説教「神の言葉がますます広まる」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 詩編第115編1-11節
新約聖書 使徒言行録第12章12-25節
ヤコブの殉教とペトロの投獄
前回と今回で使徒言行録の12章を読んでいます。前回は1節から17節までを聖書箇所としました。本日は12節から25節までを聖書箇所としています。12節以下を読み進めるためにも、まず11節までを振り返っておきます。
11章ではアンティオキア教会の誕生と成長が語られていましたが、12章に入ると、場面はアンティオキア教会からエルサレム教会に戻ります。ステファノの殉教をきっかけとして、ユダヤ人によるエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、教会の多くのメンバーはエルサレムから散らされて行きました。エルサレム教会は消滅寸前の状況にあったのです。12章は、その状況の中でエルサレム教会に起こった出来事を語っています。当時、ヘロデ・アグリッパ一世が、ローマ帝国の後ろ盾によってユダヤの王でした。ヘロデは自らの統治を安定させるために、ユダヤ人の人気を得る必要があり、それでエルサレム教会を迫害しました。自分の人気取りのためにエルサレム教会を迫害したのです。このヘロデによる迫害は、これまでの迫害とは異なり、国家による教会に対する迫害でもありました。
この迫害によってヨハネの兄弟ヤコブが捕らえられ処刑されました。ヤコブは主イエスの十二弟子の一人であり、また十二使徒の一人であって、エルサレム教会が誕生して以来、その中心的指導者の一人でした。使徒の中では最初の殉教でした。ヤコブの殉教は、エルサレム教会の人たちに大きな衝撃、深い悲しみと嘆きを与えたに違いありません。しかしヘロデは、なお迫害の手を緩めることはありませんでした。ユダヤ人がヤコブの処刑を喜んだのを見て、さらにユダヤ人を喜ばせようとして、十二使徒の筆頭であるペトロを捕らえ牢に入れたのです。すぐに処刑せずに牢に入れたのは、ユダヤ教の大切な祭りである除酵祭(過越祭)が終わった後のほうが、祭りのためにエルサレムに来ていた多くのユダヤ人の前で処刑することができ、より効果的であったからです。このようにヘロデ・アグリッパ一世の迫害によって、十二使徒の一人であるヤコブが殺され、その筆頭であるペトロが捕らえられ牢に入れられたのです。エルサレム教会は、国家による迫害によって二人の中心的指導者を失い、より一層、困難な状況に直面したのです。
祈る教会
そのような困難な状況の中で、教会は何をしていたのでしょうか。5節の後半に、「教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた」とあります。教会のメンバーは、牢に入れられているペトロのために熱心に神様に祈っていたのです。12節の後半にも、「そこには、大勢の人が集まって祈っていた」とあります。「そこ」とは、12節の前半にあるように、「マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家」です。当時の教会はメンバーの家に集まって礼拝を行い、祈祷会も行っていました。エルサレム教会の人たちは、ヨハネの母マリアの家で夜を徹して祈祷会を行い、ペトロを助けてください、私たちの教会を助けてください、と祈っていたのです。このように5節と12節は、教会が熱心に祈っていたことを語っています。その間の6~11節で、前回見たように、神様が天使を遣わしてペトロを牢から助け出してくださったことが語られていました。ペトロは人間の力では到底助け出せない状況で監禁されていましたが、しかし神様は人間の可能性を超えた驚くべき救いの御業を行ってくださり、ペトロを牢から助け出し、その命を救ってくださったのです。
