説教題「主イエスの死」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第22編1-32節
新 約 マルコによる福音書第15章21-32節
激しく揺れ動く思い
本日は「棕櫚の主日」、今週は「受難週」です。主イエス・キリストが、そのご生涯の最後にエルサレムに入られたこと、その時に人々が棕櫚の枝を振って喜び迎えたことを記念するのが「棕櫚の主日」です。そのことはヨハネ福音書の第12章にありますが、今は「棕櫚」ではなくて「なつめやし」と訳されています。いずれにせよそれは人々が主イエスを喜んで迎えたことを示しています。しかしその週の内に主イエスは捕えられ、ユダヤ人の最高法院とローマ総督ピラトのもとで裁かれました。数日前に主イエスを喜び迎えた群衆は、今度は「十字架につけろ」と叫び、ピラトはその声に押されて死刑を言い渡しました。そして金曜日に主イエスは十字架につけられたのです。この受難週における人々の思いの落差の激しさには唖然とさせられます。しかし私たちの主イエスに対する思いも、それと同じように激しく揺れ動いているのではないでしょうか。数日前までは「イエスさま、感謝します」と言っていたのに、何か嫌なこと、つまずきを覚えることがあると、途端に冷めてしまって、「イエスなんか関係ない、どうでもいい」と思ってしまう、それが私たちの現実です。受難週のエルサレムの人々の姿は私たち自身の姿でもあるのです。
主イエスの苦しみを覚えたい
しかしそれでも私たちは、もう一ヶ月以上レント(受難節)の日々を歩んできました。主イエスの十字架の苦しみと死とを覚えてきたのです。日々そのことをしっかり意識して歩んできたかと問われたら、「ごめんなさい」と言わざるを得ないかもしれません。いろいろなことに対応しなければならない忙しい生活の中で、主イエスの苦しみと死にいつも思いを向けているのは難しいことです。修道院にでも入っていないと、それは不可能だと言えるでしょう。だからこそ修道院というものが存在しているのでしょうが、修道士ではない私たちは、せめてこの棕櫚の主日の礼拝において、主イエスの苦しみと死をしっかりと覚えたいのです。
既に衰弱しておられた主イエス
そのために本日は、マルコによる福音書から、主イエスの十字架の苦しみをストレートに語っている箇所を読みます。15章21節からですが、ここは、主イエスがピラトによって死刑の判決を言い渡され、兵士たちによって処刑場であるゴルゴタ、「されこうべの場所」へと引いて行かれ、そこで十字架につけられた、という場面です。本日の箇所の最初の21節には、兵士たちが、通りかかったシモンという人に主イエスの十字架を無理に担がせたと語られています。十字架の死刑は、死刑囚に自分がつけられる十字架を担がせて処刑場まで歩かせることから始まるのですが、主イエスはこの時既に十字架を担いで歩くことができないくらい弱っておられたのです。15節で死刑の判決を受けてから、主イエスは鞭打たれ、そして兵士たちに引き渡されました。兵士たちは主イエスに紫の服を着せ、茨の冠をかぶせて王に見立てて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼して笑い物にしました。それから、何度も葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりして侮辱しました。つまり主イエスは、肉体的にも精神的にも虐待と侮辱を受け、それによってこの時にはもう、十字架を背負って歩くことができないくらい衰弱しておられたのです。
仕事として行われる虐殺
さて、処刑場であるゴルゴタ、されこうべの場所に着くと、兵士たちは主イエスに、没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとした、と23節にあります。このぶどう酒は、十字架につけられる痛みと苦しみを和らげてやるための麻酔のようなものだったと思われます。しかし主イエスはそれをお受けになりませんでした。つまり主イエスは、感覚を麻痺させたり、痛みを和らげたりする措置を拒んだのです。主イエスがご自分から十字架の苦しみを余すところなく引き受けようとしておられたことがここに示されているのです。
