主日礼拝

世の知恵、神の知恵

説 教 「世の知恵、神の知恵」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第64章1-4節
新 約 コリントの信徒への手紙一第2章6-9節

知恵を語ります
 私が主日礼拝の説教を担当するときはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。大体月に一回ですので、前回の内容を思い出すのが大変かもしれません。しかしそれでも本日の箇所の冒頭を読んで、「あれっ?」と思った方はいらっしゃると思います。このように言われています。「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」。パウロは、「わたしたちは…知恵を語ります」と言っていますが、このことに疑問を感じた方がいらっしゃると思うのです。これまでパウロは「知恵」を用いなかった、と言ってきたのではなかったでしょうか。それなのにここでは「知恵」を語ると言っています。矛盾しているように思えるのです。実際パウロは、直前の2章4、5節で、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」と語っていましたし、1章22、23節でも「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と語っていました。パウロは知恵を語るのではなく、十字架につけられたキリストを宣べ伝えてきた、それは知恵によってではなく神様の力によって信仰者が起こされるためであった、と言っていたのです。ところがそのように語ってきたパウロが、本日の箇所の冒頭6節では「知恵を語ります」と言っています。一体、この知恵とは何のことなのでしょうか。

知恵はキリストを指している?
 これまでの箇所をもう少し丁寧に読み返せば、1章24節には「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」とあり、30節にも「このキリストは、わたしたちにとっての神の知恵となり」とあります。「神の知恵であるキリスト」と言われ、また「キリストは…神の知恵となり」と言われていますから、2章6節でパウロが「知恵を語ります」と言うとき、その知恵はキリストを指しているのではないか、とも思います。つまり6節でもパウロは結局、「私たちはキリストを語ります」と言っている、と読むことができるし、そのように読めばこれまで語られてきたことと矛盾しません。本日の箇所の7節でもパウロは「私たちが語るのは…神の知恵であり」と言っていて、この神の知恵がキリストを指しているなら、この箇所は全体として、パウロが「神の知恵であるキリストを語ります」と言っている、と読むことができるのです。そのように読むのは一つの読み方ですし、間違っていないと思います。

成熟した人たち
 ただそれだけではスッキリしないところもあります。というのもパウロは6節で単に「知恵を語ります」と言っているのではなく、「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と言っているからです。もし知恵がキリストを指しているならば、キリストは「信仰に成熟した人たちの間で」だけ語られるのではなく、すべての人に向かって語られるはずです。ですからわざわざ「信仰に成熟した人たちの間では」と言っていることに、ここでパウロが「知恵」をキリストではなく、別のことを指して用いている手掛かりがあると思うのです。「信仰に成熟した人たち」と訳されていますが、原文には「信仰に」という言葉はありません。聖書協会共同訳では単に「成熟した人たち」と訳されていますし、その注にあるように直訳すれば「完全な者たち」となります。むしろこの言葉が「大人」をも意味することを考えれば、パウロは「大人の信仰者たち」の間では知恵を語る、と言っているのではないでしょうか。「成熟した人たち」とは、信仰において大人になっている人たちのことなのです。聖書には信仰において「子供のようになりなさい」と勧めている箇所と、「大人になりなさい」と勧めている箇所がありますが、本日の箇所は後者に属すると言えるでしょう。では信仰が成熟するとは、どういうことなのでしょうか。どうなれば大人の信仰者となるのでしょうか。洗礼を受けてからの年数を重ねると大人の信仰者になるのでしょうか。あるいは聖書の知識が増えたり、教会の教え(教理)に詳しくなると大人の信仰者になるのでしょうか。確かに聖書や教理についての学びが深まれば、信仰も深まるという面があります。しかしここで言われている「成熟した人」、「大人の信仰者」とは、そういうことではないと思います。パウロは「成熟した人たち」、「大人の信仰者たち」の間では、語るべき知恵がある、と言っています。それは、信仰が知恵を排除するわけではない、ということです。信仰に即した知恵があるのです。その知恵を、パウロは「成熟した人たち」の間では語るのです。そして大切なことは、その知恵が語られて終わりなのではないということです。それを聞いた人たちもその知恵を受け入れ、その知恵を語り出し、その知恵によって生かされるはずなのです。「成熟した人たち」とは、「大人の信仰者たち」とは、パウロが語る知恵を受け入れ、それを語り出し、その知恵に根ざして信仰生活を送る人たちのことなのです。

