主日礼拝

主によって立つ

説教 「主によって立つ」 神学生 佐藤潤
旧約聖書 詩編第62編1-9節
新約聖書 フィリピの信徒への手紙第3章17節-第4章1節

 パウロは「愛する兄弟たち、主によってしっかりと立ちなさい」と強く勧めています。「主によって立つ」とは一体どのようなことでしょうか。その言葉はあまり聞いたことがないと思います。「主によって立つ」とは、主によって支えられ、守られて、立ち続けるということでしょうか。私たちは主が共にありますようにと祈り願いますが、そのことを言っているのでしょうか。「主によって立つ」の反対の言葉は「自分の力によって立つ」ということです。「自分の力によって立つ」とは、自分の力を信頼して、他人の助けを得ることなく、自分の意思や価値観を拠り所として生きていくことを意味します。ですから、パウロは愛するフィリピの教会の人々に自分の力によってではなく、「主によって立ちなさい」、主の力を信頼し、他者の助けを得て、主の意思や価値観を拠り所として生きていきなさいと言っているのだと思います。なぜパウロは愛する兄弟たちにそのように勧めているのでしょうか。本日の聖書箇所でパウロは、「主によって立ちなさい」と私たちキリスト者に何を語ろうとしているのかをご一緒に見ていきたいと思います。

<フィリピでの伝道>
パウロは、主イエスの福音を宣べ伝えるために、フィリピの地を訪れたのでした。その地はローマ帝国の植民地都市です。ギリシャとローマの政治、文化的影響を大きく受けていました。ギリシャ神話で登場する神々が拝まれ、ローマの神々の神殿も多くあり、ローマ皇帝を神とする皇帝崇拝が習慣化されていました。そのような地域でパウロは福音を宣べ伝えていたのです。思い浮かべてみてください。政治の中心地である永田町で主イエスを語り、築地本願寺や靖国神社で主イエスを告げ知らせていたのです。主イエスの名前が広く知られている今日でさえも、それらの場所で主イエスの十字架の死と復活による救いを告げ知らせる伝道はなかなかできるものではありません。自分の力だけでは到底できません。神に信頼して祈り、フィリピの教会の人々からの支援と祈りによって力を得て、パウロは強い使命感もって伝道していたのです。パウロが、フィリピの後に赴いたエフェソの地で再び牢獄に囚われ、いつ処刑されるかわからない不安や恐れの中で、愛するフィリピの教会の人々に向けて書いたのがこの手紙です。この手紙を、今日の教会に生きる私たちに向けられた手紙として読みたいと思います。 

<十字架に敵対して歩む者>
 パウロは、悲しみ、涙ながらにこのように語っています。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。」パウロはフィリピの教会の人々の中で、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」の存在を悲しみ涙を流していました。なぜなら、「彼らの行き着く所は滅び」だからです。主イエスの福音である、主イエスの十字架の死と復活が救いの源であることを受け入れない人々が教会に多くいたのです。その人々は、主イエスを信じていると言いながらも、主イエスの十字架での苦しみを拒絶し、主イエスの福音に逆らい、自由奔放に自分勝手に生きていたのです。パウロはそのような人々を、「キリストの十字架に敵対している者」と呼んでいます。主イエスの十字架の死による救いを信じて、主イエスに心を向けて生きない人々は、破滅を経験する以外に何も残されていません。つまり、「行き着くところは滅び」でしかないのです。ですから、フィリピの教会を初めから建て上げてきたパウロにとって、大変悲しいことだったのです。また「キリストの十字架に敵対して歩む者」は、「腹を神とし、恥ずべきものを誇り、この世のことしか考えていない。」とパウロは言います。主イエスに心を向けてより頼むのではなく、ただ自分の力によって立とうとする人々です。神の前で恥ずべき欲望を満たすことに心を向けて、神ではない他のものを拝んでいるのです。神ではない他のものの一つは、お金です。この世で生きていくためには、確かにお金が必要です。お金がなければ生活は成り立ちません。最近のニュースを見ても、お金に関することが多いように思います。多くの人々がお金に関心があるということです。お金により頼んでいる人々は、自分の欲望を満たすために地位を得て、財産を増やすことに全力を注ぐのです。地位や財産が他人より上であると感じた時には、優越感を得て、自分を誇り、自分の平和を築くことができるかもしれません。けれども、何かのきっかけでそれらを失った時には、そのことに耐えられず、立つことさえできず、あっという間に崩れて、倒れてしまうのです。自分の力で立つということは、不安定で頼りないものです。私自身も、まさに「十字架に敵対する者」でした。学校を卒業して、会社での仕事をし始めたときには、仕事を覚えようと一生懸命に働きました。仕事をこなせる様になってからは、同僚たちとの競争の中で、より高い地位とより高い給料を得ることを目指すようになり、心はいつも優越感や劣等感でぐらぐらと揺れ動いていました。終いには、病気で倒れてしまったのです。