24節には「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて」とあります。さらりと語られていますが、十字架につけるとは、手と足を太い釘で十字架に打ち付けて、その十字架を立てて晒しものにして、痛みと出血によって弱って死んでいくのを待つということです。それはまことに残酷な、想像しただけで身震いするような場面なのです。だからその後の「その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」との落差にも驚かされます。主イエスが十字架の上で壮絶な苦しみの中にある、その下では、兵士たちが主イエスから剥ぎ取った服をくじ引きで分け合っているのです。主イエスを十字架につけたことを彼らは何とも思っていません。別に主イエスが憎くて殺してやろうと思っているわけではない。彼らは上官に命じられたことを行なっているだけであり、この嫌な勤めの見返りとして認められている多少の役得にあずかっているだけなのです。残酷な虐殺が仕事として事務的に行われている、それはまことに恐ろしいことであり、殺される者の苦しみをますます大きくします。そういうことがこの世界でしばしば行われていることに目を向けなければなりません。
ユダヤ人の王
25節には「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」とあります。息を引き取られたのは34節にあるように午後三時ですから、主イエスは六時間、十字架の上で苦しみ続けたのです。それは肉体的苦痛が六時間続いたというだけではありませんでした。26節には、「罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書いてあった」とあります。これはピラトが掲げた罪状書きです。ユダヤ人の祭司長や長老たちは、自分たちで処刑する権限がないので、この男は「ユダヤ人の王」と自称してローマ帝国に叛逆している、と言ってピラトに訴え出たのです。ピラトはイエスにそんな嫌疑は見出せませんでしたが、人々の「十字架につけろ」という声によって死刑を言い渡しました。意に沿わない判決を下さざるを得なかったことへの腹いせに彼はこの罪状書きを掲げさせたのでしょう。それはユダヤ人たちへの、お前たちの王がこうして十字架につけられているぞ、というあてこすりです。征服者であるローマ帝国の総督ピラトとユダヤ人たちとの間のこのような対立の中で、主イエスは十字架につけられたのです。
神殿を打ち倒し、三日で建てる者
27節には「また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた」とあります。その後には28節がなくて、代わりにダガーという短剣のマークがあります。このマークは、28節がない写本もあるので、本文から外してある、という印です。外された28節はマルコ福音書の本文の後、98頁の最後のところにあります。「こうして、『その人は犯罪人の一人に数えられた』という聖書の言葉が実現した」。こういう説明の文が後から書き加えられたのだろう、ということです。この28節は、主イエスが二人の強盗と一緒に十字架につけられたことを意味をはっきり示しています。主イエスはまさに、犯罪人、強盗たちと一緒にされたのです。しかも主イエスの十字架を中心として二人の強盗が右と左に十字架につけられたということは、主イエスが強盗たちの親玉として扱われているということです。主イエスは強盗たちの一人しかも親玉として、六時間、十字架の上で晒しものにされたのです。さらに29、30節には、「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』」とあります。十字架につけられて苦しんでいる主イエスを人々はののしったのです。14章58節には、最高法院での裁判において、主イエスが「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」と言ったという証言がなされたことが語られていました。ヨハネ福音書の第2章に、確かに主イエスがそういうことを語られたことが記されています。しかしそれは神殿を破壊しようとしているということではなくて、ご自分の十字架の死と三日目の復活によって、人々が神のみ前に出て礼拝することができるようになる、ということを語っておられたのです。しかしそれが神殿を冒涜する発言とみなされ、主イエスをののしる材料とされたのです。エルサレムの神殿は、主イエスが破壊しなくても、数十年後にはローマ帝国によって徹底的に破壊されてしまいました。神殿における礼拝はそれによって失われ、今や主イエスの十字架と復活によって築かれたキリストの体である教会こそが、私たちが神を礼拝する場となっています。主イエスのおっしゃったことはその通りになったのです。
今すぐ十字架から降りるがいい
