2024年4月の聖句についての奨励(4月3日 昼の聖書研究祈祷会)
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(10節)
コリントの信徒への手紙一第15章1〜11節 牧師 藤掛順一
神の恵みによって今日の指路教会がある
10節の「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」を4月の聖句としました。この4月から歩み出した2024年度は、指路教会の創立150周年を記念する年度です。そのためのいくつかのイベントが計画されており、この4月にその第一弾である「神奈川宿ウォーキング」が行われます。「150年史」出版に向けての準備も進んでいますし、「私の信仰と聖句」をまとめた「信徒証言集」第二弾の発行も予定されています。これらのことを通して私たちは今年度、「神の恵みによって今日のわたし(たちの教会)があるのです。」ということを確認し、感謝しようとしているのです。そういう意味でこの箇所は、2024年度を歩み出す4月に相応しいものだと思います。いやむしろ、この記念すべき年度を歩んでいく私たちの思いを、パウロがここで語っている思いに重ね合わせていくことによってこそ、創立150周年をみ心に叶う仕方で記念することができるのだと言うべきでしょう。
神の憐れみによって用いられたパウロ
パウロは「今日のわたしがある」ことを心から喜び、感謝しています。その「今日のわたし」とは、アジアからヨーロッパにかけて、今だって大変な距離を旅して、主イエス・キリストの福音を力強く宣べ伝えている「わたし」です。彼の伝道によって多くの教会が生まれました。この手紙が書き送られているコリントの教会も彼の伝道によって誕生したのです。10節の後半で彼は「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」と言っていますが、それは自慢でも何でもない、事実です。使徒と呼ばれた人々の中で最大の働きをしたのはパウロだと言えるのです。
しかしパウロはここで決して、自分のしている働きを誇ったり、だから自分は重んじられるべきだ、と主張しているのではありません。このような働きをしている「わたし」は9節にあるように「神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」です。これも単なる謙遜ではなくて、事実です。パウロは元々はユダヤ教ファリサイ派のエリートであり、神の律法を守ることによって神の前に義しい者となれると考えていました。神に選ばれて律法を与えられ、それを守っていることが、神の民ユダヤ人のしるしであると考え、それを誇りとして生きていたのです。そのために彼は、律法による義ではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義とされ救われると宣べ伝えていたキリスト教会を許すことができませんでした。「キリスト教」を撲滅することが神の民であるユダヤ人としての使命だと考えて、先頭に立って教会を迫害していたのです。つまり彼は、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって救いを実現して下さった神のみ心を受け入れず、それに逆らい、妨害しようとしていたのです。本来なら、そのように神に敵対した者は神の怒りを受けて滅ぼされるしかありません。滅ぼされないまでも、そのような者が「使徒」として用いられることなどあり得ないのです。それなのに、教会への迫害の思いを燃え盛らせていた彼の前に、主イエスが現れて、「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけました。彼はこの主イエスとの出会いによって180度向きを変え、主イエスこそが神の子であり救い主であると信じて、その主イエスによる救いを宣べ伝える者となったのです。それは彼が自分で決心して方向転換をしたということではなくて、主イエスが、ご自分に背き逆らっている彼に出会って下さり、彼を打ち砕き、そしてご自分の僕として新たに立て、遣わして下さったという出来事でした。こうして彼は「今日のわたし」となったのです。だからそれは自分の功績として誇れるようなことでは全くありません。