説教 「喜びの道」 巡回教師 大澤みずき
旧約聖書 ホセア書第14章2-10節
新約聖書 マルコによる福音書第1章1-8節
今読んでいただきましたマルコによる福音書は、そのはじめに、今、語り始めることは、「イエス・キリストの福音のはじめ」だと宣言します。
それは、この言葉が語りかけられるすべての人にとって間違いなく福音、良き知らせ、あなたのための良き知らせなのだと、断言することから始めます。
言い換えれば、わたしたちは、福音の中に既に巻き込まれていると語っています。もう、福音は始まった、あなたのためのよい道がここにある。この喜びにあなたも一緒に生きようと招いています。
一度も会ったことがなく、私のことなど知るはずもない人が、あなたがそこに既に巻き込まれている良い出来事、良き知らせがある、それをあなたに伝えると語りかけてきます。
これはもしかしたら、現代に生きるわたしたちには、とても、わかりにくいことであるかもしれません。
私たち誰にとっても良いことというのは、価値観が多様化した社会においてわかりにくくなっています。
しかし、そんな私たちであるからこそ、この知らせは今を生きるわたしたちにとっての、福音、良き知らせであると思います。
私は、最近ある一人の心理士の本を何冊か読みました。その中で、現代人の苦しみは多様化した社会で孤独に生きなければならいことだという趣旨のことが書かれていました。人間にとっての大きな喜び、それは感じた喜びを分かち合うことだ。共に生きる人と、喜びを分かち合って生きて行く。そこにより大きな喜びを感じる。私たちはもともとそういう風にできている。
けれども、価値観が多様化しすぎた社会では、共感を得ることがむずかしい。近くの人とも自分の感じた喜びを分かち合うことが難しくなっている。現代社会は、一緒に喜ぶという機会が極端に少なくなっている。そのために、ひどく不安な社会になっていると言います。
価値観が多様化しているとは、自分の人生を支えるものが、他の誰かにとっては良い言えないということです。
自分は、この生き方でよいと思っていても、そこに喜びを感じていても、その喜びを分かち合うことが難しい。そこで、結局、孤独になっていく。そこに、現代の私たちの苦しみがあると言うのです。
そういう中で生きているのに、福音の良い知らせは、私たち誰にとっても良い知らせであると断言します。あなたはもう、そこに巻き込まれていると、宣言します。
不思議なことです。会ったこともない、私のことなんか知るはずもない2000年前の福音書記者が、これはあなたのためのイエス・キリストの良き知らせだと、語りかけるのです。
そしてもっと不思議なことは、私たち価値観の多様化した現代人にとっては押し付けがましいとしか言いようのないこの知らせを聞いた者が、その中に、本当に自分の良き知らせを発見するということが起きていることです。
毎年、洗礼を受けて、この福音を自分の喜びとする仲間が教会に加わっている現実があります。
千差万別、誰とも分かち合うことのできない自分を孤独に生きなければならなかった私たちが、その様々な境遇から、福音に、イエス・キリストにどうしようもなく惹かれるということが起こる。
それぞれのイエス様との人生の物語が生まれ続けていることに、純粋に神の業を見る経験を私たちはしています。
誰にとっても、語りかけられる福音、イエス・キリストの良き知らせ、それぞれの小さな小舟のような孤独な個人である現代人にも、語りかけられる良き知らせ。
それは、誰にでも当てはまるからと言って、十把一絡げ、フリーサイズの良き知らせではありません。
顔と顔とを合わせるように、目と目が合うようにして、私たちは、イエス・キリストと出会うのです。
そして、その神さまが示されるキリストと生きたいと願う者が、こうして毎週礼拝をささげています。私は、これこそが奇跡だと思います。
これは聖書に記されている、他の目覚ましい奇跡に勝るとも劣らない奇跡だと私は思います。2000年前に地上に来られた神の子が、もうお姿は見えないのに、人間と出会い続け、従っていく人が生まれ続けています。こんなに不思議なことはありません。イエス・キリストこのお方が、今も生きておられ、私たちと出会ってくださり、一つになれない私たち、個性ばらばらの私たちへの良い贈り物であり続けてくださる。
このことを変わらない、色あせない、同じ現代人の孤独を生きるわたしたちが、この私を、またあなたを生かす喜びとして、イエス・キリストの福音を2000年前の福音書記者と今は声を合わせて伝え続けています。
指路教会は創立150年の記念の年を過ごしているということを、連合長老会の教師会で関連行事のことなどから聞いております。皆さんもこの150年の神さまの喜びの業の中に、巻き込まれながらここに座っておられる神の奇跡の一人一人です。
