説教「キリストの証人として」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第52章7-10節
新約聖書 ルカによる福音書第24章44-53節
ルカ福音書から使徒言行録へ
私が夕礼拝を担当するときはルカによる福音書を読み進めてきました。本日でこの福音書を読み終えます。読み始めたのは、私が横浜指路教会に着任した2019年度の5月ですから、大体6年をかけて読み終えたことになります。こんなにも時間がかかったのは、2020年度、2021年度は、コロナ禍のために夕礼拝をお休みしていたからです。ですから実質的には4年間で読み終えたことになります。2022年度に夕礼拝を再開してからの3年間は、教会がコロナ禍から脱却していく歩みの中で、ルカ福音書を聞き続けてきました。そして今、2025年度を迎え、夕礼拝をお休みしていたのが遠い昔に感じられるほど、ほぼ完全にコロナ禍から脱却した、と言えるでしょう。いつの時代も教会の最大の使命は伝道ですが、コロナ禍から脱却した今こそ、私たちの教会は伝道に邁進していきたいのです。
そのような状況の中で、私たちはルカ福音書を読み終えようとしています。では、次は何を読むのだろうか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実はもう決めています。来週はペンテコステなので、それに合った箇所を読みますが、その次からは使徒言行録を読み始めます。使徒言行録は、ルカ福音書の続きと考えられています。ルカ福音書の著者ルカは、第一巻としてルカ福音書を書き、第二巻として使徒言行録を書きました。使徒言行録では、聖霊が降り、教会が誕生し、そしてその教会が伝道していく姿が描かれています。それは決して順風満帆な歩みではありません。誕生したばかりの教会は多くの困難に直面しながら伝道していくのです。私たちはコロナ禍から脱却していく歩みの中でルカ福音書を読んできました。そしてコロナ禍から脱却した今、教会が伝道に邁進すべきときに、この使徒言行録を読むことへと導かれています。ですから本日私たちは、ルカ福音書を読み終えますが、ただ読み終えるのではなく、使徒言行録に目を向け、使徒言行録を読み始める備えをしつつ、読み終えたいのです。そしてそれは私の思いというより、ルカ福音書と使徒言行録の著者ルカの思いと言ったほうがよいでしょう。著者ルカは、明らかにこの箇所で、単に福音書の終わりを記しているだけでなく、使徒言行録とのつながりを意識しています。そのことに目を向けつつ、ルカ福音書を読み終えたいのです。
主イエスと弟子たちとの関係の変化
本日の箇所の冒頭に、このようにあります。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。「まだあなたがたと一緒にいたころ」と言われています。このときも主イエスご自身が弟子たちと一緒にいたのに、このように言うのは不思議な感じがします。このことは、前回もお話ししましたが、主イエスと弟子たちの関係が変化したことを示しています。かつて主イエスは弟子たちといつも一緒にいて、共に生活をしながら旅をしていました。しかし今や、復活の主イエスは同じように弟子たちと一緒にいてくださるわけではありません。これまで24章で見てきたように、復活の主イエスは弟子たちと一時的に一緒にいるだけであったり、そのお姿が弟子たちの目に、すぐに見えなくなったりしました。この主イエスと弟子たちの関係の変化は、主イエスが復活と昇天の間を歩んでおられることと関わっています。主イエスの昇天については、本日の箇所の50節以下で語られていますが、その51節に主イエスが、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とあります。「昇天」は、「昇る」、「天」と書きます。それは、主イエスが死なれたことを意味するのではなく、天に昇られたことを意味します。体を持って復活された主イエスは、その体を持って天に昇られたのです。この出来事は、使徒言行録1章6節以下でさらに詳しく語られています。その9節でも「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と語られています。主イエスが天に上げられることによって、弟子たちの目には主イエスが見えなくなる。主イエスの昇天後は、弟子たちは目に見えない復活の主イエスを信じて生きていくことになるのです。その意味で、主イエスの十字架と復活、そして昇天によって、主イエスと弟子たちの関係は決定的に変わり、新しい時代が始まった、と言って良いのです。
主イエスの昇天後の時代に生きる私たち
この新しい時代に、主イエスの昇天後の時代に、私たちも生きています。私たちの信仰の歩みは、目に見えない復活の主イエスを信じて生きる歩みです。いえ、それだけではありません。私たちが伝道するとは、目に見えない復活の主イエスを人々に伝えていくこと、証ししていくことです。つまり私たちの信仰生活、教会生活は、目に見えない復活の主イエスを信じ、その目に見えない復活の主イエスを人々に証しして生きる歩みなのです。それは簡単なことではありません。弟子たちはその目で復活の主イエスを見ても、なかなか信じられませんでした。そうであるなら目で見ることのできない私たちが信じるのは、より一層、難しいことに違いありません。それを人々に証ししていくことにも困難を感じずにはいられないのです。
