創立記念

十字架を負って主に従う

2025年9月14日 教会創立記念礼拝 
説教題「十字架を負って主に従う」 牧師 藤掛順一

詩編 第49編1~21節
マタイによる福音書 第16章21~28節

主イエスの後ろに従うとは
 横浜指路教会は昨日、9月13日に、創立151周年を迎えました。そのことを覚えつつこの礼拝を守るのですが、聖書の箇所としては、先週の礼拝に続いて、マタイによる福音書第16章21節以下を読みます。ここには、主イエスが弟子たちに、ご自分がこれからエルサレムにおいて苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを予告なさったこと、それに対して弟子のペトロが「そんなことを言うものではありません」と主イエスを諌めたこと、すると主イエスから厳しく叱られてしまったことが語られています。先週は23節の「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」という主イエスのお叱りの言葉までを読みました。続く24節で主イエスは弟子たち全員にこうおっしゃいました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。
 この言葉は、23節のペトロへの叱責の言葉と深く繋がっています。「サタン、引き下がれ」は、原文を直訳すると「退け、私の後ろに、サタンよ」となる、ということを先週お話ししました。この叱責の言葉の原文には「私の後ろに」という言葉があるのです。そして先週お話ししたのは、4章19節の、主イエスがペトロたちを弟子として招いた時の「わたしについて来なさい」という言葉にもそれが語られていた、ということでした。これも原文を直訳すると「従いなさい、私の後ろに」なのです。このことから、「サタン、引き下がれ」という厳しい言葉は、むしろペトロを、弟子としての本来の場所に立ち返らせようとしているのだ、ということを先週お話ししました。弟子として本来あるべき場所とは「主イエスの後ろ」です。主イエスの弟子、つまり信仰者とは、主イエスの後ろについて、従っていくべき者なのです。ところがペトロは、主イエスがご自身の苦しみと死を予告すると、「とんでもないことです、そんなことを言うものではありません」と主イエスを諌めた。それは、主イエスの後ろについて従うのではなくて、その前に立ちはだかる者となってしまった、ということです。そのペトロに対して主イエスは、「あなたはサタンと同じようにわたしの邪魔をしている。そうではなくて、私の後ろについて従う者となれ」とおっしゃったのです。そしてこのことを受けて24節で、今度は弟子たち皆に、「わたしについて来たい者は」と語られました。それも直訳すると、「私の後ろについて来ようと望む者は」です。ここにも「私の後ろに」という言葉があるのです。主イエスはペトロに、わたしの前に立ちはだかるのではなくて、弟子としての本来のあり方に立ち帰って、私の後ろに従う者となれ、とおっしゃっいました。そして24節では弟子たち皆に、主イエスの後ろに従うとはどういうことなのかをお語りになったのです。

自分を捨てる
 主イエスの後ろに従う弟子として歩もうとする者は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスはおっしゃいました。主イエスの後ろに従っていくには、自分を捨てなければならない。私たちはそれを聞くとすぐに、自分が幸せになろうとするような自分中心の思いを一切捨てて「自己否定」に生きなければならないのだ、と思うのではないでしょうか。そしてそれは「自分のためではなく他の人のために生きる」、「自分のことは二の次にして人のために尽す」ということだとも思うのではないでしょうか。「自分の十字架を背負って」も、それと同じように捉えがちです。十字架を背負うとは、苦しみを負って忍耐して歩むことです。自分のためではなく他者のために生きることには、自分の願いや欲望を我慢する、という苦しみが伴います。そういう苦しみを負って生きることが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従」うことで、信仰をもって生きるとはそういうことだと思っていることが私たちは多いのではないでしょうか。そしてそこには、自分にはなかなかそれができない、本当に信仰に生きることができていない、という後ろめたい思いがいつも付き纏ってはいないでしょうか。しかし、今申しましたことは全て、主イエスの言葉を間違って受け止めた結果です。ここに語られていることをちゃんと読めば、主イエスはそんなことは言っておられないことは明らかなのです。25節にはこうあります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」。ここで主イエスは、自分の命を本当に得るためにはどうしたらよいか、を語っておられます。自分の命を本当に得ることができる生き方をしなさい、と教えておられるのです。それは「自分のことなどは考えない」ことではないし、「自分のことは二の次にして人のために」ということでもありません。むしろ、自分が本当に命を得て、幸せに生きることを真剣に求めなさい、ということです。そのことは次の26節ではもっとはっきり語られています。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。「何の得があるか」と言われています。自分にとって何が本当に得かをよく考えよと言われているのです。勿論その得は、お金が儲かるというような目先のことではありません。目先の損得を超えて、本当に自分にとって得になることを求めよ、と主イエスは言っておられるのです。つまり主イエスがここで教えておられるのは、「自分のことなど考えない」という「自己否定」ではないし、「自分のことは二の次にして人のために尽くせ」ということでもありません。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従」うというのも、それこそがあなたがたが自分の命を本当に得るための道なのだ、と主イエスは言っておられるのです。

