12月23日 クリスマス讃美夕礼拝
説教 「慰めを拒むほどの苦しみの中で」 牧師 藤掛順一
新約聖書 マタイによる福音書第2章1-23節
クリスマスに平和の祈りを
皆さん、横浜指路教会のクリスマス讃美夕礼拝にようこそおいで下さいました。昨年の12月24日に三年ぶりにクリスマス讃美礼拝を復活させることができました。しかし昨年は人数制限をして、3回同じ礼拝をしました。今年は4年ぶりに、皆さんを積極的にお招きして讃美夕礼拝を行うことができるのを心から喜んでいます。そして今年はこれも4年ぶりに、教会の正面階段の左側に、クリスマスのバナーを掲げました。そこには「クリスマスに平和の祈りを」と書かれており、讃美夕礼拝の日時が記されています。そのバナーを見て今日来て下さった方もおられることと思います。今年は何としても、このバナーを掲げたいと思いました。コロナ禍がようやく収まってきてそれが可能となったからでもありますが、今年のクリスマス、多くの方々とご一緒に、平和を祈りたいと心から願ったからです。昨年も、ロシアのウクライナ侵攻から十ヶ月という時点で、そのことを覚えて平和を祈りつつ讃美礼拝を行いました。ウクライナにおける戦争はそれから一年経った今も激しく続いており、多くの命が失われ、傷つき、町が破壊され、難民となっている人が大勢いる事態は変わっていません。そして今年はさらに、パレスチナのガザ地区において、イスラエルとハマスとの間の戦いが始まり、激しい市街戦によって多くの一般市民が犠牲になっています。人口が密集している地域での戦いによって人々の命が危険にさらされているだけでなく、水や電気、ガスなどが止まったことによって命の危機となっています。人道支援の手もなかなか及びません。逃げ場もない、誰も助けてくれない、という中に多くの人々が置かれているのです。この悲惨な戦いが一日も早く止んで、人々の命と生活を支える働きがなされていくことを私たちは切に願っています。ウクライナにも、ガザにも、平和が実現することを願う、その祈りを一人でも多くの方々と共にしたい、という思いで今年の讃美夕礼拝の準備をしてきました。私たちの教会の讃美夕礼拝では毎年、アッシジのフランチェスコの平和の祈りをご一緒に祈っています。「主よ、わたしをあなたの平和の器とならせてください」と始まるこの祈りを私たちは毎年切実な思いで祈っていますが、今年はその思いがさらに高まっていると言えるでしょう。
人間の罪の深さ
ウクライナにおいてもガザにおいても、戦いの中に置かれている人々のありのままの姿を私たちは今テレビやネットで、ほぼリアルタイムで見ています。自分自身が傷つき、あるいは家族が傷ついたり命を失った悲しみ、絶望の中にいる人々の姿が私たちの目の前に映し出されています。特に子どもたちが泣き叫んでいるのを見ると、本当に心が押しつぶされそうになります。何とかしてあげたい、手を差し伸べたいと思うけれども、具体的には何もできない、募金に協力するぐらいの間接的な支援しかできないことに、無力さを覚えます。そして、どうしてこのようなことが起ってしまうのか。なぜこんな悲惨なことを止められないのかと、怒りをすら覚えます。しかしロシアとウクライナの問題も、アラブとイスラエルの問題も、長くて複雑な歴史があって、単純にどちらが正しいとは言えません。このような戦争はいつも、双方が自分の正しさを主張して、相手の攻撃から身を守るためにやむを得ず戦っているのだ、と言うので、なかなか解決しません。その中で多くの人が傷つき、命を失っていくという悲惨な事態が深まっているのです。本当に人間の罪はどこまで深いのだろうかと思わずにはおれません。
東方の博士たちの来訪
しかし、先ほど朗読されたマタイによる福音書に語られているクリスマスの出来事を読むと、イエス・キリストが誕生したおよそ二千年前にも、同じような悲惨な出来事が起っていたことが分かります。イエス・キリストが誕生した時、東方の博士たちがエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったのです。東方というのは、アラビアとかペルシャなどのことでしょう。はるか遠くの東の国の博士たちが、ユダヤ人の王の誕生を告げる星を見て、拝みに来たのです。それは、新たに生まれたその王が、ただユダヤ人だけの王なのではなくて、世界の王、すべての人々の救い主だということです。すべての人の救い主の誕生を知った東の国の博士たちが、イエス・キリストを礼拝をするためにはるばる旅をして来たのです。
新しい王の誕生に不安を抱く私たち