世の知恵
 そこで改めて、パウロが「成熟した人たち」の間で語ると言っている知恵について目を向けたいと思います。パウロは6節後半から7節で、この知恵についてこのように説明しています。「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」。ここでパウロは「世の知恵」と「神の知恵」を対比して、自分が「成熟した人たち」の間で語る知恵は、「世の知恵」ではなく「神の知恵」だと言っています。パウロが語らないと言っている「世の知恵」とは、どのようなものなのでしょうか。色々な言い方ができると思いますが、世の知恵とは私たちが所有できる知恵、自分のものにすることができる知恵、と言えると思います。そして所有できる、自分のものにすることができるということは、比べることができる、ということでもあります。自分の持っている知恵と相手の持っている知恵を比べることができるのです。そこで必ず起こってくることは、どちらがより多くの知恵を持っているかを競うことです。自分と相手を比べて優劣を競うようになり、自分のほうが多くの知恵を持っているときは優越感を抱き、逆に相手のほうが多くの知恵を持っているときは劣等感を抱くのです。パウロは、このように所有することができ、それゆえ人と比べることができ、人と比べることへと駆り立てる「世の知恵」を語らないと言っているのです。

世の知恵に支配される
 しかしこの「世の知恵」が、コリント教会の人たちの間では語られていたに違いありません。これまで見てきたようにコリント教会では分派争いが起こり、教会の一致が損なわれていました。1章12節に「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』」とありましたが、コリント教会はパウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派に分かれて争っていたのです。どの分派も、ほかの分派と比べて自分のほうが優れていると、より多くの知恵を持っていると主張したかったに違いありません。だから自分と相手を比べて誇ったり、妬んだり、裁いたりしていたのです。3章3節でパウロはコリント教会の現状について、「お互いの間にねたみや争いが絶えない」と言っています。自分たちが持っている「世の知恵」を比べ合うことで、教会には妬みが渦巻き、争いが絶えなかったのです。それは別の言い方をすれば、人と比べて優劣を競うことへと駆り立てる「世の知恵」に、コリント教会が支配されていた、ということなのです。
 パウロは6節で、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」とも言っています。「支配者たち」と訳された言葉は、人間の支配者や指導者を意味することもあれば、悪霊のような天的な力を意味することもあり、ここでどちらを意味するのかは議論があります。しかし人間の指導者たちの知恵であれ、悪霊の知恵であれ、人と比べて生きることへと駆り立てる知恵であることに変わりはないと思います。「この世の滅びゆく支配者たち」の「滅びゆく」と訳された言葉は、聖書協会共同訳では「無力な」と訳されています。しかしコリント教会の人たちの実感としては、滅んでいくようにも無力であるようにも思えなかったはずです。人と比べて生きることへと駆り立てる世の指導者たちの力は、あるいは悪霊の力は、ますます強くなって自分たちを支配しているように感じられたのです。現代を生きる私たちも、人と比べて生きることへと駆り立てる世の知恵に支配されているように思えます。私たちも日々、自分の持っているもの、あるいは自分の能力や地位や業績を比べて生きているからです。しかしそれは、私たちが望んでそのように生きているというより、そのように生きざるを得ない、という面があります。世の指導者たちによって、あるいは目に見えない力によって、人と比べて生きることへと駆り立てる社会が作られ、そこで生きる私たちを支配している、そのようにも思えるのです。問題は、その「世の知恵」が社会だけでなく、教会をも支配していないか、ということです。コリント教会の人たちは「世の知恵」に支配され、「世の知恵」を語り、お互いを比べて誇り合い、妬み合い、裁き合っていたのです。