<私たちの本国は天にある>
 「十字架に敵対する者」は、自分の力により頼み、この世のことしか考えていません。つまり主イエスによって生かされていません。天におられる主イエスとの交わりにないのです。パウロは言います。「わたしたちの本国は天にあります。」 本国とは、その人の国籍のある国のことです。聖書協会共同訳聖書では「わたしたちの国籍は天にあります」と訳されています。この世で私たちはそれぞれ国籍をもっています。国籍をもつ国で定められた法律に従い、市民権が与えられ、その国の制度やルール、文化や慣習に従うことが求められます。けれども、キリスト者は、主イエスがおられる天に本当の国籍があり、主イエスの憐れみと恵みの下にあり、主イエスと共に永遠の生命を生き始めているのです。天とは、主イエスがおられる場所です。神のご支配の下にあり、御心が行われている神の国です。ですから「わたしたちの国籍は神の国にある」とも言えます。私たちは天とは決定的にかけ離れたこの世を生きています。本来私たちは、「十字架に敵対する者」であり、最後は滅びに行き着く者です。けれども主イエスは、滅ぶしかない神から離れてばかりいる私たち罪人に、十字架の死によって罪の赦しによる救いを与えてくださいました。主イエスは、死から復活され、天に上げられ、今も天におられ、この世の全てを支配してくださっています。主イエスを信じ、洗礼を受け、主イエスと結びついているキリスト者は、この世にありながらも天に属する者とされています。この世のことである、制度やルール、地位や財産によって影響を受けて生きているけれども、天におられる主イエスによって支配され、守られ、支えられているのです。この世の終わりの日には、救い主イエスが再び天から来られ、救いが完成するという希望が私たちキリスト者には与えられています。ですから、今は天におられる主イエスにこそ、私たちは心を向けてより頼み、「主によって立つ」のです。

<主の祈り>
 先日、東京神学大学の全学修養会が八王子セミナーハウスで1泊2日の日程で行われました。主題は礼拝と祈りです。礼拝における祈りの意味について学び、参加者それぞれの祈りについて分かち合いました。その中で特に印象に残っているのは、主イエスが教えてくださった主の祈りについてです。この修養会で、祈ることによってこそ、「主によって立つ」のだと分かったのです。主に毎主日の礼拝、委員会や会合の締めくくりで私たちは主の祈りを唱えています。しかし、たびたび祈っている主の祈りはただ形式的に唱える祈りになってしまい、熱心に祈ることは難しいのではないでしょうか。なぜなら主の祈りは私たちの祈りとは異なるからかもしれません。祈るとは自分の心の中にある思いや願いを神に知っていただくためである、と私たちは考えています。主の祈りは「天におられる父よ、み名があがめられますように」と、父なる神のために祈り始めます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と神の御心の実現のために祈ります。しかし、私たちは、自分の救いのために、早くみ国が来ますようにと祈り、苦しみに満ちているこの地上から解放してくださいと、自分のために願う祈りとなってしまうのではないでしょうか。主の祈りは、自分の思いや願いを祈る祈りではありません。主の祈りは、自分の思いや願いに生きる心に、神の御心を信頼して受け入れ、神に心を向けていくことを願う祈りです。主の祈りは、「主によって立つ」ための祈りなのです。

