な恵みを本当に受けるために、私たちは神を自分のための神として利用することをやめなければならないのです。自分の思いや願いを叶えるために神を利用するというのは、神とその働きを、自分の思いや願いの中に閉じ込めてしまうことです。それは神をまことにちっぽけな器の中に封じ込めてしまうことになります。私たちが考え、願い求めていることは、天地の造り主であられる神の目から見れば、まことにちっぽけな、またほんの一時のことだと言わなければならないでしょう。神をそういうちっぽけな、一時の事柄の中に閉じ込めてしまうのは、例えて言えば、海の水を一杯のお椀に汲んで、これで自分は海を手に入れたと言うようなものです。神が私たちに与えようとしておられる具体的な恵みの海は、一杯のお椀で汲み尽くせるようなものではないのです。その恵みに本当にあずかるために私たちは、自分の器に神を押し込めようとすることをやめて、神が与えて下さる恵みに身を委ねなければなりません。偶像は、言ってみれば、人間が神をある形に押し込めようとしている器です。偶像を造ってはならないというのは、神を人間の思いや願いの中に閉じ込めてしまうことをやめて、目に見えない、天地の造り主なる神様の自由な恵みによる導きに身を委ねなさい、ということなのです。そうすることによってこそ、神がその自由なみ心によって与えて下さる恵みを本当に具体的にいただくことができるのです。

主イエス・キリストにおいて
 神の具体的な恵みは今私たちに、み子イエス・キリストにおいて与えられています。主イエスが人間となってこの世に来て下さったのは、神が私たちと本当に具体的に関わって下さったということです。神の独り子イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのは、私たちが日々具体的に犯している罪を、主イエスが具体的に背負って下さったということです。主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちの様々な具体的な苦しみ、中でも最も具体的であり絶望をもたらす死の苦しみと恐れとを、主イエスが具体的に担って下さったということです。そして主イエスの肉体における復活は、神様の恵みが死の力に勝利したという具体的な出来事です。天地の造り主であられる神は、このように独り子イエス・キリストによって私たちと具体的に関わり、具体的に愛し、救いを与えて下さったのです。目に見える偶像の中のいったいどれが、そのように具体的に私たちの罪と苦しみを背負い、新しい命を与えてくれるでしょうか。神を形ある像に刻み、自分のために利用しようという思いを捨てて、主イエス・キリストによって神が与えて下さった恵みに身を委ねることによってこそ、私たちは、本当に確かな、具体的な、恵み、平安、支えを与えられるのです。

ねたむ神
 12日の礼拝においてお話ししたことの振り返りが長くなってしまいましたが、本日同じ箇所からさらに見つめていきたいことは、9節の後半の、「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」というところです。「熱情の神」という言葉を本日は特に味わいたいのです。ここは口語訳聖書では「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから」となっていました。「ねたむ」が新共同訳では「熱情の」となったのです。この二つの訳は、どちらの方が良いと決めることはできません。「ねたむ」はまさに直訳です。原文に用いられているのはまさに、ねたむ、嫉妬する、という言葉なのです。聖書の中でどういう箇所にこの言葉が遣われているかと見てみると、例えば創世記には、アブラハムの孫であるヤコブにラケルとレアという二人の妻がいましたが、レアには次々に子供が生まれるのに自分には生まれないのでラケルがレアをねたんだ、と語られています。あるいはそのヤコブの息子たちの中で、ヨセフが両親に特別に可愛がられ、両親や兄たちが自分の前でひれ伏すという夢を見たりしたために兄たちがヨセフをねたんだ、とも語られています。そのようにこの言葉は、人が自分よりも恵まれていると感じる時に起るどす黒いねたみの思いを表す言葉なのです。そのねたみによって人はしばしば恐ろしい罪を犯します。ヨセフも兄たちのねたみによってエジプトに奴隷として売られてしまったのです。そういう言葉を用いて、神は「わたしはねたむ神だ」と言っておられるのです。これはつまずきに満ちたことです。私たちがもしも誰かに、あなたの信じている神様はどんな神様ですか、と問われたらどう答えるでしょうか。「愛の神様です」とか、「恵みの神様です」とか、あるいは「正義と愛の神様です」などと答えるでしょうが、「ねたむ神様です」とは言わないでしょう。ねたむなどということは神様に相応しくないと私たちは思うからです。しかしここでは神様ご自身が「わたしはねたむ神だ」と言っておられます。それはどういうことなのでしょうか。

