「父よ、私の霊を御手に」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第31編1-9節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第23章44-49節
・ 讃美歌:
主イエスの十字架上の言葉
棕櫚の主日の夕べを迎えました。棕櫚の主日は、主イエスがエルサレムの町に入られたことを記念する日です。この日から主イエスの十字架の死に至る一週間、いわゆる「受難週」の歩みが始まります。棕櫚の主日と呼ばれるのは、ヨハネによる福音書12章12節以下で、エルサレムに入ってこられる主イエスを、大勢の群衆が「なつめやしの枝」を持って迎えたことにちなみます。この「なつめやしの枝」が以前の口語訳聖書では「しゅろの枝」と訳されていました。「しゅろ」と「なつめやし」は厳密には違うようですがどちらもヤシ科の植物で、口語訳聖書の「しゅろ」は「なつめやし」を指していると考えられるようになり、新共同訳聖書では「なつめやし」と訳されるようになりました。
なつめやしの枝を振りながら群衆は歓喜の叫びをあげて主イエスを迎えました。しかしその週の金曜日には主イエスは十字架に架けられて死なれるのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書はいずれも、この主イエスの十字架の死を記していますが、その記し方はそれぞれ違いますし、主イエスが十字架上で語られた言葉も、それぞれ異なる言葉を伝えています。その中でも一番良く知られているのはマタイとマルコが伝えている「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)」だと思います。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。しかしルカとヨハネはほかの主イエスの言葉を伝えています。このことは主イエスの十字架の出来事に矛盾があったということではありません。そうではなく四つの福音書はそれぞれ異なる視点から主イエスの十字架の死を見つめていて、そのためにどの主イエスの言葉に集中するかも異なっているのです。私たちは四つの福音書を通してより立体的に主イエスの死とその意味を受け取ることができます。ルカによる福音書は十字架上の主イエスの三つの言葉を伝えていますが、その最後の言葉が本日の箇所の46節にあります。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」このように言って主イエスは十字架上で息を引き取られました。本日はこの主イエスの十字架上のお言葉に集中して、主イエスが私たちのために死んでくださったことの意味を受けとめていきたいのです。
主の日は神の裁きの日
46節の主イエスの十字架の死を挟んで、44-45節ではその死に伴って起こったことが語られ、47-49節ではその死を目撃した人たちの反応が語られています。44節からこのようにあります。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」真っ昼間に暗闇が全地を覆い、太陽は光を失っていました。このことは何を意味しているのでしょうか。日蝕が起こったと説明されてもこのことの意味が分かるわけではありません。しかし聖書(旧約聖書)の預言を知っていたユダヤ人にはこの出来事の意味が分かったはずです。旧約聖書アモス書8章9節には「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」とあります。主イエスの十字架の死の直前に、まさにアモスが預言した通り昼間に太陽は光を失い、大地が闇で覆われたのです。アモスは「その日が来ると」このようなことが起こると預言しましたが、主イエスの十字架の死において「その日」が来たのです。私たちは主イエスの十字架の死によって救いが実現したことを告げ知らされ、またそのことを信じています。ですから私たちはアモスの言う「その日」とは、私たちの救いが実現した日だと思いがちです。しかしアモスが言う「その日」とは、神の救いが実現する日ではなく神の裁きが実現する日なのです。私たちはまずこのことをしっかり受けとめなくてはなりません。先ほどのアモス書8章9節に続く10節ではこのように言われています。「わたしはお前たちの祭りを悲しみに 喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え どの腰にも粗布をまとわせ どの頭の髪の毛もそり落とさせ 独り子を亡くしたような悲しみを与え その最期を苦悩に満ちた日とする。」ここで告げられているのは救いの日の到来ではなく、悲しみと嘆きと苦悩に満ちた裁きの日の到来であり、そのときには「独り子を亡くしたような悲しみ」が与えられると告げられているのです。また同じアモス書5章18節では「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」と言われ、20節でも「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」と言われています。