「海を分ける神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第14章1-31節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第10章1-4節
・ 讃美歌 : 278、467
大スペクタクル
本日ご一緒に読む出エジプト記第14章は、出エジプト記の中でも、あるいは旧約聖書全体の中でも、最もよく知られた、また最も劇的な場面であると言えると思います。イスラエルの民は、モーセに率いられて、奴隷とされ苦しめられていたエジプトを脱出し、神様の約束の地へと旅立ちました。エジプトの王ファラオは、イスラエルの神である主によって下された数々の災い、特に最後の、初子を皆殺されるという災いによってついに屈服し、イスラエルの解放を認めたのです。しかしいざイスラエルの民が立ち去ると、ファラオはそのことを後悔しました。5節に「民が逃亡したとの報告を受けると、エジプト王ファラオとその家臣は、民に対する考えを一変して言った。『ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは。』」とあります。それで6節以下、「ファラオは戦車に馬をつなぎ、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車六百をはじめ、エジプトの戦車すべてを動員し、それぞれに士官を乗り込ませた。主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った」のです。9節には「エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた」とあります。イスラエルの民の前には海、後ろからファラオの戦車部隊が迫って来たのです。まさに袋の鼠、イスラエルの民は進退窮まってしまいました。その時、驚くべき奇跡が起りました。21節以下です。「モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった」。イスラエルの民は海の中に出来た道を通って向こう側へと渡って行ったのです。それを見たエジプト軍も、後を追って海の中の道へと入ってきました。すると26節以下。「主はモーセに言われた。『海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。』モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった」。こうしてイスラエルの民はエジプトの追っ手から救われたのです。これはまさに一大スペクタクルです。「十戒」という古い映画を御覧になった方は、この場面をよく覚えておられるでしょう。コンピューターグラフィクス全盛の今に比べればまことにチャチな映像でしたが、大変印象深いものでした。
転換点
この話はそのようにまことに絵になる、スケールの大きな奇跡物語ですが、そういう壮大さだけではなく、ここに語られていることは、出エジプト記全体の流れの中で重要な意味を持っています。さらに言えば、旧約聖書が語る神様の救いの歴史全体において大きな節目となる出来事なのです。それはつまり、この出来事によって、イスラエルの民のエジプトにおける奴隷状態からの解放が完結したということです。この後は今度は、神様の約束の地、カナンの地に向けての荒れ野の旅が始まります。つまりこの出来事の前と後では、イスラエルの民の歩みは全く違うものとなったのです。これまでは、奴隷とされ、苦しめられているエジプトから逃れ、脱出すること、自分たちを束縛している鎖を断ち切ることが民の課題でした。しかしこれからは、解放され、自由になった民として、自分で道を見定めて、自分の足で歩いていかなければならないのです。これまでは、いろいろなことを、支配者であるファラオのせいにすることができました。しかしこれからは、全ては自分の責任、自分で決め、行い、その結果を自分で負わなければならないのです。奴隷状態から解放され、自由になるとはそういうことです。このことは、人間が大人になり自立することと重ね合わせることができます。親の下で、ある意味では保護され、ある意味では支配されている子供時代は、従うにせよ反抗するにせよ、最後の責任は親が負っているのです。大人になるとは、この親の保護あるいは支配から自由になることです。同時に、もはや言い訳はできなくなる、親のせいにすることはできなくなるのです。自分のことは自分で責任を持たなければならなくなるのです。イスラエルの民の歩みは、この14章を境に、そのように転換しました。このまことに劇的な出来事はその転換点として重要な意味を持っているのです。そのことを思いつつ読むことによって、この箇所の読み方が深まるのです。
神のご計画
