夕礼拝

誰のために生きるのか

「誰のために生きるのか」牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第34章5-11節
新約聖書 コリントの信徒への手紙二第5章14-15節

誰のために生きるのか
 「誰のために生きるのか」という題でお話をします。先ほど朗読した、新約聖書コリントの信徒への手紙二の第5章14、15節に基づくお話です。その15節には、「もはや自分自身のために生きるのではなく」と語られていました。「もはや自分自身のために生きるのではなく」という聖書の言葉を読んで「誰のために生きるのか」というお話をする、となると今日のお話は、「もはや自分自身のために生きることはやめて、他の人のため、いわゆる世のため人のために生きましょう」ということだろう、と予想しておられる方がひょっとしたらいるかもしれません。でもそれは違います。「自分のために生きるのではなく、世のため人のために生きる者になりましょう」なんてそんな月並みな、そして嘘くさい話は少しも面白くないし、そもそも聖書はそんなことは言っていません。聖書は、自分のためにではなく人のために生きることを教えている、と思っている人がいるかもしれませんが、それは間違いです。聖書には確かに「隣人を愛しなさい」という教えがあります。それは旧約聖書に語られていることであり、イエス・キリストも、それが最も大事な教えの一つだとおっしゃったことが新約聖書に語られています。でもその教えは正確に言うと「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」です。聖書は、自分自身を愛することを、そしてそれと同じように隣人を愛することを教えているのです。自分自身を愛することをやめて、隣人を愛しなさい、と言っているのではありません。つまり聖書は、自分のために生きるのをやめて世のため人のために生きなさい、とは言っていないのです。自分自身を愛しなさいというのは、言い換えれば、自分自身のために生きなさい、ということです。自分を大切にして、自分が本当に生きることができるように努めなさいということです。「自分のために生きてはならない」などと聖書は言っていないのです。でも本日のこの箇所には、「もはや自分自身のために生きるのではなく」とあります。これはどういうことなのでしょうか。

自分自身のために生きようとしている私たち
 私たちは元々生まれつき、自分自身のために生きています。正確に言えば、自分自身のために生きようとしています。でも本当に自分自身のために生きることができているかというと、それははなはだ心もとないのではないでしょうか。私たちは、自分自身のために、いろいろなものを得ようとしています。食べるものや着るものや住む家を求めています。それらを得るためのお金を求めています。そのお金を得るための仕事を求めています。その仕事を得るために必要な知識や技術あるいは学歴を求めています。そのためによい学校に入りたいと願っています。これらは全て自分自身のため、自分や家族が生きていくためです。そのように私たちは自分自身のために頑張って生きているのです。しかしそのように頑張って、必死になって自分のために努力しても、求めているものをなかなか十分に得ることはできません。願っているものを全て得ることなどできないことの方が多い。つまり私たちは、自分自身のために生きようとしているけれども、そこにおいていつも不足を感じている。十分でないと感じているのです。

