2024年9月8日 教会創立150周年記念礼拝説教
説教題「神の恵みは無駄にならず」 牧師 藤掛順一
詩編 第27編1〜14節
コリントの信徒への手紙一 第15章1〜11節
最も大切なことを受けて伝える
コリントの信徒への手紙一の第15章3節においてパウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」と語っています。自分が受け取った最も大切なことを他の人に伝える、自分がしているのはそういうことだとパウロは言っているのです。これこそが教会の歩みであり、その歴史です。教会とは、「最も大切なこと」を受け取り、それを他の人に伝えていく群れなのです。伝える相手が、今共に生きている人々であれば、それを伝道と言い、それが次の世代の人々であれば、信仰の継承と言います。いずれにせよ、「最も大切なこと」が、人から人へと、世代から世代へと伝えられ、受け継がれていく。それが教会の歴史であり、パウロはここで、自分はそういう教会の歴史の中で生きており、その歴史を担っているのだ、と語っているのです。
横浜指路教会は今週、創立150周年を迎えます。1874年9月13日がこの教会の創立の日です。その日に洗礼を受けた7人と、既に洗礼を受けていた11人、合わせて18人の人々によって、ヘンリー・ルーミスを初代牧師として、横浜第一長老公会が誕生したのです。この18人の人々は、自分たちで何か新たなことを独自に考えて始めたのではありません。彼らは、アメリカから来た宣教師たちから「最も大切なこと」を受け継いだのです。彼らに最も大きな影響を与えたのは、横浜開港の年、1859年に日本に来た医療宣教師J.C.ヘボンでした。そのヘボンも、自分自身が受けた「最も大切なこと」を伝えるために日本に来たのでした。当時はまだいわゆるキリシタン禁制の時代ですから、彼は先ず医者として病気の人々を無料で治療することに、日本人との出会いの場を求めました。そして日本語と英語の橋渡しをする辞書を編纂し、聖書を日本語に翻訳して出版する働きを中心になって担いました。それらの働きの実りとして、来日して15年目に、ヘボンが伝えようとした「最も大切なこと」を受け取る人々の群れが誕生したのです。そして今度はその人々が、自分たちが受けたその「最も大切なこと」を他の人々に伝えていきました。それから150年、この教会において、そのことが繰り返されてきました。150年の教会の歴史をひと言で言ってしまえば、「最も大切なこと」を受けた者たちが、それを「最も大切なこと」として他の人々に伝えてきた、ということです。そしてこのことは150年前に始まったのではなくて、およそ2000年前の、キリスト教会の誕生の時からずっと繰り返されてきたことです。コリントの教会も、パウロが「最も大切なこと」を伝えたことによって生まれました。ヘボンがそれと同じことをしたことによって、この横浜指路教会が生まれたのです。
最も大切なものとは福音
パウロが、自分も受け、それをあなたがたに伝えた、と言っている「最も大切なこと」とは何でしょうか。そのことがこの15章の1節に語られています。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません」。パウロが伝えた「最も大切なこと」とは「福音」です。あなたがたは私が告げ知らせた福音を受け入れ、それを生活のよりどころとしている、とパウロは言っています。「生活のよりどころとしている」というのは、それによって収入を得ている、という意味に受け取られてしまいそうな訳ですが、この言葉は直訳すれば「そこに立っている」です。つまり、あなたがたが拠り所としており、それによって確かに支えられている土台がそこにある、ということです。パウロ自身も、自分が受けた福音に立っており、それに支えられているのです。パウロからその福音を伝えられたコリント教会の人々も、その福音を拠り所とし、それに支えられているのです。この1節に続く2節を原文で読むと、その冒頭には「それによって救われている」という言葉があります。新共同訳では2節のまん中あたりに「あなたがたはこの福音によって救われます」とありますが、その言葉は原文においては2節の冒頭にあるのです。つまりパウロはここで、私があなたがたに伝えた福音によって、あなたがたは確かな拠り所、支えを得ており、それによって救われている、と言っているのです。彼らに救いをもたらしているこの福音こそ、彼が伝えている「最も大切なもの」です。この福音を信仰の先達から受け継ぎ、それによって支えられ、生かされ、救われ、そしてその福音を次の世代へと伝えていく、それが教会の歩みであり、この教会も150年にわたって、そのように歩んできたのです。
聖書から福音を聞く
しかし福音が私たちを支え、生かし、救うというのはどういうことなのでしょうか。福音とは「良い知らせ」「喜ばしい知らせ」という意味です。しかし自分の耳に心地良く、喜ばしく感じられる言葉が全て福音なのではありません。パウロは2節で「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と言っています。信じたこと自体が無駄になってしまうことがある。つまり、福音だと思って信じたことが本当に私たちを支え、生かし、救いをもたらすことにならない、ということがあるのです。そうならないためには、パウロが福音をどんな言葉で告げ知らせたかをしっかり覚えていなければなりません。つまり福音を正しく受け止めなければならないのです。自分の耳に心地良い言葉が全て福音なのではない、というのはそういうことです。福音を間違った言葉で、間違った内容で受け止めてしまうと、それは私たちを本当に支え、生かし、救うものにはならないのです。ですから私たちは、パウロがどのような言葉で福音を告げ知らせたのかをしっかり受け止めなければなりません。パウロが語った福音の言葉は聖書に記されているのですから、これは言い換えれば、聖書によって福音の内容をきちんと吟味しなければならない、ということです。