「三位一体の神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章13-14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章16-20節
・ 讃美歌:
三位一体の神
毎週の礼拝で告白している使徒信条に導かれてみ言葉に聞いてきまして、先週でその最後のところまで来ました。8月の後二回の主日、つまり本日と来週には、使徒信条について補足的なことをいくつか語りたいと思います。
使徒信条は、三つの部分から成っている、ということを繰り返しお話ししてきました。第一の部分には父なる神を信じる信仰が、第二の部分には子なる神イエス・キリストを信じる信仰が、第三の部分には聖霊なる神を信じる信仰が語られているのです。私たちはこの信条によって、父なる神と、その独り子イエス・キリストと、聖霊なる神を信じる、と告白しているのです。しかしそれは、父と子と聖霊という三人の神々を信じている、ということではありません。神はお一人であり、唯一の神である、というのが、旧約と新約の聖書全体を貫いている基本的な信仰です。私たちはただ一人の神を信じているのです。しかしその唯一の神が、父と子と聖霊であられることを信じているのです。お一人の神が、父と子と聖霊であられる、それがいわゆる「三位一体」という教えです。三つの部分から成る使徒信条は、三位一体の神への信仰を言い表しているのです。この「三位一体の神」について、本日はみ言葉に聞きたいと思います。
父と子と聖霊の名による洗礼
聖書は、神が父と子と聖霊であられることを語っています。その代表的な箇所が、先ほど朗読されたマタイによる福音書第28章19節です。復活なさった主イエスが、ガリラヤのある山の上で弟子たちに語りかけたみ言葉です。この主イエスのみ言葉をもってマタイによる福音書は閉じられています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活した主イエスが、弟子たちをすべての民のもとへと、つまり全世界へと遣わされたのです。それはすべての民を主イエスの弟子とするため、つまり主イエスによる救いを宣べ伝える伝道のためです。そして人々に、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けるように主イエスはお命じになったのです。教会が洗礼を授けているのはこの主イエスのご命令によってです。そして主イエスはその洗礼を「父と子と聖霊の名によって」授けなさいとおっしゃいました。父と子と聖霊の名によって、しかし三つの洗礼ではなくて、一つの洗礼がさずけられるのです。そこに、神は父と子と聖霊でありつつお一人であることが示されています。三位一体の神の名による洗礼を主イエスは教会にお命じになったのです。
父と子と聖霊による祝福
お一人の神が父と子と聖霊であられることが語られているもう一つの箇所は、コリントの信徒への手紙二の第13章13節です。毎週の礼拝の最後に、私たちはこのみ言葉を聞いています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」。礼拝の最後の祝福派遣の言葉の後半です。ここでは順序が、先ず主イエス・キリストの恵み、次に神つまり父なる神の愛、そして聖霊の交わりとなっていますが、父と子と聖霊なる神の祝福が告げられ、それを受けて礼拝からそれぞれの生活へと遣わされていくのです。しかしそれは三人の神々の祝福ではなくて、お一人の神の祝福です。このように聖書は、神が父と子と聖霊であられ、しかもお一人であられることを語っているのです。
父と子と聖霊が一体となって
父と子と聖霊が言葉として並んでワンセットとして語られているのは、今あげた二つの箇所だけですが、父なる神と独り子主イエスと聖霊が一つとなって働いて下さっており、私たちの救いを実現して下さっていることが語られているところは他にもあります。例えば、ローマの信徒への手紙第8章の9節以下です。9節に「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」とあります。私たちの内に宿って下さっている神の霊、つまり聖霊のことが、キリストの霊と言い換えられています。そして次の10節には「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」とあります。神の霊、聖霊はキリストの霊でもあり、それが私たちの内に宿っていることによって、キリストご自身が私たちの内に宿っておられるのです。