主日礼拝

祈りの救援求む!

「祈りの救援求む!」  伝道師 岩住 賢

・ 旧約聖書: 詩編 第32編6-7節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙二 第1章8-11節  
・ 讃美歌:204、352、493

「あなたがたも祈りで援助してください」とパウロは、この手紙の読み手に切実に呼びかています。本日の説教の題名を「祈りの救援求む」としておりますが、わたしたちは今日与えられました御言葉を通して、わたしたちが「祈ること」、「祈って欲しい」と願うということは一体なんなのかということを考えていきたいと思います。

 なぜパウロは、この手紙の読み手たちに祈りの救援を求めたのか。この問いの答えが、本説教で一番重要となります。

 では、与えられました御言葉を見て行きましょう。1章 8節「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。」
 パウロはアジア州、現在の小アジア、トルコ付近において、苦難にあったといっています。しかもその苦難はパウロが「耐えられない」ほどであり、またパウロが「生きる望みさえ失って」しまうほどのとんでもない苦難であったそうです。ここに書かれている苦難は、実際どのような苦難であったかは、定かではありません。ユダヤ人による迫害であったとか、使徒言行録にあるパウロが投獄されたあの事件のことであると、言われておりますがそれは定かではありません。この手紙の、11章23節以下で、パウロは自分が直面した苦難を数え上げます。投獄、ムチ打ち、盗賊に襲われる、同胞に苦しめられ、異邦人にも苦しめられる。骨を折る、しばしばなにも食べられないで飢えと渇きを経験する、苦労が多すぎて眠れなくなる、寒さに凍えるなど、その他にも言い尽くせないほど、苦難にあったと、彼は言います。8節で語っている苦難は、どの苦難であったかは、8節では具体的に書かれておりませんが、パウロは8節において、その苦難に直面し「生きる望みさえも失って」しまったと語ります。「望みを失う」、言葉を替えて言うのならば、「絶望」です。パウロは、とんでもない苦難を目の前にして、生きる望みさえも失うほどに絶望しました。
 彼は、絶望するほど、非常に苦しい状況にあった。であるならば、「祈りで援助してください」というのは、苦しい状況だったから、「祈らってもらわないと」なんだか不安でしかたなくなるから、「祈りで援助してください」とパウロは願ったのか。どうやらそうではないようです。

