説教題「御心のままに」 副牧師 川嶋章弘
詩編 第40編1~5節
ルカによる福音書 第22章39~46節
いつものようにオリーブ山に
主の2025年を迎えました。しばらくルカによる福音書の連続講解を離れて、クリスマスの出来事を語っているみ言葉に聴いてきましたが、本日から再びルカ福音書を読み進めていきます。本日の箇所は22章39節から46節です。その直前まで語られていたのはいわゆる「最後の晩餐」の場面でした。39節の冒頭に「イエスがそこを出て」とありますが、「そこ」とは、主イエスが弟子たちと一緒に過越の食事をしていた(二階の)部屋のことです。弟子たちとの過越の食事、「最後の晩餐」を終えて、主イエスはその部屋を出られたのです。本日の箇所の後、47節以下では、主イエスが捕らえられることが語られています。いよいよ主イエスは十二弟子の一人であるユダに裏切られ、捕らえられて、十字架に架けられるのです。主イエスが弟子たちと一緒に過越の食事をしていた部屋を出ると、「いつものようにオリーブ山に行かれ」た、とルカ福音書は語ります。「いつものように」と言われているのは、21章37節で「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」と言われていたように、夜になるとオリーブ山で過ごすのが主イエスの習慣であったからです。そこには弟子たちも一緒にいましたから、当然ユダも主イエスの習慣を知っていました。ユダにとって、群衆のいない夜のオリーブ山は主イエスを捕らえる絶好の場所であったに違いありません。主イエスはユダが裏切ることをご存知でしたから、ユダが知っているオリーブ山に行くのではなく、ユダの知らない別の場所に逃れることもできたはずです。でもそうされませんでした。主イエスはご自分がそこで捕らえられることを知りつつも、「いつものようにオリーブ山に行かれ」たのです。
マルコやマタイ福音書とは異なる視点
この箇所はマルコによる福音書やマタイによる福音書では、いわゆる「ゲツセマネの祈り」と呼ばれている箇所です。マルコ福音書もマタイ福音書も主イエスが最後の晩餐の後に向かった場所は「ゲツセマネ」であると記しています。しかしルカ福音書は「オリーブ山」としか記していません。おそらくルカ福音書の読み手の多くがユダヤの詳しい地名を知らない異邦人であったので、わざわざ細かい地名を記さなかったのだと思います。しかし「ゲツセマネ」という地名が記されているかどうか以上に、ルカ福音書とマルコ福音書やマタイ福音書とでは、語られている内容に大きな違いあります。私たちが通常思い浮かべる「ゲツセマネの祈り」の場面は、マルコやマタイ福音書に沿ったものだと思いますが、ルカ福音書はそれとはかなり違うことを語っています。たとえばマルコやマタイでは、主イエスが弟子たちの中でペトロとヤコブとヨハネの三人だけを伴われて祈られたと語っていますが、ルカはそのことを語っていません。また主イエスが三回祈られ、三回三人の弟子のところに戻ってきて、その度に弟子たちが眠っているのを発見することも、ルカは語っていません。このようにルカ福音書はこの出来事をマルコやマタイ福音書とは異なった視点で語っています。ですから私たちはルカ福音書がこの出来事を通して見つめていることを受けとめていきたいのです。
誘惑に陥らないように祈りなさい
オリーブ山のいつもの場所に来ると、主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。31節で主イエスはペトロに、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われていました。弟子たちは小麦のようにふるいにかけられて、その信仰が真実なものなのかを試される試練に直面しようとしています。主イエスご自身にとって十字架の死は「試練」であったに違いありません。しかし弟子たちにとっても主イエスの十字架の死は「試練」でした。これから弟子たちはその「試練」に直面しようとしているのです。その弟子たちに向かって、主イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われました。そして41節から44節では、そのように言われた主イエスご自身が祈られたことが語られています。主イエスはこれから試練の中を歩むことになる弟子たちの先頭に立って祈られたのです。そのことを通して弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈る」とは、どのように祈ることなのかを教えられたのです。このようにルカ福音書は、この「オリーブ山」の祈りの出来事において、主イエスがこれから試練に直面する弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられ、その主イエスご自身が弟子たちの先頭に立って祈られたことを語っています。つまりルカ福音書はこの出来事において、「祈り」について、とりわけ「試練の中の祈り」について見つめているのです。そうであれば、ここで見つめられていることは、主イエスの十字架の死という試練に直面しようとしている弟子たちだけに関わりのあることではありません。主イエスの弟子として、主イエスに従って生きていこうとするすべてのキリスト者に、私たち一人ひとりに関わりのあることなのです。
