夕礼拝

見よ、あなたたちの王だ

2026年3月29日
説教題「見よ、あなたたちの王だ」
イザヤ書 第50章4~9節
ヨハネによる福音書 第19章1~16a節

十字架刑の判決の場面
 棕櫚の主日を迎え、本日から受難週が始まります。私が夕礼拝を担当するときには使徒言行録を読み進めていますが、本日は使徒言行録を離れ、ヨハネによる福音書が語る主イエスの十字架の場面に目を向けていきます。
 主イエスの十字架の場面と申しましたが、本日の箇所は、主イエスが十字架に架けられる直前の場面です。本日は19章1節から16節の前半までを読みますが、16節の後半からが、まさに主イエスの十字架の場面です。ちなみに今週の金曜日に行われる受難週祈祷会IIIでは、この箇所に目を向けたいと思っています。それに先立つ本日の箇所は、主イエスが十字架刑の判決を受けられた場面です。といっても実際に裁判が始まるのは13節以下です。だから13節で、「ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」と言われています。それまでのところでは、ピラトとユダヤ人とのやり取りを中心に語られています。

ピラト
 このピラトの名前は、毎週の礼拝で告白している使徒信条の中に出てきますので、私たちに親しみのある名前と言って良いでしょう。とはいえ私たちは、ピラトのことをよく知っているわけではないかもしれません。ピラトはローマ皇帝によって任命された属州ユダヤの総督で、紀元26年から36年まで、ユダヤとサマリアを統治していました。彼はユダヤ人を下に見ていて、彼ら彼女たちにほとんど共感を示さなかったようです。そのため彼のユダヤ人に対する政策は、高圧的で強引な政策であったことが知られています。とはいえ彼が無能な総督であった、と考えるべきではありません。10年にも亘って属州ユダヤの総督であることができたのは、彼の統治の実績によるのであり、彼はそれなりに有能であったのです。それでも彼の地位はシリア総督の下にあり、さらに言えばローマ皇帝の下にありました。ピラトはユダヤとサマリアで権力を持っていたとはいえ、その権力を振るうために、彼は絶えず自分の地位を守ることに汲々としなくてはならなかったのです。

何の罪も見いだせない
 さてユダヤ人たちは、捕らえた主イエスを大祭司のところから総督ピラトの官邸に連れて行きました。ローマの法によって、主イエスを死刑にすることを望んでいたからです。ピラトは主イエスを尋問しましたが、その結論として、本日の箇所の直前で、ユダヤ人たちにこのように言っています。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」。ピラトはローマの法に照らして、主イエスを有罪とする何の根拠も見いだせない、と言ったのです。そして過越祭にユダヤ人の囚人を一人釈放する慣例を持ち出して、「ユダヤ人の王を釈放してほしいか」と尋ねました。ピラトとしては、ユダヤ人たちに主イエスの釈放を促したつもりでした。しかしユダヤ人たちは、主イエスではなく強盗バラバを釈放するよう大声で叫んだのです。

ピラトの狙い
 それに続く本日の箇所の冒頭では、このように語られています。「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、平手で打った」。マルコ福音書やマタイ福音書において、ピラトが主イエスを鞭で打ったのは、主イエスの十字架刑の判決の後です。しかしヨハネ福音書は、判決の前にこのことを語ります。それは、ピラトが主イエスを鞭で打ったことの意味が、ヨハネ福音書とほかの福音書では異なるということです。この鞭打ちは、それだけで命を落とすことがあり、十字架刑の前に行われたのは、体力を奪い、十字架上で長く苦しまなくて済むようにするためであったと言われます。しかしヨハネ福音書においてピラトが主イエスを鞭打ったのはそのためではなく、主イエスを傷つけ惨めな姿にするためでした。兵士たちが主イエスに茨の冠を被せ、紫の服を着せ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ったことも、この文脈の中で受けとめる必要があります。もちろん兵士たちは、主イエスを侮辱してこのようなことをしました。紫の服は、高貴な人が着るものでした。主イエスが着せられたのは、ボロボロの服であったと思いますが、兵士たちは茨の冠を被せ、紫の服を着せることで、主イエスを哀れな王に見立てて、侮辱し、暴力を振るったのです。しかし兵士たちがこのようなことを出来たのは、ピラトがそれを許したからです。少なくとも黙認したからです。このような残酷なことをするピラトの狙いは、どこにあったのでしょうか。4節でピラトはユダヤ人にこのように言っています。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう」。ピラトは主イエスの姿をユダヤ人たちに見せることによって、主イエスに何の罪も見いだせないことを分からせようとしたのです。そのためにピラトは、主イエスを傷だらけ、血まみれにして、みすぼらしい王の格好をした、惨めな姿にしました。そのような惨めな姿をした者が、ユダヤ人の王であるはずがないし、ユダヤ人の王になろうと企てるはずもないからです。