人生を支えるもの
 26節についてさらに考えたいと思います。全世界を手に入れたとしても、命を失ってしまったら何にもならない、命を得ることこそが最も大事だ、と主イエスは言っておられます。昔の皇帝たちもそう思って、不老不死の薬を手に入れようとしました。いや昔の皇帝たちだけではありません。そのことが最近ニュースで流れていました。先日中国で行われた盛大な軍事パレードに、習近平とプーチンと金正恩が集まりましたが、彼らが話していたのは、「臓器移植を繰り返せばいつまでも生きられるのでは」ということだったのです。現代の皇帝たちも昔と同じことを考えているわけです。しかし、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と主イエスが言っておられるように、どんなに巨万の富を積んでも、命を買い戻して不老不死を得ることはできないのです。皇帝ではない私たちにはそんなことは関係ない、とは言えません。そのことを語っているのが、ルカによる福音書第12章16節以下の「愚かな金持ちのたとえ」です。畑が豊作で、有り余るほどの穀物、財産を手に入れた人が、それを倉にしまいこんで、「これでもう自分の人生は安泰だ」と言った。すると神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とおっしゃった、という話です。この金持ちは、財産があれば自分の人生が支えられ、安心して生きていける、と思った。自分の持っている豊かさによって命を自分のものにしておけると思ったのです。そこに彼の愚かさがありました。それは彼が、自分に命を与え、人生を支え、導いておられる神を忘れていたことです。自分が豊かになれば、それで命が、人生が支えられる、と思ってしまう時に私たちは、命を与え、人生を支えて下さっている神を見失い、本当の支えを失うのです。「全世界を手に入れても、自分の命を失う」とはそういうことです。また、あの金持ちが、沢山の穀物を倉に貯めこんで、「人生もう安心だ」と思った。それが「自分の命を救いたいと思う」ことです。しかしそれは愚かなことです。私たちの命は、人生は、私たちの力や努力、あるいは持っているものによって支えられてはいないのです。私たちに命を与え、そしてお定めになっている時にそれを取り去られる神こそが、私たちの人生を本当に支えて下さるのです。その神と共に生きることによってこそ、私たちは本当に自分の命を得ることができるのであって、その神を見失ってしまったら、「自分の命を失う」ことになるのです。