しかし主イエスは、神殿を冒涜している、とののしられただけではありません。このののしりはむしろ、「神殿を三日で建てると豪語しているお前が、なぜ惨めに十字架につけられているのだ、それだけの力があるなら、十字架から降りて自分を救えるはずではないか」ということです。31、32節には「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』」とあります。これが、十字架につけられた主イエスに浴びせられたののしりの中心です。「お前は病気の人を癒したりして、何人かの人を救ったようだが、自分が十字架につけられて死ぬのでは何にもならないではないか。お前がメシアつまり救い主、そしてイスラエルの王なら、まず十字架から降りて自分を救って見せろ。そうしたら信じてやる。それができずに十字架の上で死んでいくお前は、救い主でもイスラエルの王でもない。お前は結局のところ誰も救うことができずに惨めに死んでいく愚か者に過ぎないのだ」。つまり主イエスは、これまでの歩みとみ業の全てを無意味な、無駄なことだったと否定するののしりを受けたのです。
強盗たちからすらも
32節の最後には、「一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」とあります。一緒に十字架につけられた強盗たちからもののしられたのです。彼らは何と言ったのか。ルカによる福音書23章にはそれが語られています。ルカは、その内の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったが、もう一人はそれをたしなめて、「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったこと、主イエスがその人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったことを語っています。しかしマルコは、二人共がののしったとしています。つまり彼らは二人共、「お前がメシアなら自分と我々を救え」と言ったのです。自分を救えなくて何が救い主だ、という点では、通りかかった人々や祭司長、律法学者たちのののしりと同じです。それに加えて彼らは、「救い主なら俺たちを救え」と言っています。彼らは強盗をして十字架につけられているのですから、これはまさに「盗人猛々しい」言い草です。主イエスは十字架の上で、このようなののしりを受け続けたのです。それはまさに言葉では言い表せない壮絶な苦しみでした。
私たちこそ主イエスを苦しめている
しかし主イエスに浴びせられたこれらのののしりの言葉は、私たちの心の思いでもあるのではないでしょうか。主イエスが本当に救い主なら、どうして十字架にかかって死んだのか。十字架につけようとする者たちに勝利することによってこそ、神の子、救い主としての力を示すことができたのではないか。十字架につけられて殺されてしまうのでは救い主らしくない。つまり、「自分を救えなくて何が救い主だ」という思いは私たちも抱くのです。また、あの強盗たちの「救い主なら俺たちを救え」という盗人猛々しいののしりを私たちもつぶやきます。主イエスを歓迎したエルサレムの人々が、数日後には「十字架につけろ」と叫ぶようになったのも、彼らが期待していた、ローマ帝国の支配からの解放という救いを主イエスが与えてくれないことが分かったからです。つまり彼らもあの強盗たちと同じように、「お前がメシアなら自分と我々を救え」と思っていたのです。私たちも同じように、何かつらいこと、苦しいこと、つまずきを覚えることがあると、その原因が自分の中にあっても、「苦しんでいる自分を救ってくれないイエスなど救い主ではない」と思い、そして「イエスなんか関係ない、どうでもいい」という思いに陥るのです。そのような私たちこそ、十字架の上で苦しんでいる主イエスをののしっている者だと言わなければならないでしょう。
主イエスの苦しみによってこそ実現した救い
このように私たちは、主イエスの十字架の壮絶な苦しみを、和らげるどころか深めている者です。主イエスはその苦しみを、ご自分から進んで、余すところなく引き受けて下さいました。それが父なる神のみ心だったのです。そのことは、本日共に読まれた詩編第22編から分かります。この詩に、主イエスがののしられたことや、その服がくじ引きによって分けられたことが預言されていたのです。つまり主イエスの十字架の苦しみは、この詩の成就、実現だったのであって、父なる神がそのことを前もって示しておられたのです。主イエスが父なる神み心に従ってこの苦しみを受けて下さったことによって、私たちの救いは実現したのです。私たちは愚かにも、「自分を救えなくて何が救い主だ」などと思ってしまいます。