6月11日(日) 主日礼拝
「義のために苦しむ」 副牧師 川嶋章弘
・詩編第34編12-23節
・ペトロの手紙一第3章8-17節
終わりに
ペトロの手紙一第3章を読み進めてきて、本日は8節から17節をご一緒に読んでいきます。冒頭8節に「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」とあります。「終わりに」とありますから、これまで語ってきたことの「終わりに」ということです。4月と5月に見てきたように、2章18節以下では、キリスト者でない主人に仕える、キリスト者の召し使いに向けて語られ、3章1節以下では、キリスト者でない夫をもつ、キリスト者の妻に向けて語られ、7節以下では、逆に、キリスト者でない妻をもつ、キリスト者の夫に向けて語られていました。これらことの「終わりに」、その「結論として」、本日の箇所の8節以下が語られている、ということになります。しかしそれは、家庭におけるキリスト者の生き方や振る舞いに限られた結論が語られているということではありません。前々回お話ししたように、家の召し使いとその主人との関係を通して本当に見つめられていたのは、神の僕として生きるすべてのキリスト者の生き方でした。また前回お話ししたように、妻と夫との関係を通して本当に見つめられていたのは、キリスト者とキリスト者でない親しい人との関係でした。ですから「終わりに」で始まる8節以下は、すべてのキリスト者の生き方についての結論が語られていることになるのです。ペトロの手紙一の背景を踏まえてより正確に言えば、圧倒的に多くのノンクリスチャンに囲まれて生きるキリスト者の生き方についての結論が語られているのです。これまでも触れてきたようにこの手紙の宛先である小アジアの諸教会に連なるキリスト者は、キリスト者でない人が大多数の社会に生きていました。それは今、日本に生きる私たちキリスト者の置かれた状況でもあります。時代を超えて、小アジアのキリスト者と私たちは多くの面で重なり合うのです。このことを意識しつつ、本日のみ言葉にも聴いていきたいのです。
一つの信仰に立ち、互いに共感する
ノンクリスチャンが圧倒的に多い社会にあって、キリスト者はどのように生きたら良いのか。8節では、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」と言われています。二番目の「同情し合い」と訳されている言葉は、「共感」と訳せる言葉であり、英語の「シンパシー」はこの言葉に由来します。それに先立って言われている「心を一つに」が、具体的に何を意味しているのかは、ここでは何も言われていません。しかし主イエス・キリストを信じることにおいて心を一つにする、ということに違いない。2章24節の言葉を用いれば、キリストが「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って」くださることによって、「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるように」なった、と信じることにおいて心を一つにする、ということに違いないのです。しかしそれは皆が同じように生きるということではありません。それぞれに異なる状況に置かれ、異なる想いを抱えて生きているのです。ですから「皆心を一つに、同情し合い」とは、皆が同じ信仰に立ちつつ、しかしそれぞれの抱えている異なる想いに互いに共感することなのです。間違えてはならないのは、共感するとは相手の想いを詮索することではないということです。相手が自分の想いを隠しておきたいと思っているなら、その想いにこそ共感するのです。一つの信仰に立ち、互いに共感し合うことを通して、相手を愛し、相手に対して憐れみ深くあり、自分の正しさを振りかざすのではなく相手に対して謙虚に生きる生き方が起こされていきます。このように生きることによって小アジアのキリスト者は、そして私たちは、ノンクリスチャンが大多数の社会にあって結束して歩んでいけるのです。
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてしまう
このように生きることは、裏返すならば9節にあるように「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い」ることなく、むしろ相手の祝福を祈って生きることです。しかしそう言われると、私たちは自分がそのように生きることができていないことに愕然とします。私たちは相手に共感し、相手を愛し、相手に対して憐れみ深くあり、謙虚でありたいと願っています。その気持ちに嘘はない、と私は思います。しかしそう願う一方で、私たちは簡単に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いて」しまうのです。悪口を言われたら、悪口を言い返さずにはいられません。侮辱されたら、侮辱し返さずにはいられません。たとえ口には出さなくても心の中ではそうしてしまいます。とてもじゃないけど自分の悪口を言い、自分を侮辱する人のために祝福を祈れない、と思います。それどころか私たちは、悪口を言われたら、言われた以上の悪口を言い返してやろうと思ってしまう。侮辱されたら、それ以上の侮辱で報いてやろうと思ってしまう。子どもの喧嘩で、相手に一発叩かれたら、二発叩き返してしまうようなものです。9節の終わりにあるように私たちは「祝福を受け継ぐために」召されたにもかかわらず、相手のために祝福を祈るよりも、相手からの悪や侮辱に対して二倍の悪や侮辱をもって報いようとしてしまう。これが私たちの偽りのない姿なのではないでしょうか。ここに私たちのどうしようもない罪があります。善いことを行おうとしても悪へと傾いて行ってしまう、私たちの悲惨な姿があるのです。
変えられていくことを諦めない
それなら私たちは諦めたほうが良いのでしょうか。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を祈ることなど、できるはずがないと諦めたら良いのでしょうか。あるいは、そんなことできるはずがないから今のままで良いと開き直ったら良いのでしょうか。しかしもし諦めたり開き直ったりしてしまうなら、私たちキリスト者の生き方は、私たちの周囲の人たちに、世の人々に何も発信できなくなってしまうのです。もちろん私たちは自分の力で自分たちの深い罪を取り除くことも、善を行おうとしても悪へと傾いて行ってしまう悲惨さから抜け出すこともできません。しかし私たちは、本日の箇所がこれまでこの手紙で語られてきたことを前提としている、ということを忘れてはなりません。先ほどもお読みした2章24節以下でこのように言われていました。キリストは「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。自分自身の罪深さや悲惨さを突きつけられる中で私たちが目を向けるべきなのは、キリストが私たちのすべての罪を担って十字架で死んでくださったことです。そのことによって私たちがすでに罪に対して死んで、義によって生きるようにされていることです。十字架でキリストが受けられた傷によって、罪という深い傷を負って死にかけていた私たちが癒されたことであり、本当の主人を見失いさまよっていた私たちが、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たことです。このことに目を向けることによって私たちは、今もなお私たちをとらえようとする罪の力が、もはや決定的に私たちを支配することはないということに、つまり私たちを滅ぼすことはないということに気づかされるのです。そうであるならば、義によって生きるようにされた者として、死にかけていたのに癒された者として、魂の牧者の支えと守りの内に生かされている者として、悪口を言う人に対して、侮辱する人に対して祝福を祈ることを諦めてはならないのではないでしょうか。繰り返しますが、それは、私たちが自分の力や頑張りによって悪や侮辱に対して祝福を祈れるよう「変わろうとする」ことではありません。私たちが救いの恵みの内に生かされる中で、悪や侮辱に対して祝福を祈れるよう「変えられていく」のを諦めないことです。変えられることなんてあり得ないと諦めてしまわないことなのです。別の言い方をすれば、祝福を受け継ぎ、祝福を伝えていくために召されている私たちが、その召しを、そんなことはできないと拒むのではなく、その召しに応えていこうとすることなのです。
善き日を見るのを望む
このことは10節の言葉で言えば、私たちが「命を愛し、幸せな日々を過ご」すことを求め続けるということです。10-12節では、共にお読みした旧約聖書詩編34編13-17節を引用して、「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」と言われています。ここで幸せな日々を過ごすための条件が語られていると受け止めるのは誤っていると思います。悪を言わず、偽りを語らず、善を行い、平和を追い求めるなら救われて、幸せな日々を過ごせる、と言われているのではないのです。なぜならこの手紙はこれまで、神の一方的な憐れみによって私たちが救われ、私たちに希望が与えられたことを語ってきたからです。
