説教「待ち望む信仰」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 イザヤ書第60章1-7節
新約聖書 ルカによる福音書第2章22-40節
クリスマスの期間を歩んでいる
先週の日曜日、私たちはクリスマス礼拝を守り、24日水曜日には、クリスマス讃美夕礼拝を二回行い、多くの方々と共に御子イエスの誕生の恵みと喜びにあずかることができました。巷では25日が終わると、クリスマスムードからお正月ムードに一変します。もしかしたら教会でも、クリスマス礼拝と讃美夕礼拝が終わって、今年のクリスマスは終わった、と思っておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかしキリスト教会のクリスマスは25日に終わるのではありません。教会の暦では、1月6日の「公現日」までがクリスマスの期間です。世の中ではクリスマスムードが跡形もなく消え去りましたが、私たちの教会はなおクリスマスの期間を過ごしています。ですから本日の午後に行われる「三四十代の会」と「壮年会」は、胸を張ってクリスマス会を行ってよいのです。
ルカ福音書のクリスマス物語の最後
クリスマスの期間を歩んでいますので、この主日礼拝では、普段私が担当するときに読み進めているコリントの信徒への手紙一から離れて、ルカによる福音書が語るクリスマス物語の最後の部分に目を向けることにしました。ルカ福音書のクリスマス物語は、洗礼者ヨハネの誕生の予告から始まり、続けて主イエスの誕生の予告、次に洗礼者ヨハネの誕生、続けて主イエスの誕生を語ります。洗礼者ヨハネと主イエスについて交互に語っていく整った構造を持っているのです。そのクライマックスは、もちろん主イエスの誕生を語っている2章1~21節です。主の天使から救い主の誕生を告げられた羊飼いたちは、その出来事を見るためにベツレヘムへ行きます。そこで飼い葉桶に寝かせてある幼子イエスと出会った羊飼いたちは、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので」(20節)、神様をあがめ、賛美しながら、自分たちの仕事の場へと帰って行ったのです。
しかしルカ福音書のクリスマス物語はここで終わるのではありません。21節には、生まれてから「八日たって割礼の日を迎えたとき」、幼子が「イエスと名付けられ」たことが記されています。そしてその後に、本日の箇所が続きます。その終わり39節には、「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った」とあります。この一文は、2章4節の「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」と対応しています。「ナザレから上って行った」と「ナザレに帰った」が対応しているのです。主イエスの誕生の出来事は、皇帝アウグストゥスの勅令によって、ヨセフとマリアが、そしてマリアのお腹の中の御子イエスが、ナザレからベツレヘムに上って行ったことに始まり、この家族がナザレへ帰るところで終わります。このように本日の箇所は、主イエスの誕生の出来事の終わりの部分であり、同時にルカ福音書のクリスマス物語全体の終わりの部分でもあるのです。
シメオンの賛歌
マリアが御子イエスを出産した後、律法に定められた「清めの期間が過ぎた」(22節)ので、ヨセフとマリアは幼子イエスを主に献げるためにエルサレム神殿に連れて行きました。その神殿で、二人の人物が幼子イエスと出会います。一人はシメオンで、もう一人はアンナです。本日はシメオンの言葉に集中したいと思います。シメオンの言葉は二つの部分に分けられ、一つは29~32節で、「シメオンの賛歌」と呼ばれています。もう一つは34~35節で、シメオンがイエスの母マリアに向けて語った言葉です。
シメオンとは、どのような人物であったのでしょうか。25節によれば、シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み」つつ生きていました。「イスラエルの慰め」とは、イスラエルにメシア(救い主)によって救いが与えられる、ということです。シメオンはメシアによる救いを待ち望んで生きていたのです。そのシメオンの上に聖霊がとどまっていて、聖霊から「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(28節)と告げられていました。新共同訳は「会う」と意訳していますが、原文では「見る」という言葉です。「主が遣わすメシアを見るまでは決して死なない」と告げられていたのです。聖霊に導かれたシメオンが神殿の境内に入ってきたそのとき、幼子イエスのために、いけにえを献げようとして、マリアとヨセフが幼子を連れてきました。するとシメオンは、幼子イエスを腕に抱いて神様を賛美したのです。その賛美が、29節以下の「シメオンの賛歌」です。
主人と僕