この出来事は、教会が熱心に祈る中でこそ、神様が人間の可能性を超えた驚くべき御業を行ってくださることを見つめています。しかしそれは、教会が熱心に祈れば神様は御業を行ってくださり、熱心に祈らなければ神様は御業を行ってくださらない、ということではありません。教会の熱心な祈りが、神様の御業を引き起こすのでは決してないからです。神様はその自由な御心によって、最もふさわしい仕方で御業を行ってくださるのです。それならば教会が熱心に祈ることには何の意味もないのでしょうか。決してそんなことはありません。祈りとは、自分の力に頼るのではなく神様の力に頼ることです。私たちの願いは叶うこともあれば、叶わないこともあります。しかし教会が熱心に祈り、神様の力に頼り続ける中でこそ、神様は最もふさわしい仕方で、教会と私たちに御業を行ってくださるのです。
信じようとしない人々
しかし私たちはそのように熱心に祈る中でも罪を犯します。このことが12節以下で見つめられています。天使によって牢から助け出されたペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に向かいました。先ほど見たように、そこでは教会のメンバーが夜を徹して祈祷会を行い、ペトロを助けてくださいと熱心に祈っていたのです。ペトロがヨハネの母マリアの家の門の戸を叩くと、ロデという召し使いの女性が出て来ました。ロデは、門を叩いている人の声がペトロの声だと気づき、喜びのあまり門を開けるのを忘れて家に駆け込み、祈祷会に参加していた人たちに、ペトロが家の門の前に立っていると知らせたのです。しかし人々の反応は、冷ややかなものでした。15節にこのように語られています。「人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、『それはペトロを守る天使だろう』と言った」。一方で人々は、「あなたは気が変になっている」と言い、その一方で「それはペトロを守る天使だろう」と言いました。この言葉の背景には、ユダヤ教において守護天使は守護している人に似ていると考えられていたことがあります。いずれにしても人々は、ペトロが牢から助け出されたことを信じようとしなかったのです。
虚しい祈り
エルサレム教会の人たちのこの反応に、私たちは戸惑うのではないでしょうか。この人たちは、ペトロを助けてください、と熱心に、夜を徹して祈っていました。それなのに、実際その祈りが聞き届けられて、神様の御業によってペトロが助け出されると、自分たちの祈りが聞き届けられた、と喜んだのではありませんでした。神様によってペトロが助け出されたことを信じようとしなかったのです。ロデが、ペトロは門の前に立っていると知らせても、本当にそうだと言い張っても、決して信じようとしなかったのです。それは、この人たちがペトロを助けてください、と熱心に祈りながらも、実はペトロは助かるはずがない、と思っていたということです。神様に熱心に祈りながらも、神様はペトロを助けることができない、と諦めていたのです。無理のないことかもしれません。ヤコブが捕らえられたときも、人々は、ヤコブを助けてください、と熱心に祈りました。しかしその祈りは聞き届けられることはありませんでした。ヤコブは剣で殺されたのです。今度はペトロが捕らえられ牢に入れられました。ペトロに対する監視は厳重で、人間の力では助け出せそうにありません。きっとペトロもヤコブと同じように処刑されてしまうに違いない。人々は、ペトロはもう助からないという諦めに支配され、神様の力に信頼しようとせず、神様の御業に期待しなかったのです。祈りは神様の力に信頼することです。しかしその祈りにおいて、神様の力に信頼しないということが起こる。エルサレム教会の人たちの熱心な祈り、夜を徹した祈りは、実は神様に信頼も期待もしていない虚しい祈りであった、と言わなくてはなりません。ここにこの人たちの罪が、不信仰がはっきりと示されているのです。
祈る中でも罪を犯し、不信仰に陥る
