2026年3月29日
説教題「柔和な王」
ゼカリヤ書 第9章9~10節
マタイによる福音書 第21章1~11節
エルサレム入城
礼拝において、マタイによる福音書を読み進めて参りまして、本日から第21章に入ります。ここには、主イエス・キリストが、そのご生涯の最後に、エルサレムに来られた時のことが語られています。それは日曜日の出来事であった、と考えられています。この「エルサレム入城」から、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が始まります。この週の木曜の晩に主イエスは捕えられ、金曜には十字架につけられて殺されるのです。そして三日後の日曜日、つまりこの日の一週間後には復活なさるのです。主イエスの、エルサレムにおけるこの最後の一週間を覚えるのが受難週です。今年は今週がその受難週です。ですから本日がまさに、主イエスのエルサレム入城を記念する日、ということになります。マタイ福音書を連続して読んできて、ちょうどこの日にふさわしい箇所が与えられたことを、驚きと共に感謝しています。
さて、主イエスがエルサレムに来られたことにはとても大きな意味があります。いよいよユダヤの中心都市、首都に乗り込むわけで、それだけでも意味がありますが、エルサレムは、主なる神の民であるユダヤ人たちにとって特別な町でした。そこには神殿があり、主なる神がそこにおられる、と人々は考えていました。ですからこの時から数十年後、ローマの軍隊にエルサレムが包囲された時にも、人々は神殿に立て籠って最後まで戦いました。神殿が陥落することはない、神が天からの火をもって敵を滅ぼし、神殿を守って下さる、と信じていたのです。しかしそれは起こらず、神殿は破壊され、今はその跡地にイスラム教のモスクが建っています。またエルサレムはダビデ王の町です。主なる神はダビデの子孫がとこしえにイスラエルの家を治めると約束して下さり、またダビデの子孫に、まことの王である救い主がお生まれになると告げて下さいました。ですから「ダビデの子」と呼ばれる救い主はこのエルサレムに来て、王となる。それによってイスラエルは、ダビデの時代のような繁栄を回復する、と人々は期待していたのです。そのエルサレムに、いよいよ主イエスが来られるのです。主イエスはこれまで主に、ユダヤ人たちにとっては田舎であるガリラヤにおいて、神の国の福音を宣べ伝え、病気の人、悪霊にとりつかれている人を癒してこられました。その評判はユダヤ全土に広まり、主イエスのもとには多くの人々が集まるようになっていました。先週読んだ20章の終わりのところにも、主イエスの一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆が従ってきたと語られていました。その人々は皆、イエスこそ、神が約束して下さった救い主、ダビデの子メシアではないかと期待していたのです。先週読んだように、エリコの町を出たところで、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んで救いを求めた二人の盲人が癒されました。この出来事も、主イエスこそ「ダビデの子」であるに違いない、という思いを人々に抱かせたでしょう。人々の期待がそのように高まる中で、主イエスはエルサレムにお入りになったのです。
人々の期待と主イエスの思い
しかし、人々が主イエスに期待していたことと、主イエスご自身が歩もうとしておられる道は全く食い違っていました。人々が待ち望んでいるダビデの子は、まさにダビデのような力強い王です。その王がエルサレムで即位することによって、今はローマの属国のようになっているこの国を異邦人の支配から解放し、またヘロデ家という、純粋なユダヤ人ではない王に支配されているこの国が、ダビデの子の支配する神の民の王国として再建され、繁栄を取り戻して、みんなが幸福に平和に暮らすことができるようになる、ということを人々は夢見ているのです。しかし主イエスは、ご自分がそのようなことのために神から遣わされたのではないことをはっきりと意識しておられました。主イエスは既に三度に亘って、これからご自分がエルサレムに行って、そこで多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺され、そして三日目に復活することを告げておられました。主イエスにとってエルサレムは、受難の場所、十字架にかかって死ぬ場所だったのです。そこへといよいよ足を踏み入れようとしておられる主イエスの思いと、その主イエスを迎えた人々の期待との間には、まことに大きな隔たりがあったのです。
ろばに乗って
