主日礼拝

主なるイエス

2026年8月16日 
説教題「主なるイエス」

詩編 第110編1~7節
マタイによる福音書 第22章41~46節

論争に勝利した主イエス
 今日の礼拝では、マタイによる福音書第22章の終わりのところを読みます。主イエスはここで、ファリサイ派の人々にあることを問いかけ、彼らと議論をしておられます。そのやりとりの最後の46節には、「これには誰一人、言葉を返すことができず、その日からは、もはや、あえて質問する者はなかった」とあります。律法の専門家であり、ユダヤ人たちの宗教的指導者であったファリサイ派の人々との議論において、主イエスは、誰も言い返すことができない完全な勝利を収めたのです。

メシアは誰の子か
 主イエスが彼らに問うたのは、「あなたがたはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」ということでした。メシアとはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味で、もともとは神によって油を注がれて、王や預言者などの特別な務めに任命された人のことでしたが、次第にそれが、神が遣わして下さる救い主を意味する言葉となりました。当時の人々はそのメシア、救い主の出現を待ち望んでいたのです。ヘブライ語の「メシア」がギリシア語に訳されたのが「クリストス」つまりキリストという言葉です。新約聖書はギリシア語で書かれていますから、ここの原文も「クリストス」です。以前の口語訳聖書はそれを生かして、42節の主イエスの問いを「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」と訳していました。つまりメシアとはキリストのことです。主イエスは、「あなたがたはキリストは誰の子だと思うのか」と彼らに問いかけたのです。

メシアはダビデの子
 「キリストは誰の子か」と問われたら、私たちはどう答えるでしょうか。「キリストとは主イエスのことで、主イエスはマリアが聖霊によってみごもって生んだ子だと聖書にあるから、キリストはマリアの子かな。あるいは聖書には、キリストは神の独り子だとあるから、キリストは神の子だ、と答えることもできるかな」などといろいろ考えてしまいます。しかし当時のユダヤ人においては、この問いの答えは明確であり、誰でも知っていることでした。「メシア、即ちキリストはダビデの子である」これがその答えです。旧約聖書の信仰に生きる人々にとってはそれが常識だったのです。そのことは、主なる神がダビデ王に、「あなたの子孫として、イスラエルを救うまことの王を立てる」と約束して下さったことに基づいています。「子」とは「子孫」という意味です。ダビデの血を引く子孫に、救い主メシアが誕生する、その「ダビデの子」であるメシアを人々は待ち望んでいたのです。そしてこのことは同時に、本物のメシアを見分けるための目印でもありました。本物のメシア、救い主は、ダビデの子、ダビデの子孫である、マタイ福音書も、新約聖書全体も、このことを前提としています。マタイ福音書の冒頭には、主イエスの系図が長々と語られていますが、それは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」です。つまりあの系図は、主イエスが「ダビデの子」であることを示しているのです。また20章29節以下には、二人の盲人が主イエスに向って大声で、「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫んだと語られていました。彼らは、主イエスこそダビデの子であるメシアだ、という信仰を言い表したのです。そして21章には、エルサレムに入られた主イエスを、人々が「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んで喜び迎えたことが語られていました。主イエスはダビデの子であるメシア、救い主である、ということをこの福音書は繰り返し語っており、それが新約聖書全体の前提となっているのです。ですから、主イエスの問いに対してファリサイ派の人々が「ダビデの子です」と答えたのは、正解であり、当然のことだったのです。

メシアはダビデの子か
 ところが主イエスはさらに問いを重ねていかれました。「では、どうしてダビデが、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのか。『主は、私の主に言われた。「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。ダビデ自身が、メシアを主と呼んでいるではないか、と主イエスは言っておられます。主イエスがここに引用しておられるのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編110編の最初のところです。この詩は「ダビデの詩」と言い伝えられていますから、これを歌っているのはダビデ自身であると考えられています。そのダビデが「私の主」と呼んでいる人がいます。主なる神はその人に「私の右に座れ/私があなたの敵をあなたの足台とするときまで」と語りかけておられます。主なる神からこのように語りかけられている「あなた」こそ、来るべきメシア、救い主です。ダビデはそのメシアを「私の主」と呼んでおり、「私の子」とは言っていません。「このように、ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」と主イエスは問うておられるのです。