熱情の神
 「ねたむ」というのは余りにも人間的な思いを表す言葉でつまずきがあり、抵抗があるので、新共同訳では「熱情の」と訳したのでしょう。しかしそれは決して「ねたむ」という言葉を隠すためのごまかしではありません。「ねたむ」と訳されているこの言葉は、また別の意味合いをも持っているのです。例えば、エゼキエル書39章25節にこのようにあります。「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ」。この「熱い思いをもって」というのが「ねたむ」と同じ言葉です。ここは、主なる神が熱い思いをもってイスラエルを憐れんで下さり、その罪を赦して、捕え移された地から故郷に帰らせて下さることを語っています。またヨエル書2章18節にはこのようにあります。「そのとき、主は御自分の国を強く愛し、その民を深く憐れまれた」。この「強く愛し」も「ねたむ」と同じ言葉です。またゼカリヤ書1章14節にはこうあります。「わたしに語りかけた御使いはわたしに言った。『呼びかけて言え、万軍の主はこう言われる。わたしはエルサレムとシオンに激しい情熱を傾け』」。「激しい情熱を傾け」が同じ言葉です。これらの箇所から分かることは、この言葉が、熱い思いをもって強く愛する、激しい情熱を傾けるという、まさに「熱情」という意味を持っていることです。ねたむ神というのは、このような熱情をもって、熱い思いで、激しい情熱を傾けて、ご自分の民を愛する神、ということなのです。それは言い方を換えれば、神がご自分の民を愛するその愛は極めて具体的だということです。神の愛は「人類愛」などという抽象的なものではありません。「人類愛」などということは人殺しをしながらでも説けます。抽象的、一般的に人を愛することは簡単ですが、目の前にいる具体的な一人の人を愛することはなかなか難しいということを私たちはいつも体験しているのではないでしょうか。具体的な一人の人、例えば家族、同僚、教会の兄弟姉妹を愛することができずに、受け入れることができずに私たちは苦しむのです。そういう現実の中で、「人を愛することが大切」という言葉は空回りし、まことに抽象的なことになってしまうのです。しかし神の私たちに対する愛はそういうものではありません。神は私たちを、具体的に、徹底的に、激しい情熱を傾けて、熱情をもって愛して下さっているのです。独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、しかも十字架の死にまで至らせて下さったことが、その具体的な愛の現れです。その神の具体的な、熱情を込めた愛に、私たちがきちんと応えることを、神は求めておられるのです。私たちが、この神の愛を無視して、シカトして、他所を向き、神が注いでおられる愛を受け止めることなく、自分の思いや願いを叶えることばかりに目を向け、自分のための神を造り出していくなら、神はそのことでねたみ、お怒りになるのです。ゼカリヤ書の8章2節には、「ねたむ」という言葉がこのように用いられています。「万軍の主はこう言われる。わたしはシオンに激しい熱情を注ぐ。激しい憤りをもって熱情を注ぐ」。この「熱情を注ぐ」が「ねたむ」という言葉です。神はご自分の民に対して、激しい熱情を注いで愛しておられる、その熱情は民の罪に対する激しい憤りをも生むのです。「人類愛」などという抽象的なものからは、このようなねたみ、憤りは生まれて来ません。しかし主なる神の愛は、独り子イエス・キリストの命を与えて下さるほどに具体的であり、熱情を込めたものです。だからこそ、この神の愛に応えることをせず、つまり神と本当に向き合おうとせず、自分の思いや願いのことばかりを考えているならば、神はねたみ、お怒りになるのです。