隠されていた、神秘としての神の知恵
 しかしパウロが「成熟した人たち」の間で語ると言っているのは、コリント教会を支配していた「世の知恵」ではなく、「隠されていた、神秘としての神の知恵」です。「神秘」という言葉は、ギリシア語で「ムステーリオン」という言葉で、英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。「秘儀」、「秘密」、「謎」をも意味します。2章1節に「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」とありましたが、「秘められた計画」が同じ言葉です。つまり「神の知恵」とは、隠されていた神秘であり、「秘められた計画」なのです。
神のことをすべて知ろうとする
 「隠されていた」とは、私たちは知ることができなかった、所有することができなかった、ということです。私たちは「神の知恵」を、神様の秘められた計画を知ることができなかったし、それを自分のものとすることもできなかったのです。そのように言われているのですが、しかし私たちはしばしば、「世の知恵」と同じように、「神の知恵」を自分のものにできると勘違いしてしまいます。また神様に対しても、神様のことを何でも知ることができると思ってしまいます。神様のことを知りたいという思いがすべて間違っているわけではないでしょう。私たちは関心を持っている相手だからこそ「知りたい」と思うのであり、そうでなければ、「知りたい」とすら思わないはずだからです。だから神様のことをもっと知りたいと思うのは、神様に関心を持っているからこそであり、神様と関わりを持って生きたいと思っているからこそなのです。しかしそこには大きな落とし穴もあります。神様のことを知りたいという思いは、神様のことを「すべて」知りたいという思いに、「すべて」知ることができるという思いになることがあるからです。しかしそれは、神様を自分の頭の中に、自分の考えの中に閉じ込めてしまうことです。神様とそのお働きを小さなものとしてしまうことであり、もっと言えば、神様をコントロールしようとすることなのです。そんなことはしていない、と思われるかもしれません。確かに私たちは順調なときには、自分の望んでいることが起こっているときには、神様が自由な働きによってそれを与えてくださっている、と信じることができ、喜ぶことができ、感謝することができます。ところが一度、逆境に直面して、自分の望んでいない出来事が降り掛かってくると、神様がこんなことをなさるのは間違っている、と神様の自由な働きを拒んで、文句ばかりを言ってしまうのです。そのとき私たちは神様のみ業を自分の頭の中に、人間の限られた考えの中に閉じ込めて、神様のみ業を「間違っている」と判断しています。私たちが神様のことを知り尽くしていて、コントロールできるかのように勘違いしているのです。

神の救いの計画
 神の知恵は、神様の秘められた計画です。そしてその秘められた計画とは、神様の救いのご計画にほかなりません。7節の終わりに、「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」とあるように、神様の救いの計画は世界の始まる前から、天地創造の前から、み心によって定められていました。しかしその救いの計画は隠されていたので、私たちは知ることができなかったのです。もちろんそれは、神様が私たちに意地悪をした、ということではありません。「神がわたしたちに栄光を与えるために」と言われていたように、この世界の始まる前からみ心によって定められ、隠されていた神様の救いの計画は、私たちが栄光を受けるための計画、つまり私たちが救いにあずかるための計画であったのです。私たちには知ることができなかったこの救いの計画によって、救いのみ業によって、神様は私たちを救おうとされたのです。

栄光の主を十字架につけた
 私たちを救うための神様の秘められた救いの計画において、決定的なことは、独り子イエス・キリストを十字架に架けることでした。8節には、このようにあります。「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。ここでパウロは、もしかしたら「この世の支配者たち」が、この知恵、つまり神様の救いの計画を理解したかもしれない、と言っているのではありません。そんな可能性はありませんでした。「もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」と語ることによってパウロは、この世の支配者たちがだれ一人、神の知恵、神様の救いの計画を理解しなかったので、主イエスを十字架に架けた、と強調しているのです。「世の支配者たち」とは、総督ピラトを代表とするローマ帝国の指導者たちと捉えるのが自然かもしれません。しかしユダヤ教の宗教指導者たちも含まれている、と考えることもできます。彼らも主イエスを十字架に追いやったからです。それだけではありません。すでにお話ししたように「支配者」という言葉は「悪霊」をも意味する言葉です。神様と敵対し、神様の救いの計画を理解しない悪霊の力は、指導者たちだけでなく民衆にも働いて、主イエスを十字架に架けさせたのではないでしょうか。民衆も「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだのです。そしてこの神様と敵対させ、神様から離れさせようとする力は、私たちにも働いています。かつて私たちはこの悪霊の力の支配のもとにあって、神様から離れ、神様に背き、自分勝手に生きていたのです。そうであれば私たちは、指導者たちや民衆だけが主イエスを十字架に架けたのであって、自分には関係ないと言えるはずがありません。私たちこそが主イエスを十字架に架けたのです。