そもそも「幸せな日々を過ごす」ことを求め続けるとは、いわゆる「幸せな人生」を追求するというようなことではありません。苦しみや悲しみのない、あるいは葛藤のないハッピーな人生を求めることでもありません。10節の原文を直訳すると、「善き日を見るのを望む」となります。私たちは一日の終わりに「今日は善い日だった」となかなか思えません。私たちの毎日はつらいこと、苦しいこと、悲しいことで埋め尽くされているからです。そのような私たちが「善き日を見るのを望む」とは、苦しみのない日が来るのを望むことではなく、苦しみの毎日にあっても、なお一日の終わりに、「今日は善い日だった」と神に感謝できることを望むことです。言い換えれば、苦しみや悲しみに覆われた一日にも神の祝福を見ることを望むのです。それは、苦しみや悲しみ自体が神の祝福であるからではありません。苦しむときも悲しむときも、私たちが神の祝福の中に置かれ、神の祝福から漏れることはないからです。だから10-12節では、救われて幸せな日々を過ごすための条件が見つめられているのではないのです。救われた私たちが、どんな一日にも善き日を見るのを望み、神の祝福を見るのを望むゆえに、悪を言わず、偽りを語らず、善を行い、平和を追い求める者へと変えられていくのを諦めないことが見つめられているのです。
善いことに熱心である
そのように生きることが13節にある「善いことに熱心である」ということにほかなりません。私たちは「善い日を見るのを望む」からこそ、「善いことに熱心である」のです。善いことを行う者へと変えられていくのに熱心なのです。相手に共感し、相手に対して憐れみ深く、謙虚であろうとしても、簡単に相手の悪口を言い、侮辱してしまう私たちのために、善いことを行う力などまったく持っていない私たちのために、キリストが十字架で死んでくださったからです。その十字架の死によって私たちが新しく生かされているからです。
義のために苦しむ
13節では、善いことに熱心に生きるなら、「だれがあなたがたに害を加えるでしょう」と言われています。キリスト者が善いことに熱心に生きるなら、誰もキリスト者に害を加えるはずがない、と言われているのです。ところが続く14節には「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」とあります。基本的には害が加えられることはないけれど、「しかし」時々は「義のために苦しみを受ける」ことがあるかもしれない、ということなのでしょうか。そうではないと思います。なぜなら善いことに熱心に生きる私たちに、つまり善いことを行う者へ変えられるのを諦めない私たちに害が加えられないというのは、神の約束だからです。
このことは主イエスのお言葉から示されます。ほかならぬこの手紙の著者であるペトロが、主イエスのお言葉を思い起こしつつこの箇所を記したのではないでしょうか。主イエスが「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書5章10節)と言われたのを思い起こしていたに違いない。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイによる福音書18章28節)と言われたのを思い起こしていたに違いないのです。だから14-15節で、「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい」と言われているのです。私たちは「体は殺しても、魂を殺すことのできない」人々を恐れたり、心を乱したりするのではなく、魂の牧者であり、監督者であるキリストを主とあがめます。たとえ義のために、神の正しさのために苦しみを受けるとしても、キリストを主とあがめる私たちの魂を誰も殺すことはできません。キリストを主とあがめ、善いことに熱心に生き、善いことを行う者へと変えられるのを諦めない私たちの魂に、誰も害を加えることはできないのです。この神の約束が私たちに与えられているのです。私たちがこの神の約束を信じて生きるとき、たとえ義のために苦しみを受けるとしても、苦しみや悲しみに覆われている毎日を過ごすとしても、どの一日も幸いであり、善き日であり、神の祝福の内にある、と確信することができるのです。
救いを証しして生きるとは