弟子たちにとって主イエスの復活と昇天の間は、主イエスの昇天後の時代、新しい時代に備えるための準備期間であった、と言えます。目に見える復活の主イエスが現れてくださって、目に見えない復活の主イエスを信じる備えをしてくださったのです。私たちには残念ながらこの準備期間は与えられていません。ここに弟子たちと私たちの大きな違いがあります。しかしだからといって、この準備期間に復活の主イエスが弟子たちに語り、示してくださったことは、私たちには関係ないということではありません。むしろ主イエスの昇天後の時代に生きる私たちに、目に見えない復活の主イエスを信じ、それを証ししていくことが、どのように起こされるかを語っているのです。
聖書に書いてある事柄は実現する
主イエスが、かつて弟子たちに語ったことは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」ということでした。「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、要するに旧約聖書全体という意味です。主イエスは、ご自身について旧約聖書全体に書いてある事柄は必ずすべて実現する、と言われたのです。確かに弟子たちは目に見える復活の主イエスに出会うことができました。復活の主イエスはご自分の手や足をお見せくださり、焼いた魚を一切れ食べてくださいました。しかしそれでも弟子たちは、主イエスの復活を信じられたわけではありません。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスについて旧約聖書に書いてある事柄は実現する、と分かることによってこそ与えられるのです。
心を開かれて
このことが分かるために、弟子たちには何が必要だったのでしょうか。もっと聖書を学んで、その知識を増やせば良いということでしょうか。そうではありません。45節に、「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。「心の目を開いて」と訳されていますが、原文には「目」という言葉はありません。「心を開いて」と言われているだけです。弟子たちに必要だったのは、心を開くことでした。自分の力で心を開くのではありません。復活の主イエスによって心を開いていただく必要があったのです。主イエスによって心を開かれることによってこそ、聖書を悟ることができます。「悟る」というのは、聖書に書いてあることを単に情報や知識として知ることとは違います。「理解する」こと、「納得する」ことです。弟子たちは復活の主イエスによって心を開かれ、主イエスについて旧約聖書に書かれていることはすべて実現する、と納得することによって、主イエスの復活を信じる信仰を与えられたのです。
主イエスについて旧約聖書に書かれている事柄とは、具体的には何でしょうか。それが、46節以下で語られています。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。弟子たちは心を開かれることによって、このことが主イエスにおいて実現する、と納得しました。旧約聖書が指し示していたメシア、救い主とは、主イエスであった、と納得したのです。単なる情報や知識として知ったのではなく、ほかならぬ自分たちのために、自分たちを救い、自分たちの罪を赦すために、主イエスが十字架で苦しみを受けて死なれ、三日目に死者の中から復活してくださった、と腑に落ちたのです。聖書を悟るとは、そういうことです。そして、主イエスの十字架と復活によって実現した救いは、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられ」ていきます。すべての人々が、悔い改めて、つまり神様のほうに向き直り、主イエスによる救いを信じ、受け入れ、罪の赦しにあずかることへと招かれているのです。
聖霊のお働きによって
私たちも心を開かれ、主イエスについての聖書の証言が実現する、と納得することを通して、目に見えない復活の主イエスを信じる信仰を起こされていきます。しかしこのときの弟子たちと違い、主イエスの昇天後の時代を生きる私たちは、目に見える復活の主イエスが現れて、私たちの心を開いてくださるという経験を与えられるわけではありません。けれども主イエスは、天に昇られた後、聖霊を送ってくださいました。ルカ福音書の終わりでは、このことはなお隠されていて、49節で「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とほのめかされているだけです。しかしこのルカ福音書の終わりでほのめかされていることが、その続きである使徒言行録で明らかにされます。この主イエスが送ってくださる「父が約束されたもの」こそ、「高い所からの力」こそ、聖霊にほかならないのです。この聖霊のお働きによって私たちの心が開かれ、私たちは主イエスについての聖書の証言がすべて実現する、と納得します。単なる情報や知識としてではなく、この「私」の救いのために、この「私」の罪の赦しのために、主イエスが十字架で死んでくださり復活してくださった、と腑に落ちるのです。そのことを通して、目に見えない復活の主イエスを信じる信仰が、私たちに起こされていくのです。
