夕礼拝

聖霊に満たされて

説教「聖霊に満たされて」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 エゼキエル書第37章1-14節
新約聖書 使徒言行録第2章1-13節

連続講解の一部として
 ペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えました。使徒言行録2章1~13節が語るペンテコステの出来事に目を向けていきます。先週、ルカによる福音書を読み終えまして、次は、ルカ福音書の続きである使徒言行録を読みます、とお話ししました。使徒言行録を連続して読みますので、つまり連続講解を行いますので、本来であれば1章1節から始めるところです。しかし本日はペンテコステなので、2章1~13節を先に読むことにしました。来週以降、1章1節から読み進めていきます。その際には、2章1~13節は改めて読みませんので、本日は、ペンテコステに沿った箇所を、使徒言行録の連続講解の一部として読む、ということになります。

ルカ福音書の終わりで指し示されていたことの実現
 さて先週、ルカ福音書の終わりを読みました。ルカ福音書の終わりが、単に福音書の終わりであるだけでなく、その続きである使徒言行録と結びついたもの、その始まりを意識したものであることを見ました。そこでは聖霊が降る出来事、聖霊降臨の出来事がほのめかされ、指し示されていたのです。ルカ福音書24章48、49節で、天に昇られる直前に、主イエスは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。「これらのことの証人」の「これらのこと」とは、キリストの十字架の死と復活によって私たちの救いが実現した、ということです。主イエスは弟子たちにご自分の十字架と復活による救いを証しする務め、「キリストの証人」としての務めを与えられたのです。しかし弟子たちはその務めをすぐに担えたわけではありませんでした。主イエスが、「父が約束されたもの」を送ってくださり、「高い所からの力に覆われる」のを待たなくてはならなかったのです。この「父が約束されたもの」、「高い所からの力」こそ、聖霊にほかなりません。ですから本日の箇所は、ルカ福音書の終わりで指し示されていたことの実現を語っているのであり、弟子たちが待っていたそのときが来たことを語っているのです。

五旬祭の日が来て
 その冒頭2章1節に、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。「五旬祭」はユダヤ人のお祭りで、もともとは収穫を祝う祭りでした。この「五旬祭」がもともとのギリシア語でペンテコステと言うため、キリスト教会は聖霊降臨日をペンテコステと呼んでいます。この言葉は「五十番目」、「五十日目」を意味しますから、「五旬祭」という翻訳からも分かるように、ペンテコステは、「五十日目の祭り」を意味します。それは過越の祭りから五十日目ということです。ユダヤ人は過越祭から五十日目を五旬祭として祝ったのです。過越祭、五旬祭、さらに仮庵祭はユダヤ人の三大祭で、これらの祭のときには、ユダヤ人がエルサレム神殿に巡礼することになっていました。今もそうですが、当時すでにユダヤ人は世界中に散らばって暮らしていました。いわゆるディアスポラのユダヤ人が、三大祭のときにはエルサレム神殿に巡礼したのです。5節で「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」と言われているのは、このためです。「住んでいた」と言われていますが、おそらく巡礼のために一時的にエルサレムに滞在していたのだと思います。エルサレムは世界中からやって来たユダヤ人でごった返していたに違いありません。

一同が一つになって集まって
 巡礼者で賑わうエルサレムにあって、ほかのユダヤ人とは違った気持ちで五旬祭を迎えた人たちがいました。1節に「一同が一つになって集まっていると」とありましたが、そこで「一同」と呼ばれている人たちです。1章15節に、「百二十人ほどの人々が一つになっていた」とありますから、「一同」とはこの「百二十人ほどの人々」のことでしょう。その中には、もちろん十二人の使徒と呼ばれる人たちも含まれていましたが、それだけでなく、14節によれば女性たち、イエスの母マリア、イエスの兄弟たちも含まれていました。彼ら彼女たちは、ルカ福音書の終わりで主イエスが語った約束の実現を待っていました。主イエスが「父が約束されたもの」を送ってくださり、「高い所からの力に覆われる」のを、つまり聖霊が降るのを待って、祈りつつ過ごしていたのです。彼ら彼女たちにとって、このときの「五旬祭の日」は、単に過越祭から五十日目であったのではありません。主イエスの復活から五十日目であり、また主イエスの昇天から十日目でした。来週以降に読み進める使徒言行録1章には、十字架で死なれ復活された主イエス・キリストが、四十日にわたって弟子たちに現れてくださり、そして天に昇られた、と記されています。それから十日目の五旬祭の日に、エルサレムが祭りの喧騒の中にあっても、百二十人ほどの人たちは皆、共に集まって、聖霊が降るのを待ち望んで、「心を合わせて熱心に祈っていた」(1章14節)のです。