主イエスはこのことをよく知っておられました。だから、どのような仕方でエルサレムに入るか、が大事であることにも気づいておられました。人々の期待に便乗して、凱旋将軍のような行列を整えて華やかに乗り込めば、さらに多くの人々をご自分のもとに集めることができたでしょう。あるいは全く逆に、「私は皆が期待しているような者ではないのだから、誰にも知られずに一人で静かにエルサレムに入りたい」と人々を説得して、いわゆるお忍びで、過越祭のためにエルサレムに来る多くの巡礼者たちに紛れて入る、ということもできたでしょう。しかし主イエスはそのどちらでもなく、第三の仕方でエルサレムにお入りになりました。そしてそれは成り行きでそうなったのではなくて、主イエスご自身がその手筈を整えたのだ、ということが本日の箇所に語られています。1、2節に語られているように、主イエスは弟子たちを遣わして「ろばと子ろば」を引いて来させ、それに乗って入城したのです。弟子たちはそのろばの上に、自分たちの服をかけて鞍代わりにし、主イエスをその上にお乗せしました。また、大勢の群衆が自分の服を道に敷き、木の枝を切って来て道に敷きました。この枝は別の福音書では「棕櫚の枝」となっており、それでこのエルサレム入城の日を「棕櫚の主日」と呼びます。彼らは自分の服と木の枝によって、ろばの背に乗って来る主イエスを迎える花道を作ったのです。そして人々は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで、主イエスを迎えました。このようにしてエルサレムに入ることを、主イエスご自身が選び取られたのです。
王としての入城
主イエスがこのようにしてエルサレムに入ったことは何を意味しているのでしょうか。主イエスは、凱旋将軍のような堂々とした姿でエルサレムに入ろうとはなさいませんでしたが、同時に、お忍びで、誰にも気づかれずに入ろうともなさいませんでした。普段は歩いて旅をしておられるのに、わざわざろばを調達してそれに乗ってエルサレムに入ったのです。そして人々が歓呼の声をあげて、主イエスをダビデの子として喜び迎えることを制止するのではなく、その歓迎をお受けになったのです。つまり、主イエスは確かに、王としてエルサレムに入城なさったのです。ご自分が神の民イスラエルの王としてエルサレムに来たことをお示しになったのです。私たちはこのことをしっかり受け止めなければなりません。主イエスは、「私はあなたがたが思っているような王ではない。王になどなるつもりはない」とはおっしゃらなかった。主イエスは確かに、ダビデの子、神の民イスラエルの王として来られたのです。このことはマタイによる福音書が一貫して語っていることです。この福音書の第1章の始めにある主イエスの系図は、主イエスがダビデ王の子孫であることを示すためのものです。また主イエスがお生まれになった時、東の国から来た占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねました。主イエスがダビデの子であり、神の民であるユダヤ人の王としてこの世に来られたことを、マタイ福音書は告げているのです。その主イエスを自分たちの王としてお迎えすることこそが、この福音書が語っている信仰です。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という叫びは、王として来られた主イエスをほめたたえる信仰者の叫びです。このように賛美して、主イエスを自分の王としてお迎えすることが信仰なのです。
柔和と謙遜
このように主イエスは王として、王の都であるエルサレムに入城なさいました。しかしその時に主イエスが自ら選び、乗ったのが「ろば」であったことが、ここでの第二の大事なポイントです。王が、王としての威厳や力を誇示してある町に入る時に用いるのは普通は馬です。ローマ帝国の将軍にとって最高の名誉は、四頭立ての馬車に乗ってローマに凱旋行進をすることだったそうです。それに比べて、ろばに乗っての入城というのはまことにみすぼらしい、そしてこっけいな姿です。ろばは馬とは違って風采の上がらない動物です。王様が乗るような代物ではないのです。しかし主イエスは敢えてろばを選び、それに乗ってエルサレムに入られました。そのことは、旧約聖書に記されている預言の成就だった、と4、5節が語っています。5節に引用されているのは、本日共に読まれたゼカリヤ書9章9節の言葉です。「シオン」とはエルサレムのことです。そこに「お前の王がおいでになる」ことが告げられています。エルサレムにその王がおいでになる、それは、ダビデの子である救い主が来られるということです。その王は、「柔和な方で、ろばに乗って」来るのです。「柔和な」というところは、ゼカリヤ書においては「高ぶることなく」となっています。謙遜で高ぶらない、ということです。ろばに乗って来ることは、柔和で謙遜な姿を表しているのです。神が約束して下さっているエルサレムの王、救い主は、柔和で謙遜な王として来られる、というゼカリヤ書の預言がご自身において成就、実現したことを示すために、主イエスはろばに乗ってエルサレムに入城なさったのです。
主イエスにおいて、柔和と謙遜とが結びついていることは、この福音書の11章28節以下にも語られていました。そこで主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいました。柔和で謙遜な王である主イエスのもとに来ることによって、疲れている者、重荷を負っている者に休らぎが与えられるのです。ろばに乗ってエルサレムに入った主イエスのお姿は、主イエスがそういう王であることを示しているのです。
理想の王?