さて、イスラエルの民は、前は海、後ろからはエジプトの戦車部隊という絶体絶命の危機に陥ったわけですが、これは決して自然の成り行きでそうなったのではない、ということが、ここに語られています。イスラエルの民のエジプト脱出の道は、これまでの所に書かれていたことによると、ラメセスからスコトに向かう、という道でした。聖書の後ろの付録の地図の2「出エジプトの道」においてそれを確認しておきたいと思います。このスコトからそのまま東に進めば、シナイ半島に入ることができるわけです。つまり、前に海が立ちふさがるようなことは起らないのです。しかし彼らはそこからまた北上して、バアル・ツェフォンに宿営しました。それは、主なる神様のご命令によることだった、とこの14章1、2節が語っています。「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前で宿営するよう命じなさい。バアル・ツェフォンの前に、それに面して、海辺に宿営するのだ』」。つまり神様は彼らをわざわざ引き返させて、葦の海に面した場所に宿営させたのです。それは何故でしょうか。その理由が、続く主の言葉、3、4節に語られています。「するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野が彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。つまりこれは、神様がエジプトの軍勢をおびき出して滅ぼすための計画なのです。イスラエルが荒れ野で道に迷い、みすみす袋の鼠となるような場所に入り込んだ。追撃するなら今だ、とファラオに思わせるために神様はこのようになさったのです。ですからこの14章の偉大な奇跡は、絶体絶命の窮地に追い込まれたイスラエルを神様が間一髪奇跡によって救って下さった、ということとは違って、神様が彼らをわざと窮地に立たせ、そのことによってご自身の大いなる力を示し、イスラエルの救いを実現して下さろうとするご計画によることだったのです。このことが、この出来事を正しく理解するための鍵となります。
奴隷根性
さてファラオは神様のこのご計画にまんまとひっかかって、エジプトの軍勢を総動員して追撃にかかりました。追っ手が迫って来るのを見たイスラエルの人々の反応が10節以下に語られています。10節の終わりに「イスラエルの人々は非常に恐れて主に向かって叫び」とあります。その少し前の8節の終わりには「イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが」とありました。あの過越の出来事によってエジプトを出た時の彼らの喜びようがそこに示されています。しかし今、前に海、後ろからは追っ手が迫るという状況になった時、彼らは大きな恐怖に陥ったのです。その恐れに中で彼らがモーセに語った言葉が11、12節です。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」。これはまことにひどい言葉です。彼らが恐怖に捕われていることは分かります。しかしそれでも、言っていい事といけない事があるというものです。彼らは事がうまく運んでいる時には意気揚々としているくせに、一旦事態が悪くなり、危機が迫って来ると、すべてを人のせいにしています。「おまえが余計なことをしたおかげでこんな目にあうんだ、どうしてくれる」。これはもう、全ての責任を人になすりつけ、ただ自分を可哀想がり、誰かなんとかしてくれと泣きわめいているだけの姿です。こういうのを「奴隷根性」と言うのです。イスラエルの人々はエジプトで四百年の間奴隷とされていました。それによって彼らの心には、奴隷としての意識がしみついています。奴隷というのは、命じられたことをするだけの存在です。自由がない代わりに責任も問われない、自分で決めて行い、その責任を自分で取るということとは縁のない生活をずっとしてきたのです。それによって、このように、都合の悪いことは全てを人のせいにするようになってしまったのです。しかしこれは決してイスラエルの民のみの問題ではないでしょう。ここに描かれているのは、本当の意味で大人になることの出来ない人間の姿です。本当に自由な者として生きることができない人間の姿です。調子のよい時はいい気になって得意がっているが、都合が悪くなると、困難や苦しみが襲ってくると、自分のことは棚に上げて人のせいにしてばかり、そういう幼稚な人間の姿がここに描かれているのです。私たちも、多かれ少なかれ同じようなところを持っているのではないでしょうか。奴隷根性は、本当に自由な、自立した人間として生きることができない私たちにもあるのです。この14章は、イスラエルの民の歩みにおける大きな転換点であると申しましたが、その転換とは、奴隷根性から脱却し、人のせいにばかりしている無責任な生き方から、自分の足で歩み、自分で責任を負う自立した生き方への転換であると言うことができます。つまりここには、私たちが、本当の意味で一人前の大人となり、自由な自立した人間へと成長、成熟するとはどういうことなのかが語られていると言えるのです。