その冒頭で、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と言っています。「主よ」の「主」は、「主なる神」の「主」とは違う言葉で、奴隷の主人を表すのに使う言葉です。また「僕」という言葉も出てきます。先日のクリスマス礼拝で、「わたしは主のはしためです」というマリアの言葉について、「はしため」と訳されているのは、原文のギリシア語では女性形だから、というお話がありました。その男性形が、この「僕」という言葉です。しかし日本語では男性形、女性形で訳し分ける意味はありません。この「主の僕」というシメオンの言葉に、「わたしは主のはしためです」と告白したマリアの信仰と同じ信仰が見つめられているのです。シメオンにとっても、自分と神様の関係は主人と奴隷、主人と僕の関係でした。それは、シメオンに命を与え、賜物を与え、働きや使命を与え、その人生を導き、そしてその命を取り去られるのは神様だ、ということにほかならないのです。
去らせてくださる
シメオンは、主人である神様が、僕である自分を「安らかに去らせて」くださる、と言いました。「去らせる」という言葉は、「囚人を牢獄から解き放つ」、あるいは「奴隷を仕事から解放する」という意味を持つ言葉です。ですからシメオンの言葉は、主人である神様が、その僕である自分を務めから解放してくださることを見つめています。その務めとは、26節にあったように「主が遣わすメシアに会う(見る)」という務めです。その務めを果たしたから、今こそ神様は自分をその務めから解いてくださる、と言っているのです。しかしそれだけではなく、この「去らせてくださる」という言葉は、神様がシメオンを地上の生涯から解放してくださることをも見つめています。シメオンは自分が安らかに地上の生涯を終えることができる、と言っているのです。
安らかに地上の生涯を終えるとは?
安らかに地上の生涯を終えるとは、どういうことでしょうか。苦しむことなく死を迎えるということでしょうか。それは確かに幸いなことに違いありません。しかし苦しんで死を迎えることもあります。長い闘病の末に死を迎えることがあり、逆に突然の死を迎えることもあります。安らかに去ることができた、とは思えないような死があるのです。そして私たちは自分でどのような死を迎えるかを選ぶことはできません。そうであれば、「この僕を安らかに去らせてくださいます」というシメオンの言葉は、私たちとは関係ない言葉なのでしょうか。あるいは自分もそのように言って死を迎えられたら良い、という願いを表した言葉に過ぎないのでしょうか。
死に備える
そもそも私たちは自分の死について考えることを好みません。誰もが必ず死を迎えるのに、死について考えることを避けようとします。特に日本社会では、死について話すのは不吉だと考えられるため、たとえば自分の親に死への備えについて話すと、「そんなに早く自分の親を殺したいのか」と、怒られたりします。若い人は若い人で、まだ自分には関係がないと思って、自分の死について考えようとしないでしょう。働き盛りの世代は、毎日の生活に忙しくて、死のことまで考えられない、というのが正直なところかもしれません。しかし誰もが必ず死を迎えるのに、その死について考えたり備えたりしないで、私たちは本当に「今」を生きることができるのでしょうか。
シメオンはしばしば高齢の人物として考えられてきました。36節以下に高齢のアンナが登場するので、アンナと対になって登場するシメオンも高齢と考えられてきたのです。そうなのかもしれません。しかしこの箇所でシメオンの年齢は記されていません。そのことには意味がある、と私は思います。それは、「この僕を安らかに去らせてくださいます」というシメオンの言葉が、高齢の方だけでなく、老若男女すべての人々に関わる言葉であることを見つめているからではないでしょうか。私たちにとって、自分の実感として、安らかに地上の生涯を終えることが決定的なのではありません。もしそうであれば、どのような死を迎えるか選べない私たちは、自分が安らかに地上の生涯を終えられると実感できるかどうか、びくびくしながら生きなくてはならなくなります。けれども私たちにとって本当に決定的なことは、神様が私たちを「安らかに去らせてくださる」と信じ、告白しつつ生きることです。年齢に関係なくこの信仰に生きることが決定的です。私たちが死に備えるとは、具体的な備えよりも先に、この信仰に生きることなのです。
この目で救いを見る
そうであるならシメオンは、何故、「この僕を安らかに去らせてくださいます」と言うことができたのでしょうか。30節でこのように言われています。「わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。シメオンは、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と告げられ、そのことを信じ、イスラエルの慰められるのを、イスラエルの救いを待ち望んで生きてきました。しかしいつメシアに会うことができるのか、いつその救いが与えられるのかは分かりませんでした。そのシメオンが、お生まれになった幼子イエスに出会い、この方こそ主が遣わしたメシア、救い主であると信じました。幼子イエスに出会い、神様が与えてくださる救いを見たのです。御子イエスによってイスラエルの救いが実現する、と信じたのです。
