夕礼拝

聖霊の助けと執り成し

「聖霊の助けと執り成し」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第139編1-10節
新約聖書 ローマの信徒への手紙第8章26-27節

聖霊の働きによって教会は生まれ、導かれている
 聖霊降臨日、ペンテコステを迎えました。十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストは、使徒言行録によれば、四十日に亘って弟子たちに現れてくださり、父なる神様が約束された聖霊を待つように、とお語りになりました。その後、主イエスは天に昇られ、それから十日目に、つまり復活から五十日目に、聖霊が弟子たちの上に降り、弟子たちは力を与えられ、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを語り始めたのです。ペンテコステの出来事が記されている使徒言行録2章は、弟子の一人のペトロが聖霊に満たされて語った説教を聞いて、三千人ほどの人たちが洗礼を受け、仲間に加わった、と記しています。ここに教会が誕生しました。聖霊のお働きによって、神様によって招かれ、洗礼を受け、罪を赦された者たちの群れである教会が誕生したのです。このように教会は聖霊のお働きによって誕生し、そして今日に至るまで、その歩みを導かれてきました。今年度、創立150周年を迎える指路教会の歩みも、聖霊のお働きによって導かれ、支えられ、守られてきたのです。

聖霊の働きによって信仰生活はある
 しかし聖霊は、教会を生まれさせ、教会を導くだけではありません。聖霊は、父なる神様や子なるイエス・キリストと比べると分かりにくい、と言われることがあります。確かに世界を創造され、今もその世界を保持してくださっている父なる神様や、私たちの救いのために十字架に架かって死んでくださったイエス様と比べると、聖霊はとらえどころがない面があるのかもしれません。しかし聖霊は私たちにとって、とても身近な存在です。教会も聖霊に満ちていますが、私たちの信仰生活も聖霊に満ちているのです。別の言い方をすれば、聖霊のお働きなしには、私たちの信仰生活はあり得ません。もしかしたら聖霊の存在と働きが身近すぎるので、逆に私たちは聖霊がよく分からない、と感じるのかもしれません。このペンテコステの夕べに私たちは、ローマの信徒への手紙8章26、27節から、ペンテコステに降り、教会を生まれさせ、導いている聖霊が、私たちの日々の歩みに、私たちの信仰生活にも絶えず働いてくださっていることを示されていきたいのです。

私たちの弱さ
 26節の冒頭に、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」とあります。聖霊が弱い私たちを助けてくださる、と言われているのです。「弱い私たち」は、直訳すれば「私たちの弱さ」となります。そしてこの場合の「私たちの弱さ」とは、人間というのは所詮弱い存在だ、というような誰にでも当てはまる人間の弱さを言っているのではありません。キリスト者の弱さ、信仰者の弱さを言っているのです。この手紙を書いたパウロは、キリストの十字架と復活による救いを信じ、洗礼を受け、キリストと結ばれ、神の子とされているにもかかわらず、私たち信仰者は弱い、ということを認めているのです。その弱さとは、どのような弱さでしょうか。先ほど、この場合の「私たちの弱さ」とは、誰にでも当てはまる人間の弱さを言っているのではないと申しました。しかし私たち信仰者の弱さは、誰にでも当てはまる人間の弱さとも重なります。このことは私たちが洗礼を受け、キリスト者になったからといって、人間の弱さを克服することができるのではない、ということでもあります。クリスチャンになったら、自分の弱さに打ち勝つ強さを手に入れられるのではないのです。クリスチャンになっても、いぜんとして私たちの弱さは残り続けるのです。