 ではなぜパウロは、この苦難について「ぜひ知ってほしい」と、手紙の読み手に呼びかけたのでしょうか。それは、パウロが読み手の同情を誘いたいからではありません。パウロは、この苦難を通して、人間の限界を知りました。この苦難にあうということに対して、彼は喜んでいたのではありません。やはり苦しみは苦しみでしょう。彼は生きる望みを失う程の苦しみにあった。わたしたちが同じようにこのような目にあったとしたら、「なぜこのような目にあわせるのでしょうか」と、神様に問いたくなります。不平を口にしたくなります。苦しみを与えた人やその出来事を恨みたくなります。しかし、ここでパウロは苦しみにあったということをいっておりますが、不平や文句、恨みの言葉をいっておりません。むしろ、パウロは不平を言わずに、自分の真の姿をみることができたといっています。それは9節「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。」とあるその言葉にあらわれております。この文章を元の言葉のとおり訳しますと、「心の内で死の宣告を感じる」という文章になります。自分が生きる望みを失うほどの苦難に直面した時、パウロは、心の内で「死」を感じました。わたしは、死ぬものである、ということを知りました。それは、人間の弱さ、限界を知ったということです。わたしたちは、ある程度の苦難に直面したとき、どうにかその苦難に抗おうとします。自分の力で、その苦難を突破しようとしたり、他人の力を借りて苦難を突破しようとしたりします。自分の力をそこで、信じるのが普通であると思います。パウロも最初はそう思っていたかもしれません。パウロも当初は、苦難にあったら「自分を頼りに」にしてそれを乗り越えると思っていたかもしれません。または、絶望的な状況で、神様によって慰められ、何か力を授かって、強められて、自分の力で、どんなことでも乗り越えられるとそう思っていたかもしれません。しかし、彼は絶望的な状況に遭遇して、それはちがうということを知った。いくら強められたりしても、自分ではどうにもできない、自分で乗り越えられない状況にでくわした。そこで彼は、自分の限界、貧しさ、弱さを知りました。それは言葉を変えると、自分が頼りにならないということを知ったということです。
 慰めというのは、神様が、その苦難を乗り越られる力を人の中から引っ張り出すということではありません。慰めとは、その苦難を前にした時に、自分の限界を知り、「神様により頼む」ことを知るということです。
 どうしようもないような苦難の中で自分の限界知り、「絶望の深い淵の底で、神様に出会った」。そして「神様を信じて依り頼む」そのようなことがパウロに起こりました。この部分を、ある説教者は「絶望から生まれた信仰」といっています。絶望することと、挫折することというのは、似ておりますが違います。「挫折を知っている人は、強い」という言葉をよく巷で耳にします。確かに、挫折を経験した人は、その苦しみから、立ち上がって、もう一度同じ事があったとしてもその問題には、次からは動じなくなる。そのような強さが与えられると思います。しかし、それは、言い換えて例えるとするならば、「折れた骨は強くなる」ということでしょう。だからどんどん、挫折するのがいい、そしたら、その人はどんどん強くなる。という考えが出てくるかもしれません。それくらいの苦難は、自分を頼りにできるというレベルの苦難です。しかし、パウロのいう絶望はそのような骨が折れるというレベルの話しではありません。例えるならば、首が取れる、切れるということに近いと思います。首がとれてから、それがくっついて強くなるということはありません。パウロのこの死の宣告を心で思う状況というのは、まさに死刑を宣告されて、首がはねられる直前のように、死を目の前にした体験のことであると思います。
 ですけれども、絶望することが無ければ、神様を信じることができないというわけではありません。わたしたちの中で、パウロのようにとてつもない経験をしたことがあるという人は多くはないと思います。
 しかし、絶望と信仰には深い関係があります。「わたしは絶望というのを味わったことがない」という人は多くいると思います。ですけれども、今は味わっていなくても人は、必ずわたしたちは絶望を味わいます。わたしたち人には、誰ひとりとして避けては通れない、死という絶望が自分の未来にあります。わたしたちは死という絶望からは逃れられません。
 パウロは心の中で死刑の宣告をうけた。そのように「死をおもった」。絶望である死を見ました。
 人は死ぬということは、わたしたちは想像出来ます。わたしはいつか死ぬだろうということも、考えることはできる。しかし現実に死を目の当たりにして、体験するという機会はそんなに多くはないと思います。
 2011年3月11日に、わたしたちは一つの絶望を目の当たりにしました。多くの死を見ました。その光景に恐怖いたしました。人の力では抗うことのできない死の力を目の当たりにした。パウロの死の宣告を受けたというこの言葉は、まさに、あの絶望の前にたったということと同じでしょう。わたしたちは、その圧倒的な死の力を前にし、絶望を目の当たりにした時、その力に対して屈服してしまうのではないでしょうか。または逃げ出そうとするか、または、忘れようとする。わたしたちは、その苦難や、自分の弱さを、見続けることはできません。頑張って苦難に向き合い続けようとすると、わたしたちは疲れてしまう。そのうち、見るのが辛くなってきて、そこから目をそむけるか、やはり別のことに目を向けて忘れようとする。それらはある意味、人間の正常な体の働きだと思います。しかし、それでは、絶望を前にすると人は、そのことを考えないようにする、忘れ去るという方法でしか救われないという結論になります。その結論は、絶望に対しては、なんら解決は与えられておりません。自分に依り頼まないということは、なにもしないで、もう考えることも忘れるということでしょうか。その答えは、パウロの姿を見ればわかります。

