2025年9月14日
説教題「イエスの名による信仰」 副牧師 川嶋章弘
イザヤ書 第52章13~15節
使徒言行録 第3章11~16節
ペトロの神殿説教
使徒言行録3章を読み進めています。前回1~10節を読みました。そこでは、ペトロが「生まれながら足の不自由な男」に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語りかけ、この人を癒やした出来事が語られていました。4章22節によれば、この時、この人は「四十歳を過ぎて」いました。生まれてから四十年以上の間、足が不自由であった人が癒されたのです。癒されたこの人がどのように振る舞ったかというと、8節の後半にあるように「歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、二人と一緒に」、つまりペトロとヨハネと一緒に、神殿の「境内に入って」行きました。本日の箇所の冒頭11節にも「その男がペトロとヨハネに付きまとっていると」とあります。その情景を思い浮かべれば、歩き回ったり踊ったりして神様を賛美しながら二人に付きまとっているこの人の姿はとても目立ったに違いありません。実際9、10節に、「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。彼らは、それが神殿の『美しい門』のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた」とあります。民衆はこの人に目を奪われました。そしてこの人が長い間、毎日神殿の門のそばで施しを乞うていた者だと気づき、立つことも歩くことも出来なかったはずなのに、立ち上がって歩き回り、それどころか踊って神様を賛美していることに、「我を忘れるほど驚いた」のです。それで民衆は、ペトロとヨハネがいる所へと押し寄せました。11節の後半に、「民衆は皆非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た」と言われている通りです。本日の箇所の12~26節は、このときペトロが民衆に語った説教です。「ペトロの神殿説教」と呼ばれています。長い説教ですから、本日は16節までを読み、来週17節以下を読むことにします。またこの「ペトロの神殿説教」は、4章1節以下のペトロとヨハネの逮捕へとつながっていくのです。
なぜ、わたしたちを見つめるのですか
このように民衆が「ソロモンの回廊」にいるペトロたちの所に一斉に集まって来たのは、「生まれながら足の不自由な男」の癒しの出来事を目の当たりにして驚き、この癒しを行ったペトロたちに関心を持ったからです。民衆は、彼らが特別な力を持っている、ほかの人とは違う信心、つまり信仰心を持っていると思いました。それを見てペトロは、12節でこのように説教を語り始めます。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか」。「自分の力や信心によって」は、聖書協会共同訳では「自分の力や敬虔さによって」と訳されています。ペトロとヨハネの力や敬虔さによってこの人が癒されたと思って、興味と関心を持って二人を見つめている民衆に、「なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と、「そのように私たちを見つめるのは間違っている、見当違いだ」と語ったのです。
私たちはペトロの言っていることが矛盾しているように思えます。というのも前回の箇所でペトロは、何となく自分たちを見ていたこの人を「じっと見て」、「わたしたちを見なさい」と語りかけていたからです。そのときは、「わたしたちを見なさい」と言っていたのに、本日の箇所では、「なぜ、わたしたちを見つめるのですか」、「私たちを見つめるのは間違っている」と言っている。一体どっちなんだ、見たほうが良いのか、見ないほうが良いのかどっちなんだ、と思わなくもありません。しかしペトロは矛盾したことを言っているわけではありません。
前回お話ししたように、ペトロがこの人に「わたしたちを見なさい」と語りかけたのは、ペトロたちの立派さや敬虔さを見なさい、ということではありませんでした。そうではなく全然立派ではない自分たちに、十字架を前にしてイエスを裏切ってしまったどうしょうもない自分たちに、十字架で死なれ復活されたイエスが出会ってくださり、救いを与えてくださり、新しく生かしてくださった。そのように神様の恵みによって、イエスの十字架と復活による救いによって、新しく生かされている私たちを見なさい、ということであったのです。しかし本日の箇所で、民衆はペトロたちをそのように見たわけではありません。自分の力や敬虔さによって奇跡を行った特別な人として見ました。だからペトロは、そのように自分たちが見られることを拒んだのです。ペトロにとって、自分たちは特別な人どころか、イエスを裏切った者であり、弱さと欠けと罪に満ちた者であり、その意味では、見るべき価値の何らない者です。本当に見るべきなのは、そのような自分たちがイエスの十字架と復活によって罪を赦され、新しく生かされていることなのです。