静かにしていなさい
モーセは、うろたえて泣きわめくイスラエルの民に13、14節でこのように言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。ここに、奴隷から自由人へ、本当の意味で自立した人間への転換、成長の鍵が示されています。自由な自立した人間とは、恐れの中で我を失い、言ってはならないことを口走るような者ではなく、恐れの現実の中にあっても、自分の足で堅く立ち、人のせいにするのではなくて自分で責任を背負って踏んばる者です。しかしそれは、自分の力で全ての問題を処理できるようになる、ということではありません。恐れずに堅く立つことは、「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」ということによって初めて可能となるのです。自分の力で戦って問題を解決し、恐れを克服するのではありません。むしろ静かにしているのです。沈黙するのです。そして、主が自分たちのために戦って下さる、その主の戦いに自分の問題を委ねるのです。モーセがイスラエルの民に求めたのはそういうことでした。このことこそ、イスラエルの民が奴隷根性を脱ぎ捨てて本当に自由な自立した者となるための道だったのです。自立というのは、自分の力が強くなれば出来るというものではありません。自分の力に依り頼み、自分の強さによって生きている限り、私たちは、本当に深刻な危機に陥り、その自分の力がとうてい及ばないような事態になったら、やはり人のせいにして自分を守ることしかできないでしょう。そのような危機の中でも自分を見失わず、自分の責任を背負って踏んばることができるのは、自分の歩みを、戦いを、主に委ねている人のみです。主が私のために戦って下さる、主が私の人生を守り導き、養い、最後まで背負って下さる、そのことを信じている者のみが、恐れの現実にあっても自分の足でしっかりと立っていることができるのです。主に依り頼むことを知っている者こそが、本当の意味で自立した人間になることができるのです。
主なる神様がイスラエルの民をわざわざ引き返させて絶体絶命の危機の中に置かれたのは、主の大いなる力による救いを体験させることによって、彼らが本当の意味で自由な、自立した者となるためでした。意気揚々とエジプトを出たイスラエルの民は、まだ本当に自由に、自立して生きることができてはいない、奴隷根性から抜け出せていない、と神様は見抜いておられるのです。意気揚々と、というのは、自分の力で生きている、生きていけると思っている姿です。しかしそれは錯覚でしかありません。その錯覚を抱いたままで生きていると、自分の力ではどうにもならない事態に直面した時にパニックに陥るのです。主は彼らにそのことを体験させ、その進退窮まる絶体絶命の危機の中で、静まって、沈黙して、主なる神様の救いのみ業を見ることを教えて下さったのです。主なる神様が自分のために戦って下さる、その戦いを見つめ、自らの歩みを主に委ねることを学ばせて下さったのです。そのようにしてイスラエルの民は、本当に自由な者として生きることを、自立した者としての歩みを与えられていったのです。
神風
「主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」と21節にあります。主が吹かせた激しい東風、それは言ってみれば神風です。神風が吹いて、イスラエルの民は救われたのです。日本の歴史においても、神風が吹いて救われたことがありました。そのことと本日の箇所の出来事は、民族の大ピンチにおいて奇跡的な風が吹いて救われた、という点においては同じかもしれません。しかし、その出来事がその民に及ぼした影響、それによってその民が得られた教訓はまことに対照的であると言えます。日本の神風は何をもたらしたでしょうか。それは、この国は神の国であって決して外国に負けることはない、という狂信的かつ傲慢は民族主義でした。それに対して、本日の箇所の出来事、まことの神によるまことの神風は、イスラエルの民に、主なる神様の前に沈黙することを教えたのです。イスラエルの民はこの神風によって、意気揚々と歩んでいた傲慢を打ち砕かれ、自分の無力さを知り、主なる神様の前に静まって首を垂れ、神様の救いのみ業をこそ見つめ、そのみ手に身を委ねることを学んだのです。どちらの神風が、人間を本当に自由にし、責任ある自立した生き方を与えたのか、答えは明らかでしょう。
私たちは何を見つめるのか