しかしその時ユダヤの王だったヘロデは、この博士たちの言葉を聞いて不安を抱きました。ユダヤ人の王が生まれたということは、自分にとって変わる新しい王が生まれたということだからです。新しい王が自分の王座を奪い取ろうとしている、という不安を彼は感じたのです。しかし不安を抱いたのはヘロデだけではありませんでした。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と語られています。自分たちのまことの王である救い主が生まれたというのは、ユダヤ人たちにとって本来は喜ばしい知らせであるはずなのに、当のユダヤ人たちが不安を抱いたのです。それは、彼らもヘロデと同じように、それぞれ自分の生活において王となっていたからです。新しい王が誕生すると、もう自分が王ではおれなくなる、その不安を人々も抱いたのです。ここに、私たち人間に共通する姿が描かれています。私たちは、たとえ権力者ではなくても、それぞれ自分の人生の王となっているのです。だから、新しいまことの王であるイエス・キリストの誕生を喜ばずに不安を覚え、その王を喜んで迎え入れようとはしないのです。
喜びに溢れた博士たち
ヘロデは律法学者たちから、メシアつまり救い主が生まれるのはベツレヘムだという聖書の預言を聞き出すと、博士たちをベツレヘムへと遣わして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」と言いました。それはもちろん、拝むためではなくて、その子を今のうちに始末してしまうためです。自分の王座を奪われる不安を抱いたヘロデは、新しく生まれた王を抹殺しようとしているのです。博士たちがベツレヘムに向かうと、彼らが東方で見た星が再び現れて彼らを導いて行きました。彼らは星の導きによって、つまり神の導きによって、母マリアと共にいる幼な児イエスを見つけ出し、その前にひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。10節には「博士たちはその星を見て喜びに溢れた」とあります。神の導きによって、お生まれになった救い主イエス・キリストに出会い、自分の大切な宝を献げて礼拝をしたことによって、彼らは喜びに溢れたのです。神の子イエス・キリストが救い主としてお生まれになったことを信じて、主イエスを自分の王としてお迎えし、自分の宝を、つまりは自分自身を献げて礼拝をする者は、この博士たちと同じ喜びに溢れるのです。今このクリスマスの礼拝に集っている私たちも、この喜びへと招かれているのです。
虐殺
そして博士たちは、「ヘロデのところへ帰るな」という神からのお告げを受けたので、ヘロデに報告することなく自分の国へ帰って行きました。そのことを知ったヘロデは激しく怒りました。16節に「さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、激しく怒った」とあります。もともとは自分が「私も行って拝むから」と嘘を言って博士たちをだまして利用しようとしたのに、うまくいかないと「だまされた」と怒り狂うのはまことに身勝手なことです。その身勝手な怒りによってヘロデはまことに残虐なことをします。「そして、人を送り、博士たちから確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいる二歳以下の男の子を、一人残らず殺した」。新しく生まれた王がどの子だか分からないから、いっそそれらしい歳の男の子を皆殺しにしてしまえ、というのです。戦争はこういう人間の身勝手な思いから始まり、そして戦争においてはまさにこのような無差別な虐殺が起ります。誰が敵か分からない中で、全ての人が敵に見えてきて、自分の身を守るためには犠牲が出ても仕方がない、という思いになるのです。先日も、イスラエルの兵士が誤って人質となっているイスラエル人を射殺したというニュースが流れていました。不安と恐れが支配している戦場ではそういうことが必ず起るのです。ヘロデがしたのと同じことが今、ウクライナでも、ガザでも、その他の内戦が起っている地でも、行われているのです。
慰められることを拒む絶望
ベツレヘム周辺の人々はこれによって深い嘆き苦しみの中に突き落とされました。突然兵士たちがやって来て、何の罪もない幼い男の子たちを次から次へと殺していったのです。子どもを殺された母親の絶望が18節に語られています。「ラマで声が聞こえた。激しく泣き、嘆く声が。ラケルはその子らのゆえに泣き/慰められることを拒んだ。子らがもういないのだから」。「慰められることを拒んだ」、そこに本当に深い悲しみ、絶望が現れています。そして今、ウクライナにおいても、ガザ地区においても、このような激しく泣き、嘆く声があがっています。慰められることを拒むような悲しみ、絶望の叫びが、私たちの耳にも届いているのです。イエス・キリストが誕生した二千年前も、今も、この世界は全く変わっていない。自分が王であり続けようとする人間の思いが、不安を生み、自分を守ろうとして人をどこまでも傷つけていく。そういうことが国家レベルでなされることによって、戦争が起り、一般市民や子どもたちが犠牲になっていくのです。その結果、慰めを拒むような悲しみ、苦しみ、絶望がこの世界を覆っているのです。