そして、また私も、キリストの喜びに生きる一人です。私は母方の家系からたどると5代目のキリスト者です。初代は、長野県の上田市あたりの武士で、武士からキリスト者になりました。おそらく明治の頃の最初期のプロテスタント教会の信徒でした。我が家の初代キリスト者は、この横浜の地の伝道にも大きな働きをした宣教師バラから洗礼を受け、現在の日本キリスト教会上田教会の長老を務めました。そこから5代目の私に至るまで、時代は変わりに変わりました。大きな戦争が何回もあり、スペイン風邪、関東大震災のような天災もあった。私が生きている間だけでもいくつも大きな地震や、大雨の被害があり、コロナ感染症の影響もありました。今年初めは、石川県金沢市にいて、能登半島地震を経験しました。
あらゆるものが形を変えていくそんな中で、我が家の初代のキリスト者が渡したバトン、すなわち、イエス・キリストがわたしたちのためにいるということが、私まで届き、そして、私の子どもにも届いて6代目に受け渡されています。バトンと言っても目に見えるようなものではありません。けれども、ずっと私の家族の中で、それこそ指路教会が歩んだ年数と似たような長さの中で、受け渡され続けて、今日、また、私がここにいる仲間と共に受け渡そうとしているバトンなのです。
いいえ、本当はバトンを受け渡すなどとは、おこがましいのです。イエス・キリスト生けるこのお方が、教会を生かし続け、私たち人間とご自分を結び続けてくださる。出会い続けてくださっているのです。
私たちの引き継ぐべき信仰のバトン、いいえ、信仰者を生み出し、その信仰を支えられるランナーは、主イエスです。主イエスこそが主人公、中心です。
福音書記者マルコは、この指路教会の中心、私の家族の中心でもある福音、イエス・キリスト、このど真ん中を語りだしています。
「神の子イエスキリストの福音の始め。」
それは、全ての人にとっての良い知らせ、神の子イエスキリストのことです。驚くほど、シンプルです。もう、福音が始まっている。
私のこととして聴いて良いのです。
神さまの人類総喜び計画。勝手に名づけました。でも、そういうことなんです。人類総喜び計画が準備からスタートの段階まできたんだとマルコはここで語っています。そして、続けて、旧約聖書を引用して、旧約時代から神さまが計画されていた壮大な計画であることを語っています。荒れ野に道を備えるということは、道がないような人の住めないところに計画の出発点があるということです。
そして、ここが、最も面白いところなのですが、ヨハネという神様が選ばれた人が旧約聖書に記されている通りに遣わされます。そして、その人物は、私たちの罪の赦しを得させるために遣わされる人だと言います。
今日初めてこの教会に来られた方、あるいは、まだ聖書がよくわからない、イエスキリストってそんなに大切という思いを抱きながら、座っている学生さん(方)もいるかもしれません。これを聞いて、「聖書の理解しにくいメッセージ、トップ3の一つが出て来た」と思われたかもしれません。ヨハネの働きについて4節こう書いてあります。「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。そのまま読んだら、あなたは罪を犯しているから、悔い改めて洗礼を受けなさいって言われていると受け止めるでしょう。
教会に来ると、あなた、罪がありますよ。その罪、悔い改めてくださいと言われる。
私もキリスト者の家庭で育ちましたけれども、しっかりと反抗期がありました。親に反抗するということももちろんしましたけれども、神さまにも反抗していました。
まるで自分の自由を束縛して、道徳的に躾けようとする親のお小言のようで、罪、罪、言われるのが息苦しくて嫌だったのです。
もちろん、自分は警察に捕まるような犯罪は犯していない。そういう罪は犯していないと、反発しながらも、一方で自分のだめさ加減もわかっていました。
自分の生活を見ても、日々、悪いことをしてしまい、そんな自分を強い意志で変えるなんて無理だとよくわかっていました。だから、罪人だと言われることが悲しくもありました。
悔い改めましたなんて、言えたもんじゃないし、そう言っている教会の人達は偽善者だって思っていたんです。
でも、今ならわかります。聖書が言う罪って、自分が思っていたようなものではないということ。刑務所に入るような罪、道徳に反する罪のことを指しているのではなくて、神さまと一緒に生きる道から外れているということなんだ、イエス様なしで生きることを罪って言っているんだと。
だから、悔い改めというのも、単なる反省ではないし、自分の強い意志で悪いことに抗うということでもない。イエス様と一緒に生きる道に立ちかえること、一緒に生きようと手を差し伸べてくださるイエス様、自分なんて駄目だと立ち上がれない私のもとに来て、もう手を握っていてくださるイエス様と一緒に生きる歩みを始めることを聖書は悔い改めと言っているということがわかりました。
そうしますと、ますます、2000年以上前に生まれたイエス様がどういうお方なのかが知りたくなります。1節に記されたイエス・キリストが私たちになくてはならないお方だということがどういうことなのか。