命の代価
 私たちは自分の命の代価を自分で支払って命を得ることはできません。自分の命を救おうとしてどんなに熱心に努めても、そのために自分のことは二の次にして人のために尽す自己否定に生きたとしても、それで自分の命を救うことはできないのです。命の代価は、私たちがとても支払うことなどできないくらい高いのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第49編はそのことを語っています。この詩は、地上の富や権力を持っている者たちを恐れたり、うらやむ必要はない、ということを歌っています。彼らがどんなに豊かな財産を持ち、力を持っていても、それで自分の魂、命を贖うことはできないのです。そのことがこの詩の8、9節にこう語られています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない」。また18節には「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない」とあります。財産や名誉をどんなに豊かに持っていても、墓にまでそれを持っていくことはできないのです。このように詩編49編は、人間の富や力とそれに依り頼むことの虚しさを語っています。その中に16節があります。「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」。この16節がこの詩の中心です。人間の力や富は命を救うことはできない。神のみが、命の代価を支払って、死の力から私たちを解放して命を与えて下さるのです。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」という問いへの答えがここに語られていると言えます。人間は自分の命の代価を自分で支払うことはできない。しかし神が、それを支払って下さり、私たちにまことの命を与えて下さるのです。
 神は、私たちの命の代価を既に支払って下さいました。それが、独り子主イエス・キリストの十字架の死です。主イエスが私たちのために、多くの苦しみを受け、殺されたことによって、神の独り子の命が、私たちの命のための代価として支払われたのです。このことによって神は、私たちの魂を贖い、陰府の手から、死の力から取り上げて下さったのです。このことは、神が私たちの命、魂を、どれほど価高いものと考えて下さっているかを示しています。神にとって私たちの命、魂は、独り子の命に匹敵するものなのです。独り子主イエスの命をすら犠牲にして下さるほどに、神は私たちの魂を、命を、大切に思って下さっているのです。

命の代価を支払うのは誰?
 ところが、私たちはこの神のみ心がなかなかわかりません。神が独り子の命をこの私のために支払って下さる、それがどんなに大きな恵みなのかがわからないのです。主イエスの受難予告を聞いて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったペトロの姿はそのことを示しています。神の独り子がご自分の命を自分たちのために支払って下さろうとしているのに、その恵みがわからず、それを受け入れようとしないのです。それは先週も申しましたように、ペトロが、主イエスには、苦しみを受けて殺されるような道ではなく、もっと栄光ある勝利の道、力に満ちた道を歩むことを期待しているからです。そしてそれは、自分たちもその栄光と勝利の道を歩みたいと願っているということです。主イエスの弟子として歩むことで、自分も栄光に満ちた生涯を送り、敵対する力に勝利することができる者となることを願っているのです。それは言い換えれば、自分で自分の命を救うことができる者になりたい、自分の命の代価を自分で支払える者になりたいということです。自分がそのように力強く生きることができる者となるのを助けてくれるのが救い主だ、と彼は思っているのです。

主イエスの後に従うことによって
 そのようなペトロに、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃいました。それは、「わたしが苦しみを受け、十字架にかけられて殺されることによって、神があなたがたの命の代価を支払って下さろうとしているのだから、そのみ心の邪魔をするな」ということです。そして弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいました。それは、「自分で自分の命を救うことができる強い者、力ある者となろうとするのでなく、私の後について来る者、私の苦しみと死を通して神が与えようとしておられる命をいただいて、それによって生きる者となりなさい」ということです。それこそが「自分を捨てる」ことなのです。「自分を捨てる」とは、他の人のために自分を犠牲にすることではありません。主イエス・キリストの十字架の死による救いと、そこに示されている神の恵みによって与えられる命をこそ求め、自分の力や努力で救いや命を獲得しようとする一切の思いを捨てることです。そしてひたすら主イエス・キリストの後に従って歩む者となることです。言い換えれば、主イエスなしに、自分だけでやっていける者になろうという思いを捨てることです。人にどう思われても、どんなにみっともない、惨めな生き方だと言われても、ひたすら主イエス・キリストの後ろについて生きる、それが「わたしのために命を失う」ということであり、主イエスの弟子、信仰者として生きるとはそういうことなのです。そこにおいてこそ私たちは、自分の命を本当に得ることができます。神が独り子の命を代価として払って下さったほどに、自分の命は神にとって価高いのだ、ということを知って生きることができるのです。そこには、自分の命の代価を自分で払おうとしているところには決して得ることができない喜び、感謝、平安があるのです。