キリストの証人として
主イエスは弟子たちに47節の後半から、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われています。心を開かれ、自分たちのために主イエスが十字架で死んで復活されたと納得して、復活の主イエスを信じた弟子たちに、主イエスは「証人」としての務めを与えられました。「これらのことの証人となる」の「これらのこと」とは、キリストの十字架と復活によって、私たちの罪が赦され、私たちが救われたことにほかなりません。弟子たちはこのことを証しする者となる、キリストによる救いを証しする「キリストの証人」となるのです。聖書に示されている神様のご計画は、「キリストの証人」とされた弟子たちを用いて、キリストによって実現した罪の赦しと救いを、あらゆる国の人々に宣べ伝えることに、つまり伝道することにあったのです。
私たちも心を開かれ、自分のために主イエスが十字架で死んで復活してくださったと納得して、目に見えない復活の主イエスを信じて生きていくだけではありません。弟子たちと同じように、私たちもキリストを証しする「キリストの証人」とされているからです。目に見えない復活の主イエスを信じて生きる歩みは、その主イエスを証しして生きる歩みと切り離せないのです。2000年をかけて、キリストの十字架と復活による救いの良い知らせ、つまり福音は世界中に広がっていきました。しかしなお「あらゆる国の人々に」宣べ伝えられたわけではありません。まだキリストを知らない方々が、私たちの身近なところにもたくさんいらっしゃる。あるいは知っていても、情報や知識としてしか知らない方々もたくさんいらっしゃる。その方々に私たちは、私たちの教会は「キリストの証人」として、ほかならぬ私たちの救いのためにキリストが十字架で死なれ復活されたことを宣べ伝えていくのです。コロナ禍から脱却した今こそ、私たちの教会は、「キリストの証人」として、キリストによる救いを人々に届けていくために伝道に邁進していきたいのです。
聖霊が降るのを待つ
しかし私たちは自分の力に頼って、目に見えない復活の主イエスを証しし、キリストによる救いを宣べ伝えていくのではありません。もし伝道が自分たちの力にかかっているなら、私たちは伝道に邁進することに躊躇を覚えるしかありません。そんな力があるだろうか、と思わずにはいられないのです。しかし主イエスは弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われて、すぐに彼らを伝道に遣わしたのではありません。むしろ待ちなさい、エルサレムにとどまっていなさい、と言われました。49節にこのようにあります。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。つまり、主イエスが送ってくださる「父が約束されたもの」であり「高い所からの力」である聖霊を待ちなさい、そのためにエルサレムにとどまりなさい、と言われたのです。聖霊のお働きなしに、聖霊に覆われることなしに、キリストの十字架と復活による救いを証ししていくことなどできないのです。私たちも自分の力に頼って伝道するのではありません。伝道は神のみ業です。聖霊のお働きによって、聖霊に覆われることによって私たちは、神のみ業、伝道のみ業にお仕えしていくのです。弟子たちは、なお聖霊が降るのを待たなくてはなりませんでした。そしてその聖霊が降る出来事、聖霊降臨の出来事が語られるのはルカ福音書においてではありません。その続きである使徒言行録においてです。ルカ福音書の終わりは、神の救いのご計画がこれで終わりではなく、なお続きがあることをほのめかしています。ルカ福音書の終わりは、使徒言行録が語る聖霊降臨の出来事の予告でもあるのです。
十字架の死と復活が中心
それにしても、ルカは、46節で聖書に書かれていることとして、主イエスのご受難より前の地上のご生涯にまったく触れていません。私たちはこれまでルカ福音書を読み進めてきた中で、主イエスが地上のご生涯で、多くのみ業を行い、多くの教えを語ってくださったことを見てきました。これまで何章にも亘って語ってきたそれらのみ業や教えにまったく触れていないのは不思議な感じがします。しかしルカにとって、この福音書の中心は、主イエスが苦しみを受け十字架で死なれ、復活されたことにある、キリストの十字架の死と復活にあるのです。それは、地上の生涯における主イエスのみ業や教えはどうでも良いということではありません。しかし主イエスが地上に来てくださったのは、何よりも十字架で死なれ、復活されるためであった。そのことによって私たちを救うためであったのです。そしてルカは、キリストの十字架の死と復活がこの福音書の中心であることを示すとともに、ルカ福音書の続きである使徒言行録の中心でもあることを意識しています。使徒言行録において、聖霊が降って誕生した教会が宣べ伝えたことは何であったでしょうか。主イエスの地上の生涯におけるみ業や教えではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活です。ルカは、このことにおいても、福音書の終わりを読む私たちに、使徒言行録へと意識を向けるよう促しているのです。