このエルサレム教会の姿は、私たちにとって他人事ではありません。私たちも熱心に祈りながら、その祈りが聞かれると思っていないことがあります。「神様、助けてください、御業を行ってください」と祈っていても、実際は、神様が助けてくださるはずがない、と諦めてしまっていることがあります。神様の力に信頼せず、神様の御業に期待していないことがあるのです。私たちは祈る中でも罪を犯します。祈る中でも不信仰に陥るのです。とりわけ、エルサレム教会の人たちがそうであったように、困難な状況に直面するとき、私たちの祈りは神様の御業に期待しない、虚しい祈りとなることが少なくありません。たとえば私たちは、世界の悲惨な現実を覚えて執り成し祈ります。しかし戦争が長期化し、災害が次から次へと起こり、世界は一向に良い方向に向かっていないように思える中で、私たちは、「神様、この世界の悲惨な現実に御手を伸ばし、御業を行ってください」と祈っていても、神様の御業に期待していないことがあります。この世界の悲惨な現実を神様はどうすることもできない、と諦めているのです。あるいは私たちの教会が、また私たち一人ひとりが困難な現実に直面するときも、私たちは神様に助けを求めて祈っていながら、神様が助けてくださるはずがない、と諦めていることがあります。エルサレム教会の人たちがペトロはもう助からない、と諦めていたように、私たちも、もう助からない、助かりっこない、と諦めているのです。このように私たちは、たとえ熱心に祈っていても、祈りの言葉を重ねていても、夜を徹して祈っていても、神様に信頼も期待もしていない虚しい祈りを祈っていることがあります。そこに私たちの罪と不信仰がはっきりと示されているのです。私たちは祈りの中ですら神様に信頼できず、罪を犯す者であり、不信仰に陥る者であるのです。
私たちの不信仰を突き破って御業を行う
しかしこの出来事は、エルサレム教会の人たちが、そして私たちが熱心に祈りながらも、神様に信頼も期待もしていない虚しい祈りを神様に献げていることを明らかにし、私たちが祈ることにおいてすら罪を犯し、不信仰に陥ることを暴き、糾弾しているだけなのでしょうか。そうではありません。むしろこの出来事は、神様が私たちの不信仰にもかかわらず、虚しい祈りにもかかわらず、私たちのために御業を行ってくださることを見つめているのです。私たちが、神様に祈りながらも神様を疑い、神様に信頼も期待もしていないとしても、そのような祈りしか祈れないとしても、神様は私たちの疑いや不信仰を突き破って、私たちのために御業を行ってくださるのです。もちろんそれは、私たちのどんな祈りも聞き届けてくださる、ということではありません。神様はその自由な御心によって、最もふさわしい仕方で御業を行ってくださる方です。たとえ私たちが神様を疑い、信頼できなくても、御心であるならば、神様は私たちの疑いや不信仰、私たちの罪を突き破って御業を成し遂げてくださるのです。エルサレム教会の人たちの祈りは、ペトロを助けてくださいと祈りつつ、きっと助けてくださらないと諦めている、そのような祈りです。私たちの祈りも、私たちの教会を、私たちを助けてくださいと祈りつつ、きっと無理だと諦めている、そのような祈りです。まことに恥ずかしい不信仰な祈りです。祈りとも言えない祈りです。しかし神様はそのような祈りしか祈れない私たちをお見捨てになりません。見捨てるどころか、私たちのために最もふさわしい仕方で、私たちの不信仰を突き破って御業を行ってくださるのです。
祈ることが許されている
考えてみれば、私たちが神様を疑うことなく、その御業に心から期待して祈るときにだけ、御業を行ってくださる神様なら、私たちはその神様に祈ることはできません。私たちの祈りは、どこまでも疑いと不信仰と罪に塗れているからです。そのような私たちが神様に祈ることができるのは、神様が、私たちの疑いや不信仰や罪を突き破って、御業を行ってくださる方だからです。ペトロが牢から助け出され、九死に一生を得たこの出来事は、教会が熱心に祈り続ける中で起こりました。それは、たとえその熱心な祈りが、疑いや不信仰や罪に塗れたものであっても、教会が神様に祈り続けることには、なお意味があることを見つめています。神様に信頼も期待もしていない祈りであっても、それでも教会が神様に祈り続けることは、まことに大きな幸いなのです。なぜなら私たちは、そのような祈りを祈り続ける中で、神様が私たちの疑いと不信仰と罪を突き破って、私たちのために驚くべき御業を行ってくださることを経験するからです。