神に逆らう深い罪に陥り、もはや神のみ前に出ることなどできない、ましてみ業のために用いられることなどあり得ない自分が、ただ神の憐れみによって赦され、生かされ、用いられているのです。だから彼は、「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」の前に、「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず」と言っています。またその後にも「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と言っています。自分が何がしかの働きをし、ある成果を上げることができているとしたら、それをもたらしたのは自分ではなくて「わたしと共にある神の恵み」であって、その恵みが無駄にならずに、罪人である自分をも用いて実を結んだ、ということなのだ、と言っているのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」とはそういうことなのです。
神の恵みによって生かされている指路教会
指路教会の150年の歴史もそれと同じだと言えます。1874年、明治7年に生まれたこの教会は、日本のプロテスタント教会の中で最も歴史のある教会の一つです。その創立は、ヘボンという傑出した信仰者の働きによるものでした。彼が、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えようという深い情熱をもって、横浜開港と共に来日して、まだキリスト教が禁止されている日本で、病人の治療、辞書の編纂、日本訳聖書の翻訳出版などの地道な働きを積み重ねていった中で、この教会は生まれました。明治25年にこの場所に立派な煉瓦造の教会堂が建ったのもヘボンの尽力によることだったし、大正12年の関東大震災でその会堂が全壊してしまった後、3年度の大正15年に現在のこの会堂が再建されたのも、ヘボンの開いた塾で若い頃に学び、そのおかげで財を成すことができたある教会員が、ヘボンの恩義に応えるために多額の献金をしたことによるわけですから、今のこの会堂もヘボンのおかげで建ったと言えます。そのように私たちの教会はヘボンのもとで生まれ、ヘボンから多大な恩恵を受けて歩んできています。しかしそこで考えなければならないのは、ヘボンがニューヨークの病院の院長という地位を捨てて、開国したばかりの日本に来て伝道をした、その信仰の熱意、伝道の情熱を、私たちはどれだけちゃんと受け継いでいるか、ということです。ヘボンが伝道の志を立て、アメリカの教会がそのヘボンを日本に派遣してその働きを支えたことによってこの教会が生まれたように、私たちがどこかの国に宣教師を派遣して伝道をして教会を築いたことがあるでしょうか。いや、他の国どころか、この日本の中においても、150年の歴史の中で私たちは一つも新たな教会を生み出すことができていないのです。結果的に新しい教会が生まれた、ということはありますが、この教会の意志によって、教会員皆の協力の下に新しい教会を生み出したことはありません。私たちはヘボンの信仰をちゃんと受け継いでいると言えるのだろうか。むしろ、ヘボンに感謝しつつ、その遺産をただ食い潰しているだけなのではないか。ヘボンも主に用いられてその働きをしたわけですが、私たちも同じように主に用いていただこうとしているのだろうか、そのことを振り返るなら、「うちは150年の歴史があります」などと誇れるものではありません。その他にも、私たちの教会の歴史には、いろいろな試練があっただけでなく、罪に陥り、主のみ栄を汚してしまったようなことがありました。人間の罪と弱さによる対立が生じて傷つけ合ってしまったこともありました。この教会は今、比較的恵まれた状況にあると言えますが、これらの歩みを振り返るなら、それは私たちが誇り得るようなことでは全くなくて、パウロと共に私たちも、「全くその資格のない罪人である私たちが、ただ神の恵みによって今日あるを得ている。罪人である私たちに与えられた神の恵みは無駄にならず、豊かな実を結んでいる」と言わなければならないのです。「神の恵みによって今日のわたしがある」というのは、パウロにおいても私たちにおいても、「達成感」や「満足感」をもって語られることではなくて、私たちの罪や弱さにもかかわらず、それよりもはるかに大きな神の恵みが与えられて、それによって生かされ用いられていることへの感謝の中でのみ語られ得ることなのです。
神の恵みとは何か?