<主によって立つとは>
 神のために祈ることがなかなかできない私たちですが、自分のために祈ることも難しいと感じるかもしれません。食事の前や寝る前に神に捧げる祈りも、いつも同じような祈りになってしまうかもしれません。祈ることは大切なことです。祈りは神への信頼の表れであり、信仰の告白だからです。神が祈りを聞いてくださり、導いてくださっていることを信じる信仰によって、祈ることができるからです。主イエスは、嬉しい時には、神を賛美して祈りを捧げ、十字架の死を遂げる直前には、死への恐れや不安といった自分の思いや願いを祈っていたのです。私たちが祈る時には、天が開けて、神との交わりがなされます。そのことを信じて、自分の思いや願いを捧げ、助けや導きを求める祈りは、必ず神に聞き届けられています。祈りの中で、悲しみや苦しみ、不安や悩みを手放し、神に信頼して、全てをお委ねすることによって、安心して日々の生活を送ることができるのです。このように神に信頼して祈りを捧げ、安心して身を任せていくことが「主によって立つ」ということです。神のみ心の実現のために祈りを捧げ、神に信頼して助けと導きを求め、神との交わりに入ることによって、自分の力でぐらぐらとふらつきながら立つのではなく、揺らぐことなく、しっかりと「主によって立つ」ことができるのです。

<栄光の体に変えられる>
 パウロはこの世の終わりの日に成し遂げられる救いの完成についてこのように言います。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」 主イエスは天においてこの世の全てを支配してくださっています。私たちにとって最後にして最大の敵である死をも支配しておられます。その全てを支配する力によって、主イエスご自身と同じ栄光の体に変えてくださる約束が私たちには与えられているのだと、パウロは言います。主イエスは、私たちに救いを与えるために、この世に来てくださいました。私たちと同じように卑しい肉の体を持たれたばかりでなく、同じ神を信じる仲間からの拒絶、弟子たちの裏切りによる悲しみ、そして死に直面する苦しみと嘆きを十字架の死に至るまで体験されたのです。主イエスは、死に至るまで神に熱心に祈り、神の御心に従順に従い、私たちに救いを与えてくださいました。神は、御心に従った主イエスを十字架の死から復活させ、もはや朽ちることのない栄光の体をお与えになられ、天へと上げられました。主イエスを天に上げられることによって、完全に分け隔てられている天と地を結びつけ、私たちの祈りを聞き届けてくださっています。救いの完成の日には、私たちの卑しい、罪によって汚れた体を、復活の主イエスと同じく栄光の清い体へと変えてくださるという約束を私たちキリスト者に与えてくださっています。この神の約束の実現に向けて、苦しみや困難の中でくじけて倒れていても、主イエスを深く知ることに努め、主イエスが十字架の上で受けられた苦しみと死の重みを自分のこととして受け止め、真剣に向き合い、主イエスを死者の中から復活させた神の力に心を向けていくのです。なぜなら主イエスが私たちを捕らえてくださっているからです。主イエスは、一方的に私たちを愛し、私たちに出会ってくださり、罪を赦してくださいました。この世で生きているけれども、主イエスがおられる天に本国おいて生きる新しい命を与えてくださいました。主イエスが再び天から戻って来られる日には、この世は、栄光に満ち、主イエスの生命と力に満ち溢れるのです。ですから私たちは「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と神の御心の実現のために祈るのです。神の御心の実現に向けて、祈りによって神と交わり、神の力により頼み、神に心を向けて主によって立ち続けていくのです。このことが、パウロが勧めている「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」の意味です。自分の力で生き続けてきたパウロは、主イエスに捕らえられることによって、自分のことばかりに向けられていた心が、神へと向ける心に変えられ、主によって立ち、逆に主イエスを捕らえようとひたすら努めていたのです。