ねたむほどに愛する
 本日共に読まれる新約聖書の箇所として、ヤコブの手紙第4章1?10節を選びました。ここにも「ねたむ」という言葉が、しかも神がねたむ、という表現があります。5節から6節にかけてです。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。』」。括弧に入れられている言葉は、「聖書に次のように書かれている」とあるように、旧約聖書からの引用とされているわけですが、直接これに当たる言葉は旧約の中に見当りません。しかし、先程から読んできたいくつかの箇所において、神がご自分の民を激しい情熱をもって愛しておられ、それゆえにこそ、その愛に応えない者に対してねたみ、憤ると語られていたことが、この言葉の元になっていると言えるでしょう。ねたむ神とは、このヤコブの手紙が語っているように、私たちをねたむ程に深く愛しておられる神、ということなのです。ここでの「愛しておられ」という言葉は「恋こがれる」「慕い求める」と訳すこともできます。神が私たちを、まるで恋人を恋こがれ、慕い求めるように、情熱を傾けて愛して下さっているのです。宗教改革者カルヴァンはこの神のねたみを夫婦の愛になぞらえて説明しています。『ジュネーヴ教会信仰問答』の問152において、この第二の戒めをめぐって、「『妬み』という言葉はどんな意味ですか」という問いを設定し、それにこのように答えているのです。「御自身と同等の者、あるいは同輩となる者を忍び得たまわないという意味です。すなわち、神は私たちに無限の慈しみを与えたもうたように、私たちも完全に彼のものとなることを欲しておられます。そして、彼に捧げ切り、彼に全く固着することが私たちの魂にとっての貞潔であり、それに反して彼からそれて迷信に曲がって行くのは、いわば姦淫によって身を汚すようなものであると言われるのです」。神は主イエス・キリストの十字架の死において、私たちに無限の慈しみを与えて下さったのです。その慈しみによって罪を赦され、神の民とされた私たちは、その愛に応えて、私たちも熱情をもって具体的に神を愛し、神に身を捧げ、主イエス・キリストに固着して生きる、それこそが私たちの魂の貞潔であり、その愛をないがしろにして、主なる神とは別の目に見える像を造り、自分のための神を別に持とうとするのは姦淫を犯すことであり、それに対して神はねたみ、憤られるのです。
 私たちは、神が「ねたむ神」であられることをもっと意識するべきでしょう。これは決して神に相応しくないことではないのです。神は私たち一人一人を、具体的に、熱情をもって、ねたむほどに愛して下さっているのです。人間臭いと言えばまことに人間臭い話です。まさに神は、主イエス・キリストにおいて一人の人間となって、具体的にこの世を歩み、私たちに、具体的な、人間臭い恵みを与えて下さいました。この人間臭い救いの恵みにあずかる時に、私たちにとって神は、自分が造り出した抽象的な存在ではなくなり、本当に具体的に日々の歩みを支え、導いて下さる具体的な方となるのです。

幾千代にも及ぶ慈しみ
 私たちの信仰とは、この神の具体的な熱情を込めた愛に具体的にお応えして、私たちも神を愛していくことです。私たちの神への愛は、抽象的なことに留まってしまっていることが多いのではないでしょうか。「わたしはねたむ神である、熱情の神である」と語るこの第二の戒めは、そのような私たちを、神への真実な、熱情を込めた愛へと目覚めさせるのです。具体的には、主イエス・キリストの父である神以外のいかなるものをも神としない、それらにひれ伏さない、仕えない、頼らないということです。自分のための、自分のニーズに奉仕する神を求める思いを捨て去るということでもあります。そのためには、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」という神のねたみ、憤りを恐れる思いを養われることが必要です。しかしそれは、神の憤りにいつもビクビクしながら萎縮して生きることではありません。神は「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言っておられます。私たちはこの神の約束を信じて、主イエス・キリストによって救いを与えて下さった神を愛し、その神としっかりと向き合いつつ生きるのです。神の怒りは三代、四代ですが、その慈しみは幾千代です。主イエス・キリストの十字架の死によって罪人である私たちを赦し、神の子として新しく生かして下さる神の慈しみは、私たちの罪に対する怒りとは比べものにならないくらい大きいのです。その慈しみの中で生きるために私たちは、自分のための目に見える神を求めるのではなく、主イエス・キリストの父であられる神のみを礼拝しつ

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