自分の耳に心地良い、自分が喜ばしいと感じる教えが、必ずしも私たちを支え、生かし、救うのではありません。神の言葉である聖書に語られている福音こそが、私たちを本当に支え、生かし、救うのです。ですから、福音によって支えられ、生かされ、救われるためには、聖書を読み、そこに語られている福音の言葉をしっかり聞かなければなりません。その意味で、ヘボンが、聖書を日本語に翻訳する働きを中心になって担ってくれたことは、とても大切なことだったのです。私たちはヘボンから受け取った聖書によって福音を知らされているのです。聖書翻訳の働きによってヘボンはまさに、「最も大切なこと」を私たちに伝えてくれたのです。そして今、150周年を記念して、「聖書全巻リレー通読」が行われています。二週間目が終わり、旧約聖書の終わりにさしかかりつつあります。このことも、私たちの教会が、福音を聖書に語られている通りに受け止めるためになされています。福音を、聖書が語っている通りに聞くことによってこそ、私たちは支えられ、生かされ、救われるのです。
キリストの十字架と復活による福音
パウロは3節後半以降で、自分がどんな言葉で福音を告げ知らせたか、その言葉をもう一度語っています。そこに繰り返し出て来るのは「聖書に書いてあるとおり」という言葉です。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。つまりパウロは、自分が勝手に考えた福音ではなくて、聖書、この場合には旧約聖書ですが、そこに語られていたことを告げ知らせたのです。旧約聖書は、イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んで、葬られ、そして三日目に復活する、ということを語っています。旧約聖書の中でいろいろな仕方で預言され、暗示されていたこのことが、主イエス・キリストの十字架の死と復活において実現したのです。神がその独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、そのキリストが、神を無視し、敵対している私たちの罪のために、それを全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そのキリストを父なる神が復活させて下さったことによって、罪人である私たちを赦して救って下さる神の恵みのみ心が実現したのです。神が、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを救って下さった、それが聖書が語っている福音であり、パウロはその福音を告げ知らせたのです。私たちを本当に支え、生かし、救うのはこの福音なのです。
聖書が語っている通りに
しかしこの福音は、私たちの耳に心地良い教えではありません。ここに喜ばしい知らせがある、とすんなり思えるようなものでもありません。さらに言えば、そんなに魅力的な教えでもないと言えるでしょう。なぜならこの教えは、私たちが神に敵対している罪人であることを前提としており、神が罪を赦して下さることこそが救いであると語っているからです。そんな教えよりも、神さまが恵み深い方として共にいて下さるのだから、その神さまに信頼して、隣人を愛し、人のために尽くす善い業に励みましょう、という教えの方が、よほど分かりやすくて魅力的であり、励みにもなると感じるのです。キリストの十字架による罪の赦しという、聖書が語っている福音に、人間はあまり魅力を感じないのです。だから、それとは別の言葉で福音を語ろうとすることがしばしば起こるのです。パウロはそういうことに対する警告をここで語っています。それが2節の「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」という文章です。私たちの教会の150年の歴史も、こういう戦いの歴史でした。福音を、聖書が語っている通りの言葉で告げ知らせようという思いと、もっと人間の思いにかなう、魅力的で励みになる教えを語った方がよいのでは、という思いとのせめぎ合いが、この教会の歴史にも幾度となくありました。そもそもこの教会は、ヘボンや初代牧師ルーミスらが、聖書が語っている通りの言葉で福音を告げ知らせる教会を築こうとしたことによって誕生した、と言うこともできるのです。それは過去の話ではありません。150周年を迎え、これからのこの教会の歴史を担っていく私たちにも、福音をどのような言葉で受け止めるのかが問われています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」という、聖書に語られている福音をこそ受け継ぎ、それを告げ知らせていくことが、私たちの課題なのです。
キリストが現れて下さった
パウロが語っている福音の言葉はしかし、キリストの十字架と復活で終わってはいません。5節以下が続いています。「ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」。繰り返し語られているのは、復活したキリストが「現れた」ことです。キリストは三日目に復活しただけでなく、多くの人々に「現れた」。それが、パウロが語っている福音の言葉です。それは、その人々が復活したキリストを「見た」というだけのことではありません。キリストが現れて下さったとは、その人々に出会って下さり、交わりを持って下さったということです。キリストが現れて下さった人々は、キリストと共に生きる者とされたのです。そしてパウロが、キリストが多くの人に現れたことを語っているのは、最後の「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」ということを語るためです。復活したキリストが、私にも現れて下さった、私と出会い、交わりを持ち、私を、キリストと共に生きる者として下さった。それこそが、パウロが告げ知らせた福音です。つまりパウロが伝えた福音とは、昔キリストという救い主が私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった、という過去の出来事についての情報を告げる言葉ではありません。そのキリストが、この自分に出会い、自分と共にいて下さるという、今起こっていること、今自分がこのキリストによって生かされているという事実を、パウロは告げ知らせたのです。つまり福音とは、キリストについての過去の情報を伝える言葉ではなくて、キリストが現れて下さったことによって今起こっている神の恵みの事実を証しする言葉なのです。
