「人間の創造(二)」 牧師 藤掛 順一
・ 旧約聖書; 創世記、第1章 26節-31節
・ 新約聖書; コロサイの信徒への手紙、第3章 5節-11節
・ 讃美歌 ; 227、521
人間の創造
二か月ぶりに、旧約聖書創世記からの説教ということになります。前回の三月にも、本日の箇所と同じ第一章二六~三一節から、「人間の創造」という題で説教をしました。ここには、天地創造の第六日、最後の日に、神様が、この世の全てのものの最後に、人間をお創りになったことが語られています。天地創造の物語は、人間の創造においてクライマックスを迎えているのです。言い換えれば、天地創造のみ業の全体は、人間を創り、この世界に住わせて下さるための準備、そのための環境造りだったのです。
「創造する」と「造る」
その人間の創造について、前回は二六節に注目してお話ししました。神様がこの人間の創造においてご自分のことを「我々」と複数形で呼んでおられること、また人間が神様にかたどり、似せて創られたと言われていること、そして人間は海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配する者として創られたことなどについてお話ししたのです。本日は、次の二七節に注目したいと思います。ここも人間の創造を語っているのですが、ここではそれが、三つの文章によって語られています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。この三つの文それぞれに「創造された」という言葉があります。この言葉は、冒頭の一節の、「初めに、神は天地を創造された」、ここに使われていた言葉です。その後、この世界のいろいろなものが神様によって創造されていったことが語られてきましたが、そこにおいては、「創造する」という言葉よりも「造る」という言葉の方がよく用いられてきました。つまりこの「創造する」という言葉は、一節の、天地創造の開始のところと、その最後、完成としての人間の創造の場面とに用いられているわけです。このことは、人間の創造が、一連の天地創造のみ業の中で、最も本質的な、大事なみ業だったことを示していると言えるのではないかと思うのです。もっとも、「創造する」という言葉は人間の創造のみにおいて用いられているわけではありません。二一節には、水の中の動物や鳥の創造においてこの言葉が使われています。また逆に二六節では、人間の創造において「造る」という言葉が用いられています。ですから「創造する」と「造る」という二つの言葉がどれだけ意識的に使い分けられているのかははっきりしません。しかし二七節において、人間の創造を語るのに、「創造された」という言葉が三度繰り返されているということは、やはりそこに特別な重きが置かれていると言ってよいでしょう。人間の創造は、天地創造物語の頂点であり、中心であり、目的なのです。それゆえに創世記は、二六節と二七節という二つの節を費やして、人間の創造を語っているのです。
男と女に
この二七節において先ず語られていることは、神様が人間をご自分にかたどって創造されたということ、ひっくり返して言えば人間は神様にかたどって創造されたということです。この「かたどって」の持つ意味について、前回にお話ししました。それをまとめて言うならば、神様にかたどって造られたとは、神様と人間の間にある類似性、似たところがあるということであり、それは人間が神様との交わりを持つことができる者として造られた、ということです。神様と「あなたと私」という関係を持つことができる、ということでもあります。神様は私たち人間を、神様と同じように、語りかけ、応答することができる者として、つまり「あなたと私」という人格的な交わりを持つことができる者として造って下さったのです。二六節はそのことを語っていました。二七節においても、このことがもう一度確認されています。そして二七節は、このことに加えて、「男と女に創造された」ということを語っているのです。人間に男女という性別がある、ということが、神様の創造のみ業として見つめられているのです。このことは、「神にかたどって」ということと別の、新しいことではありません。むしろ、人間が神様にかたどって造られた、その具体的な現れが、「男と女として」ということなのです。
神の性別?