昼の十二時頃、全地は暗くなり太陽は光を失い、それが三時まで続きました。ユダヤ人はこの出来事が「主の日」の到来を意味していることに気づいたに違いありません。そしてその主の日とは神の裁きの日にほかならないのです。この出来事の意味に気づいたのはユダヤ人だけかもしれませんが、しかしそれは、このことがユダヤ人だけに、あるいはエルサレムを中心とするユダヤだけで起こった、ということではありません。ルカ福音書が「全地は暗くなり」と語るとき、その「全地」とは世界全体を意味します。主イエスの十字架の死を前にして世界全体が闇に覆われたのです。主の日の到来は世界のすべての人に関わる出来事であり、それゆえ主イエス・キリストの十字架の死も世界のすべての人に関わる出来事なのです。
裁かれ滅ぼされるべき私たち
その主の日に神の裁きを受けるべきなのは私たちです。本来、ほかならぬ私たち罪人こそ神に裁かれ滅ぼされるべきなのです。そのように言われるとそこまで悪いことを自分はしていない、という思いが私たちの中から湧き上がってきます。きっと私たちは誰もが自分のことを善人だとは思っていないでしょう。自分にも悪いところはあると思っているし、謙遜して「自分は善い人ではないので」と言ったりもします。しかしそのように思ったり言ったりしても、「あなたは神さまによって裁かれ滅ぼされるべき罪人だ」、と言われると、そこまで言われるいわれはないと思うのです。そのように思うのは、私たちがどこかで自分の人生は自分のものだと思っているからではないでしょうか。だから自分の欠点や悪いところを認めたとしても、たとえ自分が罪人だと思っていたとしても、なお私たちは自分の人生を握りしめて手放すことができないのです。自分自身が自分の人生の主人でなければ、自分自身で自分の人生をコントロールしていなければ気がすまないのです。ここに罪に支配された私たちがいます。神を自分の人生の主人とせず神に背き続けている、裁かれ滅ぼされるべき私たちがいるのです。
人間の罪の暗闇
主の日に世界は暗闇で覆われました。先ほどお話ししたようにそれは神の裁きのときを意味しますが、同時に暗闇は人間の罪をも指し示しています。神の裁きのときに普段は隠されている人間の罪が暴かれ、その暗闇が明らかにされるのです。私たちが生きている社会は夜も光が煌々と灯っています。まるでその光は、社会が抱えている本当の闇を隠しているようです。同じように人間の罪の暗闇も様々な偽りの光によって覆い隠されているのではないでしょうか。「自分の人生は自分のものだ」という偽りの光もその一つに違いありません。そのような偽りの光によって私たちはこの世界の罪に、また自分自身の罪に気づかないふりをしているのです。しかし主の日には、隠されていた人間の罪の暗闇が露わになり、私たちはその罪に気づかないふりをしていられなくなるのです。
神殿の垂れ幕が裂ける
全地は暗くなり太陽が光を失ったと語られた後に、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と言われています。神殿には祭司だけが入れる聖所とほかの場所を隔てる垂れ幕がありました。その垂れ幕が裂けたことは、主イエスの十字架の死によって神と人間との隔てが取り除かれ、私たちが神のところに行くことができるようになったことを意味する、と読むこともできます。しかしそれは、どちらかというと主イエスの十字架の死の後で神殿の垂れ幕が裂けたことを語っているマタイ福音者やマルコ福音書で見つめられていることです。それに対してルカ福音書でこのことは、全地が暗くなり太陽が光を失ったことと結びつけられて、主イエスの十字架の死の前に語られているのです。ですからルカ福音書において神殿の垂れ幕が裂けたことは、神の怒りと裁きを具体的に現しているのだと思います。
父よ、わたしの霊を御手に
この神の怒りと裁きによって、本来引き裂かれるべきだったのは私たちでありこの世界です。しかし実際に引き裂かれたのは主イエスでした。人間の罪の暗闇に覆われた世界で、神の裁きと怒りを私たちの代わりに身に受けられた主イエスは言われます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」このお言葉だけを聞くと、主イエスが神に信頼して穏やかに死なれたのではないかと思います。そうであるならばこの主イエスの十字架上のお言葉は、私たちにとって死を迎えるときのお手本の言葉なのでしょうか。私たちも主イエスに倣って神に信頼し穏やかに死を迎えなさい、ということなのでしょうか。そうではないのではないか。いや、そうであることは私たちにはできないのではないか。死に際しても神に信頼できず、すべてを委ねることができず、恐れと不安に襲われ心穏やかでいられないのが私たちの姿だからです。ですからこの主イエスの十字架上のお言葉は、私たちのお手本にはならないのです。では、このお言葉はなにを私たちに告げているのでしょうか。そもそも主イエスの死は、穏やかな死などではありませんでした。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、主イエスは静かに祈られたのではなく「大声で叫ばれた」と言われているからです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、と主イエスは大声で叫ばれます。その叫びは、人間の罪の暗闇に覆われているこの世界を貫き、その罪の暗闇を滅ぼす叫びではないでしょうか。「自分の命は自分のもの」、「自分の人生は自分のもの」だと神に背いて生きている私たちを、新しく生かそうとする叫びなのです。