罪を赦され新しく生かされている者の群れ
前回、ペトロとヨハネの姿に私たちは、私たちの教会の姿を見る、ということもお話ししました。そうであれば私たちは、私たちの教会を、あるいは教会に連なる私たちを誤って見ている方々に、ここでペトロが告げたように、そのように見るのは間違っている、と語っていく必要がある、ということでもあります。教会と教会に連なる私たちを、色々な思いを持って見てくださる方々がおられます。私たちの教会は、どんな思いを持って教会に来てくださったとしても、その方々を歓迎します。しかしもし教会は清く、正しい人の集まりだと、立派な人、敬虔な人の集まりだと思って、教会を見ている方がいらっしゃるなら、私たちの教会は、「そのように私たちを見るのは間違っている」と伝えていかなくてはなりません。私たちの教会は清く、正しい人の集まりでもなければ、立派な人、敬虔な人の集まりでもなく、イエスの十字架と復活によって罪を赦された者の集まりだからです。イエスによって罪を赦され、新しく生かされている者の群れなのです。そのことをこそ見てください、と伝えていくのです。
しかしこのように教会と教会に連なる人を間違った仕方で見てしまうことは、むしろ私たち教会員同士の間でこそ、キリスト者同士の間でこそ起こると言うべきかもしれません。私たち自身が教会を立派な人、敬虔な人の集まりだと思って、あるいは立派な人、敬虔な人の集まりであるべきだと思って、そうではないように思える人に対して、あの人はキリスト者にふさわしくない、と批判して裁いてしまうことがあります。また私たちはこのように言ったり思ったりします。「あの人の信仰は素晴らしい、あの人は本当に敬虔な方だ、自分も少しはあの人に倣いたい」。そのように言ったり思ったりすることがすべて間違っているとは思いません。確かに私たちはほかの信仰者の姿に倣うことを通して、成長するという面があります。自分の周りに尊敬できる、見倣いたいと思える信仰者が与えられていることは本当に幸いなことでもあります。しかしそれでも、その人の信仰や敬虔さだけに目を向けるとき、そこには、人の信仰や敬虔さを比べ合い裁き合ってしまう危険が絶えずあります。私たちが本当に見るべきなのは、「あの人に倣いたい」と思える信仰者を、そのように生かしている神の恵みであり、イエスによる救いです。ほかの信仰者の姿に倣うとは、その方の真似をするというより、その方のように自分も神の恵みによって、イエスによる救いによって本当に生かされていくことなのです。
イエスの名による信仰
12節でペトロが民衆に語ったことは、要するに、生まれながら足の不自由な人が癒されたのは、ペトロたちの力や信心によるのではないということです。では、この人は何によって癒されたのでしょうか。そのことを語っているのが、本日の箇所の終わり16節です。「ペトロの神殿説教」の前半の結論部分と言って良いところです。このように言われています。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。結論を語っている大事な文章なのですが、原文が難しいため翻訳も分かりにくくなっています。それでもペトロが言いたいことのポイントははっきりしています。この人を癒したのは、ペトロたちの力や敬虔さではなく、「イエスの名」である、ということです。「イエスの名」とは、イエス・キリストご自身のことです。生きて働かれるイエス・キリストがこの人を強くし、癒したと言われているのです。ところがその一方で、「それは、その名を信じる信仰によるものです」とも言われています。つまりイエスの名を信じる、この人の信仰によって癒しが起こったと言われているのです。さらに16節の終わりではこのように言われています。「イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」。聖書協会共同訳では「その名による信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒やしたのです」と訳されています。「イエスによる信仰」が、あるいは「イエスの名による信仰」が、この人を完全に癒したのです。それは、この人がイエスの名を信じる信仰によって癒されたことと両立しないように思えます。イエスの名を信じる、この人の信仰なのか、それとも「イエスによる信仰」ないし「イエスの名による信仰」なのか、どちらがこの人を癒したのだろうか、と思うのです。しかしそのように考える必要はありません。イエスの名を信じる、この人の信仰は、この人が自分の力で得たものでも、持っていたものでもありません。あの時、この人は何となくペトロとヨハネを見ただけでした。イエスの名を信じていたのではないし、そもそもイエスの名を知らなかったかもしれません。この人の信仰は、イエスが与えてくださった信仰であり、イエスの名によって与えられた信仰です。つまりこの人は、イエスが与えてくださったイエスの名を信じる信仰によって癒されたのです。それを一言で言えば、イエスの名がこの人を癒した、となります。複雑な文章ですが、ここで見つめられていることは、イエスの名が、生きて働かれるイエス・キリストがこの人に信仰を与え、この人を癒したということにほかなりません。この出来事の主役は、この人でもこの人の信仰でもなく、ペトロやヨハネでもなく、天におられる生けるキリストです。生けるキリストが聖霊の働きによってこのみ業を行ってくださったのです。