メシア、救い主に対する基本的な姿勢
 この問いによって主イエスは何を語ろうとしておられるのでしょうか。ダビデが「主」と呼んでいるのだから、メシアはダビデの子ではない、ということでしょうか。しかし先ほど申しましたように、メシアがダビデの子であることはこの福音書のみならず新約聖書全体の前提なのです。それを否定したら、あの系図も無意味になってしまいます。それでは主イエスは何故こんなことを言ったのでしょうか。ファリサイ派の人々の揚げ足とリをして楽しんでいるわけではありません。ここで主イエスは、彼らの、メシア、救い主に対する基本的な姿勢を問題にしておられるのです。

主イエスの権威をめぐる論争
 そのことは、これまでの所に語られてきた、ファリサイ派の人々と主イエスの論争の経緯を振り返って見ることによって分かります。主イエスとファリサイ派のこの論争、対立は、21章23節から始まっています。そこに、祭司長たちや民の長老たちが主イエスを詰問したと語られています。45節ではその人たちのことが「祭司長たちとファリサイ派の人々」と言われていますから、祭司長、民の長老、ファリサイ派は一体であると考えてよいでしょう。ユダヤ人の宗教的指導者である彼らが揃って主イエスに問うたのは、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」ということでした。「このようなこと」とは、直接にはその前の12節以下に語られている、主イエスが神殿の境内で売り買いをしていた人々を追い出したことです。しかし15節には、神殿の境内で子供たちが主イエスを、「ダビデの子にホサナ」とほめたたえているのを聞いて彼らが腹を立てたことも語られていました。それは先ほど見たように、エルサレムに来られた主イエスを人々が喜び迎えた時の叫びです。つまり主イエスは、ダビデの子であるメシアとして人々の歓呼の声に迎えられてダビデの町エルサレムに入り、神殿を金儲けの場にしていた人々を追い出し、子どもたちから「ダビデの子にホサナ」とほめたたえられたのです。祭司長、長老、ファリサイ派の人々は、これらのことに腹を立てて、「何の権威でこのようなことをするのか、誰がその権威を与えたのか」と厳しく問うたのです。それは、「おまえにダビデの子、メシアとしての権威などない。そんな権威は認めない」ということです。彼らとの論争、対立はこのように最初から、主イエスの、ダビデの子、メシアとしての権威をめぐる対立だったのです。

三つのたとえ話
 主イエスは彼らのこの問いにはっきりとお答えになってはいません。このやりとりは、27節の主イエスの言葉「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」によって終わっています。しかしそれに続いて主イエスがお語りになった三つのたとえ話は、明らかにこのことを意識しています。21章28節以下には「二人の息子のたとえ」があります。父の求めに「いやです」と答えたが後で考え直してその通りにした息子と、「承知しました」とよい返事をしながら結局実行しなかった息子が対比されているのです。父の、つまり神さまの権威を受け入れ、それに従ったのはどちらの息子だろうか、という話です。また33節以下には、「ぶどう園と農夫のたとえ」が語られています。主人が造り、整えたぶどう園を貸し与えられながら、それを私物化し、主人の取り分を渡そうとしない、そして主人が遣わした息子をすら殺してしまう悪い農夫たちの話です。彼らは、自分たちが働いているぶどう園が主人のものであることを思わず、主人の権威もその息子の権威も認めず、受け入れようとしないのです。その話の後の45節には、祭司長たちとファリサイ派の人々がこの話を聞いて、イエスが自分たちのことを言っていると気づいて激怒したとあります。彼らは、この農夫たちの話によって、主イエスの権威を受け入れようとしない自分たちが批判されていると気づいたのです。そして22章1節以下には「婚礼の祝宴のたとえ」が語られています。王によって王子の婚宴に招かれていたのに、その招きに応えようとせず、自分の用事を優先している人々の話です。彼らもまた、王の権威も王子の権威も認めておらず、自分の都合の方を大事にしているのです。このように主イエスがここで語られた三つのたとえ話はどれも、神と、神がお遣わしになった独り子主イエスの権威を認めず、従おうとしない者たちの姿を描き出しています。これらのたとえ話によって主イエスは、ご自分が神の権威によって行動しており、その権威を与えたのは神ご自身であることをはっきりとお示しになったのです。