自分らしく生きようとしている私たち
 不足を感じているのは物質的なことだけではありません。私たちは「自分らしく生きたい」と願っています。今の世の中、「自分らしい」ということが最も価値のあることと考えられているようです。他所から押し付けられたり、立場によって求められている生き方というのは自分らしい生き方ではない。そういう生き方をしていると、人生を無駄にしているような罪悪感を感じる、というのが今の風潮です。だから今日、「自分自身のために生きる」とは、「自分らしく生きる」ことだと言えます。それは「本当の自分」を見出そうとしている、と言い換えてもいいでしょう。押し付けられた偽りの自分ではなく、本当の自分を見出して、本当に自分らしく生きることを願っているのです。しかし「本当の自分」など、そう簡単に見つかるものではありません。だから本当に自分らしく生きるとはどのように生きることかもなかなか分かりません。「自分らしさを追求するために」みたいな言い方がよくコマーシャルに出てきます。「自分らしく生きる」ことにこそ価値があると思われているのでそういうキャッチコピーが流行るわけですが、コマーシャルはモノを売ろうとしているのであって、「これを手に入れればあなたは本当に自分らしく生きることができる」と言っているのです。でもそんなことあるわけありません。本当の自分とか自分らしさが、持っているもの、服やアクセサリーやあるいは住んでいる家などによって得られるはずはありません。ではどうすれば本当に自分らしく生きることができるのか。多くの人はそのために自分の好きなことを熱心に追求しています。スポーツだったり、旅行だったり、いろいろな趣味の活動だったり、体造りだったり、あるいは何かのボランティア活動だったり、それをすることによって自分が喜んで生き生きと生きることができることに打ち込んでいる。仕事をするのは生きていくための収入を得るためであって、人生の目的はその好きなことをすることだ、というのが今最もトレンディーな生き方なのかもしれません。そのように自分の好きなことに熱中して生きていれば、本当の自分であることができ、本当に自分らしく生きていると実感できるのかもしれません。しかしそのように生きることができる人はほんの一握りでしょう。大多数の人は、自分と家族の生活のために、好きなこと、やりたいことを我慢して働かなければならない、好きなことのために使える時間は僅かしかない、という日々を送っているのではないでしょうか。つまり私たちの多くは、自分自身のために生きたい、本当の自分を見出して、本当に自分らしく生きたいと願っているけれども、それが十分にできずにいるのです。

人と自分を比べてしまう私たち
 そして今申しましたこととも関係するのですが、自分自身のために、本当に自分らしく生きることを妨げているもう一つの要因があります。それは、私たちがどうしても他の人と自分とを比べてしまうということです。自分自身のために、自分らしく生きることは、他の人がどうであっても関係ないはずなのですが、そうはいかない。私たちは人それぞれみんな違う者として生きています。体力や健康においても違いがあるし、生まれ育った環境も違っているし、生まれつき与えられている能力や才能も違っています。その中でそれぞれが自分のために、自分らしく生きようと努力していくわけですが、人によって出来ることが違う、という現実があります。あの人には簡単にできることが自分にはとても難しい、ということがあります。能力は違わないはずなのに、それを生かす機会があの人には多く与えられているのに自分はそうではない、と感じることもあります。そういう世の中の不公平な現実に直面する中で、自分自身のために、自分らしく、前向きに積極的に生きる気持ちが萎えてしまうことも起ります。言い換えれば、自分を愛することができなくなり、自分が自分であることを喜べなくなるのです。先ほど申しましたように、自分のために生きるとは、自分を愛して生きることです。自分を愛することができなくなると、自分のために生きることもできなくなるのです。

 このように私たちは、基本的に自分自身のために生きようとしているし、聖書もそのことを決して禁じてはいません。むしろ、自分自身をちゃんと愛して、大切にして、自分のために生きなさいと教えているのです。しかし私たちは、自分自身のために生きることにおいていつも不足を感じている。本当に自分のために、自分らしく生きることができずにいるのです。

タイムリミット
 そしてもう一つ、たとえば私たちが幸運なことに豊かな能力を与えられており、周囲の条件も整えられていて、望んでいる生き方ができたと仮定しても、つまり本当に自分らしく自分のために生きることができたとしても、私たちはその生活をいつまでも維持することはできません。私たちの人生には限りがあるのであって、誰もが次第に年をとっていくのです。それに伴ってだんだんに、それまでできていたことができなくなっていくのです。自分の好きなことに熱中してそこに自分らしさを見出していたとしても、その自分らしさは次第に失われていくのです。そして最後には、命が、人生そのものが失われる。そのことを私たちは免れることができません。「生きる」ことそのものができなくなる死においては、「自分自身のために生きる」ことは全くできなくなるのです。私たちの人生はそこへと向っています。自分自身のために生きる私たちの命には、タイムリミットがあるのです。