 パウロはその死の宣告に対して屈服したでしょうか。ある視点から見れば、パウロは、自分でもう何もできませんと言っているので、死に屈服しているように見えます。しかしそれは、パウロの表面、外側だけしか見ていません。自分で何かする、自分を頼るということをしていないということは、消極的な姿に見えるかもしれません。しかし、パウロの内側を見てみると、彼は決して消極的ではありません。もう何もできません、この苦難から目をそむけて、何もかも忘れ去りたいと、そう思ってはいません。ではそのときパウロはなにを思っていたのか。パウロは、その時、復活されたイエス様の姿を思っています。いや、思うというのではくて、頭の中の記憶を探るという感じではなくて、もっとよりリアルに、その死の宣告をされた時に、復活されたイエス様の姿を見ました。
 パウロは、手足が抑えられて、抗うことができないで首を切られそうになっているそのような状況と同じなくらいの、死の現実を目の当たりにしていました。わたしたちは、そのような状況のなかでは、諦めしか想像出来ません。もう抵抗しても無駄ならば、もう死ぬ、死に委ねるという諦めになると思います。それかギリギリまで、無駄でも抵抗し続けるということをします。でも、パウロは、そのような死と隣り合わせの状況になった時に、自分と同じ絶望の状況で、真に死なれたかたの姿を思いました。十字架において真に死なれた方の姿です。その方は、死を前にして、なにか自分の力で抵抗していたでしょうか。しておりませんでした。その方は、死を恐れていたかもしれません。しかし、その方は、死を目の前にして何を思っていたのか、それはただ父なる神様のことを信じておられました。その方は、十字架上で、自分の力に頼ることなく、父なる神さまが復活させてくださるということをただただ信じ、そこに委ねきりました。十字架に架かるまでも、十字架上でも、一回も抗うことをしておられなかった。ただ父なる神様を頼っておりました。その姿をパウロは自分が、死と隣合わせになった時に、見ました。だからパウロも、神様に頼ろうとおもったのです。ここで死んでも、復活させてくださる神様に頼るのだと。自分を信じることなく、ただ復活させてくださる父なる神様を信じるという信仰を、パウロは絶望の中で与えられました。
 10節「大きな死の危険から、わたしたちを救ってくださった」それは、ただ目の前に起きる様々苦難や、危険なことというだけではありません。「大きな死の危険」というのは、わたしたちが避けて通れない、わたしたちの死のことです。わたしたち全員が必ず経験する、その死の危険から、「救ってくださった」のだとパウロは言います。その救いは、何にも抵抗せずに私たちの罪を担い、屠り場にひかれていく羊のように、十字架にお架かりになってくださった、その方の働きによって、起こったことです。それによって私たちはその方を信じ、その方とつながることで、死からの救いを約束されました。
 ここでパウロはこのイエス様の十字架の出来事を、過去に実際に起こった出来事として「救ってくださった」、という過去形の言葉で言っています。しかしパウロは、自分たちから遠い、あまり関係のない出来事として、十字架の働きを考えていません。なぜならば「救ってくださった」という過去形の言葉を使ったすぐ後に、これからも「救ってくださるだろう」という、今の時間を含んでいる未来形の形で語っているからです。今の今も、神様は私たちを死の危険から守るために働いていくださっている。今でも神様は「羊のために命を捧げる」覚悟、意志、そのような決意を持って、私たちのそばにいてくださる。そのためにいつも共にいてくださる。「インマヌエル」の主、共にいてくださる神様として、今も、そしてこれからも、「救ってくださるでしょう」とパウロは、絶望の中で希望を見て、そのように手紙で語っているのです。
 この「救ってくださる」という希望は、パウロ一人が持っている、パウロのみに、パウロだけに与えられている希望ではありません。パウロは「わたしたちは」という言葉を使います。これは、その時代のパウロと共に働いていた同労者とパウロというその集団のことを指して、「わたしたち」とこの手紙の中では言っています。しかし、この「わたしたち」という複数形の主語には、手紙の読み手、そして手紙を送られた教会もまた含まれているとおもいます。ですから、今この手紙を読んでいる、わたしたちもそのパウロの言う「わたしたち」に含まれています。ですからパウロのこの「救いの希望」に、わたしたちも今、共に与ることができるのです。パウロは今を生きる「わたしたち」も、イエス様は「救ってくださるだろう」、いや「救ってくださるに違いない」という、希望を持って、この手紙を書き送ったのだと思います。
 11節「あなたがたも祈りで援助してください」とパウロは、手紙の読み手に呼びかけます。パウロは、「わたしは今、苦しいから祈って欲しい」と、手紙に書いたのか。そうではありません。彼は既に、希望の中で生きています。彼がもし、「あなたがたの祈りがなければ生きられません」というのならば、彼は神様に頼っていないで、人に頼っているということになります。彼は、神様に頼っているので、その推測は否定されます。