私たちが生きる今、本当に多くの苦しみがあります。物は溢れるほどありますけれども、それで心が十分に満たされるわけではない。
あらゆる多様な価値観の中で、その種類が増えれば増えるほど、自分の価値を小さく小さくしてしまわなければならなくなっている私たちです。その私たちに、あなたは、神の子を送られるほどの価値がある存在なんだと。それを証明するために、神の独り子であるイエス様がわたしたちのところに来てくださったのです。
1節は、そういう宣言として読むことができる。本来なら7節にありますが、人間は、ヨハネが代表するようにイエス様の履物の紐を解く値打ちもないようなものです。履物の紐を解くというのは、奴隷の仕事です。そう表現されるほどに神さまと離れた低いところにいる私たちに、あえて近づきあなたに良いものを上げたいと、イエス様がご自分を差し出してくださいました。それが私たちの主です。私たちと距離を置くのではなくて、最も近くに来てくださった。遠い存在でいることに耐えられず、私たちのところに来てくださいました。神さまのことがわからない、そして、本当の自分の価値を見失っている私たちのために。
私たちの本当の価値を決めるのは、会社でもない、学校でもない、政治でもない。また、多様な価値観の中で、誰とも共有できず、自分だけが満足し、でも、本当は、誰とも共有できない孤独な不安をもたらすばかりの、あれや、これやではありません。
私たちの揺らぐことのない価値は、イエス・キリストの内にある。このお方が、私たちと共にいること、あるがままの私たちをかけがえのない宝として取り扱ってくださる。私の価値は、このようにして、イエス・キリストが表してくださっている。そのことが私たち自身にも分かるように、神の霊である、聖霊をも送ってくださるのだと8節で語っています。
私たちのことを、どこまでもどこまでも、諦めない神さまの愛の追跡をわたしたちは受けているのです。あなたを諦めない、あなたが本当に歩むべき道へあなたを招くと。私たちにとって、これ以上嬉しいことはありません。
自己肯定感という言葉が言われるようになって随分たちました。私も3人の娘を育てながら、日々、健全な自己肯定感を育てることは難しいなと思わされています。ちょっと叱られただけで、私なんかといじける。一人をほめると、他の子が、どうせ私なんかという。小学生でもそんなです。社会に出て、大人になったらそんな風に自分を貶めることがなくなるのでしょうか?いい学校に行き、いい会社に勤め、したいことがしたいようにできれば、自分は尊いと思えるようになるのでしょうか?そんなことはないのです。それらは、時代や、月日と共に移り変わるもので、そこに自分の価値を見出していれば、いつまでたっても、ぐらつきます。
しかし、イエス・キリスト、このお方は、私の価値を私が見失うときにさえ、変わらずにあなたは、私の宝だと言い続けていてくださるのです。時代がどれだけ変わっても、そのお方と離れて生きることは、もはやできません。あなたは価値がある、キリストの命をかける価値がある。そう言っていただくときに、罪を悔い改めることは、私たちにとって受け入れがたいことではなくて、進んでしたいことになるのです。洗礼を進んで受けたいと思う。
教会は、この愛を伝えるために、存在します。私が神さまに対しても、教会に対しても反抗的だった中学生時代を知る教会の長老が、洗礼を受けるときにお祝いの葉書をくださいました。
私は、そのハガキに書かれた言葉をずっと忘れることができません。
「教会の宝であるみずきちゃんおめでとう」。
嬉しくて嬉しくて、小さなカードに書かれた言葉はずっと私の心の中で生きて響いています。
教会の宝、それは本当は、神さまの宝という意味です。神さまの宝である○○さん、○○ちゃん、ここに誰もが自分の名前を入れて良いのです。今日、初めてここに来た人も、自分の名前を入れて良いのです。イエスさまの命が込められた神さまの宝である私なのです。
私たちの能力や持っているもので決められるのではない、朽ちない価値がキリストのゆえに、与えられています。イエス様は、私たちのために、私たちが失われることのないように、十字架にまでかかってくださり、私たちの命の価値をこれ以上ないほどに高めてくださいました。ここに、喜びがあるのです。この喜びのうちに、新しい1週間を歩み出したいと思います。
祈りましょう。
主イエス・キリストの父なる神さま、私たちが自分の価値を見失っていても、諦めずにいてくださり、イエス様を私たちのために送ってくださったことを感謝いたします。イエス様のゆえに、私たちは安心してまた歩き出すことができます。まだ、自分の本当の価値を知らない人がいましたら、神さまがどうぞその喜びの知らせを届けてください。
この祈り主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン