2025年8月31日 夕礼拝
説教題「安心して行きなさい」 牧師 藤掛順一
列王記下 第5章1〜19a節
マタイによる福音書 第15章21〜28節
エリシャの奇跡
私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いていますが、前回の5月から列王記下に入りました。ダビデ、ソロモンのもとに繁栄していたイスラエル王国はその後、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。列王記上の終わりのところには、北王国に異教の神バアルへの崇拝を広めたアハブ王と対決した主なる神の預言者エリヤのことが語られていました。前回読んだ列王記下の第2章には、そのエリヤからエリシャへと、預言者の務めが受け継がれたことが語られていました。エリヤがエリシャを自分の後継者としたのではありません。主なる神のみ言葉を告げ、王さまとも対決してみ業を行っていく預言者は、主なる神ご自身がお立てになり、お遣わしになるのです。列王記下の3章以降は、新たに立てられた預言者エリシャの物語です。そこにはエリシャが行ったいくつかの奇跡のことが語られていますが、本日の第5章も、アラムの王の軍司令官だったナアマンという人の病を彼が癒した、という話です。本日はこの話をご一緒に味わいたいと思います。
不思議なこと
アラムの王とありますが、アラムとは、北王国イスラエルが国境を接している外国です。聖書の後ろの付録の地図の中に「統一王国時代」と「南北王国時代」というのがありますが、そのいずれにおいても、地図の一番右上、つまり北王国イスラエルの北東にアラムがあり、その首都はダマスコです。北王国イスラエルとアラムとの間には度々戦争があったことが列王記上に語られていました。ナアマンはそのアラムの王の軍司令官、つまりイスラエルにとっては敵軍の司令官です。そして本日の5章1節には、このナアマンは「主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」とあります。ナアマンは有能な軍司令官であり、アラムに勝利をもたらしたために王に重んじられていたのです。イスラエルとの戦いにおいてもでしょう。主が彼を用いてアラムに勝利を与えられた、ということは、イスラエルの神である主が、イスラエルとの戦いにおいてナアマンを用いてアラムに勝利をもたらしたのです。そういう不思議なことがここには語られています。そのことを頭に置いておいて、先を読み進めていきたいと思います。
重い皮膚病の癒しを求めて
このナアマンは「重い皮膚病」を患っていました。これは主に皮膚に症状が現れる病気を指す言葉ですが、旧約聖書には、皮製品や家もこの病気にかかるとも言われていて、かつてなされていたようにこれをある特定の病気と断定することは医学的に不可能です。むしろこれは律法において「汚れ」と規定されている状態を指しているので、来年度から礼拝において使用することになった聖書協会共同訳では、「規定の病」と訳されています。ナアマンはこのやっかいな病気の苦しみを負っていたのです。
さて、このナアマンの妻の召使に、イスラエルの地から連れて来られた一人の少女がいました。アラム軍の略奪隊によってイスラエルの地から拉致されて来た少女です。その少女がナアマンの妻の召使だったということは、この略奪隊を率いていたのはナアマンだったということでしょう。ナアマンが率いるアラム軍がイスラエルを脅かしていたことがここにも示されているのです。
この少女が、ナアマンの妻に、イスラエルの預言者エリシャのことを伝えます。3節です。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」。「サマリアの預言者」がエリシャのことです。彼が病を癒す奇跡を行っていることは知れ渡っていました。この少女の言葉を妻から聞いたナアマンは主君であるアラムの王に、自分をサマリアに遣わしてくれるように願います。王はそれを聞き入れ、イスラエルの王への手紙を託します。いつもは戦っている敵のもとへ軍司令官を遣わすのですから、戦いのためではなく、彼の病の癒しのための平和的な訪問であることを伝える必要があったのです。その手紙にはこう記されていました。8節です。「今、この手紙をお届けするとととも、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように」。この手紙を受け取ったイスラエルの王はパニックに陥りました。彼はこう言っています。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ」。彼はアラムの王が、重い皮膚病の男を癒せという無理難題を押し付けて、それを口実にしてイスラエルに戦争を仕掛けようとしているのだ、と思ったのです。これはアラムの王の手紙が言葉足らずであったことと、イスラエルの王の被害妄想とによって起こった滑稽な誤解です。しかしここにはとても大事なことが語られています。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか」というイスラエルの王の言葉です。人を生かしたり殺したりすることができるのは主なる神お一人である、つまり人の命を支配しているのは神であって王ではない、ということを、イスラエルの王が語ったのです。