私たちキリスト者がこれまで語られてきたように生きるとき、私たちの生き方は、私たちの周囲の人たちに影響を及ぼしていきます。15節後半から、このことが見つめられています。別の言い方をすれば、救いを証しする私たちの生活が、あるいは救いを宣べ伝える教会の伝道が見つめられているのです。15-16節にこのようにあります。「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意を持って、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」。私たちがキリストによる救いを証しして生きるとは、あるいは教会が伝道するとは、周囲の人に「キリストは主である」と一方的に伝えることでは必ずしもありません。むしろ心の中でキリストを主とあがめて生きる私たちを見て、キリストに結ばれて善い生活をしていく者へと変えられていく私たちを見て、私たちに興味や関心を持ってくださる人が起こされていくことなのです。そのようにして私たちに興味や関心を持ってくださった人が、「あなたはどうして希望を持って生きることができるのですか」、「あなたが抱いている希望は何なのですか」と尋ねてくださるときに、私たちはその希望を証しします。主イエスの十字架と復活によって与えられている「生き生きとした希望」を証しするのです。しかも上から目線でも高圧的でもなく、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」証ししていくのです。
証しをする教会やキリスト者のあり方
先週の火曜日に「東京神学大学日本伝道フォーラム」が「キリスト教の将来」という主題で、オンラインで行われました。その主題講演の中で「信仰と生活との結びつきを回復する」ことの必要性が語られ、「証しをする教会やキリスト者のあり方・姿勢」として重要なこととして、ある学者の五つの指摘が紹介されました。第一に「神と真理とを何よりも愛すること」。第二に「対話(伝道)の相手への愛」。「より具体的には、自分を正しい側において勝負を迫るような弁証・伝道のやり方をしないこと」。第三に「正直であること」。第四に「謙遜であること」。つまり「キリスト者は他の人々と罪深さも含めて、あらゆる点で何も勝るところがな」く、「伝道・弁証が実を結び、回心が起こるとしても、それは聖霊による」ことを弁えること。そして第五に「ただしこの謙遜は勇気と結びついていなければならない」ことです。現代に生きるキリスト者に、伝道についての多くの示唆を与える指摘であると思います。
すでに聖書が告げている
しかし同時に私は思いました。この学者が指摘していることは、2000年前にペトロの手紙が、聖書が告げていたことではなかったか、と思ったのです。ノンクリスチャンが圧倒的に多い社会にあって、「心の中でキリストを主とあがめ」て生きることは、「神と真理とを何よりも愛すること」です。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」救いを証しすることにあるのは、「対話(伝道)の相手への愛」であり、相手に対して「正直であること」にほかなりません。また、私たちは清く正しい立派な人などではなく、悪に対して悪をもって、侮辱に対して侮辱をもって報いてしまう罪人に過ぎません。それにもかかわらずただ神の一方的な憐れみによって救われた者なのです。だからこそ私たちは誰に対しても上から目線ではなく、謙遜であるほかないのです。たとえ救いを証しする私たちの生活を通して、あるいは救いを宣べ伝える教会の伝道を通して、救いへと導かれる人がいたとしても、それは私たちの手柄などではまったくなく、聖霊のお働きによるものなのです。しかし同時に私たちは「人々を恐れたり、心を乱したり」することがありません。私たちを生かしている希望について、いつでも証しできるように備えるのを怠ることはないのです。「あなたはどうして希望を持って生きることができるのですか」、「あなたが抱いている希望は何なのですか」と尋ねられたとき、私たちは勇気を持って、大胆に、キリストの十字架と復活によって私たちに与えられている「生き生きとした希望」を証ししていくのです。
私たちの姿を通して希望が証しされていく
私たちは、救いの恵みの内に生かされている者として、善いことに熱心であることを、善いことを行う者へと変えられていくことを諦めずに生きていきます。心の中でキリストを主とあがめる私たちに誰も害を加えることはできないという神の約束が、私たちに与えられています。この約束を信じて生きる私たちに、義のために苦しみを受けるときも、苦しみや悲しみの多い毎日を過ごすときも、どんな一日も善き日であり、神の祝福の内にある、という確信が与えられていくのです。そのように生きる私たちの姿を通して、聖霊のお働きによって、キリストの十字架と復活による「生き生きとした希望」が証しされていくのです。私たちはこのことを信じ、聖霊のお働きによって前進していく伝道のみ業に仕えていきたいのです。