それによってしか生きることのできない救いの宣言
キリストが現れて下さったことによってパウロに何が起ったのでしょうか。9節で彼は、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。パウロは元々は、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートとして、神の掟である律法を守ることによって義なる者、正しい者となり、神の救いを得ることができると信じていました。それゆえに、律法を守ることによってではなく、救い主イエス・キリストを信じることによって、その十字架と復活による罪の赦しにあずかり、救われる、と語っていたキリスト教会を、律法を無にし、神を冒涜する者たちとして迫害し、撲滅しようとしていたのです。そのように教会への迫害の急先鋒だったパウロに、復活した主イエスが現れて下さったことによって、彼の人生は180度転換しました。それまで迫害していた、主イエスを救い主と信じる信仰を、宣べ伝える者となったのです。それはただ方向転換をして正反対の方向に歩み始めた、ということではありません。神の群れである教会を迫害するというのは、神に対する重大な罪です。その罪を犯した彼は、もはや神の怒りを受けて滅ぼされるしかないのです。その自分に、キリストが現れて下さったことによって、彼は新しく生まれ変わり、神の救いのみ業に仕えるを者となったのです。つまり彼は、神に対してとりかえしのつかない罪を犯した自分のために、神の子キリストが死んで下さり、自分の罪を赦して下さったことを、そして復活して生きておられる主イエスが自分と出会って下さり、神の救いのみ業に仕える者として新しく生かして下さったことを体験したのです。「神が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちを救って下さった」という福音は、彼にとって、信じるか、信じないか、どっちにしようかな、というような一つの知らせではなくて、それによってしか生きることができない、神の恵みによる救いの宣言だったのです。それはパウロだけのことではなくて、私たちも皆同じではないでしょうか。私たちも、自分を主人として生きており、神を無視して、敵対している罪人です。だから私たちは、「神が恵み深い方として共にいて下さるのだ」などと呑気に言うことはできないのです。私たちが努力して隣人を愛し、人のために尽くす善い業に励むことで救いが実現するなどということはないのです。私たちの救いは、神の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さったことによって、神が罪を赦して下さったことによってこそ与えられるのです。そして罪と死の力に勝利して復活して下さった主イエスが、私たちにも現れて下さって、主イエスと共に生きる者として下さることによってこそ、私たちは新しく、希望をもって、神と隣人とを愛して生きていくことができるのです。パウロが、聖書が語っている通りに告げ知らせたこの福音こそが、私たちを本当に支え、生かし、救うのです。
神の恵みは無駄にならず
この福音によって生かされているパウロは、10節でこう語っています。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。「神の恵み」という言葉が、この1節に三回出てきます。神の恵みこそが私たちを新しく生かすのです。とうてい赦されるはずのない罪の中におり、自分の力ではそれをどうすることもできずにいる私のために、神の独り子主イエス・キリストが、その罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そして父なる神によって復活した主イエスが、その資格のない私にも現れて、出会って下さり、罪の赦しを告げて、あなたを私の民として新しく生かす、私はあなたと共におり、あなたを、わたしの救いの業のために用いる、と宣言して下さったのです。この神の恵みによってこそ、私たちは生きることができます。そしてこの神の恵みを受けた者は、豊かな働きを与えられるのです。パウロは「他のすべての使徒よりずっと多く働きました」と言っています。自分の働きを誇っているようにも感じられますが、しかしそれに続いて「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と言っているように、これは彼の働きではなくて、神の恵みが生み出した実りなのです。「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず」とも言っています。キリストによる神の恵みは、無駄になることはない、つまり何の実りも生まないようなことはないのです。それは必ず私たちを新しくし、意味のある働きを豊かに与え、喜んで、感謝して、神をほめたたえつつ生きる者とするのです。
神の恵みは無駄にならない。私たちの教会の150年の歴史は、そのことを味わい、体験してきた歴史でした。私たちは、伝えられた福音を信じて洗礼を受けることによって、神の恵みを受け継ぎ、神を礼拝し、聖書が語る福音のみ言葉を聞き、聖餐にあずかることによって、神の恵みを味わい、それによって生かされています。そしてその福音を、神の恵みを、他の人々に、次の世代の人々に、伝えていくのです。神の恵みが無駄になることは決してない。それは必ず豊かな実を結ぶ。そこに、私たちの希望があるのです。