主イエスの昇天
ルカは、福音書の終わりに主イエスの昇天を語ります。主イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福されました。そして祝福しながら、弟子たちを離れ、天に上げられたのです。弟子たちは「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と語られています。主イエスは弟子たちを祝福しながら天に上げられました。主イエスから祝福をいただいて、弟子たちは主イエスを伏し拝みました。「伏し拝む」とは、「礼拝する」ということです。そして「大喜びで」ベタニアからエルサレムに帰ります。主イエスが天に上げられ、目に見える復活の主イエスと別れなければならなかったのに、弟子たちが「大喜びで」あったのは不思議な感じもします。しかし弟子たちには、主イエスとの別れの悲しみにまさる「大きな喜び」が与えられたのです。この「大きな喜び」こそ、あのクリスマス物語の中で、天使が羊飼いに告げた喜びです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2章10~11節)。まさに主イエスは十字架で死なれ復活され天に昇られることによって、私たちの救い主となってくださいました。かつて天使が告げた「大きな喜び」に弟子たちは満たされたのです。弟子たちはエルサレムに帰ると、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえて」いました。この「ほめたたえる」という言葉は、実は先ほどの「祝福する」と同じ言葉で、もともとは「よく話す」、「良い言葉を話す」ことを意味します。主イエスが弟子たちに向かって「良い言葉」を語れば「祝福」となり、弟子たちが神様に向かって「良い言葉」を語れば「賛美」となるのです。
罪の赦しと救いの宣言を与えられて
主イエスの昇天後の時代に生きる私たちは、このときの弟子たちと同じように主イエスから祝福をいただけるわけではありません。しかし毎週の礼拝において、主イエスは私たちを祝福してくださっています。私たちに向かって「良い言葉」を語ってくださっているのです。その「良い言葉」とは、「キリストの十字架と復活によって、あなたの罪は赦されている」、という罪の赦しの宣言です。「キリストの十字架と復活によって、あなたは救われて、その救いの恵みの中に生かされている」、という救いの宣言です。罪の赦しと救いの宣言を与えられた私たちは、神様に向かって「良い言葉」を語っていきます。救いの恵みに感謝して、神様をほめたたえて生きていくのです。そのように言われても、神様を賛美できなくなるような苦しみや悲しみの現実があるではないか、と思われるかもしれません。確かにその通りです。しかし弟子たちは「絶えず…神をほめたたえていた」と言われています。「絶えず」というのは「いつも」というより、「どんなことにおいても」ということです。どんなことにおいても、つまり喜びのときだけでなく、苦しみや悲しみのときも、神様をほめたたえていたのです。それは弟子たちの賛美に先立って、主イエスの祝福があるからです。弟子たちが神様を賛美するのに先立って、主イエスが弟子たちを祝福してくださったからです。弟子たちは自分たちの力で頑張って、「どんなことにおいても」、苦しみや悲しみのときも、神様をほめたたえていたのではありません。主イエスの祝福を受ける中でこそ、神様をほめたたえることができるのです。私たちも自分の力で頑張って、苦しみや悲しみの中にあっても、神様をほめたたえるのではありません。そうではなく私たちは苦しみや悲しみを抱えて礼拝へとやって来ます。その苦しみや悲しみのために自分の心が閉ざされてしまっていると感じることもあります。平日の歩みの中で心身をすり減らして、ボロボロになって礼拝へとやって来るのです。しかしその礼拝で私たちは、「あなたの罪は赦された、あなたは救われた、その救いの恵みの中に生かされている」と罪の赦しと救いの宣言を告げられ、聖霊のお働きによって閉ざされていた心を開かれて、目に見えない復活の主イエスを信じる信仰を起こされるのです。そのことを通して、なお苦しみの現実が変わらなかったとしても、私たちに神様への賛美が与えられていくのです。神様から祝福を与えられ、大きな喜びと賛美に満たされた私たちは、「キリストの証人」として礼拝から遣わされていきます。私たちは聖霊のお働きによって、キリストの十字架と復活による救いを人々に証ししていくために、この礼拝からそれぞれの生活の場へと遣わされていくのです。ルカ福音書を読み終えます。その続きである使徒言行録では、まさに聖霊のお働きによって、教会が、「キリストの証人」とされた者たちが、福音を宣べ伝えていく姿が語られているのです。