心身の弱さ
 私たちには身体的な弱さがあります。歳を重ねることによって体が衰え、できなくなることが増えていくとき、自分の体の弱さを感じます。突然の怪我や病に直面したり、治らない病や障がいを抱えていたりすれば、身体的な弱さを感じないわけにはいきません。なにより私たちは誰もが地上の生涯の終わりである死に向かって歩んでいます。なにもできなくなり、持っているものをすべて手放さなくてはならない死こそ、私たちの究極の弱さである、と言えるのではないでしょうか。そこまでのことでなくても、頭や歯や腰が痛かったりするだけでも、私たちはいつも通り生活ができなくなってしまうことがあります。そのようなとき私たちは自分の体の弱さを感じずにはいられないのです。また、私たちには心の弱さもあります。苦しみや悲しみや悩みを抱えることによって、私たちの心は弱ってしまいます。不安や恐れに駆られて、心が乱されることも少なくありません。人間関係の破れを抱え、相手の言動が気になってしまって心が落ち着かない、ということもあるでしょう。私たちの心はとても脆く、弱いのです。体と心の弱さを分けてお話ししましたが、実際は分けられるものではありません。体が弱くなれば心も弱くなるし、心が弱くなれば体も弱くなるのです。私たちの心と体の全体が弱さを抱えているのです。パウロは、洗礼を受け、神の子とされたキリスト者は、そのような心身の弱さを克服できる、あるいは心身の弱さから解放される、とは言いません。この箇所の前、8章18~25節では、キリスト者が苦しみ、呻いていると言われていましたし、ほかならぬパウロ自身が、身体的な弱さを抱えていた、と考えられています。パウロは別の手紙で、自分の「身に一つのとげが与えられ」ていて、そのとげが取り除かれるように、「三度主に願いました」と、記しています。「三度」というのは、三回だけということではなく、何度もという意味です。パウロは自分の弱さが取り除かれることを何度も何度も神様に祈ったのです。パウロ自身が弱さを抱え、苦しみの中で呻きながら歩んでいたに違いありません。ですから聖霊が「弱いわたしたちを助けてくださいます」、とパウロが言うとき、それは他人事として言っているのではなく、自分が経験していることとして、聖霊が私たちキリスト者の弱さを助けてくださる、と言っているのです。

祈れない弱さ
 このように私たちは様々な心身の弱さを抱えていますが、しかしこの箇所でなによりも見つめられている弱さは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」とあるように、私たちが祈れない、という弱さです。この弱さは、誰にでも当てはまる人間の弱さではなく、まさに私たちキリスト者の弱さ、信仰者の弱さです。洗礼を受け、キリストに結ばれ、父なる神様の子とされたのに、その父なる神様に祈れなくなる、という私たち信仰者の弱さが見つめられているのです。「どう祈るべきかを知りませんが」というのは、祈りの作法が分からない、という意味ではありません。子どもたちが集まる教会学校では、どのようにお祈りしたら良いか分からない子どももいるので、お祈りの初めには「天の神様」と呼びかけ、終わりには「イエス様のお名前によってお祈りします、アーメン」と言うように、と教えることがありますが、そういうお祈りの仕方が分からない、ということが言われているのではありません。「どう祈るべきかを知りませんが」というのは、「何を祈るべきなのか、何を祈ったら良いのか分からない」、「何のために祈るべきなのか分からない」、ということなのです。私たちは深い苦しみや悲しみの中で、何を祈ったら良いのか分からなくなることがあります。あるいは深い絶望のために、何のために祈るべきなのか分からなくなり、祈ることに意味がないように思ってしまうこともあります。私たちの祈りは、独り言ではありません。私たちは神様に祈るとき、神様の方を向いて、神様に語りかけます。つまり祈りは神様との対話であり、交わりであり、コミュニケーションなのです。ですから私たちが何を祈ったら良いのか分からないというのは、ただ祈りの言葉が出てこない、というだけでなく、神様の方を向けなくなる、神様との交わりが持てなくなる、ということです。深い苦しみや悲しみによって、私たちは祈れなくなり、神様の方を向けなくなり、神様と交わりを持てなくなることがあるのです。それだけでなく深い絶望によって、私たちは何のために祈るべきなのか分からなくなり、祈ることに意味がないように思え、神様の方を向くのではなく、神様からそっぽを向き、神様と交わりを持つことを拒んでしまうこともあります。絶望のあまり祈らなくなるということも起こるのです。先ほども見たようにこの箇所の前、8章18~25節では、キリスト者が苦しみ、呻いている、と言われていました。そのような苦しみと呻きの中で、私たちキリスト者は「何を祈ったら良いのか分からなくなり」、「何のために祈るべきなのか分からなくなり」、神様の方を向けず、神様との交わりを持てなくなってしまうのです。
 8章25節には「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とありましたが、祈れなくなるとは、そのように忍耐して待ち望むことができなくなる、ということでもあります。苦しみと呻きの中で、目に見えない神様に祈ることにより頼んで、忍耐して待ち望むことができなくなり、目に見える世の様々なものに逃避したり、頼ったりしてしまうのです。そのような私たちキリスト者の弱さ、信仰者の弱さこそが、この箇所でなによりも見つめられています。洗礼を受けて救いにあずかり、神様に愛されている者として、神様を愛し、神様と交わりを持って生きるよう、新しく生き始めたにもかかわらず、私たちは苦しみや悲しみ、絶望の中で、神様を愛せず、神様と交わりを持てず、神様から離れてしまう、そのような弱さを抱えてしまっているのです。