私たちは今、新しい年2025年を迎えて最初の夕礼拝を守っています。迎えた2025年がどのような一年となるかは分かりません。しかし世界では戦争が続き、政治や外交は不安定さを増し、地球温暖化による異常気象も続いています。日本でも災害からの復興が進まず、政治の混乱も続いています。迎えた2025年も、日本と世界は試練の中を歩むことになるのではないでしょうか。私たち一人ひとりに目を転じても、それぞれに試練に直面することがあるに違いありません。受験や就職や転職のように予想できる試練に直面することもありますが、予想していなかった試練に直面することもあります。突然の病や怪我に直面したり、大切な人との別れに直面したり、学校や職場や家庭で困難に直面したり、人間関係の破れに直面したりします。その中で私たちも小麦のようにふるいにかけられて、自分の信仰が真実なものであるかを試されるのです。そのように新しい年も試練に直面しつつ歩んでいく私たち一人ひとりに、主イエスは「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われているのです。
悲しみの果てに眠り込む
それにしても「誘惑」とは、何を意味しているのでしょうか。私たちが「誘惑」と聞いて思い浮かぶのは、金銭的な誘惑や物質的な誘惑、あるいは性的な誘惑などではないでしょうか。しかしここではそのような誘惑に陥らないように、と言われているのではないでしょう。主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられた後、ご自分も祈られました。その祈りが終わって弟子たちのところに戻ってくると、弟子たちは「悲しみの果てに眠り込んでいた」と45節で語られています。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と命じられていたのに、弟子たちは結局「眠り込んで」しまったのです。それは「悲しみの果て」であったと言われています。「悲しみの果てに眠り込んでいた」とは、弟子たちが、そして私たちが試練に直面し、その試練の中で深い悲しみを味わうことによって眠り込んでしまい、祈らなくなってしまうことを見つめています。深い悲しみを経験することによって、私たちは祈らなくなり、神様と交わりを持って生きることをやめてしまうことがあるのです。「誘惑」とは、何よりも祈ることをやめてしまう誘惑、神様と交わりを持って生きることをやめてしまう誘惑なのです。
悲しみが大きければ眠れないのではないか、と思われるかもしれません。確かに深い悲しみの故に一睡もできないということがあります。しかしその一方で、私たちはしばしば悲しみや苦しみを忘れるために眠るということがあります。また大きなストレスを抱えていると、そのストレスから自分を守ろうとして眠る時間がかえって長くなることもあります。眠ることは、私たちにとって忘れることであり、逃げることであり、自分自身を守ることであり、自分の内に閉じこもることでもあるのです。そのようにして眠るのが悪いということではありません。いわゆる「寝逃げ」は、気分を切り替えるための有効な手段であるし、そもそも主イエスは眠るのが良くないという話をしているのでもありません。しかし眠ることには、自分自身を守るために自分の内に閉じこもるという側面があり、「悲しみの果てに眠り込んでいた」とは、まさにその側面を見つめています。私たちが試練に直面する中で、深い悲しみや苦しみから自分を守ろうとして、神様から離れて自分の内に閉じこもってしまい、神様に祈らなくなることを見つめているのです。
私たちは、新しい年に「悲しみの果てに眠り込んで」しまわないようにしなくてはなりません。日本や世界が色々な試練に直面する中で、あるいは私たち一人ひとりが様々な試練に直面する中で、大きな苦しみや悲しみから自分を守ろうとして、神様から離れて自分の内に閉じこもり、神様に祈らなくなることがないようにしなくてはならないのです。自分の内に閉じこもることで一時的には自分を守ることができるかもしれません。しかしそれで本当の解決が与えられるわけではありません。試練はいぜんとしてあり続けます。本当の解決は神様との交わりの中でこそ、つまり神様に祈る中でこそ与えられていきます。だから新しい年も私たちにとって、神様から離れて自分の内に閉じこもり、神様に祈らなくなることこそ最大の誘惑です。そうであれば私たちは、試練の中で何を祈れば良いのでしょうか。「悲しみの果てに眠り込んで」しまわないようにするために、神様と交わりを持って生き続けるために、どのように祈ったら良いのでしょうか。
御心のままに
主イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われると、弟子たちから「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいて」このように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。「この杯」とは十字架の苦しみと死です。それを「わたしから取りのけてください」、と主イエスは願われました。私たちも死を取り除いて欲しい、いや死だけでなく、この苦しみ、この悲しみを取り除いて欲しいと願います。主イエスはそのような私たちの願いと無関係に生きられたのではありません。私たちと同じ人間になって生まれ、その地上のご生涯において私たちが味わう苦しみや悲しみ、そして死を味わってくださり、そしてその死を目前にしてそれを取り除いて欲しい、と父なる神様に願われた方だからです。しかし十字架の苦しみと死を取り除いて欲しい、と祈られた主イエスはこのようにも祈られました。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。主イエスは「御心のままに」と祈られたのです。これこそ私たちが試練の中で祈るべき祈りです。それは、苦しみや悲しみを取り除いてください、と祈ってはいけないということではありません。自分の気持ちを押し殺して、「御心のままに行ってください」と祈るということでもありません。自分の気持ちは、自分の願いはすべて神様に打ち明けて良いのです。この苦しみを、この悲しみを、この死を取り除いてください、と祈って良いのです。しかしその上で、私たちは「御心のままに行ってください」と祈ります。そう祈ったほうが良いから、そう祈るということではありません。そうではなく、「御心のままに行ってください」と祈ることが本当の祈りなのです。私たちはしばしば、自分の願いを訴えるのが祈りだと思っています。しかしそうではありません。自分の願いを訴えた上で、しかし自分の願いではなく、御心のままに行ってくださいと祈ることが本当の祈りです。どのような願いを訴えるとしても、最後には御心が行われますようにと祈るのが、私たちの本当の祈りなのです。私たちの社会で「祈り」というのは、一般的に自分の願いを叶えるために行うことです。しかし私たちキリスト者の祈りは、そうではない。そうであってはならない。自分の願いを叶えるために祈るという面もあるけれど、それ以上に神様の御心が行われることを祈り求めるのです。そしてそれは、私たちの願いが聞き届けられることによって御心が行われることもあれば、私たちの願いが聞き届けられれないことによって御心が行われることもある、ということにほかなりません。私たちはこのことを弁えている必要があります。私たちが試練の中で「悲しみの果てに眠り込んで」しまうのは、神様から離れて自分の内に閉じこもってしまうのは、神様が自分の願いを叶えてくださらないことに失望してしまうからではないでしょうか。試練の中で、苦しみを取り除いて欲しいと必死に祈っているのに、その願いが全然叶えられないと、神様は自分の願いを聞いてくださらないと失望して、神様に祈ることをやめて、神様との交わりに生きるのではなく自分の内に閉じこもってしまうのです。もし私たちが「この苦しみを取り除いてください」としか祈らないなら、私たちは自分の願いが叶わないとき失望するしかありません。しかしもし私たちが「この苦しみを取り除いてください、しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈るなら、私たちは自分の願いが叶わないときも失望することはありません。自分の願いが聞き届けられいないことによって御心が行われた、と信じることができるからです。試練の中で私たちが祈るべき祈りは、どのような願いを訴えるとしても、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りです。この祈りによって、私たちは試練の中で自分の願いが叶わないときも、神様から離れてしまう誘惑を退けて、神様との交わりの中で歩み続けることが、神様に祈り続けることができるのです。
祈りの格闘
しかし自分の願いとは違う神様の御心を受け入れることは簡単なことではありません。大きな苦しみを伴います。44節に「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。主イエスは十字架の苦しみと死という神様の御心を受け入れるために、「汗が血の滴るように地面に落ち」るほどに、苦しみもだえられたのです。
ところで少し脱線しますが、43節、44節は括弧の中に入れられています。聖書の凡例(はんれい)によると、この括弧は「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である個所を示す」とあります。新約聖書というのは、元々、今私たちが手にしている形の一つの写本があるのではなく、幾つもの写本、その多くは断片的なものがあるだけです。それらを比べて検討して、できるだけもとの形に近づけようとしたのが、私たちが手にしている新約聖書です。そして写本の中にも重要度の違いがあり、一般的には古いものほど重要になります。そのような古い、有力な幾つかの写本では43、44節が欠けているので、43、44節は後代の加筆と考えられているわけです。凡例の「後代の加筆と見られている」とは、このことを指しています。しかし研究者の中には後代の加筆ではなく、福音書記者ルカによるものだと考えている人もいます。少なくともかなり早い時期にこの43、44節が含まれていた証拠があります。多くの複雑な議論がなされていますが、私は43、44節の内容的にも、この箇所全体の構造的にも、後の加筆ではなく福音書記者ルカによるものとして読むのが良いと思っています。