柔和で謙遜であることは王としての理想の姿だと私たちは思います。王が残忍で無慈悲で傲慢な人だったら、その下に支配される国民は悲惨です。すぐに怒ったり、感情に任せて人を批判したり、まして他国を攻撃するような人は、一国の王の器ではない。柔和で謙遜であることこそ、良い王の基本的な素質です。どこかの国の大統領にこういうことをもう少し考えてほしいと思いますが、しかし私たちもここでよく考えなければならないことがあります。主イエスが柔和で謙遜な王であられるというのは、イエス様こそ理想的な王だ、ということなのでしょうか。もしそうなら、その理想的な王を迎えたエルサレムの人々は、イエスの下で一致団結して国を再建していったはずです。そうはならないとしても、少なくともそういうことを目指す人々が主イエスのもとに続々と集まって一大勢力となっていったはずです。ところが現実にはそうはなりませんでした。むしろ、ここで主イエスを喜び迎えた群衆は、その週の内に、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶようになっていったのです。これは、「イエス様こそ理想的な王だ」ということでは説明のつかない事態です。ろばに乗って来た、柔和で謙遜な王である主イエスは、私たちが、こんな王が、こんな指導者がいたらいいなと思っている「理想的な王」とは違うのです。その違いを理解しないと、主イエスが王として来られたことの正しい意味が分からないし、その主イエスを王としてお迎えすることもできないのです。
私たちを丸ごと担ってくださる主
それでは主イエスが柔和で謙遜な王であられるとはどういうことなのでしょうか。先ほどの11章28節以下で、柔和で謙遜な方であられる主イエスは、疲れた者、重荷を負う者をご自分のもとに招いて下さっています。私のもとに来なさい、そうすればあなたがたは休むことができる、と言っておられます。それは、主イエスが、私たちの疲れ、重荷を、共に背負って下さるということです。あるいは、重荷を負って疲れ果て、喘いでいる私たちを、主イエスが丸ごと背負って下さる、私たちの存在全体を担って下さると言ってもよいでしょう。主イエスが柔和な王であられるというのは、ただやさしいとか、穏やかだというのではなくて、私たちの人生を、存在を、根底から担って下さるということです。そのような力強さを内に秘めた柔和さなのです。そして主イエスが私たちを丸ごと担って下さる柔和さは、主イエスの謙遜によって示され、実現しています。主イエスが謙遜であられるというのは、ご自分を低くされるということです。主イエスは、神の独り子、ご自身がまことの神であられる方なのに、神としての栄光を捨てて、この地上に、一人の人間として生まれて下さったのです。しかもエルサレムの王宮においてではなくて、ベツレヘムの馬小屋で、貧しい、誰にも顧みられない姿でこの世に来られたのです。そしてさらに主イエスは十字架の死への道を歩んで下さいました。この世で最も残虐な方法での死刑と言われる十字架の苦しみと死へと、ご自分の意志によって歩まれたのです。それは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って下さるためでした。私たちが、神と隣人とに対して日々犯している罪の全てを、主イエスは引き受け、背負って、苦しみを受け、十字架の上で死んで下さったのです。これが主イエスの謙遜です。つまり主イエスの謙遜とは、威張らないとか、人を見下さないというようなことだけではありません。どうしようもない罪人である私たちのところに来て下さり、その私たちを丸ごと引き受け、背負って下さり、私たちが神に赦され、神の子として新しく生きることができるために、ご自分の命を犠牲にして下さる、それが、主イエス・キリストの謙遜なのです。この謙遜によって、私たちは担われ、背負われています。だから私たちはこの主イエスのもとに来て、重荷を降ろして休むことができるのです。
主イエスへの期待が失望に変わる私たちの現実