 しかしここで、私たちは、「それだったら、彼は自分で神様に頼って色々なことを克服できるのだから、祈る必要はないのではないか」「別に祈らなくても彼は、一人で生きられるんでしょ」と思ってしまいます。
 彼はたしかに、世の中の誰にも見捨てられても、彼が神様を頼ることをし続けていれば、生きることは出来ると思います。しかし、かれは「祈りで援助してください」と読み手に要求します。それはなぜなのか。パウロのこの「祈りの要求」には、目的があります。それは11節にあります。「あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。」パウロは、パウロたちに与えられた恵みに、そして恵みを与えてくださった神様に対して共に喜び、感謝を捧げられるようになるためであるとここで言っています。
 もしパウロのことを一切祈らずに、パウロが苦難を乗り越えたという報告だけ知ったということをわたしたちは想像してみると、パウロが神様を信じていると知っていたとしても、「あぁパウロさんはすごい人だし、いろいろなとこにいって辛い経験を経てるし、今回も自分で乗り越えたんだろう」とおそらくそう思ってしまうと思います。そして、克服した事実を知りパウロの強さを想像して、すごいなーとか、羨ましいなーと思うだけになります。しかし、パウロはこの1章で、自分の強さを誇るために、苦難から救われたと読み手に報告したのではありません。自分の強さを誇ろうとしてこの手紙を書いているのではありません。パウロはこの手紙で、一貫して自分の弱さを語ります。この手紙の後半でパウロは、「自分の誇れることがあるとしたらそれは、自分の弱さだ、だからわたしは弱さを誇る」とパウロがいうほどです。なぜパウロは自分の弱さを読み手に知らせようとしたのか。それは、パウロは自分の弱さから見える、神様の働きを共に喜んでもらいたいからです。死という絶望を前にしたけれども、救ってくださった。その神様の働きを仲間と共に与るために、わたしは弱い、限界がある、しかし自分の力でなく、神様の働きによって、立ち上がった。神様は死という絶望を希望に替えてくださった。その神様のおおいなる御業を一緒に目の当たりにするために、一緒にその喜びにあずかるために、一緒に祈って欲しいと、パウロは祈りの救援を求めるのです。
 このパウロの信仰の姿勢からわたしたちが教えられることがあります。まず、わたしたちは自分の弱さを隠さなくていいということです。わたしたちは、自分の弱さを人にあまり知られたくない。その理由には、まわりに心配をかけさせてしまうから、みんなのお荷物になっちゃうから、ということがあると思います。そのためにわたしたちは自分の弱さや労苦を、分かち合うことをあまりしません。パウロが示した弱さの示し方は普通とは違います。パウロは、自分の弱さを告白して、自分の劣等感を披露しようとしているのではありません。ただ、劣等感を誇ろうとしている人は、その弱さを自分の強さにしようとしています。パウロの弱さは、そうではありません。神様に頼りきっているがゆえに、神様の強さに生かされる弱さです。その神様の強さに生かされる弱さを皆に告白しています。ですから、わたしたちは神様に頼っているという自分の弱さならば、隣人に言ってもよいのです。そのような弱さを、知ってもらう交わりの関係、信頼の関係がこの教会にあります。
 ここでさらに、このパウロの信仰から、もう一つわたしたちが今までしてこなかったことを、学ばせられます。それは、「祈ってほしい」と隣の人に、自分でお願いするということです。わたしたちは、弱さを隠すこともあれば、さらにまた自分のことを「祈って欲しい」と隣の人に願うことはありません。苦しいから、わたしために祈ってほしいということも、あるでしょう。それも良いと思います。しかし、それ以上に、わたしたちが、なぜ「祈りの救援求む」と隣人に言えるのかというと、そのわたしの弱さを通して、隣の人が神様の働きをしってくださるからです。その弱さや苦難から、神様によって立たされた時に、その方もまた、その恵みに与ることができるからです。苦しい時に、隣人の幸せ、喜びまで考えるのは難しいと思います。しかし、そのような恵みに共に預かれるからということを考えなくても、ただ「祈って欲しい」ということを言って良いとおもいます。わたしはなにもわからなくても、わたしが神様にたより、苦難と絶望から立ち上がった時、わたしは神様に感謝して喜びます。わたしのために祈ってくださった人もまた、神様に感謝します。そしてまた、今もわたしたちのために、父なる神さまの横で、とりなしの祈りを捧げつづけてくださるイエス様も、神様に感謝して喜んでくださいます。天にも地にも喜びが満ちあふれます。
 この祈りの関係が結ばれている所は、喜びが満ちあふれるのです。だからわたしたちは、神様にたより、弱さを誇りましょう。隣人に「祈って欲しい」と伝えましょう。そして喜びにあふれた群になりましょう。

共に祈りましょう。

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