いえ、イスラエルの救いだけでなく、すべての人のための救いが実現すると信じました。だから続く31、32節でこのように言っています。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。「整えてくださった」とは、「備えてくださった」ということです。御子イエスは、神様がすべての人のために備えてくださった救い、ご計画くださった救いなのです。この神様のご計画は、旧約聖書において預言されてきました。共に読まれたイザヤ書60章1節以下も、そのような預言の一つです。1節に「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く」とあります。御子イエスの誕生によって、まさに人々を照らす光が昇り、主の栄光が輝きました。その主の栄光は、3節に「国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」とあるように、イスラエルの人たちだけでなく、異邦人にも明らかになりました。御子イエスは、まさに「異邦人を照らす啓示の光」なのです。御子イエスの誕生において、このイザヤの預言が実現し、神様のご計画が実現しました。すべての人の救いのために、御子イエスはお生まれくださったのです。シメオンは、クリスマスにお生まれになった御子イエスと出会い、待ち望んでいたイスラエルの救いを見たから、それどころか、すべての人の救いを見たから、そして自分の救いを見たから、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださる」と言うことができたのです。
私たちにとっても決定的なことは御子イエスと出会い、自分の救いを見ることです。私たちも異邦人であり、まことの神様を知らず暗闇の中で生きていました。まことの神様でないものに心を奪われ、それを頼みとして生きてきました。しかしその歩みは、「この僕を安らかに去らせてくださる」と信じて生きる歩みとは、かけ離れたものでした。暗闇の中で私たちは死が分からず、それゆえ本当の意味で生きることも分からず、だから不安で怖くて、死から目を逸らし、死を誤魔化して生きていたのです。しかし御子イエスという光は、そのような私たちを照らしてくださり、暗闇を取り除いて、まことの神様を示しました。神様がすべての人のために備えてくださった救いを明らかにしたのです。その救いを見て、信じ、その救いにあずかることによってこそ、私たちはシメオンと同じように、安らかに地上の生涯を終えることができる、と告白しつつ生きることができるのです。
神に反抗する人間の思いがあわらになるところで
しかしこの救いは、御子イエスがクリスマスにお生まれになって、それだけですぐに実現したのではありません。シメオンは34~35節で、イエスの母マリアに向かって、神様が備えてくださった救いが、御子イエスによってどのように実現するかを語っています。34節でこのように言っています。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」。クリスマスにお生まれになった御子イエスは、「イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりする」のです。それは、ある人が倒れたり、立ち上がったりする、ということではありません。そうではなく御子イエスによってある人は倒れ、ある人は起きる、と言われている。イスラエルの民を倒れる者と起きる者に二分するのです。また「反対を受けるしるし」とも言われています。それは、人間の神様に対する反対、反抗が、御子イエスによって明らかになる、ということです。このことが35節の後半で、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」、と言われています。「心にある思い」とは、善い思いのことではありません。それは、「思い」と訳されたこの言葉が、聖書でどのように使われているかを見ると分かります。この福音書の9章46節に、「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とありますが、「議論」がこの言葉です。また24章38節では復活のイエスが弟子たちに、「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」と言われていますが、「疑い」がこの言葉です。そしてフィリピの信徒への手紙2章14節でパウロは、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と言っていますが、「理屈」がこの言葉です。つまり「多くの人の心にある思い」とは、ほからならぬ私たちの心にある思いとは、神様を信じられずに疑い、神様に反抗して議論し、理屈をこねる、そのような思いなのです。御子イエスによって、そのような私たち人間の思いがあらわにされるのです。そのような私たちの思いは、なによりも御子イエスの十字架においてあらわにされました。神様を疑い、神様に背き、反抗する私たちが、神様よりも自分を上に置こうとする私たちが、クリスマスを祝っても、御子イエスを蔑ろにして、御子イエスなしでも自分は生きていけると勘違いしている私たちが、御子イエスを十字架に架けて殺したのです。シメオンは、御子イエスによってある人は倒れ、ある人は起きる、と言いました。しかし私たちは皆、御子イエスによって倒れる者ではないでしょうか。あの十二弟子の筆頭ペトロがそうであったように、私たちは誰もが御子イエスに躓き、御子イエスを信じられず、疑い、裏切り、見捨て、十字架に架けてしまう者なのです。