キリストの証人として歩めるはずがない
 弟子たちがキリストの証人としての務めを担うために、聖霊が降り、その力に覆われるのを求めて、祈っていたことは、裏を返せば、弟子たち自身の内にはその務めを担う力、キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝える力はなかった、ということです。それもそのはずです。弟子たちはわずか五十日ほど前に、主イエスを裏切っていました。一番弟子のペトロは、三度主イエスを拒みました。主イエスがそのペトロを見つめたとき、ペトロは激しく泣きました。主イエスを裏切った自分の罪に完全に打ちのめされたからです。ほかの弟子たちも似たり寄ったりです。主イエスを裏切った自分の罪に打ちのめされていた弟子たちの内に、キリストの証人としての務めを担う力などまったくありません。弟子たちは外からの力を与えられ、新しくされる必要がありました。これまでの自分とは違う、新しい自分に造り変えられる必要があったのです。
 先週もお話ししたように、私たちも「キリストの証人」とされています。しかし考えてみると、私たちにもキリストの証人として歩める力などない、と思わずにはいられません。まだ主イエスに出会っていない方々に、主イエスのことをどうやって伝えたらよいか分からないからとか、伝えたときに拒まれるのが怖いからとか、そのようなこともあります。しかしもっと根本的には、私たちが神様に背き、あるいは主イエスを拒み、自分中心に、自分勝手に生きている罪人だからです。洗礼を受け、救いにあずかった今でも、私たちはなお日々罪を重ねています。私たちは日々、主イエスを裏切り、拒んでばかりいる者です。そのような私たちがキリストの証人として歩めるはずがない。私たちの内にはそんな力はないし、そんな資格もない、と思わずにはいられません。私たちも外からの力を与えられ、新しくされなくてはならないのです。

聖霊のしるし
 自分自身の内には、キリストを証しし、宣べ伝える力などまったくなかった弟子たちに、聖霊が降りました。このことが、2、3節で語られています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。「激しい風が吹いて来るような」とか「炎のような」と言われていて、「風」も「炎」も聖霊の比喩として語られています。風や炎そのものが聖霊なのではありません。それらはあくまでも聖霊のしるしです。私たちは「激しい風が吹いて来るような音」がどんな音なのか、あるいは「炎のような舌」がどんな舌なのかを考えるよりも、聖霊のしるしとして「風」と「炎」が用いられていることの意味に目を向けていきたいのです。

 「風」は、旧約聖書でも新約聖書でも、しばしば「聖霊」を指し示しています。たとえばヨハネによる福音書3章5節以下で、主イエスはニコデモに「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われた後で、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と言われました。風が思いのままに吹くことに、聖霊の自由な働きを重ねて、主イエスはこのように言われたのです。

 また「炎」は、神様がそこに現れてくださること、神様の現臨を表していますが、さらには神様の裁きをも表しています。神様の裁きと言われると、滅ぼすというイメージが強いかもしれません。しかし神様は裁きを通して救いを実現される方です。あの主イエスの十字架は、私たちの罪をすべて背負った主イエスが、私たちの代わりに神様に裁かれることを通して、私たちを救ってくださった出来事でした。本日の箇所でも、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とは、聖霊を注がれることによって、弟子たちの古い自分が滅ぼされ、新しい自分に造り変えられたことを見つめているのではないでしょうか。主イエスを裏切った罪に打ちのめされ、その罪の重みに押し潰されそうになっていた弟子たちが、聖霊の働きによって、その罪から解放されて、新しく生きる者とされたのです。聖霊の働きによって弟子たちは、キリストの十字架によって実現した罪の赦しにあずかり、新しく生かされたのです。