このことは誤解をしないようにしなければなりません。神様にかたどって造られたことの具体的現れが男と女であることだ、というのは、神様にも男と女という性別があって、つまり男の神様と女神様がいて、それになぞらえられて人間も男性と女性なのだ、ということではありません。そういう考え方は昔から、洋の東西を問わずありました。イスラエルの民の周囲の異邦の民の多くはそういう考えでした。男の神と女の神がいて、両者が結婚して性的関係を持ち、その結果子供が生まれる、そのようにして大地に穀物の実りが生じていく、という感覚が広く行き渡っていたのです。作物の豊かさをもたらす神々、いわゆる五穀豊穣の神々はたいていそういう存在です。日本でも、産土神というのは、おっぱいとお尻の大きい女性の姿で描かれます。女性の多産と五穀豊穣とが結び合わされるのです。そのように、神々に性別を見て行くことは、特に多神教の世界では当り前のことです。それと、聖書が語っている、人間が神にかたどって創造され、男と女とに創造されたこととは全く違います。考える方向性が全く反対なのです。つまり、神々に性別を見ることは、人間や動物に男と女、雄と雌があることから出発して、それと同じように神々も性別を持った存在と考える、ということです。つまり考える方向は人間から神へ、です。それに対して聖書が語っているのは、神がご自分にかたどって人間をお造りになった、その結果人間は男と女という性別を持つようになった、ということです。考える方向は神様から人間へ、なのです。
人格的関係
しかしこれだけでは、やはり神様の性別から人間の性別があるのではないか、と思われるかもしれませんが、そうではありません。神様がご自分にかたどって人間をお造りになった、それは、先程申しましたように、語りかけ、応答することができる存在として、ということです。「あなたと私」という人格的な交わりを持つことができる者として、ということです。人間が男と女であるのは、このことの具体的現れとしてなのです。ということはここには、神様が、人間を男と女という性別を持った者としてお造りになることによって、語りかけ、応答する交わりに生きることを、つまり男と女とが「あなたと私」という人格的な関係を持って生きることを求めておられる、そういう神様のみ心が示されているのです。神様にかたどって造られた人間は、神様と「あなたと私」という交わりに生きることができる者として、つまり神様を信じることができる者として造られています。そのことを前回、二六節を通して示されました。しかし「神にかたどって」の意味はそれだけではなく、人間は、人間どうし、特に根本的には男と女との間で、「あなたと私」という交わりを持って、語りかけ、応答する人格的関係を持って生きることができる者として造られている、ということでもあるのです。そのことを、二七節は教えているのです。
性別の意味
人間は神様にかたどって、男と女とに創造された、ということがそういう意味であることを知ることによって、そこからいろいろなことが見えてきます。まず第一に、私たちはこれによって、神様に男と女があるのか、あるいは神様はただお一人だとしたら男なのか女なのか、という疑問から解放されます。性別は、神様が人間に、人間のためにお与えになったものなのであって、神様ご自身に性別はないのです。神様は男でも女でもありません。「父なる神様」と言って祈るのは、神様は男だ、という意味ではありません。神様は、人間が自分とは違う他者との人格的交わりに生きるために、そこに与えられる大きな恵みと喜びを与えるために、性別を与えて下さったのです。そしてこのことから第二に、人間に性別があることの意味が分かってきます。人間が男と女であるのは、動物が雄と雌であり、そのつがいによって子供が生まれ、いわゆる種の保存がなされていく、ということとは意味が違うのです。人間が男と女とに造られたのは、神様にかたどって造られた者として生きるためです。つまり、自分とは違う他者に語りかけ、応答し、他者との間に「あなたと私」という交わりを持って生きるためです。自分とは違う他者、というところがポイントです。考えてみれば、同じ人間なのに、男と女という、肉体的にも、そしておそらくそれ以上に精神的にも全く違う二種類の人間がいる、というのは不思議なことです。男にとって女は、また女にとって男は、謎であり、神秘であり、あこがれであり、喜びであると共に悩みや苦しみの種です。この世に異性というものがいなかったら、どんなに楽だろうか、とも思うし、もしそうだったらどんなにつまらないだろうかとも思うのです。異性との関係は、同じ人間だけれども自分とは違う存在との関係ということを私たちにはっきりと体験させてくれます。そしてそれは、異性に限らず、他の人との関係において私たちが多かれ少なかれ必ず体験することなのではないでしょうか。自分と全く同じ人間など同性の間にだっていないのであって、他の人というのは私たちにとって根本的に謎であり、神秘であり、あこがれであり、人間関係は喜びであると共に悩みや苦しみの種となるのです。そのことが最もはっきりと現れ、起こるのが男と女の関係においてです。人間が男と女として造られているのは、神様が私たち人間に、他者との交わりの中で、その喜びと苦しみとを味わいつつ生きることを望んでおられるからなのです。そのことは、神様にかたどって造られた人間のみに与えられている恵みなのです。
