説 教 「皇帝と神」牧師 藤掛順一
旧 約 創世記第1章26-27節
新 約 マタイによる福音書第22章15-22節
皇帝=カイサル
マタイによる福音書第22章の21節には、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスのよく知られたみ言葉が記されています。その「皇帝」とは、ローマ皇帝のことです。主イエスが活動しておられた頃、ユダヤを含む地中海沿岸の世界を支配していたのはローマ帝国でした。ルカによる福音書第2章には、皇帝アウグストゥスの勅令によって、ヨセフとマリアがベツレヘムへと旅をしなければならず、その旅先のベツレヘムで主イエスが生まれたと語られています。このアウグストゥスがローマ帝国の初代の皇帝とされています。ローマ帝国は、征服した地を「属州」として直接支配することもあれば、その地の王国を存続させてその上に皇帝が支配権を持つという形をとることもありました。主イエスがお生まれになった時のヘロデ大王や、その息子で、主イエスが活動していた時にガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスはそのように、ローマ皇帝の承認の下で王や領主となっていたのです。直接の王や領主はこれらの人々でも、本当の支配者はローマ皇帝だったわけです。人々がそのことをはっきりと感じさせられるのは、ローマ帝国に税金を納めなければならない時でした。本日のところに語られている皇帝への税金は、人頭税といって、住民一人ひとりに課される税金です。アウグストゥスの住民登録の勅令はこの人頭税を徴収するためになされたものでした。このような税金を課されることは、主なる神のみが自分たちの王であって他の誰の支配も認めない、という思いでいたユダヤ人たちにとっては、まことに腹立たしい、屈辱的なことでした。本日の箇所の背景にはそういうユダヤ人たちの思いがあるのです。
三つのたとえと三つの問い
さて次に、マタイによる福音書の流れを振り返ってみたいと思います。21章の始めのところで、主イエスはそのご生涯の最後にエルサレムに入りました。人々の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入った主イエスは、神殿の境内で、商売をしていた人々を力づくで追い出しました。神殿の責任者である祭司長たちや民の長老たち、またファリサイ派の人々など、ユダヤ人の指導者たちは、主イエスのそういう行動を自分たちへの挑戦と感じ、何とかして主イエスを抹殺してしまいたいと思っていました。主イエスとユダヤ人の指導者たちとの対立が深まっていったのです。その中で主イエスは21章後半から22章の初めにかけて三つのたとえ話を語られました。二人の息子のたとえ、ぶどう園と農夫のたとえ、そして先週の礼拝で読んだ王の祝宴のたとえです。この三つのたとえ話、とりわけぶどう園と農夫のたとえと王の祝宴のたとえは、同じことを語っています。元々神に選ばれてぶどう園を託され、あるいは祝宴に招待されていながら、神のみ心に従わず、神から遣わされた者を殺してしまう人々の姿が描き出されているのです。主イエスはこれらのたとえ話によって、主イエスを受け入れずに抹殺しようとしているユダヤ人の指導者たちを批判なさったのです。それに続く本日の箇所からは今度は、ユダヤ人の指導者たちが主イエスに質問をした、という話がやはり三つ続いて語られます。それらの質問は、15節にあるように、「イエスの言葉尻を捕らえて、罠にかけよう」とする、つまり悪意をもって主イエスを陥れようとする質問です。あの三つのたとえ話に対抗するように、今度は彼らが三つの問いをもって、主イエスに攻撃をしかけてきている、そういうところをこれから読んでいくわけです。
ファリサイ派とヘロデ派
16節には、ファリサイ派の人々がその弟子たちをヘロデ党の人々と一緒に主イエスのところに遣わしたとあります。ヘロデ党というのは、ヘロデ王家を支持している人々です。つまり彼らはファリサイ派のような信仰に基づく党派ではありません。そしてファリサイ派とヘロデ党は本来は対立関係にあるのです。何故なら、ヘロデ党はヘロデ王家に依存している人々であるわけですが、その支配は先ほど申しましたようにローマ帝国の権力によって支えられています。従ってヘロデ党は基本的にローマの支配を受け入れています。だから皇帝への税金は納めるべきだ、というのがヘロデ党の立場です。それに対してファリサイ派は、主なる神の律法を大切に守り、それによってイスラエルが主なる神の民として歩むことを目指しています。イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマ帝国の支配などは排除したい、というのが彼らの思いです。ですから皇帝への税金など、本来納めるべきではないし、納めたくない、とファリサイ派は思っているのです。そのように本来対立するはずの両者が、主イエスを抹殺しようという思いにおいては一致し、手を結んだのです。