自分の十字架を背負って
 主イエスは私たちに命を与えるために十字架の苦しみと死への道を歩んで下さいました。その主イエスの後ろに従う私たちも、栄光への道ではなく、十字架を背負って歩むのです。私たちが背負う十字架とは何でしょうか。それは一つには、世の人々の無理解にさらされ、妨害や迫害を受けることです。信仰に生きる者はそういう苦しみを背負うことになります。この教会の151年の歴史は、私たちの信仰の先達たちが、そのような苦しみを負って、自分の十字架を背負って主イエスに従った歴史です。彼らはそれによって、主イエスがご自分の命を犠牲にして贖い取って下さったまことの命をいただいて歩んだのです。その歩みを受け継ぐ私たちも、自分の十字架を背負って主イエスに従って行くのです。そのことによってこそ、主イエスの十字架の死と復活によって実現した命の恵みにあずかることができるのです。
しかし私たちが背負う十字架はそれだけではありません。この世を生きる中で私たちは様々な苦しみを体験します。特に人と人との関係において、多くの苦しみを味わうのです。それは私たちの罪のゆえの苦しみです。人の罪によって傷つけられ、苦しみを受けることもあれば、自分の罪が人を傷つけ、苦しめてしまうこともあります。そのように私たちは、お互いの罪による苦しみを負っているのです。それは主イエスに従う信仰によって受ける苦しみではありません。けれども主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちの罪のためであり、私たちの罪を赦して新しい命を与えて下さるためでした。ですから私たちがお互いの罪のために受ける苦しみと、主イエスの苦しみとは重なるのです。私たちは、人の罪による苦しみを背負ってそれを赦すという忍耐において、また自分が人に対して罪を犯していることを覚えて、その重荷を負うことによって、主イエスが私たちの罪のゆえに受けて下さった苦しみを自分自身の身に体験していくのです。つまり私たちがお互いの罪による苦しみを負って歩むことも、自分の十字架を背負って主イエスの後に従うことの一環となるのです。
それだけでなく、私たちの人生には、罪とは直接関わりのない苦しみがあります。病気や老いや障がい、あるいは災害などによる苦しみによっても、私たちの人生は脅かされています。それらも、主イエスに従う信仰による苦しみではありません。しかし主イエスの十字架の苦しみと死において、神が独り子の命を私たちの命の代価として支払って下さったことを信じて歩む時に、それらの苦しみも、主イエスの後に従って行く信仰と無関係ではなくなります。神が独り子主イエスの苦しみと死によって私たちの命の代価を支払って下さったことが、それらの苦しみの中にいる私たちを支えるのです。苦しみの中でも私たちは、神が独り子の命を支払って下さったほどに自分の命を大切に思って下さっていることを信じて歩むことができるのです。そこにおいては、苦しみを忍耐して生きることも、十字架を背負って主イエスの後について行くことになるのです。要するに、主イエスの十字架によって神が与えて下さった命にあずかって生きるなら、私たちが人生において味わう全ての苦しみは、主イエスに従う者の背負う十字架となるのです。

再臨を待ち望みつつ
 主イエスの十字架の死によって、神は私たちの命の代価を支払って下さり、私たちに命を与えて下さいました。その命は、この世の終わりに、主イエスが栄光の内にもう一度来られる、いわゆる再臨の時に完成します。そのことが27節に語られています。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。ここには、主イエスの再臨において行われる最後の審判のことが語られています。十字架の上で死んで、三日目に復活した神の独り子主イエス・キリストは、この世の終わりにもう一度来られ、全ての者をお裁きになるのです。その時に自分はどうなるのだろうか、「行いに応じて報い」られるとしたら、とてもじゃないけど救いにあずかることなどできないのではないだろうか、と私たちは不安を覚えます。しかし28節にはこう語られています。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。ここには、主イエスの再臨と世の終わりがすぐにも来る、と考えていた初代の教会の人々の信仰が反映していますが、大事なことは、その再臨が喜びをもって待ち望まれていることです。世の終わりの最後の審判は、ご自分の命を私たちの命の代価として与えて下さった主イエスによってなされるのです。私たちに命を与えるために、独り子の命をも犠牲にして下さった神のご支配が、この世の終わりには必ず確立するのです。私たちはその希望に支えられて、それぞれに与えられている十字架を背負って、主イエスの後に従っていくのです。

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