心に思い浮かびもしなかった救いのみ業
 しかし神様は、まさに世の指導者たちが、そして私たちが思いも考えもしなかった仕方で、つまり主イエスを十字架に架けるという仕方で、その秘められた救いの計画を決定的に実現してくださいました。誰一人として主イエスが最も残酷な十字架刑で、みすぼらしいお姿で死なれることに神様の救いがあるとは思いもしませんでした。しかし神様は、世の指導者たちが神様の救いの計画を理解せず、主イエスを十字架に架けたことを用いて、その救いの計画を実現してくださり、そして私たちを救いにあずからせてくださったのです。パウロは9節で、このことにおいて聖書に書かれていることが実現した、とこのように言っています。「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」。パウロが引用したみ言葉は、そのまま旧約聖書に見いだせるわけではありません。本日共に読まれたイザヤ書64章3節や、ほかの箇所のみ言葉から引用しているのです。いずれにしてもこれらのみ言葉が、主イエスの十字架において実現しました。私たちの目が見ることもできず、私たちの耳が聞くこともできず、私たちの心に思い浮かびもしなかった救いのみ業を、神様は私たちのために準備してくださり、実現してくださったのです。「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」でしかなかった「十字架につけられたキリスト」に、私たちの心に思い浮かびもしなかった「十字架につけられたキリスト」に、神様の救いのみ業の実現があるのです。

神の救いの計画は知り尽くせない
 神様の秘められた救いの計画は、主イエス・キリストの十字架において決定的に実現しました。キリストの十字架において「隠されていた、神秘としての神の知恵」が、神様の救いの計画が明らかにされたのです。私たちはキリストの十字架に救いがあることを知らされているし、その救いにあずかって生かされています。しかし神様の救いの計画はなお完成したわけではありません。この救いの計画は世の終わりに完成するのです。ですから私たちは今も、神様の救いの計画をすべて知り尽くすことはできません。神様は今も生きて働いておられ、救いのみ業を前進させてくださっていますが、私たちはそれをすべて知り尽くすことはできないし、そのみ業を自分の頭の中に閉じ込めることはできないのです。誰の目にも見ることができず、誰の耳にも聞くことができず、誰の心にも思い浮かびもしなかったにもかかわらず、神様が主イエスの十字架において決定的な救いのみ業を行ってくださったように、これからも私たちの目に見えず、耳に聞こえず、心に思い浮かびもしない恵みのみ業を、神様は私たちのために行ってくださるのです。

成熟した信仰に生きる教会へ
 私たちは神様を知り尽くすことはできません。しかし神様は私たちのすべてを知っていてくださいます。私たちのすべてを知っていてくださり、大切にしてくださり、愛してくださり、私たちのために恵みのみ業を行ってくださるのです。独り子を十字架に架けるほどに私たちを愛してくださっている神様が、私たちのすべてを知っていてくださることに、私たちのまことの平安があるのです。「成熟した人たち」とは、「大人の信仰者たち」とは、このことを信じて生きる者たちです。「世の知恵」とは違って、私たちは「神の知恵」、神様の救いの計画を自分のものにすることも、知り尽くすこともできないことを弁え、しかし神様が私たちのすべてを知っていてくださり、私たちのために恵みのみ業を行ってくださることに信頼して生きるのです。コリント教会は人と比べて生きることへと駆り立てる「世の知恵」に支配され、世の知恵を語り、お互いを比べて誇り合い、妬み合い、裁き合っていました。私たちの教会は、この箇所のみ言葉を通して、そうではない成熟した信仰に生きる教会へ、大人の信仰に生きる教会へと招かれています。私たちの社会が人と比べて生きることへと駆り立てる社会であったとしても、その中にあって、私たちの教会は神の知恵を受け入れ、それを語り出し、その知恵に根ざして歩んでいくのです。私たちの教会は、神様の救いの計画を信じ、それを語り出します。神様を知り尽くすことはできないことを弁え、しかし神様が私たちのすべてを知っていてくださり、愛してくださり、これからも、たとえ困難の中にあろうとも、私たちのために恵みのみ業を行ってくださることに信頼して歩んでいくのです。そのように歩む私たちの教会に、人と比べて生きることへと駆り立てる「世の知恵」からの解放が与えられ、神様に知られているというまことの平安が、神様の救いの計画の内に生かされているというまことの平安が与えられるのです。

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