教会と出会う中で
それでも、イエスは一体いつこの人に信仰を与えてくださったのだろうかとも思います。しかし私たちはこの人とペトロたちとの出会いに、教会との出会いを見てきました。何となく教会を見ている方を、教会が「じっと見て」、「わたしたちを見なさい」と語りかける。それによってその方が教会を期待して見る。そこにその方と教会との出会いがあります。そのように教会と出会う中でこそ、生けるキリストとの出会いが与えられ、キリストを信じる信仰が与えられていくのです。私たちはイエスを信じる信仰を持っているから、教会に通うようになるのではありません。教会と出会い、教会の礼拝に通うようになり、そこで語られるみ言葉を通して生けるキリストと出会います。そして生けるキリストが聖霊の働きによって私たちにイエスの名を信じる信仰を与えてくださるのです。だからこそ民衆が本当に見るべきであったのは、ペトロたちの力や敬虔さではなく、生きて働かれるイエス・キリストです。ペトロたちを見ることを通して、この癒しの出来事を目の当たりにすることを通して、本当に見るべきことは、生きて働かれるイエス・キリストが、ペトロたちを用いてこの人を立ち上がらせ、歩かせたことなのです。
イエスとはどのような方なのか
ここまで主に12節と16節を見てきました。ペトロたちの力や敬虔さではなく、イエスの名が、生きて働かれるイエス・キリストがこの人を癒したことを見てきました。では12節と16節の間では、何が語られているのでしょうか。そこでペトロは、この人を癒した「イエスの名」のイエスとは、どのような方なのかを語っています。まずペトロは民衆に、「あなたがたがイエスを殺した」と語ります。あなたがたはイエスを自分たちの宗教指導者たちに引き渡し、総督ピラトが釈放しようと決めていたのに、それを拒んで、イエスではなく人殺しの男バラバを赦すように要求し、イエスを十字架に架けて殺してしまった、と語ります。民衆の罪をはっきりと突きつけているのです。しかしイエスは十字架で死なれて終わりではありませんでした。ペトロは神様がそのイエスを死者の中から復活させてくださったと語ります。つまり12~16節でペトロは、イエスは十字架で死なれ、しかし神様によって復活させられた方である、と語っているのです。
その僕イエス
その中でイエスを言い表している注目すべき言葉が二つあります。一つは13節の「その僕イエス」、つまり「神の僕イエス」です。13節後半の「わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました」は、共に読まれたイザヤ書52章13節の「見よ、わたしの僕は栄える」の引用と言えます。本日は15節までしか読みませんでしたが、この52章13節から53章12節までは、いわゆる「主の苦難の僕」についての預言です。この預言がイエスにおいて成就しました。イエスは何一つ罪を犯されなかったにもかかわらず、私たちの代わりに、私たちの罪をすべて背負って、十字架で苦しみを受けて死なれ、そのことによって私たちの罪を贖ってくださいました。十字架で死なれたイエスこそ、イザヤが預言した「主の苦難の僕」であったのです。しかもこの「僕」という言葉には、「子」という意味もあります。「神の僕イエス」という言葉は、イエスが神の子であり、同時に神の僕でもあることを見つめている、そのように言って良いと思うのです。ペトロは、あるいは誕生したばかりの教会は、イエスを「神の僕イエス」と呼びました。私たちはそのように呼ぶことがほとんどないと思います。むしろ私たちが主イエスの僕である、と語ることのほうが多いのではないでしょうか。しかし私たちは忘れてはなりません。私たちが主イエスの僕とされるよりも前に、神の独り子であり、まことの神である方イエスが、神の僕となり、私たちと同じ人間となってくださり、十字架で耐え難い苦しみと死を味わい尽くしてくださった、そのことを忘れてはならないのです。神の独り子が、神の僕として十字架で死んでくださったことに私たちの罪の赦しが、私たちの救いがあるからです。「その僕イエス」という言葉は、イエスが神の僕であるとは、このことを私たちに告げているのです。
命への導き手