しかしまさに私たち人間の心にある、神様を疑い、神様に背き、反抗する思いが、自分のことばかり考えている醜い思いがあらわにされた御子イエスの十字架において、私たちの救いは実現しました。クリスマスにお生まれになった御子イエスは、十字架で死なれ復活されることによって、神様に背いてばかりいる私たちの罪を赦し、私たちを救ってくださったのです。
目に見えない救いを見る
私たちは御子イエスに出会うことによって、この救いを見ます。シメオンは幼子イエスを腕に抱いて、そのかわいい顔を見た、と言われているのではありません。救いを見た、と言われているのです。神様の救いは私たちの目で見えるわけではありません。それはシメオンも同じです。しかしシメオンは、幼子イエスに出会い、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と告白しているのです。それは御子イエスに出会い、神様の救いを自分のこととして受け入れ、信じたということです。残念ながら私たちは、シメオンのように幼子イエスを腕に抱くことも、そのかわいい顔を見ることもできません。それどころかこの目で御子イエスを見ることもできません。しかし私たちも、シメオンの上に留まり、彼を導いたのと同じ聖霊のお働きによって、目に見えない御子イエスに出会い、目に見えない救いを見ます。御子イエスの十字架と復活によって「この私」の罪が赦され、「この私」がもはや罪と死の支配のもとにいないことを信じるのです。生きる意味も死ぬ意味も分からずに暗闇の中で不安と恐れに駆られて生きていた私たちが、御子イエスに出会い、その光に照らされて、まことの神様を示されます。クリスマスに御子イエスを遣わしてくださった神様こそが、私たちに命を与え、あらゆる賜物を与え、働きや使命を与え、人生を導き、そして命を取り去られる方であることを知らされるのです。
しかも私たちは地上の生涯で死を迎えてそれで終わりではありません。神様は御子イエスによって私たちに世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えてくださっています。私たちは御子イエスに出会い、この救いを見ている。この救いを信じているのです。だから私たちは、地上の生涯において、「安らかに地上の生涯を終えることができる」と告白しつつ生きることができます。たとえ私たちの実感としては、安らかに死を迎えたとは思えなかったとしても、長い闘病の末に死を迎えたとしても、突然の死を迎えたとしても、あるいは衰えによって、御子イエスのことが分からなくなったとしても、私たちは、確かに安らかに地上の生涯を終えることができるのです。私たちの命も人生も、神様の御手の内にあるからです。私たちが神様をとらえ、その御手を握りしめているのではありません。神様が私たちをとらえ、私たちの手を握りしめてくださっている。御子イエスによって神様が私たちをご自分のものとしてくださっているのです。たとえ私たちが神様を分からなくなっても、神様は私たちをとらえ続け、ご自分のものとし続けてくださいます。そのことを信じて生きるとき、私たちは、将来、どのような死を迎えるとしても、神様が分からなくなるとしても、「神様はこの僕を安らかに去らせてくださる」と告白しつつ生きることができるのです。
待ち望む信仰
そしてその歩みは、待ち望む歩みでもあります。この箇所で、シメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んで生きました。アンナは「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話し」ました。この箇所は、待ち望む信仰を見つめているのです。シメオンが待ち望んでいたイスラエルの慰め、イスラエルの救いは、いえすべての人のための救いは、すでに御子イエスの誕生と、その十字架と復活によって実現しました。私たちはもうシメオンと同じ救いを待ち望む必要はありません。しかし御子イエスによって実現した救いは、まだ完成してはいません。だから私たちが待ち望むのは救いの完成です。御子イエスに出会い、神様の救いを受け入れ、信じた私たちは、世の終わりにその救いが完成し、復活と永遠の命にあずかることを待ち望んで生きるのです。地上の生涯で死を迎えるときも、私たちが神様の御手の内にあり、神様のものであり続けることを信じ、世の終わりに復活と永遠の命にあずかることを待ち望みつつ、地上の生涯において、「安らかに地上の生涯を終えることができる」、と告白して生きるのです。
間もなく迎える主の2026年も、私たちは、年齢に関係なく、「神様がこの私を、この僕を安らかに去らせてくださる」と告白しつつ、まことの平安と慰めの内を歩んでいきます。その歩みの中で私たちは、神様が与えてくださった使命や働きのために、神様が用いてくださる限り、精一杯お仕えしていくのです。