新しい言葉を与えられて
 キリストの十字架と復活による救いにあずかり新しく生きるとは、キリストと一つとされ、神の子として生き始める、ということです。しかしそれだけではありません。それに伴って、新しい言葉を与えられて生き始めるということでもあります。すでにお話ししたように弟子たちは、主イエスが天に昇られる前に、主イエスから、「あなたがたはキリストの証人」となる、と言われていました。しかしそう言われても弟子たちは、心の中で文句を、あるいはお互いに文句を言っていたかもしれません。「自分たちが主イエスによる救いを証しできるはずがない。たった五十日前に主イエスを裏切った自分たちが、主イエスを信じなさい、と語ったところで、誰も信じてくれるはずがない、いやそもそも主イエスを裏切った自分たちが、そんなことを語るなんておこがましい、恥ずかしい」。そのように思い、不安になり、文句を言っていたのではないでしょうか。しかしその弟子たちが、この後、使徒言行録が語っていくように、キリストによる救いを力強く宣べ伝えていきます。そのように弟子たちが変えられたのは、弟子たちが聖霊を注がれて、新しくされ、新しい言葉を与えられたからです。自分の内には、自分の不安や恐れや不満を語る言葉しか持っていなかった弟子たちに、聖霊が新しい言葉を与えてくださいました。聖霊が降ることによって新しい言葉を与えられたからこそ、弟子たちはキリストの証人として歩み始めることができたのです。このことは、「舌」が「一人一人の上にとどまった」と言われていることにも見つめられています。なぜなら「舌」はギリシア語で「言語」、「言葉」をも意味するからです。つまり「舌」が「一人一人の上にとどまった」とは、聖霊が注がれることによって、新しい言葉が一人一人に与えられたことをも見つめているのです。

ほかの国々の言葉で
 だから4節で、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と言われています。弟子たちは聖霊を注がれて、聖霊に満たされて、その聖霊の働きと導きによって、新しい言葉を語り始めたのです。もっともここでは、「ほかの国々の言葉」で話し始めた、と言われています。「ほかの国々の言葉で」とは、どういうことでしょうか。それが5節以下で語られています。五旬祭で世界中からユダヤ人が巡礼のためにエルサレムに来ていました。ユダヤ人はその歴史の中で、王国が滅亡すると、多くの人たちが諸外国へと連れて行かれましたが、その中には、散らされた国で暮らし続け、そこで子孫を与えられ、その国の言葉を使い、しかし聖書の信仰を守って生きた人たちも少なくありませんでした。9節以下で列挙されている地名は、当時、全世界と考えられていた範囲をカバーしている、と考えるのが良いと思います。ユダヤ人はまさに全世界に散らされて暮らしていたのです。そのようなディアスポラのユダヤ人が五旬祭でエルサレムに滞在していた時に、聖霊が降りました。「激しい風が吹いて来るような音」は、家中に響いただけでなく、外にも響いたのでしょう。その音を聞いて、ユダヤ人たちが大勢集まって来て、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」のです。7、8節で、人々は驚き怪しんでこのように言っています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」。ガリラヤの人である弟子たちが、なぜほかの国の言葉を話しているのか。それも世界中の言葉で、自分たちディアスポラのユダヤ人が暮らしている国の言葉で話しているのか、と驚き、怪しんだのです。

神の偉大な業を語る
 私たちはこの奇跡をどのように受けとめれば良いのでしょうか。聖霊の働きによって弟子たちがバイリンガルになった、しかもそれぞれに違う言葉を身に着けた、ということでしょうか。「新しい言葉」が与えられたとは、今まで話せなかったほかの国の言葉を突然話せるようにった、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。そのように考えてもあまり意味はありません。むしろ私たちはこの奇跡が見つめていることにこそ目を向けたいのです。このとき弟子たちが聖霊に満たされて世界中の言葉で話し出したことは、世界中の人たちに届く言葉で、分かる言葉で語り始めた、ということです。何を語り始めたのでしょうか。それぞれの国の事情にあわせた話をしたのではありません。11節の後半でこのように言われています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。弟子たちは世界中の言葉で「神の偉大な業」を語り始めました。新しい言葉を与えられたとは、「神の偉大な業」を語る言葉を与えられた、ということなのです。この「神の偉大な業」とは、神の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださり、復活させられたことによって、私たちが罪を赦され、死の支配から解放されて、復活と永遠の命の約束を与えられたことです。弟子たちは世界中の言葉で、この「神の偉大な業」を語り始めました。異なる言葉で、しかし同じ「神の偉大な業」を語り始めたのです。それが世界中の言葉で語られたことは、この「神の偉大な業」が、キリストの十字架と復活による救いが、すべての人に関わる、ということにほかなりません。ユダヤ人だけでなく異邦人にも、あるいはどのような身分の人にも関わるのです。この救いは国や民族の隔てを、また性別や身分の隔てを超えて与えられます。今このときも、苦しみの中にあるすべての方が、その根本にある罪と死の支配に苦しんでいるすべての方が、この救いへと招かれているのです。