さて44節で「イエスは苦しみもだえ」と言われていました。「苦しみもだえ」と訳された言葉は、訳すのが難しい言葉です。このように訳すと、私たちは主イエスが十字架の死の恐怖におびえられた、と受けとめがちです。しかしこの言葉は、もともと「競技」を意味する言葉で、そこから転じて、なんらかの戦いを戦い抜く苦しみを意味するようになりました。ですから主イエスはおびえているのではありません。むしろそれとは正反対に戦っているのです。十字架の死の恐怖と戦っているのではありません。自分の願いとは違う神様の御心を受け入れる戦いを戦っているのです。ここで見つめられているのは、そのような祈りの格闘における苦しみです。私たちの祈りは、自分の願いを訴えるだけではなく、神様の願いが行われるよう祈り求めます。そして自分の願いと神様の願いが違うとき、その神様の願いに自分の願いを合わせるために格闘していくのです。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りには、そのような祈りの格闘が必ず伴います。主イエスは弟子たちに、そして私たちに先立って、この格闘を戦ってくださり、「汗が血の滴るように地面に落ち」る苦しみを味わってくださったのです。
神が共にいて力づけてくださる
しかしそうであるならば、私たちはこの祈りの格闘を自分の力で戦い抜かなくてはならないのでしょうか。そうではありません。主イエスが祈りの格闘において苦しみもだえられたことが語られる前に、43節でこのように言われています。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた」。それは、父なる神様がこの主イエスの祈りの格闘を力づけ、支えてくださった、ということです。「御心のままに」と祈って、自分の願いとは違う神様の御心を受け入れる戦いを戦っている主イエスを、父なる神様が力づけ、支えてくださったのです。私たちは自分の力で祈りの格闘を戦い抜くことはできません。主イエスがそうであったように、父なる神様が私たちを力づけ、支えてくださるから、私たちは戦い抜くことができます。私たちが試練に直面し、深い苦しみや悲しみを味わうとき、その苦しみや悲しみを取り除いてください、と祈ります。しかし主イエスの杯が取り除かれなかったように、私たちの杯も取り除かれないこともあるでしょう。しかしだからといって神様が私たちと共にいてくださらない、ということでは決してありません。神様が私たちと共にいてくださるとは、私たちの苦しみや悲しみがなくなることではなく、その苦しみや悲しみのただ中で、「御心のままに」と祈る私たちを、神様が力づけ、支え、励ましてくださる、ということなのです。私たちの願いが聞き届けられないことによって、神様の御心が行われることがあります。そのとき私たちは自分の願いを神様の願いに合わせるために苦しみもだえて格闘しなくてはなりません。しかしその私たちを、ほかならぬ神様が共にいて、力づけ、支え、励ましてくださるのです。
復活の主イエスのもとで祈る
46節で主イエスは弟子たちに「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われています。この主イエスのお言葉は、悲しみの果てに眠り込んでいた弟子たちを非難しているのではありません。「起きて」と訳された言葉は、主イエスの復活を言い表す言葉でもあります。弟子たちも、私たちも悲しみの果てに眠り込んでしまいます。試練に直面して、悲しみや苦しみを経験することによって、主イエスを見捨てて逃げ出してしまいます。深い悲しみや苦しみから自分を守ろうとして、神様から離れて自分の内に閉じこもってしまい、神様との交わりに生きることをやめてしまいます。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われても眠り込んでしまうのが、祈ることをやめてしまうのが、私たちの偽らざる姿ではないでしょうか。しかしそのような私たちのために主イエスは十字架で苦しみを受けられ、死んでくださり、そして復活されたのです。父なる神様の御心のままに十字架で死なれた主イエスを、神様は復活させてくださいました。「起きて祈っていなさい」とは、その復活の主イエスに結ばれ、その復活の主イエスのもとで「祈っていなさい」ということです。私たちは復活の主イエスのもとでこそ「起きて」祈ることができるのです。
迎えた2025年、私たちは日々、復活の主イエスのもとで「御心が行われますように」と祈ります。たとえ日本や世界が色々な試練に直面し、また私たち一人ひとりが様々な試練に直面するときも、「悲しみの果てに」眠り込むのではなく、「御心のままに」と祈り続けるのです。その祈りの中で、自分の願いを神様の願いに合わせるために格闘する私たちを、神様は必ず力づけ、支え、励ましてくださるのです。2025年の日本と世界の歩みに、私たち一人ひとりの歩みに「御心が行われますように」と祈りつつ、新しい年を歩み始めましょう。