聖書の語りかけ
 自分自身のために生きることを願って、そのために努力しているけれども、それがなかなかできずにいる。たとえそれができたと思っても、その命そのものが失われる時が必ず来る。私たちはそういう嘆きの中にいます。その私たちに対して、聖書が本日の箇所で語りかけていることをご一緒に聞きたいと思います。本日の箇所の15節には、「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあります。「その一人の方」というのは、イエス・キリストのことです。イエス・キリストは「すべての人のために死んでくださった」。それはイエス・キリストが十字架にかかって死んだことを指しています。イエス・キリストの十字架の死は、すべての人のための死、つまり、キリストは私たち全ての者の救いのために十字架にかかって死んだのだ、と言っているのです。これが、聖書全体のメッセージの中心です。神による救いは、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって与えられている、と聖書は告げているのです。本日の箇所も、そのことを私たちに語りかけているのです。この語りかけを聞くことによって私たちは、本当に自分自身のために生きることができるようになる。本当の自分を見出して、自分らしく生きることができるようになる。本日はそういうことを皆さんにお話ししたいと思っているのです。

この私のために死んでくださったキリスト
 イエス・キリストが「すべての人のために死んでくださった」とこの15節には語られています。しかし「すべての人のために」ではその意味がまだ十分には伝わりません。15節の後半には、キリストは「自分たちのために死んで」くださったと語られています。「すべての人のために」とは「自分たちのために」ということであり、さらには「この私のために」ということです。キリストがこの私のために死んで下さったのです。それは、先ほどからのお話の流れで言うならば、イエス・キリストこそが、誰よりも深く徹底的に私たちのために生きて下さった方だった、ということです。私たちは自分自身のために生きようとしているけれども、なかなかそれができません。そのために必要だと思うものを十分に得ることができないことが多いし、人と比べてしまうことによって「どうせ自分などダメだ」と思ってしまうこともあります。また私たちが自分自身のために生きるその命にはタイムリミットがあって、それはいつか失われていきます。しかしその私たちのために、キリストが死んでくださったのです。それはキリストが私たちのためにご自分の命を与えてくださったということです。つまりイエス・キリストは、私たちが自分のために生きているよりもはるかに深く徹底的に、私たちのために生きて下さったのです。しかもイエス・キリストは、私たちのために「死んで復活してくださった」とこの15節にあります。死者の復活と言われてもにわかに信じることはできないでしょうが、このことが意味しているのは、イエス・キリストが私たちのために生きて下さり、ご自分の命を与えて下さった、そのキリストの命は、死によって終わってしまったのではなくて、キリストは死を乗り越えて今も生きている、ということです。つまり、私たちのために命すら与えて下さったイエス・キリストの命には、タイムリミットはない、ということです。イエス・キリストがすべての人のために、そしてこの私のために死んで復活して下さったということによって聖書は、イエス・キリストが、私たち自身よりもはるかに深く徹底的に、私たちのために生きて下さり、ご自分の命をすら与えて下さった。そして、死をも乗り越えて今も私たちのために生きて下さっていると告げているのです。つまり、イエス・キリストが私たちのことを徹底的に愛して下さっている、ということです。

自分のために死んで復活して下さった方がおられる
 この語りかけを聞いて、それを信じるなら、私たちは、本当に自分自身のために生きることができるようになります。それは、本当に自分のために生きて下さり、生きただけでなく死んで下さり、そして復活して今も生きている方がおられることを知らされるからです。自分はイエス・キリストに、そしてイエスをこの世に遣わして下さった父なる神に、深く徹底的に愛されているのだということを知らされるからです。自分自身のために生きるとは、自分を愛して生きること、自分が自分であることを喜んで生きることだと申しました。私たちが自分自身を愛し、自分が自分であることを喜ぶことができるようになるのは、イエス・キリストがこの自分のために死んで復活して下さったほどに、自分を愛して下さっていることを知らされることによってなのです。私たちは、自分では自分のことをなかなか愛することができません。自分を愛して自分のために生きようとする中で、あれがない、これがないといろいろな不足を感じずにはおれないし、人と自分とを比べることによってますます自分の不足が大きく見えてきて、妬みの思いに捕えられて、喜びを失っていきます。そうなると、自分の好きなことにいくら熱中しようとしても、それは気休めにしかならず、本当に喜んで自分らしく生きることはできないのです。そのような私たちに、聖書は、「あなたのために死んで下さったほどに、あなたを愛している方がおられる。その方は復活して今も生きておられ、あなたを愛しているのだ」と告げているのです。