もう一つの注目すべき言葉は、15節の「命への導き手である方」です。ここでイエスは「命への導き手」と言われています。「導き手」と訳された言葉は新約聖書で数えるほどしか使われていない珍しい言葉、特徴的な言葉です。ヘブライ人への手紙12章2節に「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とありますが、その「創始者」が「導き手」と同じ言葉です。つまりイエスが「命への導き手」であるとは、単に命に導く方というだけでなく、その命の創始者、その命を創り出す方でもある、ということなのです。そしてここで「命」とは、「永遠の命」のことであり、さらに言い換えるならば、その永遠の命にあずからせる「救い」のことです。イエスは救いと永遠の命を生み出し、その救いと永遠の命へと導く者にほかならないのです。
ペトロは民衆に、「命の導き手」であるイエスを「あなたがたは殺した」と語ります。「あなたがたは、あなたがたの救いと永遠の命を生み出し、それへと導く方を殺した」と告げます。それは別の言い方をすれば、民衆は、自分たちに本当に必要な方を、自分たちを本当に救い、新しく生かす方を殺した、ということです。そしてこの民衆の姿は、私たちの姿でもあります。私たちは救いと永遠の命を生み出し導く方であるイエスではなく、別の誰かに、別の何かに自分の救いや慰めや支えがあると勘違いし、神様から離れ、イエスに従っていくのを後回しにしています。自分たちを本当に救い、新しく生かす方に目を向けるよりも、一時的に自分の欲求を満たすもの、安心を与えるものに目を向け、心を奪われているのです。そのような私たちの罪こそが、私たちに本当に必要な方を十字架に架けて殺したのです。
しかしペトロは告げます。「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」。私たちの罪が、「命への導き手」であるイエスを十字架に架けて殺しました。しかし神様はそのイエスを死者の中から復活させてくださったのです。十字架で死んで復活されることによって、イエスはまさに「命への導き手」となられ、私たちの救いと永遠の命を生み出し導く方となられました。私たちが自分自身の罪によって、自分たちに本当に必要な方を失い、自分たちを本当に救い、生かす方を失ったかのように思えるイエスの十字架の死において、まさにそこにおいて、神様は私たちを救ってくださり、新しく生かそうとしてくださったのです。私たちは「命への導き手」であり、私たちの救いと永遠の命を生み出し導く方であるイエスによって救われ、このイエスに結ばれることによって新しい命、永遠の命を生き始めています。それは決して不老不死になるというようなことではありません。私たちは必ず地上の生涯を終えて死を迎えます。しかしそれで終わりではない。イエスによって救われ、イエスに結ばれて生きる私たちは、終わりの日に、救いの完成のときに、復活させられ永遠の命にあずかるのです。「命への導き手」という言葉は、イエスが私たちの救いと永遠の命を生み出し導く方であるとは、このことを私たちに告げているのです。
私たちを新しく生かすため
それにしても、イエスの十字架と復活を語っている13節から15節は、「生まれながら足の不自由な男」の癒しについて語っている12節と16節とどのように関係しているのでしょうか。言い換えるならば、イエスの十字架と復活は、この人の癒しとどのように関係しているのでしょうか。この関係は、この人の癒しを身体的な癒しとして捉えているだけでは見えてきません。この人の癒しが、イエスの十字架と復活による救いにあずかり、新しく生き始めることを見つめていることに目を向ける必要があります。イエスの名がこの人に与えられとは、イエスの十字架と復活による救いがこの人に与えられたということにほかなりません。その救いが、四十年以上に亘って立ち上がることも歩くこともできず、大きな困難と深い絶望を抱えていたこの人を立ち上がらせ、歩かせ、神様を賛美して生きる者としたのです。イエスの名は、イエスの十字架と復活による救いは私たちを新しく生かします。大きな困難と深い絶望を抱えてうずくまり、立ち止まってしまう私たちを立ち上がらせて、もう一度歩み始めさせるのです。私たちは何よりも死の恐れや不安を前にしてうずくまってしまいます。しかしその私たちに、命への導き手であり、私たちの救いと永遠の命を生み出し導く方であるイエスが、死を超えた復活と永遠の命の約束を与えてくださっています。その約束を信じ、その約束に希望を置くことによって、私たちは死の恐れや不安の中でも、なお立ち上がって歩き出し、神様を賛美して生きるのです。私たちを救い、新しく生かすために、神の僕であり、「命への導き手」であるイエス・キリストは十字架で死なれ、復活されたのです。
本日の主日礼拝は創立151周年記念礼拝でした。私たちの教会は151年に亘って、神の僕であり、「命への導き手」であるイエス・キリストの十字架と復活を語り続けてきました。そしてこれからも語り続けていきます。このイエス・キリストの十字架と復活だけが、私たちに本当に必要なものであり、私たちを本当に救い、新しく生かすものである、と語り続けていくのです。
