召天者記念

初穂となられたキリスト

説 教 「初穂となられたキリスト」牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第16編1-11節
新 約 コリントの信徒への手紙一第15章12-20節

創立記念礼拝に続いて召天者記念礼拝を行う
 本日の礼拝は、召天者記念礼拝として守ります。この教会の教会員として天に召された方々、またこの教会で葬儀が行われた方々を覚えての礼拝です。お手元に、1999年以降の召天者の名簿をお配りしました。つまり最近25年間の召天者の名簿です。昨年の召天者記念礼拝以降、16名の方々が新たに加えられました。この名簿を作成した9月8日現在ではそうだったのですが、この12日の木曜日に、數井紀彦さんが天に召され、新たに召天者に加えられました。私たちの教会は今年、創立150周年を迎え、一昨日、9月13日が、創立150周年の記念日でした。150年の歴史において、いったい何人の方々が、この教会の教会員として歩み、天に召されたのか、もはやはっきりしたことは分かりません。私たちが名前も知らない、どんな人かも全く分からない多くの方々が、この教会において信仰者として生き、そして天に召されていったのです。教会の150年の歴史を覚えるというのは、それらの方々に思いを馳せることでもあります。150周年を祝った翌週にこうして召天者の方々を覚える礼拝を行うのは意味のあることだと思います。
眠りにつく

 さて、私たちは亡くなった方々のことを「召天者」と呼んでいます。天に召された方々、という意味でそういう言葉を使っているのですが、日本語に本来そういう言葉はありません。というだけでなく、聖書にも、「天に召される」という言い方は出て来ないのです。聖書において、死ぬという意味で最も多く用いられている言葉は「眠りにつく」です。本日の新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一、第15章の20節にもそれが出てきます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。この「眠りについた人たち」とは、死んだ人たち、ということです。聖書は死ぬことを主に「眠りにつく」と言い表しているのです。
 それはどういうことなのでしょうか。死んだら眠りにつくのであれば、亡くなった方々は今眠っていることになります。どこでどんなふうに眠っているのでしょうか。私たちの知っている眠りは、浅かったり深かったりします。つまり全く意識のない眠りもあるし、おぼろげに意識のある眠りもあります。夢を見ることもあります。いい夢ばかりではなく、悪夢にうなされることもあります。死んで眠りにつくとしたら、その眠りにおいて私たちは、意識があるのだろうか、夢を見るのだろうか。それはどんな夢だろうか。そういうことを考え始めると眠れなくなりそうです。そして何よりも、「眠りにつく」は「天に召される」とはだいぶ意味が違います。天に召されるというのを、死んだら天国に行ってそこで先に死んだ人たちと「やあやあ」と再会することができる、というイメージで捉えている人も多いですが、「眠りにつく」のだったら、そういうことにはならないでしょう。私たちは死んだらいったいどうなるのでしょうか。

死んでも主イエスと共にいることができる
 聖書は、死んだらどうなるかをはっきりとは語っていません。しかしいくつかのことは語られています。一つはフィリピの信徒への手紙第1章23節です。ここでパウロは、「自分はこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望している」と言っています。もう一つはルカによる福音書第23章43節で、主イエスご自身が、共に十字架につけられている犯罪人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。この二つの箇所が、死んだらどうなるのかを語っているわけですが、両者に共通しているのは、「主イエスと共にいる」ということです。主イエスを信じて死んだ人は、死んでも主イエスと共にいることができる、聖書はそう語っており、それ以上のことは語っていません。聖書が語っていないことは、私たちは知る必要がない、と考えるべきです。死んだらどうなるのか、について聖書は、死んでも主イエスと共にいることができる、と語っています。私たちはそのことだけを受け止めておけばよいのです。

キリストが復活した以上、私たちも復活する
 そしてそれよりも、聖書がはっきり語っているもっと大事なことがあります。それは、私たちは死んだままではなくて、復活する、ということです。つまり聖書は、死んだらどうなるのか、にはあまり関心を示しておらず、むしろ、復活する、ということを大切なこととして見つめ、語っているのです。その代表的な箇所が、本日の、コリントの信徒への手紙一の15章12節以下です。最初の12節に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」とあります。「死者の復活などない」と言っている人がいる、というわけですが、それは「キリストの復活などなかった」と言っている、ということではありません。ここでの「死者の復活」は、私たちの復活のことです。この人たちは「自分たちの復活などない」と言っているのです。つまりパウロはここで、自分たちの復活を信じていない人たちがいるが、それはとんでもないことだ、と言っているのです。なぜなら、キリストが復活したからです。あなたがたは、「キリストは死者の中から復活した」という福音を信じたではないか。それなのに、自分たちの復活を信じないとはどういうことか、とパウロは言っているのです。つまりパウロは、主イエス・キリストが復活したからには、私たちも復活するのだ、と言っているのです。