イスラエルの王がこのようにパニクっていることを聞いたエリシャは、人を遣わして「その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」と伝えさせました。エリシャは、イスラエルには病を癒す力を持った私がいることを彼は知るでしょう、と言ったのではありません。「イスラエルに預言者がいることを知るでしょう」というのは、イスラエルにおいては、主なる神が預言者を通してみ言葉を語り、み業を行っておられることを彼は知るでしょう、ということです。そのために彼を私のところによこすようにとエリシャは言ったのです。
誇りを傷つけられたナアマン
イスラエルの王から預言者エリシャのことを聞いたナアマンは、「数頭の馬と共に戦車に乗って」、つまり軍司令官としての威を正してエリシャの家の入り口に立ちました。しかしエリシャは彼の前に出て来ようとはせず、使いの者をやって「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」と告げさせました。これを聞いたナアマンは怒り、憤慨して立ち去りました。彼はこう言っています。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた」。彼はエリシャが自分の前に出て来て、主なる神の名を呼んで、いかにもそれらしい癒しの業をしてくれることを期待していたのです。彼が期待していたのは、エリシャがいわゆる呪術を行って彼の病気を癒すことでした。呪術というのは、特別な力を持った人が、神の名を呼んで、普通の人にはできない例えば癒しの奇跡を行うことです。呪術師はまじないや呪文を唱え、神の力を患部に注ぐような仕草をして、癒しを行うのです。それは、呪術師が神の力を思いのままにコントロールして行うことです。ナアマンは、預言者も、このような呪術による癒しをするのだろうと期待していたのです。しかしエリシャは彼の前に姿を現しもせず、使いの者によって言葉を伝えただけでした。ナアマンはこれに失望しました。いかにも効き目がありそうな癒しの業を期待していたのに、与えられたのは言葉だけだったのです。さらに彼は、地位の高い軍司令官である自分が外国から癒しを求めて訪ねて来たのに、姿を現しもしないのは失礼だ、とも思ったのです。また彼はこうも言っています。「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」。ナアマンは、自分の病気は川で身を洗うぐらいで治るような簡単なものではない、と思っているのです。さらに、イスラエルの川ヨルダンよりも、自分の国の川アバナやパルパルの方がよほど清らかで水量も豊かだ、とも思っています。そこには、自分の国アラムへの誇りがあります。これらの思いによってナアマンは、エリシャがアラムの軍司令官である自分を軽んじ、自分の国アラムをも馬鹿にしていると感じて、誇りを傷つけられ、それで怒り、憤慨しながら立ち去ったのです。
しかし彼の家来たちが彼を説得しました。彼らが言ったのは、もしあの預言者が、行うのがとても大変なことを命じて、こうすれば病気が治る、と言ったなら、あなたはその通りにしたのではありませんか、彼が言ったのは、ヨルダン川で七度身を洗えというだけの、ごく簡単なことではありませんか、だったら、騙されたと思ってやって見たらどうですか、ということです。ナアマンはこの家臣たちの説得を受け入れて、ヨルダン川で七度、身を洗いました。すると彼の体は元に戻り、子供の体のように清くなったのです。
謙遜になることが必要
この出来事は私たちに何を語りかけているのでしょうか。先ず第一にそれは、主なる神による救いは呪術によるものではない、ということです。神の救いは、特別な力を持った人間がまじないや呪文を唱えて神の力をコントロールすることによって実現するのではなくて、神ご自身が、み言葉によって行われるのです。そしてここに示されている第二のことは、この神のみ言葉による救いのみ業にあずかるためには、謙遜にならなければならない、ということです。ナアマンは、エリシャが自ら自分の前に出て来て、それらしい癒しの業を行うことを求めていました。それは、エリシャが自分のことを重んじることを求めていたということです。いかにもそれらしい呪文やまじないによる癒しの儀式は、効き目がありそうに感じられると同時に、自分が重んじられ、大切にされている、という感覚を人に与えるのです。しかしエリシャは、人づてに言葉を与えただけでした。ナアマンはそれを、自分を軽んている、と感じて怒ったわけですが、しかし神による救いは、言葉によってこそ与えられるのです。その救いにあずかるためには、自分の社会的地位に対するプライドや、自分が重んじられることを求める誇りを捨てて、神のみ言葉に聞き従う謙遜さが必要です。いかにもそれらしく見える呪術は、人間のプライドを満足させますが、神のみ言葉による救いにあずかるためには、プライドつまり誇りを捨てて謙遜にならなければならないのです。
