説教 「つながっていれば実を結ぶ」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第1編1-6節
新約聖書 ヨハネによる福音書第15章1-17節
つながっていること、絆の大切さ
今日のお話しの題は「つながっていれば実を結ぶ」です。「つながっている」ことの大切さ、「つながっている」ことによってこそ得られる人生の豊かな実りについてご一緒に考えたいと思います。「つながっている」ことを、この頃はよく「絆(きずな)」と表現します。東日本大震災以降この言葉がよく使われるようになったように感じます。大きな自然災害が起った時には、地域の人々の間に絆が、つながりがあるかどうかが大きな意味を持っている、ということがあの時指摘されました。その後もいろいろな災害が起こり、気候変動のためにそれらが激甚化している中で、地域の絆を作り上げる必要はより深く感じられており、そういう活動も盛んになされています。それは裏を返せば、そういう絆、つながりが、特に都会においては失われてしまっている、という危機感があるということでしょう。「無縁社会」と言われるように、絆が失われ、人と人がつながっておらず、孤立してしまっている現実の中で今、人と人とのつながり、絆の大切さが見直され、それを築いていく必要が叫ばれているわけです。
イエス・キリストとつながっていれば
今日ご一緒に読む聖書の言葉は、新約聖書、ヨハネによる福音書第15章1節以下ですが、そこにも「つながっている」ことの大切さが語られています。けれども、ここに語られている「つながっている」は、今申しました、人と人とがつながっており、そこに絆がある、ということとは少し違います。この聖書の言葉において見つめられているのは、私たちが、イエス・キリストというぶどうの木に、枝としてつながっていることです。それによってこそ、枝である私たちは実を結ぶことができる、と語られているのです。そのことが最もはっきり示されているのは5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とあります。これはイエス・キリストの言葉です。イエス・キリストは私たちに、あなたがたは、ぶどうの木である私の枝であって、私につながっていることによってこそ豊かに実を結ぶことができる。私につながっていなければ実を結ぶことはできない、と言っておられるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」という言葉には、「何もできないとは失礼な」と反発を覚えるかもしれません。でもこれは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」ということを前提として語られていることです。ぶどうの木の枝が幹につながっていなければ、実を結ぶどころか、生き続けることすらできず、ただ枯れてしまうだけであるのは当たり前です。このようにイエス・キリストがここで語っておられるのは、人と人とがつながっていることの大事さではなくて、イエス・キリストというぶどうの木の幹につながっていることによってこそ、その枝である私たちは豊かに実を結ぶことができる、ということなのです。今日のお話しの題の「つながっていれば実を結ぶ」というのは、イエス・キリストとつながっていれば、ということなのです。
互いに愛し合うために
そういう意味ではこれは、イエス・キリストを信じて、キリストというぶどうの木の枝となって生きている人、つまりクリスチャンのみにあてはまる話で、キリストを信じていない人には関係ない、ということになるかもしれません。けれどもそう簡単に決めつけてしまわないでいただきたいのです。本日の箇所にも、人と人とのつながり、絆が大切であることは語られています。それはまず12節です。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とあります。それから最後の17節にも「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とあります。つまりイエス・キリストはここで、互いに愛し合うことを私たちに教え、命じておられるのです。互いに愛し合う、それは人と人とがつながって生きることです。お互いの間に、愛し合うという絆が生まれることです。イエス・キリストは、私たちが愛し合って、お互いにつながって生きるようになることを願って、この教えを語っておられるのです。そしてそのために、ぶどうの木である「わたし」につながっていなさい、と言っておられるのです。イエス・キリストというぶどうの木につながっている枝となることによってこそ、私たちは、お互いどうしがつながって、愛し合って生きるという豊かな実を結ぶことができる。人と人とのつながり、絆は、ぶどうの木であるイエス・キリストに共につながって生きるところにこそ生じる実りなのだ、ということを、本日の聖書の言葉は語っているのです。