共通の敵は神
このように、対立していた者たちが、共通の敵の出現によって、敵の敵は味方、ということで手を結ぶということは、人間の社会においてはしばしば起こります。しかし主イエスを抹殺するためにファリサイ派とヘロデ党が手を結んだということには、さらに深い、人間の現実が示されていると言えると思います。それは、神に敵対することにおいて、人間はお互いの対立を乗り越えて一致する、ということです。人間の間にはいろいろな対立、敵対があって、そのために戦争も起ります。そういう対立はとても根深いように思えますが、実は根本的なことではありません。鬼畜米英などと言っていた国が、共産主義という共通の敵を前にして、掌を返したようにアメリカの忠実な子分になるようなことが起るのです。人間どうしの対立はそのように周囲の事情によって大きく変わっていきます。しかし私たち人間が常に根本的に敵対している相手があります。それは神さまです。私たちは、神がこの世界を創り、支配し、私たちに命を与えて下さっている主人であること、つまりこの世界や自分の人生というぶどう園は自分のものではなくて、神という主人から貸し与えられたものであることを認めようとしません。そしてその主人である神から遣わされた独り子イエス・キリストを受け入れず、殺してしまって、ぶどう園を自分のものにしてしまおうとしているのです。あるいは、王である神から祝宴への招きが来ているのに、そんな招きに応えていると自分のしたいことができない、と言って招きを断っているのです。それはつまり、神が自分たちの王、主人であることを認めず、自分が王、主人となろうとしている、ということです。自分が王となろうとしている者にとっては、王である神は、自分の邪魔をする敵です。神を自分の王と認めず、自分が王であろうとしていることにおいて、私たちは皆神に敵対している罪人です。罪人である私たちにとっては、神こそが共通の、根本的な敵なのです。神に敵対することにおいては、どんなに対立している者たちも手を結ぶことができるのです。
巧妙な罠
主イエスに敵対することによって手を結んだ彼らは、「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか、いないでしょうか」という問いを投げかけました。この問いにおいて、ファリサイ派とヘロデ党の提携が生きてきます。もし主イエスが、神の民であるユダヤ人は皇帝に税金を納めるべきではない、と答えるなら、ヘロデ党の者たちが、主イエスをローマの支配を認めない反逆のかどでローマ帝国の総督に訴えることができます。またもし主イエスが、ローマへの税金を納めなさいと答えるなら、今度はファリサイ派の出番です。人々が、この人こそユダヤ人の救い主だ、イスラエルに神の民としての栄光を取り戻してくれる方だ、と期待しているイエスが、実はローマの支配を受け入れてそれに従えと言っている、と示して人々を落胆させることができるのです。どちらに転んでも、主イエスを破滅させ、あるいはその影響力を失わせることができる、そういう巧妙な罠を彼らは仕掛けたのです。
さらに彼らはその罠を完璧なものとするために、この問いに先立って、歯の浮くようなお世辞を言っています。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方だと知っています。人に分け隔てをなさらないからです」。「人に分け隔てをしない」と訳されている言葉は、文字通りに訳せば、「人の顔を見ない」となります。日本語にすれば、「人の顔色を見ない」ということです。あなたは、周囲の状況によって、あるいは人の顔色を見て自分の態度や意見を変えるような、そんな日和見な人ではないですよね、と念を押すことによって逃げ道を断ち、主イエスがこの問いに答えざるを得ないようにしているのです。
デナリオン銀貨
主イエスは、彼らの悪意に気付いて、「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納める硬貨を見せなさい」とおっしゃいました。ローマに税金として納めるのに用いられる硬貨は、ローマ帝国が発行していたデナリオン銀貨でした。それには皇帝の肖像と銘が刻まれていました。テレビやラジオは勿論、新聞や雑誌もなかった当時のローマ帝国において、広大な帝国全体に、支配者である皇帝の存在を示すための最も有効なツールが、皇帝の肖像を刻んだ硬貨だったのです。ほんの数ヶ月しか在位期間のなかった皇帝の肖像を刻んだ硬貨も作られていることからもそれが伺えます。ですから皇帝の肖像を刻んだ硬貨は当時どこにでもあるものでした。主イエスはそれを持って来させて、そこに皇帝の肖像と銘が刻まれていることを彼らに確認させ、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。
「神のもの」と「皇帝のもの」という二つの領域?