そして次の11節には、「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」と語られています。イエスを死者の中から復活させた方、それは父なる神です。その神の霊が私たちの内に宿ることによって、キリストを復活させた父なる神が私たちをも生かして下さるのです。この9?11節をまとめればこうなります。神の霊つまり聖霊は、父なる神の霊であり、同時にキリストの霊でもある。その聖霊が私たちの内に宿って下さることによって、キリストご自身が私たちの内に共にいて下さり、私たちをキリストに属する者として下さる。それによって、父なる神が、キリストを復活させた力をもって私たちをも生かして下さる。このように、父なる神とその独り子主イエスと聖霊は、一体となって、私たちの救いを実現して下さっているのです。三位一体の神による救いが、このように聖書にはっきりと語られています。「三位一体」という言葉自体は聖書にはありませんが、神は父と子と聖霊でありつつお一人であることは聖書から自然に導き出される真理なのです。
聖書が証ししている神
私たちが共に告白している日本基督教団信仰告白はこのことをはっきりと語っています。そこには「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」とあります。神は、独り子主イエス・キリストによって、ご自身を私たちに掲示して下さいました。主イエスによってこそ私たちは神を知り、信じてその救いにあずかることができるのです。そして主イエスによってとは、言い換えれば聖書によってということです。旧約聖書と新約聖書から成る聖書が、主イエスのことを証ししているのです。私たちは、聖書が証ししている主イエス・キリストによって神を知り、信じることができるのです。そして聖書は、神が唯一の神であると同時に父と子と聖霊であると語っています。聖書が語り、示している神は、三位一体の神なのです。神が三位一体であられることは、人間が考えて分かることではありません。人間が考えて思いつく神は、「父と子と聖霊だけれどもお一人」などという分かりにくい、複雑な存在ではなくて、もっと分かりやすく単純な神となるでしょう。そうでなければ人々に伝わらないし、信じてもらえない、と私たちは思うのです。でもそのように人間が考えて分かる神というのは、人間が頭の中で作り出した神であって、この世界と私たちとをお造りになり支配しておられるまことの神ではありません。私たちは、人間が考えて理解した神ではなく、聖書においてご自身を証ししておられる神を信じているのです。聖書はその神が、父と子と聖霊であられるけれどもお一人である、と語っています。だから私たちは三位一体の神を信じるのです。三位一体というのは確かに分かりにくい教えです。でも聖書において神はご自身のことをそのように啓示しておられるのです。私たちは、神が三位一体であることを理解したから信じているのではなくて、聖書を神のみ言葉として受け止めているので、三位一体の神を信じているのです。
使徒信条と洗礼
さて日本基督教団信仰告白にはこのように、「三位一体の神」ということが語られています。しかし使徒信条には、その言葉はありません。見てきたように使徒信条は、父なる神を信ず、その独り子イエス・キリストを信ず、そして聖霊を信ず、と言っているだけで、その三者がお一人の神だ、ということは語っていません。つまり「三位一体」の「三位」のことは語られているけれども、「一体」ということは語られていないのです。それはどうしてなのだろうかと思うわけですが、そのことは、使徒信条がどのようにして生まれたのか、ということと関係があります。使徒信条は、洗礼が授けられる、という教会の営みの中で生まれて来たのです。先ほどのマタイによる福音書28章19節にあったように、主イエスは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」とお命じになりました。教会はこの主イエスのご命令に従って、人々に洗礼を授けていったのです。そこにおいて教会は、洗礼を受けようとする人々に、父なる神とはどのような方なのか、子なる神主イエス・キリストとはどのような方なのか、聖霊とはどのような方なのか、ということを、聖書に基づいて教えていきました。聖書は父なる神について、その独り子イエス・キリストについて、聖霊について、このように語っている、この父と子と聖霊を教会は信じている、あなたも父と子と聖霊を信じて、教会の一員となって共に生きていきますか、ということが、洗礼に向けての準備において語られていったのです。