それは言い換えれば、神のみ言葉による救いは、人間の感覚においてはみすぼらしいものに感じられる、ということです。ナアマンが「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコのアバナやパルパルの方が良いではないか」と言ったことにはそういう思いが現れています。神の言葉によって示されたヨルダン川は、他の川と比べて特に立派ではない、むしろみすぼらしい川なのです。そんなところへ行って身を洗っても癒しなど起こるとは思えないのです。つまりナアマンは、自分の誇りを捨てると共に、自分の感覚や常識に固執することもやめて、神のみ言葉に聞き従ったのです。この謙遜によって彼は、主なる神による大いなる救いを体験することができたのです。
まことの神との出会い
この体験を通して彼が気づかされた大事なことが15節に語られています。癒された彼はエリシャのもとに来てこう言いました。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」。つまり彼は、呪術によってではなくみ言葉によって救いのみ業をなさるイスラエルの主なる神こそが、生きておられるただ一人のまことの神であることに気づいたのです。いや、気づいたと言うよりも、生きておられるただ一人のまことの神と出会ったのです。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられない」という彼の言葉は、7節でイスラエルの王が「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか」と言ったことと繋がります。人を本当の意味で生かしまた殺すことができるのは、つまり人の命を本当に支配しているのは、政治的な権力を握って居る王、つまり人間ではなくて、ただ一人のまことの神なのです。ナアマンはその神と出会い、その神によって新たな命を与えられたのです。そしてこのことが、1節に語られていたあの不思議なこととも繋がります。イスラエルの主なる神が、ナアマンを用いて敵であるアラムに勝利を与えられた。それは不思議なことに感じられますが、しかし、生きておられるただ一人のまことの神である主は、イスラエルの民だけを支配し、導いているのではありません。主なる神こそが、イスラエルもアラムも含めたこの世界の全ての人々を生かしまた殺すことのできる方なのです。ナアマンはこの、ただ一人のまことの神と出会ったことによって、自分がイスラエルとの戦いに勝利して王の信頼を得たことも、主なる神の導きによることだったことに気付かされたのです。つまり、自分が全く意識しておらず、知らなかった時にも、ただ一人のまことの神である主が、自分を導いてくれていたことを知ったのです。そして、重い皮膚病の苦しみも、自分をエリシャのもとへと導いて癒しを与え、ただ一人のまことの神と出会わせて下さるための、主なる神の導きだったことを示されたのです。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」という彼の言葉には、この世界と自分の人生の、隠されていた真実に目を開かれた者の驚きと喜びが込められているのです。
カナンの女の信仰
イスラエルの民の一員ではない異邦人であるナアマンは、このようにして、生きておられるただ一人のまことの神である主と出会い、その救いにあずかりました。そのことは、彼が、自分の誇り、プライドを捨てて、主なる神のみ言葉に聞き従ったことによって実現しました。それと同じ出来事が語られている新約聖書の箇所、マタイによる福音書第15章21節以下を先ほど共に読みました。主イエスが、ティルスとシドンの地方に行った時に、異邦人であるカナンの女と出会った話です。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいるこの女が、主イエスに癒しを求めたのです。しかし主イエスは、自分はイスラエルの家の人々のもとにだけ遣わされている、と言って、その願いに応えようとなさいませんでした。それでもなお願い続ける女に、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とすらおっしゃったのです。つまり彼女は、あなた方異邦人は子犬だ、子犬にやるパンはない、と言われてしまったのです。