メシアはあなたがたの主ではないのか
 しかし彼らユダヤ人の指導者たちは、この三つのたとえ話に語られている通り、主イエスが父なる神から、ダビデの子、メシアとしての権威を与えられていることを認めようとしません。三つのたとえ話に腹を立てた彼らは、22章15節以下で、今度は彼らの方から主イエスに三つのことを問うています。皇帝への税金についての問いと、復活についての問い、そして「律法の中で最も重要な戒めは何か」という問いです。どれも、主イエスの言葉尻を捕えて陥れようとする問いです。主イエスは彼らの罠にかかることなく、一つひとつの問いに答えてむしろ大切なことをお教えになりました。そしてこの対立、論争の最後に、主イエスが彼らにつきつけた問いが、本日のところの、「メシアはダビデの子ではなく、主ではないのか」ということだったのです。メシアの父であり先祖であるダビデが、メシアを「主」と呼んで、その権威を受け入れ、従っているではないか。あなたがたは、「メシアはダビデの子だ」という旧約聖書以来の常識によって本物のメシアと偽物を見分けることができると言っているが、そのあなたがたは、ダビデのように、神の権威、メシアの権威を受け入れ、従おうとしているのか。むしろあなたがたは、ダビデがメシアを「私の主」と呼んだことを忘れてしまって、メシアを自分の主として受け入れ、従おうとしていないのではないか。だからあなたがたは神によって遣わされた私の権威を受け入れようとしないし、従おうとしないのだ。それは、メシアではなくて自分が主になっているということではないのか。主イエスはそういう問いを彼らにつきつけたのです。

主イエスの問いに答えない者たち
 実は、21章23節以下で、彼らが最初に、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と問うた時に主イエスがお語りになったのも、これと同じことでした。主イエスはあそこで彼らに、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からか、それとも、人からか」と逆に問いかけたのです。主イエスの備えをした洗礼者ヨハネは誰の権威で洗礼を授けていたのか、という問いです。彼らはそれに対して「分からない」と答えました。それは、分からないのではなくて、答えられない、答えたくない、ということです。ヨハネの洗礼が天からの、神の権威によるなら、それを受け入れず無視した自分たちの罪を認めることになるし、それは人からのもので、ヨハネが勝手にしていたのだと言えば、(彼らはまさにそう思っていたからヨハネを無視したわけですが、)多くの群衆たちはヨハネを神からの預言者として尊敬していましたから、その人たちの支持を失うことになります。だから「分からない」と答えて逃げたのです。このことによって明らかになったのは、彼らは、神の権威を受け入れ、それに従おう、という思いをこれっぽっちも持っていない、ということです。神の権威など実はどうでもよいのであって、大事なのは自分たちの立場を守ることなのです。彼らは、自分が主となって生きようとしているのです。主イエスの問いに彼らが「分からない」と答えたことによってそのことが明らかになりました。そして今、主イエスはその論争のしめくくりにおいて再び、「メシアはあなたがたの主ではないのか」と問うておられます。彼らはここでも、その問いに言葉を返すことができずに沈黙しています。このようにして、メシアを待ち望んでいると言いながら、メシアを主とするのではなくて自分が主となり、神の権威を受け入れず、従おうとしていない彼らの罪が最終的に明らかにされたのです。

私たちも問われている
 私たちはこのことを他人事として済ましてしまうことはできません。神とその独り子主イエスを信じて、その救いにあずかって生きようとする時に、私たちも、「メシアはあなたがたの主ではないのか」という問いを主イエスから受けるのです。イエスをメシア、救い主と信じるという信仰は、そのイエスを自分の主として受け入れ、従うということです。私たちは、信仰をもって生きようとする時に、神について、主イエスとその救いについて、教会について、様々な疑問を抱くし、問いを持ちます。聖書の教えや教会の信仰に疑いを持ったり疑問を抱くことは決して罪ではありません。私たちに求められているのは、「鰯の頭も信心から」のように何でもただ鵜呑みにして信じることではありません。分からないこと、疑問に思うことはあっていいし、それを問うていくことは大切なことです。しかしそこで私たちが常に覚えておかなければならないのは、信仰とは、神さまを、そして救い主である主イエスを、自分の主として受け入れ、従うことだ、ということです。私たちは、神さまや主イエスのことを、自分の思いや考えやあるいは願望によって、これは本物だとか偽物だとか、これは受け入れてもよいがこれは受け入れられない、などと判断し、判定する者ではないのです。私たちは、神のプレーをジャッジする審判ではありません。それでは私たちが神を裁く者となってしまうのであって、立場が反対です。神さまに対して、いろいろな疑問を持つことを後ろめたく感じる必要はありません。疑問に思ったことはどんどん問うていったらよいのです。しかし忘れてはならないのは、神と主イエスを信じる信仰とは、神を、そしてその独り子であるイエス・キリストを、「わたしの主」として信じ、受け入れ、従うことだ、ということです。主イエスの神としての権威を受け入れ、それに従おうという思いの中で、いろいろなことを問うていく時に初めて私たちは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストと本当に出会うことができるのです。そしてそこでこそ、主イエスによる神の驚くべき救いにあずかって新しく生きることができるようになるのです。主イエスを拒み、その神としての権威を否定して、自分が主となろうとする思いによって何かを問うていくとしたら、それはこのファリサイ派の人々が主イエスを陥れようとして問うた悪意ある問いと同じことになります。そこでは私たちは、主イエスから逆に「メシアはあなたがたの主ではないのか」と問われ、その問いに対して「分からない」と逃げるか、沈黙するしかないのです。

主イエスの権威は、十字架の死によって確立している
 最後に、もう一つのことを見つめておきたいと思います。主イエスはこのように、ファリサイ派の人々との論争において完全に勝利されました。彼らはぐうの音も出ずに沈黙するしかなかった、もはやあえて質問する者もなかったのです。しかしこの主イエスの勝利によって主イエスによる救いが実現したわけではありませんでした。ぐうの音も出ないほどに敗北した彼らは、心を入れ替えて主イエスを信じたのではありません。一言も言葉を返すことができずに沈黙した彼らは、あとはひたすら主イエスを抹殺するために動いたのです。この後23章から25章にかけても主イエスの教えが語られていますが、26章からは受難の物語となります。主イエスの権威をめぐる論争における主イエスの勝利は、主イエスの十字架の死を決定づけているとも言えるのです。このことは、私たちの主であるイエス・キリストの権威が本当に確立し、救いが実現するのは何によってかを示しています。主イエスの権威は、そして救いは、論争に勝利することによって確立したのではありませんでした。私たち自身のこととして言うならば、私たちは誰かに説得されて、もはや反論の余地のないほどに論駁されて、ぐうの音も出なくなって、それで主イエスを信じるようになったのではありません。私たちが誰かに伝道をしようとする時も同じです。いっしょうけんめい説得して、相手を納得させて、だから主イエスを信じなさいと言っても、それで相手が信仰を得ることはありません。信仰は、論争からは生まれないのです。論争は、主イエスの前に沈黙することしか生みません。その沈黙にはむしろ敵意と拒否が込められているのです。私たちの救いは、敵意を抱いて沈黙してしまう私たちのために、その私たちの罪を全て背負って、主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって実現したのです。主イエス・キリストは、論争に勝利することによってではなく、私たちのために身代わりになって死んで下さることによって、私たちの救いを実現して下さったのです。主イエスの権威は、主イエスの十字架の死によってこそ私たちの上に確立しているのです。この主イエスの権威を受け入れ、それに従っていく時に、黙り込んでいた私たちの口が開かれて、「あなたこそ私の主、私の救い主です」と告白するようになります。そのようにして私たちは、主なるイエス・キリストのもとで生きる者となるのです。

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