そして実際に洗礼が授けられる場面でも、「あなたは父なる神を信じますか」「あなたは子なる神キリストを信じますか」「あなたは聖霊を信じますか」と志願者に対して問われて、志願者は「信じます」と答える、それが、私たちの教会の洗礼式においてもなされている「誓約」、誓いです。その誓いをした人に、父と子と聖霊の名による洗礼が授けられるのです。この洗礼への準備のために、確認されるべき信仰の内容をまとめた文章が教会において次第に整えられていって、それが使徒信条になったのです。三つの部分から成っている使徒信条はそういう生い立ちを持っています。使徒信条を告白する時、このことをしっかり意識しておきたいと思います。つまり使徒信条は、聖書の教えやキリスト教信仰の中心的内容を学ぶための、教科書とか、受験の対策としてこれだけは覚えておいたらよい、という要点をまとめたようなものではなくて、私たちはこの信仰によって洗礼を受け、神による救いにあずかり、神の民の一員とされて生きているのだ、ということを意識したいのです。つまり私たちの救いは、父なる神と、その独り子主イエスと、聖霊によって与えられているのであって、その内のどれか一つでも欠けたら、そこには救いはないのです。
父と子と聖霊による救い
この私たちの救いという点からもう一度、三つの部分を振り返ってみたいと思います。神は、天と地と、この世界の全てを造って下さいました。私たちが命を与えられてこの人生を生きているのは神によってです。そして神は今も、この世界と私たちを支配し、全能の力をもって導いておられます。それは私たちの願いを何でも叶えて下さるということではありません。神は私たちに仕える僕ではなくて、私たちを支配しておられる方なのですから。でもだからこそ、私たちはこの世界にどのようなことが起ころうとも、神こそが最終的な支配者であられることを信じて、その神に信頼して生きることができるのです。そしてその神は、私たちの父であって下さいます。それは独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さったことによってです。私たちは本来は神を父と呼ぶことはできません。神の子ではなくて被造物です。しかし神が遣わして下さった独り子イエス・キリストと結び合わされることによって、私たちも神を父と呼んで祈ることが許されているのです。つまり神は私たちを子として愛して下さっているのです。
そしてその独り子なる神主イエスです。主イエスは神の子でありまことの神であられたのに、私たち罪人の救いのために一人の人間となってこの世を生きて下さいました。そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。罪のゆえに滅びるしかない私たちの身代わりとなって、主イエスが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちは赦されて、神の子として生きることができるようになったのです。さらに、十字架にかかって死んだ主イエスを、父なる神は復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。それは、神が与えて下さる復活と永遠の命の先駆けとしてでした。父なる神は、私たちをも、死んでおしまいではなくて、主イエスと共に復活させ、主イエスと共に永遠の命を生きる者として下さると約束して下さったのです。そのことは、復活して天に昇った主イエスが、もう一度来て下さり、そのご支配を完成させ、私たちの救いをも完成させて下さる世の終わりに与えられる救いです。洗礼によって主イエスと結び合わされている私たちは、この救いの完成を待ち望みつつ生き、また死ぬことができるのです。
そして聖霊なる神です。聖霊は、今私たちと共にいて、私たちに主イエス・キリストとその父である神を信じさせて下さいます。私たちを教会の礼拝へと招き導いて下さったのも聖霊だし、洗礼において私たちを主イエスと結び合わせ、その救いにあずからせて下さるのも聖霊です。そして聖霊が、世の終わりの救いの完成、復活と永遠の命に至るまで、私たちを神の民として導いていって下さるのです。そのために聖霊は教会をこの世に築き、そこに私たちを連らせて下さっています。教会はキリストの体であって、頭であるキリストと洗礼によって結び合わされた私たちは、兄弟姉妹と共に一つの体の部分としての交わりに生きていくのです。