私たちの不信仰にもかかわらず、神様が私たちのために御業を行ってくださった、と言わずにはいられない経験を与えられるのです。そのような経験を繰り返し与えられる中でこそ、私たちは困難に直面するときも、なお神様の力に信頼し、神様の御業に期待して祈る者へと変えられていきます。私たちは自分の信仰がしっかりしたら、神様を疑うことがなくなったら、神様に祈るのではありません。いや、本当はそうなのかもしれません。神様を疑いつつ神様に祈るのは、神様に対してまことに失礼なことをしているからです。しかしこの出来事が示しているのは、私たちが疑いや不信仰を抱きつつも神様に祈ることを、神様は許してくださっている、ということです。それどころか、そのような祈りを祈る私たちのために、神様は御業を行ってくださるのです。だから私たちは神様への疑いを捨てきれないときも、神様に信頼しきれないときも、熱心に祈り続けます。疑いや不信仰や罪に塗れた祈りであっても、なお熱心に祈り続けていくのです。
神に栄光を帰さなかったため
このエルサレム教会の姿と対照的なのが、20節以下で語られているヘロデ王の姿です。その直前の19節で、ヘロデが「ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在した」とあるので、20節以下は、カイサリアにおける出来事でしょう。20節によれば、「ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てて」いました。ティルスとシドンは、カイサリアから地中海沿岸をさらに北上したところにある都市です。なぜヘロデが、ティルスとシドンの住民に怒っていたのかは分かりません。しかし独裁者が、大した理由もないのに、あるいはよく分からない理由で怒り出すのは、昔も今も変わりはないのかもしれません。いい迷惑なのは、怒りを向けられた両都市です。しかもその怒りを無視するわけにもいきません。なぜなら20節の終わりにあるように、ティルスとシドンは、ヘロデの領地から食糧を援助してもらっていたからです。ヘロデの怒りを宥めなければ、食糧援助が滞り、住民の命と生活を脅かすことになりかねません。それでティルスとシドンの住民たちは、カイサリアのヘロデを訪ね、「その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た」のです。似たようなことは現代の世界においてもしばしば起こっているのではないでしょうか。
さて21節では、「定められた日に、ヘロデが王の衣を着て座に着き、演説」をしたと言われています。「定められた日」が何の日を指しているのかは分かりませんが、特別な日であったのでしょう。その特別な日にヘロデがきらびやかな王の衣を着て、演説をすると、そこに集まった人々が、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたのです。20節からの文脈の中で読むなら、集まった人々の中に、ヘロデを訪ねたティルスとシドンの住民もいたに違いありません。集った人たちはヘロデ王におもねり、気に入られようとして、「神の声だ。人間の声ではない」と繰り返し叫んだのです。するとたちまち主の天使がヘロデを打ちました。そしてヘロデは蛆に食われて息絶えたのです。23節では、それは、ヘロデが「神に栄光を帰さなかったため」と言われています。ヘロデがすべきだったのは、人々が繰り返し「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けるのを制止して、「私は神ではない、人間に過ぎない」と言うことでした。しかし彼はそうしませんでした。自分を神とし、自分に栄光を帰そうとしたのです。
神にのみ栄光を帰す
このヘロデの姿は独裁者にありがちな姿です。しかし独裁者に限らず、私たちは誰もがもともとヘロデと大差ありませんでした。生まれながらの私たちは自分を神とし、自分に栄光を帰そうとして生きていたからです。それが、私たちが罪人であった、ということです。ですから本来、私たちもヘロデのように主の天使に打たれて、滅ぼされても仕方のない者でした。しかしその私たちを、神様は独り子イエス・キリストの十字架と復活によって救ってくださったのです。私たちはこのキリストによる救いの恵みの中で、自らを神とするのではなく、私たちを愛し、救ってくださった方を神とし、その神様に栄光を帰して歩んでいきます。救われるに値しない私たちを、ただ一方的な恵みによって救ってくださった神様に栄光を帰して歩んでいくのです。