共通する何かに共につながることによって
私たちはこの教えから、人と人とのつながり、絆を築いていく上での大事な示しを与えられます。私たちは、人と人とのつながりの大切さを知っており、他の人との間に絆を築こうと努力しています。しかし同時に、そのことの難しさをいつも味わっているのではないでしょうか。人と人とがつながることは簡単ではありません。私たちはむしろそのつながりを壊してしまうことの方が多いし、人との間に壁を作ってつながりを拒んでしまうことも多いのです。つながりを壊すことはいとも簡単だけれども、築くことはとても難しいのです。それは何故かというと、私たちはそれぞれが自分の思いや感覚や主張を持っており、そしてお互いに自分の思っていること、感じていること、主張していることを何よりも大切にしており、それを否定されたり変えられたりすることを嫌っているからです。それぞれが違った思いや感覚や主張を持っている私たちがつながろうとすると、その思いや感覚や主張がぶつかり合います。つながって共に生きようとすればする程、この人とはここが合わない、この思いや感覚は自分には分からない、この主張は受け入れられない、ということが感じられていくのです。このことが示しているのは、人と人とは、ただお互いにつながろうという思いだけでは本当につながることができない、ということです。ここに用いられているぶどうの木のたとえをあてはめるならば、枝と枝がお互いにつながろうとしても、そこには生きたつながりは生まれないのです。枝と枝が本当につながるためには、それぞれの枝が、ぶどうの木の幹にしっかりつながっていなければなりません。それによって初めて、枝と枝ともつながることができるし、そのつながりは生きたものとなり、実を結ぶものとなるのです。人と人とのつながりにおいてもそれと同じことが言えます。つまり私たちは、他の人とつながろうとしているだけでは、本当につながることはできないし、つながったとしても良い実を結ぶことはできないのです。私たちが本当につながることができるのは、遠回りのようだけれども、共通する何かに共につながることによってなのです。お互いが向き合い見つめ合っているだけでは、違いばかりが見えてきて、ぶつかり合いが生じます。しかしそれぞれが共につながっている何かを見つめていくなら、つまり同じ方向を見つめ、目的を共有していくなら、そこには、思いや感覚や主張の違いを越えたつながりが生まれるのです。
私たちはそういうことをいろいろな場面で具体的に体験しているのではないでしょうか。夫婦の関係にもそういうことが言えるでしょう。愛し合って結婚したとしても、お互いの顔ばかり見つめ合っているとそのうちぶつかり合いが生じます。夫婦の絆が確かなものとなっていくのは、二人が共に同じ方向を向いて、そちらに顔を向けて歩んでいくことによってこそです。多くの人々の集まりにおいてもそれが言えます。ただ集まって共にいるだけでは、それは烏合の衆であって、つながりは生まれません。しかしある目的や課題を共有して集まる所には、つまり皆が同じ方向を向いているなら、そこには強い絆が生まれるのです。生涯の友と呼べるような人は、そういうつながりの中でこそ得られる、ということを誰もが体験しているのではないでしょうか。このように、人は共に何かにつながっていることによってこそ、お互いどうしのつながり、絆を本当に築いていくことができるのです。イエス・キリストがここで語っておられるのも基本的にはそういうことなのです。
何に共につながるか
さてそこで大事なのは、何に共につながるか、です。どういう目的や課題を共有しているか、どういう方向を共に向いているか、それによって、人と人とのつながりのあり方は変わってくるし、そこに生まれる絆の質も変わってくるのです。言い換えれば、そのつながり、絆が結ぶ実りが違ってくるのです。ですから私たちは、自分たちが何に共につながっており、そこで人とどういうつながり、絆を築いているのかを真剣に考えなければなりません。何でもいいから共につながればいいわけではないのです。例えば、暴力団に共につながるなら、そこには親分を中心とする組員どうしのとても強いつながり、絆が得られるでしょう。しかしそのつながり、絆が結ぶ実は、私たちを生かすものではなく、むしろ破滅させるものでしかありません。これは極端な例だとしても、例えば会社、職場などにおけるつながりはどうでしょうか。そこではまさに目的が共有されており、皆が同じ方向を向いて歩んでいます。その中でこそ生まれる深いつながり、絆がそこにはあると言えるでしょう。そしてそのつながりの中で私たちは充実した働きを与えられ、生活の糧も得られ、生きがいをも得ることができる、そういう豊かな実を結ぶことができるとも思います。