キリストの愛によって私たちは解放される
 この「一人の方」つまりイエス・キリストと出会い、この方の愛を受け入れて、この方と共に生きること、それが、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること」です。その時私たちは、自分のために生きようとする中で感じているいろいろな不足、欠けから解放されるのです。あれがない、これが不足している、と思っていたものが、自分のために本当に必要なものではなかったことに気付かされ、むしろそれ以上に豊かなものを神がキリストによって与えて下さっていることに気付かされるのです。また私たちはこのイエス・キリストと共に生きることによって、本当の自分を見出して自分らしく生きなければ、という呪縛からも解放されます。本当の自分とは、イエス・キリストが死んで復活してくださったほどに、キリストに愛されている自分なのだ、ということを示されるからです。キリストの愛を受け、キリストと共に生きるところにこそ、本当の自分があり、そこでこそ本当に自分らしく生きることができることに気付かされるのです。私たちは、自分でいくら探し回っても本当の自分を見つけ出すことはできません。本当の自分は、キリストが自分を愛して下さっていることを知るところに与えられるのです。そしてキリストの愛に気付かされるなら、人と自分とを比べることからも解放されます。人との比較によって自分の価値が上がったり下がったりすることはないことが分かるからです。イエス・キリストが、この自分のために死んで復活して下さった、神がそれほどまでに自分を愛して下さって、「あなたは私にとって大切だ」と告げて下さっているのです。

もはや自分自身のために生きるのではなく
 このようにして私たちは、私たちのために死んで復活して下さったイエス・キリストとの出会いによって、それまで自分のために生きようとする中で感じていた不足や、自分らしく生きなければという呪縛や、人と比べることによって生じるどす黒い妬みの思いなどから解放されるのです。それが、「もはや自分自身のために生きるのではなく」ということです。つまりそれ以前に自分自身のために生きていた自分はもう死んでしまって、新しく、キリストの愛を受け、キリストと共に生きる自分が生まれるのです。14節に「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります」とあるのはそのことを言っているのです。イエス・キリストが私たち全ての者のために十字架にかかって死んで下さったことによって、自分自身のために生きようとして生きられずに苦しんでいた古い私たち、自分を愛することができず、自分が自分であることを喜ぶことができずにいた古い私たちが死んでしまって、そしてイエス・キリストの復活によって、キリストに愛されて、キリストと共に生きる新しい私たちが生まれたのです。その新しい私たちは、キリストに愛されている自分を愛し、キリストに愛されている自分であることを喜び、そこに本当の自分を見出して感謝しつつ、本当に自分らしく、自分自身のために生きていきます。そして同じようにキリストに愛されている隣人をも愛して、隣人と共に生きていくのです。

本当に自分のために、本当に自分らしく生きる
 私たちは誰のために生きるのか。神の子イエス・キリストがこの私のために生きて下さり、死んで復活して下さったがゆえに、私たちはこのキリストの愛を受けて、キリストと共に、キリストのために生きていきます。それによって、本当に自分自身のために、自分を愛して、本当に自分らしく生きることができます。そして自分を愛するのと同じように隣人を愛して、隣人のためにも生きていきます。そういう新しい人生へと、神はすべての人々を、私たち一人ひとりを、招いて下さっているのです。

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