その「今日のわたしがある」ことをもたらしている「神の恵み」とは何なのでしょうか。それをパウロは1節以下で語っているのです。その神の恵みの知らせが「福音」です。その福音をパウロはコリント教会の人々に告げ知らせたのだし、コリント教会の人々はそれを「受け入れ、生活のよりどころしている」のです。その「福音」の中心が3節以下に語られている、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えた」ことです。それは「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」です。つまり主イエス・キリストが私たちの罪のために、つまりその赦しのために、十字架にかかって死んで葬られたこと、三日目に復活して、生きている方として弟子たちにご自身を現されたこと、それが「福音」の中心であり、それこそがパウロを、そして私たちを今日あらしめている神の恵みなのです。このことを私たちはしっかりと見つめなければなりません。「神の恵みによって今日のわたしがある」というのは、いろいろな困難や試練、苦しみや悲しみがあったけれども、神がその都度守って下さり、支えて下さり、困難な問題を解決して下さったから今に至ることができた、ということではありません。神の恵みとは、具体的な個々の問題において導き、それを乗り越えさせて下さったことではなくて、主イエスがこの自分のために十字架にかかって死んで下さり、復活して現れて下さったことなのです。勿論、個々の問題において神の不思議な導きや支えによって守られる、ということを私たちは体験します。それも神の恵みであることは確かです。しかし、私たちを本当に生かす根本的な恵みとは、主イエスの十字架と復活の出来事なのです。
主イエスの十字架による罪の赦しの恵み
主イエスは、「私たちの罪のために死んだ」のです。つまり神の独り子である主イエスが、私たちの罪を背負って十字架の死刑を受けて下さったのです。私たちには罪があります。神が愛して下さっているのに、その神に従おうとせず、自分が主人になって、神なしに生きようとしているのが罪です。その罪によって私たちは、自分に命を与え、人生を導き、そしてそれを終わらせる神との良い関係を失っているのです。主イエスは私たちのこの罪のために、その罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって神は私たちへの愛を示して下さり、私たちを赦し、罪によって壊れてしまった良い関係を回復して下さいました。この罪の赦しの恵みにあずかって、神の愛を受けつつ神と共に生きていくことによって、私たちの人生に確かな支えが与えられるのです。いろいろな苦しみ悲しみ困難に直面しても、希望を失わずに歩み続けることができるようになるのです。苦しみに負けない強い力を自分が得ることによってではなくて、神の独り子主イエスがこの私の罪のために死んで下さったほどに神が愛して下さっている、という事実に支えられていくのです。
主イエスの復活による恵み
そして主イエスは復活なさいました。父なる神が、主イエスを捕えた死の力を打ち破って、主イエスに新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。そのことによって神は、主イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んだことが、本当に私たちの救いの出来事であり、それによって私たちの罪が赦されて、神との良い関係が回復されたことを示して下さったのです。つまり主イエスの復活によって神は私たちを捕えている罪に勝利して下さったのです。そして同時に、私たちをいつか捕え支配する死の力にも勝利して下さったのです。私たちを捕えている罪と死の力に、神の恵みの力が勝利した、そのことを主イエスの復活は示しているのです。
生きておられる主イエスとの出会い
主イエスが復活したことだけでなく、生きておられる主イエスが弟子たちに現れて下さったことが、「最も大切なこと」として語られています。つまり彼らは復活して生きておられる主イエスとの出会いを与えられたのです。それによって、神が本当に自分を愛し、罪を赦し、良い関係を与えて下さっていること、その神の恵みが自分を捕えている罪と死の力に勝利していることを知ることができたのです。この生きておられる主イエスとの出会いによってこそ私たちは、苦しみ悲しみ困難の中でも、死に臨んでも、希望を失わずに歩むことができます。この生きておられる主イエスが、「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とパウロは語っています。神の教会を迫害したどうしようもない罪人である私にも、生きておられる主イエスが現れて下さった、その主イエスが、使徒と呼ばれる資格など全くないこの私を、使徒として立て、用いて下さり、多くの働きをさせて下さっている、この神の恵みによってこそ、今日のわたしがあるのだ、と言っているのです。
指路教会が今日あるのも、復活して生きておられる主イエスが、この教会に連なる者たちに現れ、出会って下さったことによってです。教会の150年の歴史には、いろいろな弱さや罪がありました。主のご委託にしっかり応えることができなかったこともありました。今そこに連なっている私たちにも同じように、弱さや罪があり、恐れや不安があります。しかしその私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さった主イエスが、復活して生きておられる方として出会って下さるのです。そのことが、主イエスの復活の記念日である主の日の礼拝において繰り返し起っているのです。この神の恵みによってこそ今日のわたしたちがあることを常に見つめながら、150周年を記念する2024年度を歩んでいきたいのです。