結婚の意味
人間が男と女であることの意味はこのように、他者との交わりに生きる、ということがその中心です。そこから第三のことが見えてきます。それは先程も少し触れましたが、人間の性別と動物の雌雄の違いです。人間が男と女であるのは、両者の結合によって子供が生まれ、子孫が残されていくためではありません。生物学的に言えば、人間の男女は動物の雌雄の延長であり、生殖による種の保存のためのメカニズムがそこにある、ということでしょう。しかし聖書の語る信仰においては、人間が男と女であることは、子供を産むためではないのです。男女の関係は結婚という、これも神様によって与えられた関係において最も深く位置づけられます。そのことはこの第一章には語られておらず、第二章に出てくることですが、その結婚の中心的な目的も、子供を産むことではなくて、夫と妻が、向い合って交わりに生きることです。語りかけ、応答する人格的関係という、神様の似姿を身に帯びて生きるために、結婚も定められているのです。ですから、たとえ子供が与えられないとしても、その結婚、夫婦に意味がないとか、十分でない、ということは全くありません。さらに広げて言えば、結婚をしなければ人間として半人前だとか、不十分だということもありません。結婚は、神様が人間を男と女として造って下さったことの意味を最もはっきりと、深く体験し、その恵みにあずかることができる関係ですが、それが男女の関係の唯一の姿ではありません。結婚をしなければ異性との交わりに生きることができない、ということはないのです。ただしこれも誤解してはならないのですが、それは、結婚しなくても肉体的関係を持ってよい、という話ではありません。肉体的関係と、そこに自然に与えられる子供が産まれるということは、結婚という秩序の中でこそ神様の祝福の下に置かれるのです。ですから、結婚が男女の関係の唯一の姿ではない、というのは、言い換えれば、肉体的関係のみが男女の関係の唯一の姿ではない、ということです。それは当り前のことでしょう。結婚は一人の人とのみすることであって、その人としか交わりを持てないわけではありません。夫や妻以外の異性と、肉体的関係なしに、共に歩み、協力し、人格的な交わりに生きることはいくらでもできるのです。つまり、男女の関係ということをセックスの問題だけに狭めてしまってはならないのです。セックスがなければそこには本当の交わり、関係がない、などということはありません。肉体的関係を抜きにして、異性との間に人格的関係を持って生きることができるのが神様にかたどって造られた人間なのです。つまり人間は、発情期に交尾の相手を求める動物とは根本的に違う存在として造られているのです。
産めよ、増えよ、地に満ちよ
このことを確認した上で、次の28節を読みたいと思います。男と女として創造された人間を、神様は祝福して下さり、こう言われたのです。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」ということについては、前回、二六節からお話ししましたので、本日は触れません。本日注目したいのは、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」というところです。子供を産み、その子供たちがさらに子供たちを産み、地上に子孫を増やしていけ、と神様はお命じになり、そのことを祝福して下さっているのです。これと同じような祝福は二二節において、水の中の生き物や鳥に対しても与えられていました。動物たちに与えられた、「産めよ、増えよ」という祝福が人間にも与えられているわけで、そういう意味では、動物と人間との連続性が見つめられている、と言うことができます。しかし違うのは、この人間への祝福が、「男と女に創造された」ということに続いて語られていることです。動物のところには、雄と雌というようなことは出てきていません。ですからここには、人間の男女が結婚して肉体的関係を持ち、子供が生まれ、子孫が増えていくことと、動物の生殖活動との間には、連続性もあるが、根本的に違う点もある、ということが見つめられているのです。人間は、神様にかたどって、人格的な交わりに生きる者として造られ、そのことを最もはっきりと現わすこととして性別を与えられました。その男と女とに造られた人間が、その人格的関係の最も深い形において結婚して、子供を産むのです。肉体的関係と妊娠、出産は、神様にかたどって造られた人間の人格的関係の中に位置づけられています。そして神様はそれを祝福し、そのようにせよと求めておられるのです。子供を産むことは、神様が人間を男と女として造って下さったことにおける大いなる祝福です。結婚の中心的目的は子供を産むことではない、と先程申しました。それはその通りで、子供を産むために結婚するのではないのです。しかし子供は、人間を男と女として造って下さった神様の恵みのみ心の中で与えられていく祝福の印です。神様はその祝福を求めよと言っておられるのです。神様が与えようとしておられるこの祝福を求めないことは、恵みのみ心をないがしろにすることになります。そういう意味では、男性も女性も、結婚して、子供を産むことを積極的に求めていくべきです。最近は、そもそも結婚しない人が増えていますし、結婚しても子供を求めない、子供が出来るといろいろと束縛されるから嫌だ、という風潮があります。そもそも、子供を「作る」という言い方の中に、自分が子供を思い通りに作ることができる造り主であるかのような傲慢な錯覚があります。それらのことは皆、神様がご自分にかたどって人間を男と女とに創造し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福を与えて下さっている、そのみ心に反することだと言わなければなりません。
他者との交わりに生きる
さて本日はこのように、神様が私たち人間を男と女として造って下さったことの意味を考えてきました。それは、私たちが神様にかたどって造られているということの現れであり、そこには、私たちを、他者との人格的な交わりに生きる者として造って下さった神様のみ心があるのです。このことは男と女の関係ということに留まるものではありません。男と女の関係は、人間が自分とは違う他者との交わりに生きる者であることが最もはっきりと現れる代表的な場ですが、他者との交わりは男女の関係を越えてさらに広がっているのです。私たちが、神様にかたどって造られた者として生きるとは、様々な場面で、自分とは違う他の人との交わりに生きることです。人間関係に生きると言ってもよいでしょう。そこに、神様が私たちを造り、生かして下さっていることの中心的な意味があるのです。そしてこのことは、私たちに大きな喜びを与えると同時に、またこのことが様々な悩みや苦しみのもととなります。男女関係もそうですが、いろいろな人間関係の悩みや苦しみを誰もがかかえているのです。神様は私たちを、このような苦しみを負う者としてお造りになったのでしょうか。そうではありません。あの創世記第一章に語られている人間の創造には、神様の祝福のみが語られているのであって、神様は祝福と同時に苦しみをも与えておられるわけではないのです。人間が男と女として造られたのは神様の祝福でした。その祝福であったことが、同時に苦しみにもなってしまったのは、人間の罪によることです。それは創世記第三章に語られていくことですが、人間が神様の下で生きることをやめ、自分が主人になって生きようとし始めたことによって、祝福であったはずの他者との交わり、人間関係が、男と女の関係も含めて、苦しみの源ともなってしまったのです。この人間の罪による苦しみからどのように救われるのか、ということが、聖書がその全体を通して語っていることです。本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、コロサイの信徒への手紙第三章五節以下を選びました。そこには、人間関係を苦しみに満ちたものにしてしまう私たちの罪が並べられています。五節には、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、貪欲」とあります。八節にも「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」とあります。これらは全て、人間関係を損ねるもの、人と人とが、「あなたと私」という交わりを持ち、呼び掛け、応答する人格的関係に生きることを妨げ、共に生きることができなくしてしまう、共同体を破壊してしまう罪です。それらのものを「捨て去りなさい」とか「古い人をその行いと共に脱ぎ捨てなさい」と言われています。私たちは、これらの罪を自分の身に何枚も重ね着しているのです。それらを脱ぎ捨て、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」歩むことが十節に勧められています。つまり、造り主なる神様にかたどって造られたという、創世記第一章に語られている私たちの本来の姿を取り戻すことが必要なのです。そうすれば、十一節にあるように、「もはやギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はない」。様々な違いを持った者たちが、その違いを越えて互いに呼び掛け合い、応答し合う人格的な交わりに生きる共同体がそこに実現していくのです。そのことは何によって実現していくのでしょうか。十一節の終わりに、「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」とあります。私たちが、造り主なる神様にかたどられた本来の姿を回復し、他者との交わりにおいて祝福にあずかって喜びの内に生きることができるようになるのは、主イエス・キリストによってです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった救い主イエス・キリストが、私たちと他者との交わりの真ん中に立ってとりなして下さり、私たちがお互いに持っている罪の全てを十字架の死によって贖って下さることによって、私たちは、神様にかたどって創造された本来の人間の姿、呼び掛け、応答する人格的な交わりを回復されて、他の人との間によい関係を築き、様々な違いを乗り越えて共同体を建て上げていくことができるのです。