そしてそのように神様に栄光を帰す歩みは、祈る中でこそ与えられていきます。共に読まれた旧約聖書詩編115編の冒頭1節には、このようにあります。「主よ、私たちにではなく 私たちにではなく あなたの名にこそ、栄光を与えてください あなたの慈しみとまことのために」。まさに人間ではなく、神様に栄光を帰す祈りです。そしてこの祈りは、神様に信頼することと結びついています。9~11節では、「イスラエルよ」、「アロンの家よ」、「主を畏れる人々よ」という呼びかけの後に、同じ言葉が続いています。「主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、彼らの盾」。人間ではなく、人間が造り出した偶像でもなく、ただ神様にだけ信頼し、神様だけが私たちの助けであり、盾であると信じて生きることが、神様に栄光を帰して生きることなのです。祈りは神様の力に信頼することです。確かに私たちの祈りは疑いや不信仰や罪に塗れています。しかしそれでも祈り続ける中で、神様が私たちの疑いや不信仰や罪を突き破って、私たちのために御業を行ってくださることを経験します。そのような経験を繰り返し与えられることを通して、私たちは苦難に直面しても、なお神様に信頼し、神様の御業に期待して祈る者へと変えられていきます。それは私たちが、ただ神様にのみ栄光を帰して生きる者へと変えられていくことにほかならないのです。疑いや不信仰や罪に塗れた祈りしか祈れない私たちに、しかし神様は御業を行い、良い実りを与えてくださいます。ペトロが牢から助け出され、命を救われたのも一つの良い実りです。同じように私たちの教会にも良い実りが与えられています。新たに教会にいらっしゃる方が与えられています。新たに教会に加わる方も与えられています。教会に連なる者たちの交わりも活発になっています。しかしそれらの良い実りは、私たちの手柄ではありません。私たちが誇るべきことではありません。ただ私たちはそれらの良い実りに感謝して、神様に栄光を帰していくのです。
神の言葉がますます広まる
24節に「神の言葉はますます広まり、信者の数が増えていった」とあります。不思議な言葉です。にわかには信じがたい言葉です。ヘロデが死んで、エルサレム教会が迫害の危機を脱したからでしょうか。しかし人間の目には、エルサレム教会の状況は、なお危機の中にあったと言うしかありません。使徒であり、中心的指導者であったヨハネの兄弟ヤコブは殉教しました。使徒の筆頭ペトロは命を助け出されましたが、17節によれば、エルサレム教会の人たちに、「このことをヤコブときょうだいたちに伝えなさい」と言って、「そこを出てほかの所へ行った」のです。このヤコブはもちろん殉教したヤコブのことではなく、この後、エルサレム教会の中心的指導者となる主の兄弟ヤコブのことです。それはともかくペトロは「ほかの所へ」行きました。身を隠したのかもしれません。使徒言行録には、この後、もう一度だけペトロが登場する場面があります。しかしそれを除けばペトロは姿を消すのです。「そこを出てほかの所へ行った」という一文は、そのことをほのめかしているのかもしれません。ヨハネの兄弟ヤコブは殉教し、ペトロの行方は杳として知れない。エルサレム教会は指導者を失うという大きな危機に直面していたのです。しかしそれでも、神の言葉はますます広まった。人間の目には危機としか思えない状況の中にあっても、神の言葉はますます広まっていくのです。神様ご自身が御業を行ってくださるからです。キリストの教会は、私たちは、昔も今もこれからも、神の言葉を、キリストによる救いの良い知らせをますます広めてくださる神様の御業に信頼して、たとえ危機の中にあっても、熱心に祈り続け、神様の力に信頼し、神様の御業に期待して、神様にのみ栄光を帰して歩んでいくのです。