主イエスが柔和で謙遜な王であられるというのは、私たちのために苦しみを受け、死んで下さった、ということです。それはもはや私たちが思い描いている理想的な王の姿をはるかに超えています。つまり主イエスは、私たちが期待したり、望んでいる王ではないのです。このことこそが、ここで主イエスを喜び迎えた人々が、その週の内に「十字架につけろ」と叫ぶようになった理由でしょう。いろいろと期待していた分、みんな主イエスに失望したのです。幻滅したのです。我々が求めているのはこんな王様ではない、と思ったのです。同じことは私たちにも起るでしょう。イエス様こそ救い主だ、理想的な王様だ、この方について行こう、と思って主イエスの周りに集まる私たちの期待は打ち砕かれるのです。ろばに乗って来る王というのは、みすぼらしい、そしてこっけいな姿だと申しました。ろばに乗ってよたよたと行進してくる王などというのは、笑いものでしかないのです。「ホサナ」と叫んで迎えた人々だけでなく、きっとここには、「何だありゃ。あいつあれで王様のつもりかよ」と嘲笑っていた人々もいたに違いないのです。たとえこの時にはそういう人はいなかったとしても、結局は全ての人が主イエスをそのように嘲笑うようになっていったのです。ろばに乗った主イエスを王と信じて崇めるなどというのは、本来、こっけいなことなのです。私たちが、「いや、このイエス様こそ本当に柔和で謙遜な、理想的な王なんだ」と言って、イエスに従って世の中を変えようとしてみても、その思いはじきに失望に変わり、「十字架につけろ」と叫ぶようになっていく、あるいは弟子たちがそうであったように、主イエスのもとから逃げ去り、「知らない」と言うことになるのです。それが私たちの現実です。主イエスはそういうことをよくご存知の上で、敢えて、ろばに乗る王としてエルサレムにお入りになったのです。
受難週を歩む私たちの叫び
このエルサレム入城によって主イエスが私たちに示しておられることは、第一に、主イエスはダビデの子であるまことの王であられるということです。主イエスは確かに、王として、この世に、私たちのところに来られたのです。この主イエスを王としてお迎えすることが私たちの信仰なのです。しかしここに示されている第二のことは、その主イエスがどのような王であられるのかは、私たちの思いをはるかに超えているということです。私たちが「イエス様はすばらしい王様なんだ」と思って、そのイエスを王とする国を築こうとする、そういう思いはいとも簡単に、「十字架につけろ」という叫びに変っていくのです。私たちが主イエスをすばらしい王様だと思って従っていくことが信仰なのではありません。そういう私たちの思いはまことにはかなく、脆いものです。大切なことは、私たちが主イエスのことをどう思うかとは関わりなく、主イエスは、ろばに乗る王として、即ち私たち罪人の身代わりになって苦しみと十字架の死を引き受けて下さる、徹底的に謙遜な王として、そしてその謙遜によって、罪人である私たちを丸ごと、根底から担い背負って下さる真実に柔和な王として来て下さった、ということです。それは人間の感覚においては、こっけいなことでしかありません。神の子が罪ある人間のためにご自身を犠牲にして死ぬ、なんていうことは全くあり得ない、こっけいなことだし、神がそのようにして救って下さるなんていうのは、余りにも都合のよい、手前勝手な話です。そういう意味でもこれはこっけいなことなのです。しかし人間の感覚において全くこっけいなことだけれども、父なる神とその独り子主イエスは、このようにして救いを与えて下さったのです。神に背いている罪人であり、様々な重荷を負って疲れ果てている私たちが、赦されて神の子とされ、主イエスに担われ、背負われて、休らぎを与えられた生きる者となるために、主イエスはろばに乗る王として、徹底的に柔和で謙遜な方として来て下さり、十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。このみ心を受け止める時に、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」という歓呼の叫びが、受難週を歩む私たちの心からの叫びとなるのです。