しかしもし主イエスが、敵対する人間たちに勝利して、十字架から降りてきて自分を救ったとしたら、主イエスをののしり苦しめている敵である私たちは、主イエスによって滅ぼされるしかないでしょう。そうでないとしても私たちが救われるためには、自分の力で罪と戦って勝利して、救われるのに相応しい者にならなければならない、ということになるでしょう。自分で自分を救った救い主は、自分で自分を救うことができる者の救い主なのです。罪人である強盗はこの救い主によって裁かれ滅ぼされるしかありません。しかし主イエスは、私たちの罪を全て背負って、私たちに代って、十字架の苦しみと死を引き受けて下さいました。私たちが主イエスをののしり、苦しめている、その苦しみをも引き受けて死んで下さったことによって、私たちの罪の償いをして下さったのです。主イエスが私たちの罪のゆえの壮絶な苦しみを、十字架の上で余すところなく引き受けて、死んで下さったことによってこそ、私たちは自分で自分を救うのではなくて、主イエスによって救っていただくことができるのです。だからこそルカ福音書のあのもう一人の強盗は、主イエスの救いにあずかることができたのです。
主イエスの苦しみを本当に覚えるために
この主イエスの苦しみと死とを覚えて、私たちはこの受難週を歩みます。でも最初に申しましたように、主イエスの苦しみを本当に覚えて日々を過ごすのは簡単なことではありません。それを覚えて歩もう、と思っているだけでは、それを本当に自分のこととして覚えることはできないでしょう。しかし本日の箇所には、主イエスの十字架の苦しみを自分自身のこととして体験した人のことが語られています。それは最初の21節に出て来た、「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」です。彼はたまたま、主イエスがゴルゴタへと引いていかれるところに通りかかったのです。そうしたら兵士たちに、主イエスの十字架を無理やり担がされて、ゴルゴタへと引いていかれる主イエスと共に歩かされたのです。その場にいた多くの人々の中で、たまたま彼が、彼一人が、何の関係もないのに、そういう目にあったのです。しかし彼はこのことによって、主イエスの十字架の苦しみの一端を身をもって体験しました。そのことが、彼の人生を決定的に変えたのです。彼は主イエスの復活後、主イエスを信じる者となりました。シモンという彼の名前が、アレクサンドロとルフォスという二人の息子の名前と共に知られていることがそれを示しています。シモンとその二人の息子たちは、初代の教会においてよく知られていた人だったのです。信仰者となったシモンは、「あの時私は無理やり、主イエスの十字架を担がされて共に歩かされた。そのことによって私は、主イエスの苦しみを、ほんの一部だけれども味わった。この体験によって私は、主イエスがこの自分のために苦しんで死んで下さったこと、十字架にかかって死んだ主イエスこそが自分の救い主であられることが分かったのだ」と語っていったのでしょう。主イエスが自分のために苦しみを受け、死んで下さった救い主であることを本当に覚えることは、このシモンのように、十字架を負って主イエスと共に歩むことによってこそできるのだと思います。私たちは、信仰に生きようとする中で、時として無理やりに、そのように十字架を負わされることがあります。なぜ自分がこんな重荷を負わなければならないのか、なぜ他の人ではなくて自分なのか、と思うことがあります。しかしその重荷を負って主イエスと共に歩むことを通して私たちは、主イエスが自分のために苦しんで下さったことによって実現した救いを知り、それにあずかることができるのです。今まさに、新年度を迎えるための備えがなされており、新年度教会のいろいろな務めを負って下さる方々の任職が行われています。任職がなされる務め以外にも、教会にはいろいろな奉仕があって、それを担って下さる方を今募っています。主のため教会のためにいろいろな奉仕を担うことは、つらいことではなくて、基本的には喜ばしいことですが、しかしそこにはいろいろと大変なこと、苦労することが伴うことも確かにあります。どうして自分がこんなことを担わなければならないのか、と思うことだってあります。しかしそれらを負っていくことの中でこそ私たちは、主イエスが私たちのために引き受けて下さった苦しみの一部を自分自身でも味わい、それを覚えていくことができるのだと思います。そしてその中で私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死による救いを、本当に自分のこととして体験していくのです。