聖霊が代わって祈ってくださる
 そのような弱さを抱えている私たちを、聖霊は「助けてくださいます」と言われています。この「助ける」と訳されている言葉は、三つの言葉が組み合わさっている言葉です。「共に」と「代わって」と「取る」です。呻くような苦しみの中で、祈ることができなくなり、神様から離れてしまう弱い私たちを聖霊は見捨てることがありません。聖霊はそのような私たちと「共に」いてくださり、私たちに「代わって」祈ってくださり、私たちの祈りを受け取って、神様に届けてくださるのです。私たちは自分の信仰生活が順調なときには、聖霊の働きかけによって自分が導かれ、支えられ、守られている、と信じられます。しかし祈ることができず、神様から離れてしまい、自分の信仰生活が滞ってしまっているときには、そのようなどうしようもない自分に聖霊が働きかけてくださるとは思えないし、思ってもみないのです。しかし聖霊はまさにどうしようもないとしか言えないような状況にある私たちに働きかけてくださっているのです。神様から離れてしまっている私たちと、聖霊は共にいてくださいます。神様に祈れなくなっている私たちの代わりに、聖霊が祈ってくださいます。何を祈ったら良いのか、何のために祈るべきなのか分からなくなっている私たちの祈りを引き取って、神様に届けてくださるのです。私たちにとってこれほど大きな慰めがあるでしょうか。父なる神様に祈ることは、私たちの信仰生活の基本の基(きほんのき)とも言うべきものでしょう。それすらできなくなってしまい、そのようでは駄目だ、そのようでは信仰者に、キリスト者にふさわしくない、と言われても仕方のない私たちを、聖霊は見捨てることなく、見放すことなく、助けてくださるのです。実は、そのようでは駄目だと思っているのは私たち自身ではないでしょうか。神様に祈れず、神様から離れてしまう自分を自分で裁いてしまっているのです。そうやって苦しみと呻きの中で、祈ることすらできなくなる自分自身を見放してしまうような私たちと、聖霊は共にいてくださり、私たちに代わって祈ってくださり、私たちの祈りを引き取って、神様に届けてくださるのです。

聖霊が代わって重荷を負ってくださる
 聖霊が弱い私たちを助けてくださるとは、聖霊が私たちに代わって祈ってくださる、ということだけでなく、私たちを祈れなくする苦しみや悲しみや悩みをも、聖霊が代わって負ってくださる、ということでもあります。祈れなくなるような、神様から離れてしまうような苦しみや悲しみや悩みを負って歩んでいる私たちと、聖霊は共にいてくださり、それらの重荷を私たちに代わって負ってくださり、それらの重荷を私たちから引き取ってくださるのです。私たちはこのことになかなか気づけません。自分一人で重荷を負って、自分一人で苦しみ、呻いているように思っています。しかし本当は、私たちは一人で重荷を負っているのでも、一人で苦しみ、呻いているのでもないのです。私たちの傍らにいてくださる聖霊が、私たちの重荷を私たちに代わって負ってくださり、私たちから引き取ってくださっているのです。だからといって、私たちの苦しみや悲しみや悩みがなくなってしまう、というわけではありません。それでも私たちの苦しみや悲しみや悩みは自分一人のものではなく、聖霊が共に負ってくださっているのです。聖霊は、苦しみ、呻いている私たちをまるごと引き受けて、私たちの重荷を共に負ってくださっているのです。

聖霊は私たちの呻きを呻いてくださる
 だから、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と言われています。聖霊が、「言葉に表せないうめきをもって」、と言われているのは、聖霊が、苦しみの中で言葉に表わすことができずに呻いている私たちと共にいてくださり、私たちに代わって呻いてくださるということです。聖霊は私たちの呻きを、私たちと共に、私たちに代わって、呻いてくださっているのです。そして聖霊が、私たちの呻きを受け取って、神様に届けてくださるということが、聖霊が「執り成してくださる」ということです。聖霊が、私たちのために、私たちの代わりに、私たちの祈りを引き取って、神様に届けてくださることによって、聖霊は執り成してくださるのです。