<主によって立つ>
 共に読まれました詩編62編では、ダビデが「主によって立つ」者であることが示されています。敵対者による攻撃や裏切り、苦難や試練にあった時にも、神にのみ信頼し、助けを求めていました。沈黙して、焦らず、静かな心で神を信頼して待ち望んでいます。法律や制度、地位や財産など、この世の一時的なものに頼ることの無意味さが語られています。ただ神だけが永続的で、唯一信頼できる存在であることが繰り返されています。「神だけが救いであり、神ではない他のものを拝むのではない」という信仰の表明です。ダビデは言います。「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」である。苦難や試練に直面しても、神にのみ信頼し、祈りによって神と交わり、喜びや感謝だけでなく、苦しみや不安、悲しみや怒りをも神に打ち明け、「主によって立つ」のだと、ダビデは私たちを力付けてくれています。私たちは、この世の終わりの日には、復活された主イエスと同じく栄光の姿に変えられる希望と約束を与えられています。しかし、ダビデやパウロのように、主によってしっかりと立ち続けることは難しいと思うのではないでしょうか。いつ来るかわからないこの世の終わりなど待ってられない、苦しみや悲しみ、悩み多き人生から早く解放されたいと思ったり、もうすでに救われているので、自分の好きなことをして、楽しもう、苦しみや悩みを忘れられるように気晴らしをしよう、将来が不安だから一生懸命その備えをしようと思ってしまうのです。そのように自分の力で立とうとする私たちを、主によって立たせてくださるのが聖霊です。主イエスを信じ、洗礼を受けた私たちキリスト者は、すでに聖霊を与えられています。聖霊を通して、主イエスと結びついている私たちの本国は主イエスのおられる天にあります。天におられる主イエスは再びこの世に戻ってきてくださり、この世の全てを支配する力によって、主イエスに結びついている人々、つまり教会に連なっているキリスト者をご自分と同じく栄光の体へと変えてくださるのです。

<神の御心の実現のために>
 私たちは、今日も教会に招かれ、この礼拝で聖霊の力をいただいています。信仰の交わりに生かされ、「主によって立つ」ことができる者とされています。しかしパウロは一人牢獄に囚われているので、皆一緒に集い、礼拝を捧げることもできません。孤独の苦しみにあったと思うのです。孤独は人を不安にさせ苦しめます。一人淋しく、みじめで、生きる価値のない人間になったような気持ちであったかもしれません。自分の力ではとても立つことができなかったに違いありません。パウロは、祈りによる神との交わりによって聖霊の力を受け、今は苦しみにあるけれども、主イエスの十字架の苦しみと同じ様に苦しむことも恵みとして与えられており、主イエスが再び戻って来られるときには、栄光の姿へと変えられるという希望を持ち続けていたのです。主によって立ち続けていたのです。
 私は、来年の春には東京神学大学大学院を修了し、教会へと派遣される予定です。伝道の最前線に立ちます。待ち受けている困難や試練に不安を感じています。なぜならこれまでに経験したことがないからです。神学校で、神の御心の実現のために、共に果たしていく仲間が与えられています。学校でのチャペル礼拝、寮での朝礼拝、そして祈祷会で共に祈りを合わせてきた信仰の仲間たちです。それぞれ教会や学校へと派遣されますが、祈りを通して神と交わり、仲間を思い、励まし合い、支え合っていきたいのです。私たちキリスト者一人一人は、主イエスを中心とした交わりに、まだ主イエスを知らない人々を招いていく使命が与えられています。それは教会の使命でもあります。伝道活動にはさまざまな困難が伴います。多くの者が主イエスの十字架と復活を受け入れず、拒絶するという虚しさや落胆を覚えるかもしれません。教会内での混乱や問題にも直面するかもしれません。神の家族として共に励まし合い、支え合っていきたい。神のため、教会のため、仲間のため、そして自分のための祈りによって神と交わり、神の力に信頼し、主によって立ち続け、神の御心の実現のために生きていきたいのです。

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