復活こそが救い
 そのことが13、14節にも語られています。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。「死者の復活がなければ」というのは「私たちが復活することがないなら」ということです。私たちが復活しないなら、キリストの復活もなかったはずであり、そうであれば、私たちが伝道していることも、いやそもそも信じていること自体が無意味なことになる、とパウロは言っているのです。同じことが16、17節にも語られています。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。私たち自身の復活とキリストの復活は切り離すことができないのであって、キリストの復活だけは信じるが、自分たちの復活を信じないということはあり得ないのです。その両方を信じるのでなければ、その信仰は虚しいのです。なぜ虚しいのかというと、それでは救いにならないからです。救いとは、死の支配から解放されて、新しく生かされることです。つまり復活こそが救いなのです。そして死の支配からの解放は、罪からの解放でもあります。生まれつきの私たちは、罪と死に支配されているのです。死の支配から解放されることは、罪を赦されることと一つです。パウロは17節で、復活を信じないなら、「あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」と言っています。罪の中にあるとは、罪に支配されているということです。それは同時に、死に支配されているということでもあるのです。この罪と死の支配から解放されて、新しく生きる者とされることが救いなのです。だから、復活なしには救いは成り立ちません。復活を信じないということは、死んだ者はいつまでも死に支配されたままだ、ということであって、それでは救いにならないのです。

すべての人の中で最も惨めな者
 パウロは19節で、復活を信じないというのはこういうことだ、と言っています。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。「キリストに望みをかけている」。それはキリストを信じているということです。でもその信仰が、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」になっている。キリストを信じてはいても、自分たちの復活を信じないなら、そういうことになるのです。自分たちの復活を信じないということは、死んだらそれでおしまい、ということです。死んでしまったらもうそこには神の力も及ばない、ということです。神が死の力に勝利するとは思っていないのです。つまり、自分たちを最終的に支配するのは死の力だ、ということが自明の前提となっているのです。だから、キリストを信じて、キリストに望みをかけてはいるが、それはこの世を生きている間だけのこと、つまり信仰が、この世の人生を安らかに生きるためだけのものになっているのです。神による救いが死にも及ぶとは思っていないのです。そういう信仰は、死が最終的に支配することを受け入れた上で、生きている間だけ、何がしかの慰めを得ようとしているに過ぎない。そんな信仰なら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」になる、とパウロは言っているのです。神を信じていても、自分の人生を最終的に支配するのはその神ではなくて死だと思っているとしたら、それほど惨めなことはないのです。
 死んだら天国に行って、そこで幸せに暮らせる、という思いは、この虚しい、惨めな信仰の一つの形でしかありません。なぜならその思いは、死の支配は動かし難い事実だ、という前提に立っているからです。天国と言おうが極楽と言おうが、死んだらそこへ行って幸いになれる、というのは、死の力の支配もそんなに悪いことではない、死に支配されていても、そこそこ幸せにやっていける、と思いたいという人間の願望の現れです。つまりそれは死の支配の恐ろしさから目を背けようとする人間の防衛本能が生み出した思いなのです。そして私たち人間は、そのようにして自分を守ることしかできません。なぜなら私たちは、死の力に打ち勝つことは決してできないからです。人はいつか必ず死んで、死に支配される。そこから生き返って新しく生きることは決してできない。それが私たちが知っている人間の現実です。その現実の中に救いを見出そうとするなら、死んだら天国へ行ってそこで先に亡くなった人たちと一緒に幸せに過ごすことができる、と思うしかないのです。

聖書が告げていること
 しかし聖書は、つまり神の言葉は、それとは全く違うことを告げています。聖書が告げているのは、神の恵みの力は、死よりも強い、ということです。神は、恵みのみ心によってこの世界を創造して下さり、私たち一人ひとりに命を与えて下さった、と聖書は告げています。しかし人間は罪に陥ったために、死に支配されるようになった、ということも聖書が語っています。罪と死に支配されている私たちは、誰もがいつか必ず死んで葬られていくのです。しかし、私たちに命を与えて下さった神は、私たちを罪と死の支配下に置いたままほったらかしにはなさらない、と聖書は告げています。それが神による救いです。神は、罪と死の力に勝利して、その支配から私たちを解放して下さるのです。そのために独り子イエス・キリストをこの世に、人間として遣わして下さったのです。そして主イエスの十字架の死によって私たちを罪の支配から解放し、主イエスの復活によって死の支配から解放して下さったのです。主イエスを信じて罪と死の支配から解放された者は、もはや死に支配されることのない者となります。つまり、神の民とされて神の愛の中でこの世を生きる者となり、そして死の支配から解放されて永遠の命を生きる者となる希望を与えられるのです。この世界をお創りになり、今も支配しておられる神は、そういう救いを私たちに与えて下さる方であり、その力を持っておられるのです。私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなくて、この神の恵みの力だ、ということを、神の言葉である聖書は告げているのです。