見よ、この男だ
 だからピラトは言います。「見よ、この男だ」。聖書協会共同訳では、「見よ、この人だ」と訳されています。「この人を、見よ」、そうピラトは言ったのです。「この傷だらけで、血にまみれ、みすぼらしい王の格好をした、惨めな姿をしたこの人を、見よ。そうすれば、この人がユダヤ人の王になろうと企てる大それた人間でないと分かるはずだ。こんな惨めな人を殺す必要なんてないと分かるはずだ」。そのように考えてピラトは、ユダヤ人たちに「この人を、見よ」と言ったのです。

ユダヤ人たちの憎しみの深さ
 しかしピラトの期待は裏切られます。祭司長たちや下役たちは、惨めな姿の主イエスを見ても、「こんなに惨めなのであれば、殺す必要はない」と思うどころか、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだからです。主イエスに対するユダヤ人の憎しみは、それほどまでに深いものでした。それでもピラトは、再び「わたしはこの男に罪を見いだせない」と言いました。しかしユダヤ人たちは、このように答えました。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。ユダヤ人たちが主イエスの存在を許せず、殺そうとしたのは、主イエスがご自分は神の子だと言ったからです。だからユダヤ人たちは主イエスを深く憎み、殺そうとしたのです。

主イエスを釈放しようとした理由
 このようにピラトとユダヤ人とのやり取りが語られていますが、そこでピラトは何とかして主イエスを釈放しようとし、それに対してユダヤ人たちは断固として主イエスを十字架につけるよう要求しています。だからといって私たちはユダヤ人の頑なさに比べて、ピラトは寛大であった、と考えるべきではありません。確かに彼は主イエスに何の罪も見いだせないと言いました。しかしそれは、単に、ローマの法に照らして、有罪とする根拠を見いだせなかった、と言っているに過ぎません。ピラトも根本的には、兵士たちと同じように、主イエスを馬鹿にしていたに違いありません。そうでなければ、いくら目的があったとはいえ、何の罪も見いだせないと言いつつ鞭で打ったり、兵士たちのあのような侮辱と暴行を許したりはしなかったでしょう。ピラトも、これほど無力で、みすぼらしく、惨めな人物が、ユダヤ人の王であるはずがないし、王になれるはずもない、と馬鹿にしていたのです。同時にピラトは、ユダヤ人の言いなりになるのも我慢なりませんでした。自分が見下しているユダヤ人たちの、その宗教指導者たちの言いなりになって、主イエスを十字架に架けるのは、自分のプライドが許せないことでした。だからピラトは主イエスを釈放しようとしたのです。

主イエスを何者だと信じるのか
 8節に、「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ」とあります。ピラトは何故、恐れたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが、主イエスは「神の子と自称した」と言ったからでしょう。これまでピラトは、主イエスがユダヤ人の王なのかどうかを確かめ、こんな無力な人物がユダヤ人の王になれるはずも、なろうとするはずもないと考えていました。しかしここで、主イエスが「神の子と自称した」と聞きました。ピラトは、ユダヤ人が信じる唯一の神を信じていたわけではありません。むしろ軽んじていました。しかしそれでも、主イエスが自分は神の子であると言ったことを聞いて、されるがまま鞭を打たれ、兵士たちの嘲りにも言い返さず、傷だらけで、血まみれの、みすぼらしく、惨めな姿の主イエスを見て、この人は何者なのだろうか、と不気味に思えて恐れたのです。だからピラトは再び総督官邸に入ると、主イエスに「お前はどこから来たのか」と聞きました。それは、「お前は何者なのか」と聞いた、ということです。しかし主イエスは何も答えられませんでした。
 それでピラトはこのように言います。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」。ピラトは自分の権力を振りかざして主イエスを脅しました。「お前を釈放するのも、十字架につけるのも自分次第なのだから、自分の質問に答えろ」、と言ったのです。ここにピラトの本当の姿が表れています。主イエスを本当に救おうとしていたのならこのようには言わないはずです。ピラトは自分の地位や権力を誇っていましたし、それを何としても守ろうとしていました。そのピラトにとって、主イエスが自分の質問に答えないことは許せないことでした。だからピラトは、「お前の命は自分が握っている、お前を生かすも殺すも自分次第だ」と主イエスを脅したのです。ついさっきピラトは恐れて、「お前はどこから来たのか」、「お前は何者なのか」と主イエスに問いました。そのように問うこと自体は間違っていません。しかしこの問いに答えるべきなのは、主イエスではなくピラト自身でした。だからこそ主イエスはお答えにならなかったのです。ピラトだけではありません。私たち一人ひとりもこの問いに答えなくてはなりません。私たちは絶えず、主イエスを何者だと信じるのか、と問われています。その問いに、「神様が遣わしてくださった独り子です」とお答えしていくのが私たちの信仰です。そのために私たちは、主イエスから目を離してはなりません。主イエスに目を向け続けなくてはならないのです。しかしピラトはそうしませんでした。主イエスから目を離し、自分自身を見つめ、自分の地位と権力を見つめたのです。

上から与えられた権限
 そのピラトに主イエスはこのように答えられました。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」。原文は「神から」ではなく「上から」となっています。ピラトは確かに主イエスを釈放する権限も、十字架につける権限も持っていました。しかしそれは、「上から」与えられた権限です。この主イエスの言葉を聞くまでもなく、ピラトは自分の権限が「上から」、ローマ皇帝から与えられていることを知っていました。しかし主イエスが「上から」という言葉によって、その権限が究極的には「神様から」与えられていることを示されたことには気づけませんでした。だからピラトは、この後、ローマ皇帝から与えられた権限を守るために、ユダヤ人たちの主張を飲まざるを得なくなるのです。

皇帝の友であり続けるために
 ユダヤ人たちは、なお主イエスを釈放しようとするピラトにこのように言いました。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」。この言葉が決定的な言葉となり、13節以下でピラトは裁判を行い、主イエスに十字架刑の判決を下します。ですからこのユダヤ人たちの言葉は、実に巧みな、ピラトの弱点をついた言葉でした。ピラトは自分が見下しているユダヤ人の言いなりになるのは我慢なりませんでした。主イエスに不気味さを感じてはいても、生かすも殺すも自分次第だと思っていました。しかしそのようなピラト自身の思いよりも優先すべきことがありました。それは、自分の地位と権力を守り続けることです。ローマ皇帝が、これからも自分に地位と権力を与え続けることです。そのためには、「皇帝の友」であり続ける必要がありました。「皇帝の友」でなくなってしまえば、地位も権力もすべて失ってしまうからです。実際、ある文献によれば、時の皇帝ティベリウスが死去すると、ピラトも自ら命を絶ったと伝えられています。ピラトにとって「皇帝の友」であることがすべてでした。だから「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と言われて、ピラトは主イエスを裁判にかけ、十字架刑に処することを決めたのです。

皇帝のほかに王はありません
 その裁判の場で、ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。虚しい言葉です。そこにいるユダヤ人たちは、惨めな姿で裁判の席に着いたこの人を、自分たちの王だと思っていませんでした。無論ピラト自身も、そんなことは思ってもいません。「見よ、あなたたちの王だ」というピラトの言葉は虚しく響きました。そこにいた誰一人として、この人が王であると思っていなかったからです。だからユダヤ人は叫びます。「殺せ。殺せ。十字架につけろ」。聖書協会共同訳は「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ」と訳しています。「この人は目障りだ。私たちの視界から早く取り除いてくれ。早く連れて行って、十字架につけて殺してしまえ」、と叫んだのです。
 ピラトは、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言いました。そう言わずにはいられなかったのでしょう。主イエスを十字架につけることを恐れたのではありません。権力と地位を失うわけにはいかないとはいえ、ユダヤ人の言いなりになることへの不満からこの言葉が出たのです。すると祭司長たちは言います。「わたしたちは、皇帝のほかに王はありません」。ここに彼らの罪が極まりました。ユダヤ人たちは、主イエスが自分は神の子であると言ったために、主イエスの存在を許せず、深く憎み、殺そうとしました。彼らはピラトと違い、主イエスの言葉としるし(み業)を見てきましたが、それでも憎しみに駆られ、邪魔で目障りな存在を殺そうとしました。そしてその果てに、「皇帝のほかに王はありません」と言うに至ったのです。この言葉は、自分たちの信仰を否定する言葉です。自分たちの存在を否定する言葉です。唯一の神がイスラエルの民を恵みによって選んでくださり、ご自分と民との間に契約関係を結んでくださいました。その唯一の神だけが、イスラエルの民にとって、ユダヤ人にとってまことの王、唯一の王であったはずです。それなのに「皇帝のほかに王はない」と言ったのです。それは、神様を否定し、自分たちの信仰を、自分たちの存在を否定したことにほかならないのです。
私たちの罪が渦巻いている
 このようにこの場面には、ピラトとユダヤ人たちの罪が渦巻いています。いえ、それだけではありません。私たちの罪が渦巻いているのです。確かに私たちはローマ帝国の皇帝ではありません。しかし自分という小さな帝国の皇帝であろうとする者です。自分という小さな帝国の皇帝であり続けるために、そこで自分が力を振るい続けるために、主イエスを十字架に架けてしまう者です。私たちも主イエスを見るのではなく、主イエスから目をそらし、自分自身を見つめ、自分の持っているものや力を見つめているのです。確かに私たちはユダヤ人ではありません。しかし私たちも主イエスを目障りな存在だと思う者です。主イエスを受け入れ、信じるなら、これまでと同じ自分ではいられなくなるからです。ユダヤ人は救い主を待ち望んでいたにもかかわらず、主イエスを受け入れようとしませんでした。自分を変えられたくなかったからです。同じように私たちも、自分を変えられたくないから、今のままでいたいから、主イエスを目障りだと思い、主イエスから目を反らしたり、主イエスを無視したりしています。心の中で主イエスを殺している。心の中で、「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫んでいるのです。

神の御心こそが実現している
 ほかならぬ私たちの罪が渦巻いているこの場面で、しかしヨハネ福音書は隠された仕方で私たちの救いを語っています。実は本日の箇所で、主イエスが言葉を発したのは11節のたった一回だけです。それだけにこの主イエスのお言葉こそ、この場面で本当に何が起きているかを示しています。主イエスはピラトに、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と言われました。ピラトが、主イエスを釈放する権限を、あるいは十字架につける権限を持っているように思えるけれど、その権限は神様から与えられたものだと言われたのです。そのことにピラトは気づけませんでした。しかしピラトは結局、神様から与えられた権限によって主イエスを十字架に架けるのです。それは、ピラトとユダヤ人たちの、そして私たちの罪が渦巻いているこの場面においても、神様のご計画こそが、神様の御心こそが実現している、ということにほかなりません。

御子によって私たちを救うため
 その神様のご計画、神様の御心とは、どのようなものでしょうか。それを示しているのが、14節の「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」という何気ない文章です。しかしヨハネ福音書が、主イエスの十字架刑が「過越祭の準備の日」に決まったと語っていることには、深い意味があります。なぜなら、その日に過越の小羊が屠られたからです。かつて神の民イスラエルは、小羊の犠牲にってエジプトの奴隷状態から救われました。この救いの出来事を記念するのが「過越祭」であり、その記念として過越の小羊が屠られたのです。そのように過越の小羊が屠られる「過越祭の準備の日」に、主イエスの十字架刑が決まりました。それは、主イエスが私たちを罪から救うために、「神の小羊」として、犠牲となられることを意味しているのです。ユダヤ人たちの憎しみが、ピラトの保身が、そして私たちの罪が主イエスを十字架に架けました。しかしそのことにおいて、神様の御心が実現しました。神様の御心は、憎しみや保身に駆られたユダヤ人たちやピラトを、そして私たちを裁くことではありませんでした。そうではなくそのように憎しみや保身に駆られる私たちを罪から救うことであったのです。この福音書の3章17節にこのようにあります。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神の独り子イエス・キリストが、神の小羊として十字架で犠牲となり、死んでくださることによって、世が救われ、私たちが救われる。それが神様の御心であり、この神様の御心が貫かれ、実現したのです。

見よ、あなたたちの王だ
 ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言いました。これを言ったピラトも、これを聞いたユダヤ人たちも、主イエスが自分たちの王だと思ってもいませんでした。しかしピラトを通して、神様は私たちに真理を告げてくださったのです。傷だらけで、血にまみれ、みすぼらしい、惨めな姿で、十字架に架けられるこの人こそ、私たちの救い主であり、私たちの王です。この人こそ、私たちを罪から救い、私たちの人生のすべてを、生きるときも死ぬときも、死んでからもご支配くださるまことの王なのです。聖書は、「この人を見よ」、と告げています。「この人を見よ」、「この惨めな姿で十字架に架けられたこの人を見よ」。「この人こそあなたたちの救い主であり、あなたたちの王であり、この人にこそ神様の愛が現れている」。だから「この人を見よ」と告げているのです。私たちは、この人をこそ、十字架に架けられた主イエス・キリストをこそ見上げて、この受難週を歩んでいくのです。

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