主イエスを陥れようとしていた人々は、「これを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」とあります。つまりこの言葉によって主イエスは彼らの悪意ある問いを逃れることができました。それはどういうことだったのでしょうか。「皇帝のものは皇帝に」によって主イエスは、皇帝に税金を納めることを認めておられます。しかし同時に「神のものは神に返しなさい」によって、神のご支配を信じてそれに従い、仕えることをお命じになったのです。つまりこれは、ヘロデ党の主張と、ファリサイ派の主張をどちらも認めている答えです。どちらかを選ばせることによって主イエスを陥れようとしていた彼らの悪意ある問いを、主イエスはこのように上手にいなした、と言うことができるでしょう。しかし、事はそう簡単ではありません。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というお言葉によって主イエスは何を言っておられるのでしょうか。このお言葉は、この世には「皇帝のもの」と「神のもの」という二つの領域がある、と言っているようにも感じられます。「皇帝のもの」とは、この世の権力とその支配に関する政治的な領域、「神のもの」とは、信仰の領域です。その二つの領域を区別して、それぞれに応じた対処の仕方をするように、と主イエスはおっしゃったのでしょうか。だとしたら、その二つの領域をどこで分けるかが問題になります。私たちの生活において、どこまでが信仰の領域で、どこからが政治的領域か、つまり「神のもの」はどこまでで、どこから先は「皇帝のもの」、政治の領域なのか、ということです。具体的に言えば、税金を納めることが「皇帝のものを皇帝に返す」ことであり、それは「神のものを神に返す」という信仰の事柄とは区別されるのであれば、その税金がどう使われるかも信仰の事柄ではないことになります。政治とは、税金をどう使うか、ということですが、そういう政治の問題は信仰とは関係ない、と主イエスは教えておられるのでしょうか。
「神のもの」とは何か
ここで私たちが先ず第一に考えなければならないのは、「神のもの」とは何かです。皇帝の肖像が刻まれている銀貨は皇帝のものだと主イエスはおっしゃいました。それなら「神のもの」には、神の肖像が刻まれているはずです。神の肖像が刻まれている「神のもの」とは何なのでしょうか。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記1章26、27節にそのことが語られています。神が、天地創造のみ業の最後に人間をお造りになった、その場面です。27節に、「神は人を自分のかたちに創造された。神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された」とあります。私たち人間は、神のかたちに、神に似せて造られたのです。皇帝の肖像が刻まれている硬貨を見れば皇帝がどんな人物か分かるように、神のかたちに、神に似せて造られている私たち人間を見れば、神がどのような方であるかが分かるのです。つまり私たち人間は皆、神の肖像が刻まれている「神のもの」なのです。皇帝の肖像が刻まれた硬貨が帝国全体に流通することによって皇帝の支配が示されたように、神の肖像を刻まれた私たち人間が世界中に住むことによって、神はこの世界全体へのご自身の支配を示しておられるのです。つまり「神のもの」とは、実は私たちとこの世界の全体なのです。その「神のもの」は神に返せと主イエスはおっしゃいました。それは、神さまこそがこの世界の全てを支配しておられる王であられることを認めて、神さまに従う者となれ、ということです。この世界と自分の人生の全てが、神のぶどう園であることを認めよ、ということです。この世界や私たちの人生のある一部分だけが「神のもの」なのではありません。全てが神のものなのです。神のものではなくて皇帝のものであるような部分がこの世界のどこかにあるわけではないのです。私たちの一週間の生活について言えば、日曜日の午前中だけが神のものであって、後の六日間は自分のもの、自分が王として生きるための時間、というわけではありません。私たちの一週間の全ての日々が、神のものです。私たちは、全ての日々が神のもの、神のご支配と導きの下にあるものであることを覚え、それを神にお返ししつつ生きるのです。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉はそのことを教え、求めています。つまり主イエスは、「神のもの」と「皇帝のもの」という二つの領域を分けて、それぞれに別々に対処することを教えておられるわけではないのです。