神は死に勝利した
 これは、私たち人間が、自分の知っていること、体験していることを前提にしていくら考えても分かることではありません。私たちが知っているのは、死に打ち勝つ力は自分たちにはない、ということです。だから私たちは、死の支配を受け入れるしかないのです。それを否定するような話は、つまり復活などということは、主イエスのであれ私たちのであれ、戯言(たわごと)にしか思えないのです。しかし、そういう私たち人間の知っていること、常識に反して、神の言葉である聖書は、神は死に勝利する方だ、と告げています。そのことを、神はご自分の独り子、イエス・キリストにおいて既に実現して下さったのです。主イエスは父なる神の独り子であり、ご自身も神であられる方ですが、私たちと同じ人間となってこの世に生まれ、一人の人間としてこの世を生きて下さいました。人間として生きて下さった主イエスを、人々は捕え、死刑の判決を下し、十字架にかけて殺してしまいました。主イエスは死んで葬られたのです。つまり主イエスも私たちと同じように、死の力の支配下に置かれたのです。主イエスはそこまで徹底的に、私たちと同じ人間になって下さったということです。しかし父なる神は、主イエスをそのままにはしておかれませんでした。神としての力を発揮して、死の力を打ち破って、主イエスを死の支配から解放して下さったのです。父なる神によって死の支配から解放された主イエスは、復活して、永遠の命を生きる方となられました。それが主イエスの復活です。つまり主イエスの復活とは、父なる神が、死の力に勝利して下さったという出来事なのです。そして、聖書がさらに告げているのは、神はそれと同じことを、私たちにもして下さるということです。神は主イエスを復活させて下さった力によって、私たちをも復活させ、永遠の命を生きる者として下さるのです。神が独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さったのはそのためです。だから主イエスの復活と私たちの復活をとは切り離すことができないのです。主イエスを復活させて下さった神が、私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さるのです。

初穂となられたキリスト
 そのことを語っているのが、本日の箇所の20節、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」というみ言葉です。キリストは、「眠りについた人たち」つまり死んで葬られ、死に支配されている人たちの「初穂」として復活したのです。初穂というのは、最初の実り、その年に最初に収穫されたものです。初穂が与えられたからには、それに続いて、同じ実りが豊かに与えられることが約束されているのです。それと同じように、キリストの復活は初穂であって、それには、私たちの復活が続いていくのです。初穂が実ったのに、それでおしまい、後の実りはない、ということはあり得ません。キリストの復活が、それだけで終わり、私たちの復活がそれに続かないこともあり得ないのです。作物の実りならば、初穂の後台風が来て、などということもあるかもしれませんが、これは神の救いのみ心の話です。神は、私たちの救いのためにキリストを遣わして、その十字架と復活による救いを実現して下さったのです。その救いに私たちをあずからせ、私たちを罪と死の支配から解放し、復活して永遠の命を生きる者として下さるのは、自然の成り行きではなくて、神のみ心であり、約束なのです。

目覚める時が来る
 聖書が、死ぬことを「眠りにつく」と表現していることの意味もそこにあります。「眠りにつく」は、死んだらどうなるのかを語っているのではありません。眠りについた者は、目覚めるのです。神が、眠りについた人を支配している死の力に勝利して、そこから解放して、目覚めさせて下さる時が来るのです。それが復活です。死んで眠りについた人は、神による復活の目覚めを待っているのです。聖書は、死んでも主イエスと共にいることができる、ということだけを語っていると申しました。主イエスと共にいることができる、それはパウロがその方が望ましいと言っているように、あるいは主イエスがそれを「楽園」と言われたように、平安を与えられるということです。死んで眠りについた人は、主イエスのもとで、この世の人生におけるあらゆる苦しみ悲しみから解放されて、平安を与えられているのです。しかしそれが最終的なことではないし、救いの完成でもありません。救いの完成はなお先にあるのです。世の終わりに、神が、主イエスを復活させて下さったその力によって、私たちをも死の眠りから目覚めさせて下さるのです。その時私たちは、主イエスが初穂として復活して生きておられる永遠の命を、主イエスと共に生きる者とされるのです。それこそが救いの完成です。聖書が、死んだらどうなるのか、ということにあまり関心を払っていないのは、それが最終的なことではないからです。神が死の力を滅ぼして、復活と永遠の命を与えて下さることこそが、最終的な救いであり、聖書はそのことを見つめ、その救いを告げているのです。初穂となって下さった主イエス・キリストの復活によって、この救いが

私たちに約束されているのです。
 私たち人間は、死の力に打ち勝つことはできません。だから私たちの知っている現実においては、死こそが最終的な支配者です。しかし聖書は、神がイエス・キリストにおいて、死の力に既に勝利して下さったことを告げています。そして神がその力によって、私たちをも、死の支配から解放して、復活と永遠の命を与えて下さることを告げているのです。聖書が語っているこのイエス・キリストの復活と、私たち自身の終わりの日の復活を、つまり最終的に勝利し支配するのは死ではなくて神の恵みの力であることを信じるのが教会の信仰です。召天者の方々は、この信仰に生き、そして眠りについて、今は主イエスと共にいる平安を与えられています。私たちも、やがて召天者の群れに加えられて、眠りにつきます。そして神が死の力を滅ぼして私たちを目覚めさせて下さる復活の朝を、主イエスと共にある平安の内に待つ者とされるのです。

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