しかし問題は、そのつながりはいつか終わっていく、ということです。リタイアしてそのつながりから離れなければならない時が必ず来るのです。人生百年時代などと言われるほど寿命が延びている今、リタイアした後の時間が以前とは比べものにならないくらい長くなっています。その期間を、現役で働いていた期間に得られた実りの蓄えだけで生きていけるのか。それは経済的な問題のみでなく、人と人とのつながり、絆によって得られる充実感、喜びという実りにおいても大きな問題です。そういうことがあるので今は、会社や職場でのつながりにはそもそもあまり期待せず、社会における様々な活動、趣味だったりボランティアだったり、に参加することによって人とのつながりを得て、充実した喜びを得ようとすることが中心となりつつあるのかもしれません。しかし、年をとっていけばそういう活動もいつかできなくなり、そこでのつながりもやはり失われていくことには変わりはありません。ですから私たちが本当に求めるべきなのは、仕事をしていようといまいと、何らかの活動に参加できていようといまいと、そういうことと関係なく、いくつになっても、どんなに弱り衰えても、生涯、つながっていることができる何か、なのではないでしょうか。そういう何かを見出して、そこにつながって生きることができるなら、生涯にわたって失われることのない喜びが得られるし、その喜びを分かち合う人とのつながり、絆をも得ることができます。豊かな実を結ぶ人生がそこに与えられるのです。
イエス・キリストにつながることへの招き
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。イエス・キリストは今私たちにこう語りかけておられます。それは、あなたがたが本当につながっているべき「何か」とは私だ、私につながっていなさい、そうすればあなたがたは豊かに実を結ぶ人生を歩むことができる。そう言って、主イエス・キリストが、私たちを招いておられるのです。そのイエス・キリストとはどのような方なのでしょうか。招きに応えてイエス・キリストというぶどうの木につながったなら、私たちはどんな実を結ぶことになるのでしょうか。
主イエスの愛
9節に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われています。イエス・キリストというぶどの木につながるとは、イエス・キリストに愛されることであり、その愛にとどまって、その愛を受け続けることです。ぶどうの木につながっている枝は木から水分や養分を受けるわけですが、私たちが主イエスにつながっていることによって受けるのは、主イエスの愛です。主イエスはどのようにして私たちを愛してくださっているのでしょうか。そのことが13節に語られています。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。主イエスは、私たちの罪を全てご自分の身に背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さいました。つまり私たちのためにご自分の命を捨てて下さったのです。それが主イエスの私たちへの愛です。15節には「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。主イエスは、自分の命を捨てるというこれ以上ない大きな愛によって、私たちの真実な友となって下さったのです。
互いに愛し合うという実を結ぶ
この主イエスにつながって、主イエスの愛にとどまり、その愛を受け続けて生きることによって、私たちは、互いに愛し合うという実を結んでいくのです。12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とあります。主イエスがこの私のためにご自分の命を捨てて下さった、その愛に心を動かされた私たちは、自分も人を愛して生きようとするのです。そこに、互いに愛し合うという、人と人とのつながり、絆が生まれるのです。「これがわたしの掟である」と言われているのを聞くと私たちは、互いに愛し合う者にならなければ主イエスの愛を受けることができず、主イエスにつながっていることはできない、と思ってしまいがちです。しかしそうではありません。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言っておられるのです。私たちが互いに愛し合うのは、主イエスが先ず私たちを愛して下さったからです。あなたがたが互いに愛し合うようになったら、わたしもあなたがたを愛してあげる、と言っておられるのではないのです。私たちは、互いに愛し合おうとしても、それがなかなかできません。先ほど申しましたように、お互いの思いがぶつかり合って、なかなかつながることができないのです。人との絆を築くよりもむしろ壊してしまうようなことばかりしているのが私たちです。しかしそのように互いに愛し合うことが全くできていない私たちのために、主イエスは既に、十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分の命を捨てて、私たちを愛し、友となって下さったのです。この主イエスにつながって、主イエスの愛にとどまって歩むことによって私たちは、ぶどうの木につながっている枝が水分や養分を受けて実を結んでいくように、主イエスの愛を受けて、互いに愛し合うという実を、ほんの少しずつ結んでいくのです。ですから、互いに愛し合うことがわたしの掟であるというのは、頑張ってこの掟を実行しなければ救われない、ということではありません。ご自分の命を捨てて下さった主イエスの愛を受け、それによって生かされていくことの中で、私たちはこういう実を結んでいくのだ、ということが言われているのです。そこに与えられるのは、厳しい掟を必死に守って生きる生活ではなくて、喜びに満たされて生きる歩みです。11節にはこうあります。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。主イエスは、私たちのためにご自分の命を捨てて下さったことを、心から喜んでおられるのです。それが主イエスの愛です。そして主イエスは私たちをもその喜びにあずからせて、互いに愛し合う喜びに満たされて生きる者としようとしておられるのです。
わたしがあなたがたを選んだ
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。主イエス・キリストは私たちにこう語りかけておられます。主イエス・キリストこそ、私たちがつながるべきぶどうの木です。主イエスのこの招きに応えて、主イエスにつながる枝となって生きることが、聖書の教える信仰なのです。しかしそこにはもう一つ見つめておくべき大事なことがあります。4節に「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とあります。つまり、私たちが主イエスにつながっていることは、主イエスが私たちにつながっていて下さるということでもあるのです。枝である私たちが主イエスという木に必死につながって落ちないようにしている、というのではなくて、主イエスが私たちにつながって下さっているのです。そのことは、繰り返し読んでいる主イエスの招きの言葉である5節にも、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られています。私たちが主イエスにつながっていることは、主イエスが私たちにつながって下さっていることによってこそ実現しているのです。そしてこの二つのことはどちらが先なのかというと、主イエスが私たちにつながって下さることの方が実は先なのだ、ということが16節に語られています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。ここまで私は、イエス・キリストこそ、生涯にわたってつながり続けることができ、本当に豊かな実を結ぶことができる方であり、私たちが本当につながるべき方です。その主イエスの招きに応えていて、主イエスにつながって歩みましょう、という勧めを語ってきました。それを聞いて皆さんが、自分のつながる相手としてイエス・キリストを選んで下さることを願ってのことです。しかし、そういう勧めをひっくり返すようなことがここに語られています。私たちが、自分のつながる相手としてイエス・キリストを選ぶより前に、既にイエス・キリストが、私たちを選んで、ご自分のもとに招いて、私たちとつながっていて下さるのです。そして私たちが出かけて行って、互いに愛し合うという実を結ぶように、既に私たちを任命して下さっているのです。私たちが今こうしてここで礼拝に集っているのは、主イエス・キリストがそのように私たちを選び、呼び集めて下さっているからなのです。私たちは互いに愛し合うことがちっともできておらず、むしろ憎んだり、傷つけ合ったり、人との間に壁を作ってつながりを断ち切ってしまったりしています。しかしイエス・キリストは、そういう罪と弱さに満ちている私たちのために、ご自分の命を捨てて、十字架にかかって死んで下さいました。これ以上ない愛で私たちを愛し、私たちの真実な友となって下さったのです。その主イエスが私たちを選んで、ここに集め、既にわたしたちとつながって下さっています。だから私たちは、いくつになっても、どんなに弱り衰えても、生涯、この主イエスにつながっていることができるのです。そして主イエスの愛によって私たちも、互いに愛し合う者となっていくのです。今日この礼拝に集っている私たちは誰もが、ここから出かけて行って、互いに愛し合うといういつまでも残る豊かな実を結んでいくために、主イエスによって選ばれ、任命されているのです。