皇帝のものを皇帝に
それでは、「皇帝のものは皇帝に」とはどういうことなのでしょうか。私たち人間は神の肖像を刻まれた神のものであり、この世界の全ては神のものである、それが聖書の根本的な教えです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」とお語りになることによってそのことを明確にしつつ、「皇帝のものは皇帝に」によって、全てが神のものである私たちの生活の中に、「皇帝のもの」「皇帝に返すべきもの」の存在を認めておられるのです。それはこの世の権力、国家の支配ということであり、その支配の行使としての税金の徴収であり、それを用いて国家を運営する政治のことです。人間の社会は、政治的権力、支配による秩序を必要としています。勿論その支配は、一部の人の恣意的な支配ではなく、法に基づいて、皆が同じ権利と義務を負いつつ、選挙によって選ばれた代表による政治がなされるという民主的なものであることが望ましいでしょう。しかしどんなに民主的な政体であっても、そこにはやはり権力の行使が伴い、税金の徴収もあり、秩序の維持のための警察力や、さらには国の独立を守るための軍事力も必要なのです。「神のものは神に返しなさい」という教えによって、全てのものは神のものであり神に返すべきことを示しつつ、「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃることによって主イエスは、神こそがまことの王であられるこの世界の中に、「皇帝のもの」の存在を、つまり政治的な権力とその行使による秩序の存在を認め、位置づけておられるのです。
返すべきものを本来の持ち主に返す
皇帝に税金を納めることは正しいか正しくないか、という問いは、二者択一を迫るものです。私たちは、人を問い詰める時によくこのように、「どっちなんだ、はっきりしろ」と迫るのです。しかし主イエスは、そういう問いは必ずしも真理を明らかにするものではないことをここで示しておられます。主イエスが彼らに「偽善者たち」とおっしゃったのはそのためです。一見信仰的なことを問うていながら、彼らは信仰の真理を、神のみ心を知ろうとしているのではなくて、自分の主張に固執し、それによって主イエスを批判し、陥れようとしているのです。それが彼らの偽善です。人に二者択一を迫っていく時に、私たちはそういう偽善に陥っていることが多いのではないでしょうか。そのような私たちに対して主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいます。「返しなさい」という言葉が大事です。返す、ということは、自分のものではないものを本来の持ち主に返すということです。つまり、「これは自分のものではありません」と認めるということです。私たちは、自分が、神の肖像を刻まれた「神のもの」であることを認め、その自分を神にお返しすることを求められているのです。あのぶどう園の労働者たちが、このぶどう園は私たちのものではなく主人から貸し与えられたものだと認めて、主人に返すべきものを返すことを求められたのと同じことが私たちに求められているのです。信仰とは、神さまのものを神さまにお返しすることです。それを返したら私たちの手許には何も残らないのではないか、と思う必要はありません。「神のものを神に返す」ことの中に、「皇帝のものは皇帝に」ということが位置づけられているように、神さまは、全てのものが神さまのものであるこの世界の中に、私たちの人生を、日々の生活を、そしてこの世の秩序を、意味あるものとして位置づけ、またそのために必要なものを備え、与えて下さるのです。
この世を信仰者として生きる
私たちはこの神さまの恵みの下で、この社会の、また国家の秩序を重んじつつ、しかしそれが神さまとは関係のない別の領域ではなくて、それらもまた「神のもの」であることを信じて、そこにおいてみ心が行われるために力を尽くして生きるのです。そこにはいろいろ難しい問題があり、簡単に答えの出ないことが沢山あります。たとえば先ほどの軍事力についても、軍隊や軍備は人を殺すためのものだから主イエスの教えに反するあってはならないものだ、という主張もあるでしょう。しかし主イエスの「皇帝のものは皇帝に」という教えは、軍事力をも含む国家権力の存在を認めている、と言えるのです。こういう問題は二者択一の問いでは解決しません。根本的に大事なことは、自分自身とこの世界の全ては「神のもの」であって、それを神にお返しする、という信仰に生きることです。その中で、「皇帝のものは皇帝に」ということをも、み心に従ってなしていけるように祈り求めつつ、私たちはこの世を信仰者として生きていくのです。