聖霊の思いを神は知っておられる
 27節の前半には「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」とあります。神様は「人の心を見抜く方」です。それは恐ろしいことのように思えます。私たちが口には出せないような思いや、ほかの人には隠しているような思いを、神様はすべてご存知でおられるからです。私たちの心には人には知られたくない、自分自身ですら気づきたくないような醜い思いが満ちいています。そのような醜い思いを神様がご存知であるなら、私たちは神様を恐れるしかないように思います。しかしここでは、「人の心を見抜く方」である神様が、「人の思い」が何であるかを知っておられます、と言われているのではありません。私たちの心を見抜く神様が、私たちの人に隠している醜い思いをすべて知っておられ、それゆえに私たちを裁く、と言われているのではないのです。そうではなく、「人の心を見抜く方」である神様が、「“霊”の思い」、「聖霊の思い」が何であるかを知っておられます、と言われています。その「“霊”の思い」、「聖霊の思い」とは、どのような思いでしょうか。それは、27節の後半に、「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」とあるように、「聖なる者たちのために執り成してくださる」という思いです。「聖なる者」とは、清く、敬虔に生きている者ではありません。自分の心に神様にもほかの人にも知られたくないような醜い思いを何一つ持っていない人が、「聖なる者」なのではありません。そうであれば、「聖なる者」など一人もいないのです。「聖なる者」とは、神様によって選び分かたれた者、という意味です。なんの理由もないのに、なんの手柄もないのに、ただ一方的な神様の恵みによって選ばれ、信仰を与えられ、洗礼を受けて、神様のものとされ、神の子とされた人が「聖なる者」なのです。つまり「聖なる者」とは、私たちキリスト者、信仰者のことです。ですから聖霊の思いは、私たち信仰者を執り成してくださることにあるのです。それは、26節で見てきたように、聖霊の思いが、呻くような苦しみの中で、祈ることができなくなり、神様から離れてしまう私たちと共にいて、私たちに代わって祈り、私たちの祈りを引き取って、神様に届けてくださることにある、ということにほかなりません。聖霊は、ほかの人には決して言えないような、自分自身でも気づきたくないような醜い思いを抱えている私たちを見放すことはありません。聖霊は、醜い思いによって祈りの言葉も醜くなってしまい、醜い思いによって神様からそっぽを向き、神様に背いてしまう私たちと共にいて、私たちに代わって祈り、私たちの祈りを神様に届けて、執り成してくださるのです。その聖霊の思いを神様がご存知でいてくださるなら、神様が「人の心を見抜く方」であることに、私たちは恐れることはありません。むしろ私たちは、神様が聖霊の思いを知り、私たちのすべてを知っていてくださることに、安心することができます。聖霊の思いをご存知でいてくださる神様は、醜い心を抱え、神様から離れ、神様との交わりを拒んでしまう私たちを、決して見捨てることなく、見放すことなく、愛してくださるからです。共に読まれた旧約聖書詩編139編では、自分のすべてを知り、すべてを究めてくださっている神様への信頼を、詩人が詠っています。7~10節では、このように言われています。「どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」詩人はどこに行っても、神様が共におられ、自分を知っていてくださることを恐れているのではありません。どこに行っても、神様が御手をもって自分を導いてくださり、とらえていてくださっていることに信頼し、感謝しているのです。私たちもどこに行っても、私たちのすべてを知り、すべてを究めてくださる神様が共にいて、導いてくださっていることに信頼し、歩んでいきます。その歩みには、どんなときにも神様の御手の内にある、というまことの平安が与えられるのです。だから私たちは、私たちのために執り成してくださる聖霊の思いを、神様がご存知でいてくださることに安心することができるのです。

聖霊の助けと執り成し
 私たちは聖霊の助けと執り成しによって支えられ、様々な自分の弱さを抱えつつも、日々の信仰生活を送ることができています。私たちキリスト者は、洗礼を受け、キリスト者となったから、自分の弱さに打ち勝って生きられるようになったと信じる者ではありません。そうではなく、キリスト者となってなお弱い自分を聖霊が助けてくださり、執り成してくださることを信じて生きる者なのです。そして聖霊の助けと執り成しを信じて生きるとき、私たちは呻くような苦しみの中で、自分では祈ることができず、神様の方を向くことができず、神様から離れてしまうようなときにも、なお聖霊の助けと執り成しによって祈ることができるのです。聖霊が私たちと共にいてくださり、私たちの代わりに祈ってくださり、私たちの祈りを引き取って、神様に届けて、執り成してくださるからです。苦しみや悲しみや悩みの中にあって、絶望すらしかねない状況にあっても、聖霊の助けと執り成しによって祈ることができるならば、私たちは決して絶望することなく、希望を持って忍耐して生きることができるのです。目に見えない希望を、将来、救いの完成にあずかり、復活と永遠の命にあずかるという希望を、忍耐して待ち望んで生きることができるのです。ペンテコステに降った聖霊が、今も私たちに降り、その助けと執り成しによって、私たちは呻くような苦しみのときも、絶望することなく、希望を持って生きることができるのです。

関連記事

TOP