神による希望
今日私たちは、クリスマスを喜び祝うためにここに集っています。神の独り子イエス・キリストが、一人の人間としてこの世にお生まれになったことを記念するのがクリスマスです。イエス・キリストの誕生は、神の独り子が、人間のまことに身勝手な罪に満ちており、それによって戦争も起こり、幼い子どもまでもが虐殺されるような悲惨なことが行われ、慰めを拒むほどの苦しみの叫びがあがっているこの世界に、来て下さり、慰めを拒むほどの苦しみの現実の中を、私たちと共に歩んで下さった、ということを意味しています。そこに、この悲惨な現実の中を生きている私たちの希望があるのです。こんなに罪に満ちた、苦しみ悲しみだらけのこの世界と私たち人間を、神は見捨ててはおられない、ということです。私たちとこの世界を、神はなお愛して下さっているということです。
いや、そもそもイエスが生まれたためにこんな幼児虐殺が起ったのではないか。そしてイエスだけは天使のお告げによって虐殺を免れて生き延びている、そんなのおかしいではないか、と思う人もいるでしょう。また、イエスがこの世に生まれたことによって何が変わったというのか。それから二千年経った今も、同じようなことが行われている。何にもなっていないではないか。今のこの現実のどこに、神の愛などあるのか、と思う人がいるのも当然です。しかしイエス・キリストがこの時ヘロデによる虐殺を逃れて生き延びたのは、人々の様々な苦しみや悲しみ、そして人間の罪とそれによるこの世界の悲惨な現実を背負って生涯を歩むためでした。そのように歩んだイエス・キリストは、捕らえられて死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されたのです。イエスがこの虐殺を逃れたのは、この時殺された幼児たちの、そしてその母たちの慰めをも拒むほどの苦しみを、また私たち全ての者の罪と、それによって生じている苦しみ悲しみを背負って、十字架にかかって死ぬためだったのです。この主イエスの十字架の死にこそ、イエスの父である神が、罪に満ちており、苦しみ悲しみだらけのこの世界と私たち人間を、なお見捨ててはおらず、愛して下さっていることが示されているのです。
イエス・キリストの十字架の死と、そして復活から二千年、人間の罪は相変わらず深く、戦いも絶えず、慰めを拒むような絶望をもたらす悲惨なことが繰り返されています。何も変わっていない、というのも事実でしょう。しかしその現実の中で、クリスマスにこうして平和を祈る者たちが集まっています。神がこの世界と私たち人間を、なお見捨てておらず、愛して下さっていることを信じて、そこに希望を見出して、その神の愛がこの世界に実現するために、自分を平和の器として用いてください、と祈る思いが、私たちに与えられているのです。クリスマスにこの世に来られた主イエス・キリストが、私たちの罪と苦しみ悲しみを背負って歩み、十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった、そこに示されている神の愛を信じて、それに支えられて、私たちも、主イエスと共に、人間の罪によるこの世界の悲惨な現実のほんの一端をなりとも背負って、平和のための器として用いられたいと願っているのです。その願いの表明が、アッシジのフランチェスコの平和の祈りです。この祈りを祈りながら歩んでいる者たちが存在していることこそが、この世界の希望です。神の独り子イエス・キリストがクリスマスにこの世に生まれて下さったのは、私たちが神の愛を受けて、憎しみのあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いがあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇があるところに光を、悲しみがあるところに喜びを示す者として歩んでいくためだったのです。それではこれから、教会の鐘を鳴らしながら、アッシジのフランチェスコの平和の祈りをご一緒に祈りたいと思います。プログラムの中に印刷してありますのでどうぞご覧下さい。