やがてすべての人に宣べ伝えられる
 とはいえ本日の箇所で、聖霊に満たされた弟子たちが世界中の言葉で「神の偉大な業」を語り始めたからと言って、それですぐに「神の偉大な業」が、つまりキリストによる救いが世界中に広まったわけではありません。救いが宣べ伝えられるためには、弟子たちがキリストの証人としての働きを担って、聖霊の導きによって伝道していかなくてはなりません。その歩みには多くの困難があり、多くの時間を必要としました。使徒言行録はまさにその困難な歩みを記しているのです。ペンテコステに弟子たちは、世界中の国からやって来たユダヤ人に、しかしあくまでもユダヤ人に向かって「神の偉大な業」を語りました。異邦人に語ったわけではありません。しかし使徒言行録は、やがてこの「神の偉大な業」が異邦人にも宣べ伝えられていくことを語っていきます。ですからペンテコステに、聖霊に満たされた弟子たちが世界中の言葉で「神の偉大な業」を語ったことは、この「神の偉大な業」が、やがてユダヤ人だけでなく異邦人に、すべての人に宣べ伝えられていくことを指し示しているのです。この救いが、すべての人に関わり、すべての人がこの救いに招かれていることを見つめているのです。

聖霊に満たされて
 「神の偉大な業」が、キリストの十字架と復活による救いが世界中に広まっていく歩みは、今なお途上にあります。私たちもこの救いが世界中に宣べ伝えられるために、キリストの証人としての務めを担っているのです。確かに私たちは日々罪を重ねて生きています。そのような私たちの内にはキリストの証人とし歩む力も資格もない、と思わずにはいられません。しかしペンテコステに弟子たちに注がれた聖霊が、私たちにも注がれています。自分の罪に押し潰されそうになっている私たちが、聖霊の働きによって罪の赦しにあずかり、新しく生かされ、新しい言葉を与えられるのです。私たちの内にはない新しい言葉を、「神の偉大な業」を語る新しい言葉を与えられるのです。私たちの内には不平や不満、不安や恐れを語る言葉ばかりです。しかし私たちは、私たちの外から聖霊を注がれ、聖霊に満たされることによって、「神の偉大な業」を語る新しい言葉を与えられるのです。そのことによってこそ私たちは、キリストの証人として歩んでいくことができるのです。

教会の誕生
 このペンテコステの出来事は、弟子たちが皆、「一つになって集まっている」ときに起こりました。つまり個人に起こった出来事ではなく、群れに起こった出来事なのです。そうであればこの出来事は、聖霊が降ることによって一人ひとりが新しくされ、新しい言葉を与えられただけでなく、群れが、つまり神の民が新しくされ、新しい言葉を与えられた出来事でもあります。だからペンテコステの出来事は、神の民の再生を、新しい神の民の誕生を、つまり教会の誕生を語っているのです。共に読まれた旧約聖書エゼキエル書37章1~14節は、枯れた骨の復活を語っていて、死者の復活を指し示している箇所としてよく知られています。しかしこの箇所は、それだけでなく、聖霊によって神の民が再生することをも語っています。10節に「すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」とあります。枯れた骨とはイスラエルの民のことです。聖霊が注がれることによって、イスラエルの民が再生し、「非常に大きな集団」となることが預言されているのです。
 ペンテコステに聖霊が注がれることによって、新しい神の民である教会が誕生しました。教会は聖霊に満たされ、新しい言葉を与えられ、その新しい言葉を宣べ伝えていきます。「神の偉大な業」を、キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝えていくのです。来週の主日礼拝は「伝道礼拝」です。この伝道礼拝において、私たちの教会が聖霊に満たされ、新しい言葉を与えられて、そこに集う方々に、「主イエス・キリストがあなたの救いのために十字架で死んで復活してくださった」と宣べ伝えていくことができるよう、聖霊の働きを祈り求めていきたいのです。そして私たち一人一人も、教会の礼拝においてこそ、聖霊を注がれ、聖霊に満たされます。もちろん聖霊は自由に働きますから、私たちの日々の歩みにおいても働き、私たちを導いてくださいます。しかし何よりも教会の礼拝において、聖霊は私たちに注がれ、私たちを満たすのです。主の日の礼拝ごとに、私たちは聖霊によって新しくされ、私たちの内にはない、「神の偉大な業」を語る新しい言葉を与えられるのです。本日も私たちは、この礼拝で聖霊に満たされ、新しい言葉を与えられて、この礼拝からそれぞれの生活の場へ、キリストの証人として遣わされていくのです。

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