普通なら、「犬とは何だ」と怒って去っていくでしょう。しかし彼女はこう言ったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。それを聞いた主イエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」とおっしゃり、その時、娘は癒されたのです。この女は、「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」という主イエスの言葉を「主よ、ごもっともです」と受け入れています。異邦人であるあなたは犬と同じだ、と言われたことを、「その通りです」と受け止めているのです。それは彼女が、自分の誇りやプライドを捨てて、主イエスのみ言葉を受け入れた、ということです。彼女は「犬とは何だ、自分も一人の人間として救いを求める権利がある」とは言わなかった。確かに自分は犬です、主イエスの救いを受けるのに相応しい子ではありません、と認めたのです。その上で、「しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったのです。それは彼女が主イエスの「子犬」という言葉に、家族にかわいがられている子犬に対する主イエスの愛と慈しみを感じ取ったということです。自分の誇りを捨てて、主イエスの言葉を謙遜に受け入れたからこそ、彼女は、冷たい拒絶とも思える主イエスの言葉の中に、なお愛と慈しみのみ心があることを感じ取ることができ、その救いにあずかることができたのです。神の言葉を謙遜に受け入れたことによって救いにあずかった、という点で、彼女も、ナアマンが体験したのと同じ救いを体験したと言うことができるでしょう。私たちが、主イエスによって与えられる神の救いにあずかることも、このようにして実現するのです。
ただ一人のまことの神である主と出会ったナアマンは、新しく生き始めます。17節で彼は「僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」と言っています。生きておられるまことの神である主と出会い、主による救いにあずかった者は、主のみを礼拝して生きるのです。人を本当の意味で生かしたり殺したりすることのできるただ一人の方である主なる神が、自分が全く意識していなかった時にも、自分の人生を導いいておられ、成功を与えたり、あるいは病の苦しみを与えることによって、主との出会いを与え、その救いにあずからせて下さった。この隠されていた真実に目を開かれた彼にとって、主なる神以外のものを礼拝することはもあやあり得ないのです。
異教社会の中で信仰者として生きる
しかし18節以下にはこういうことも語られています。彼ナアマンはアラムの軍司令官であり、アラムの王に仕える者です。アラムはリモンという神を拝んでいる国です。アラムの王がリモンを礼拝する時に、軍司令官である彼はその介添えをしなければなりません。「主がそのことについてこの僕を赦してくださいますように」と彼はエリシャに願ったのです。エリシャはそれに対して「安心して行きなさい」と答えました。ここに描かれているのは、異なる神への信仰が主流である社会において、主なる神を信じ、主のみを礼拝して生きようとする信仰者が体験する葛藤です。私たちもまさにこういうことを常に体験しています。エリシャは、その葛藤を負って生き始めようとしているナアマンに、社会における立場のゆえにリモンへの礼拝に参加することを認めました。偶像の神々への礼拝には一切参加してはならない、とは言わなかったのです。自らの信仰においては主なる神のみを信じ礼拝するけれども、この世の社会生活においては、他の神々への礼拝との関わりを完全に断つことができない、ということがあってもよい、ということです。これについては、そんななまぬるいことではいけない、主を信じた者は、どんな迫害を受けても、社会的地位を失っても、他の神々への礼拝とは一切関らずに生きるべきだ、という考えもあるでしょう。しかし少なくともエリシャはここで「安心して行きなさい」と言ったのです。生きておられるまことの神である主と出会い、主を礼拝して生きることは、あのカナンの女が体験したように、主イエス・キリストの愛と慈しみのみ心の中で、安心して歩むことを私たちにもたらすのです。それは決して安易なことではありません。この安心に生きるためには、自分の誇りや思い、常識を捨てて、主なる神のみ言葉を謙遜に聞き、それを受け入れ、それに従うことが求められているのです。そこにこそ、「安心して行きなさい」という神の、主イエスのみ言葉が響くのです。私たちが、迫害を恐れずに主イエス・キリストの父なる神のみを礼拝して生きる者となることも、私たち自身の決意や努力によってではなく、「安心して行きなさい」という神の恵みのみ言葉を受けて歩んでいくことによってこそ実現していくのです。