主なる神様の前に沈黙して、神様が私たちのために戦って下さり、勝利して下さる、その救いのみ業を見つめ、自分がこの神様の恵みの中に置かれ、支えられていることを信じて身を委ねること、それが信仰です。イスラエルの民は葦の海の奇跡においてその神様の救いのみ業を見ました。私たちは、神様の私たちのための戦いを、救いのみ業を、どこに見るのでしょうか。私たちが、落ち着いて、静かにして、見つめるべき事柄は何なのでしょうか。
本日共に読まれた新約聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一の第10章1~4節です。その1、2節に、「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」とあります。ここは、出エジプト記14章の葦の海の出来事を意識して語られているのです。「海を通り抜け」とか「海の中で」というのがその出来事を意味しています。この出来事によって先祖たちは、「モーセに属するものとなる洗礼を授けられ」たと語られています。つまりこの手紙を書いたパウロは、この葦の海の出来事を、洗礼を受けることと重ね合わせているのです。洗礼を受けるとは、神様が与えて下さる救いにあずかるということです。イスラエルの民はこの出来事によってまさに主なる神様の救いにあずかったのです。パウロはこのように語ることによって、この出来事を、主イエス・キリストによる救いにあずかることと重ね合わせています。つまり先祖たちがあの葦の海の奇跡によって「モーセに属するものとなる洗礼」を受けたように、私たちは主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエス・キリストに属するものとなる洗礼を受けたのです。葦の海の奇跡は、私たちの受ける洗礼を指し示しているのだとパウロは語っているのです。
洗礼と聖餐によって
このことによって私たちは大事なことを教えられます。第一に、主イエス・キリストにおいて、あの葦の海の奇跡、神様が海を分けて下さったあの大いなる奇跡に匹敵する、いやそれに勝る大きな救いのみ業が行われたのだということです。それは神様が、罪の奴隷とされ、罪に支配されている私たちを赦して下さり、罪から解放し、自由を与えて下さったという救いのみ業です。その救いは、神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さり、その主イエスを父なる神様が復活させて下さることによって実現しました。それは、海の水が分かれ、右と左に壁のようになり、海の中に道が与えられて、渡ることができないはずの向こう岸に渡ることができたのと同じぐらい、いやそれ以上に大きな、神様の大いなる力による恵みのみ業なのです。私たちはこの葦の海の奇跡を見つめる時、そこに、主イエス・キリストによる救いのみ業が指し示され、予告されていることを見つめることができるのです。これが、パウロが教えている第一のことです。そして第二のことは、私たちがこの神様の大いなる救いのみ業にあずかり、それを具体的に体験するために、洗礼が与えられている、ということです。私たちは、洗礼を受けることにおいて、イスラエルの民があの葦の海の奇跡によって体験したのと同じことを体験するのです。洗礼は、信仰のことを学び、よく理解し、生活においても立派な信仰者として生きることができるようになった者が受けるものではありません。私たちは、あのイスラエルの民と同じように、神様によって導かれ、救われ、解放されているにもかかわらず、自分の力で生きているかのように錯覚し、調子のよい時は意気揚々と、そして苦しみが襲ってくるとすぐに人のせいにして泣きわめくような未熟な、奴隷根性が抜けない、自立できない者です。そのような私たちに、神様は、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いを、罪の赦しを与えて下さるのです。神様は私たちをその救いにあずからせるために、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」と語りかけて下さっているのです。この神様のみ言葉を受けて、沈黙し、静かに落ち着いて、主イエス・キリストによる神様の救いのみ業を見る、十字架と復活において、神様ご自身が私たちを支配している罪の力と戦って下さり、勝利して下さるその主の戦いを見て、その主に自分を委ねる、それが洗礼を受けるということなのです。
そしてその洗礼を受け、主イエス・キリストによる救いにあずかった者を、主は聖餐によって豊かに養い、その恵みを味わわせ、確かめさせて下さいます。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きる、そこに、私たちにとっての、葦の海の奇跡の体験があります。この恵みの体験によって、私たちは奴隷根性を脱ぎ捨て、本当に自由な、自立した者となり、主が約束して下さっている救いの完成を目指して、この世の旅路を、主の守りと導きの中で歩み続けていくのです。