このように私たちの救いは、父と子と聖霊であられる神によって実現し、与えられています。それは三つの別々な救いではなくて、一つの救い、お一人の神による救いです。私たちは父と子と聖霊の名による洗礼を受けることによって、このお一人の神の恵みによる救いにあずかっているのです。洗礼において与えられているこの救いの中で生きることによってこそ、三位一体の神を知り、信じることができるのです。
説明を拒む神
神が父と子と聖霊であり、しかもお一人である、というのは、確かに分かりにくい、複雑で難しいことに感じられます。もっと分かりやすい方が伝わりやすいし信じやすい、と誰でも思います。なので、古代から、三位一体を否定する考え方が繰り返し起こりました。「三位一体」などという言葉は聖書にないではないか。神は父なる神お一人で、イエス・キリストは神ではない、人間の中で最も神に近い、最高の存在だけれども、神ではなくて被造物の一人だ、と考える人たちも現れました。また聖霊についても、ともすればそれを神の「力」や「働き」としてのみ捉えてしまうことがあります。そうなると、聖霊は父なる神、子なるキリストと並ぶ第三の存在ではなくなってしまいます。このように三位一体の神については、それが複雑で分かりにくいがゆえに、いろいろな議論が生じてきました。そういう議論はどれも、神についてもっとすっきりとした説明をして、分かりやすく理解できるようにしたい、という思いから生じたものだと言えるでしょう。しかしそこで私たちは、本日の旧約聖書の箇所である、出エジプト記第3章14節における神の言葉を味わう必要があると思います。ここはモーセが主なる神と出会い、エジプトで奴隷とされている同胞を救うために遣わされる、という場面です。モーセは、同胞たちのもとに行ってあなたのお言葉を伝えた時に、その神の名前を問われたら、どのように答えたらよいでしょうかと問いました。神の名前を伝えるというのは、神はこのような方だと説明して、人々が理解し、納得できるようにする、ということです。つまりモーセは、同胞たちに主なる神のことを説明して理解させることによって、自分を信じてついて来るように説得したい、と思っているのです。そのモーセの問いに対して神はこうお答えになりました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。そして「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」と言いなさいとおっしゃったのです。この神のお言葉は、モーセの求めに対する答えにはなっていません。神のお名前はこうで、こういうお方だ、と説明をしたいと思っているモーセに対して、神は、「わたしはある」と言われる。それは、ご自分についてのそのような説明を拒んでおられる、ということです。神とはこういう方だと説明されて、理解して、納得したから従っていく、というものではない、そのような人間の理解や説明を超えて、「わたしはある」のだ、と神は言っておられるのです。あなたがたがどのように説明し、理解し、納得しようと、あるいは理解できず納得できないとしても、そういうことと関係なく、私は私としてある、と神は宣言しておられるのです。
神の愛のご決意を信じる
さらに、この「わたしはある」という言葉は、「わたしは自分があろうとする者としてある」という神の強い意志の現れであるとも言えます。神は、ご自身のあり方を、ご自身の意志によってお決めになるのです。その神のご意志によるあり方が、父と子と聖霊という三者にしてお一人である、ということでした。そこには、私たちに対する神の愛の意志が示されています。神は、この世界を創造し、支配し、私たちに命を与え、導いて下さっている父なる神として私たちを愛して下さっているのです。しかし私たちは罪に陥り、神から背き離れて滅びへの道を歩んでいます。その私たちを救うために、独り子イエス・キリストが人間となってこの世を歩み、私たちに代って十字架の死を引き受けて下さいました。子なる神キリストもこのように命をささげて私たちを愛して下さっているのです。さらに、聖霊なる神が、今もこれからも共にいて下さり、父と子による愛を私たちに悟らせ、信じさせ、キリストの十字架による罪の赦しにあずからせ、キリストの復活によって父なる神が約束して下さった、復活と永遠の命を信じて待ち望む者として下さっています。聖霊もそのように私たちを愛して下さっているのです。父と子と聖霊が、それぞれに固有の仕方で私たちを愛し、救いを与えて下さっています。そしてそれは、お一人の神の愛であり救いです。お一人の神が、私たちを愛し、救って下さろうという強い決意をもって、このように私たちと関わって下さっているのです。三位一体の神を信じるとは、この神の私たちへの愛のご決意を信じるということなのです。