神に委ねて生きる道を切り開く叫び
この「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という十字架上の言葉についての黙想集の中に、このような一文がありました。「最近、我が国の高等教育〔大学教育〕についての協議会が行われました。一人の女性講師が、学生たちの道徳心の向上について話して、高等教育の目標は、『何事をも、自分自身の所有物とする技術』の涵養にあると述べました。『わたしたちは、車を持ち、家を持っています。それなら、自分の命をも持っていると考えるべきではありませんか』」(『十字架上の七つの言葉と出会う』、153-154頁)。これはアメリカの話ですが、私たちの社会も大差はないと思います。「自分の命は自分のもの」、「自分の人生は自分のもの」というのが私たちの社会の当たり前です。そしてそのような思いは私たちにとって決して他人事ではないのです。私たちは手放すことができません。委ねることができません。なにもかもを自分の手で握りしめていたいのです。けれども私たちの人生の意味がなにかを持っていることにあるならば、私たちは持っているものを失っていくしかありません。若さを失い、健康を失い、そして最後には命を失います。富も名声も地位も失われるのです。握りしめていたものはなにもかも手放さなくてはなりません。主イエスの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という叫びは、そのような人生から私たちを解放する叫びではないでしょうか。神の怒りと裁きによって十字架で死なれることにおいて、主イエスがご自分の霊を、ご自分の命を、叫びを持って神の御手に委ねられたことによって、「自分の命は自分のもの」、「自分の人生は自分のもの」という生き方から私たちを自由にし、自分の命を神に委ねて生きる道を切り開いてくださったのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という主イエスの十字架上の言葉は、このことを指し示しているのです。
闇から光へ、暗闇から輝きへ
この主イエスの十字架上の叫びが暗闇を滅ぼし、光をもたらします。アモスが預言したのは神の裁きの日でした。しかしその裁きを主イエスが私たちの代わりに身に受けてくださることによって裁きの日は救いの日となり、私たちの裁きではなく救いこそが実現したのです。アモスは「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」(5:20)と言いました。しかし神が私たちの代わりに主イエスを十字架で引き裂くことによって、主の日は闇から光へと、暗闇から輝きへと変えられたのです。アモスが預言した「独り子を亡くしたような悲しみ」は私たちではなくほかならぬ神が味わってくださったのです。もちろん本当の意味でこの世界が光と輝きに包まれるのは主イエスの復活を待たなくてはなりません。しかし罪の暗闇に覆われていた世界に確かに光がもたらされました。「自分の命は自分のもの」、「自分の人生は自分のもの」と思って生きているとき、私たちは持っているものを失っていくばかりの暗闇の中を生きています。しかし主イエスの十字架によって、私たちは暗闇から光の中へと入れられ、自分の人生を神のものとし、自分の命を神に委ねて生きる者へと変えられていくのです。
主イエスの父なる神に委ねる
「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という主イエスの言葉は、本日共にお読みした旧約聖書詩編31編6節のみ言葉です。そこには「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」とあります。主イエスはこの詩編の言葉をご自身の言葉として叫ばれました。でもそのとき、「まことの神、主よ」ではなく、「父よ」と神に呼びかけられたのです。主イエスが叫びを持って自分の命を委ねたのは主イエスの父なる神にほかなりません。私たちが自分の命を委ねるのもほかならぬ主イエス・キリストの父なる神です。この神が、十字架で死なれた主イエスを死者の中から復活させてくださいました。そうであるならば私たちが命を委ねる神は、終りの日の救いの完成のときに、主イエスに結ばれた私たちをも復活させてくださるに違いないのです。その復活と永遠の命の約束を与えられている私たちは、死に際して恐れや不安の中にあってなお自分の命を神へ委ねます。いえ、死ぬときだけではありません。私たちの人生のすべてを神に委ねるのです。自分の人生を、自分の命を神に委ねられない私たちのために主イエスが十字架で死んでくださり、私たちが自分の命を神に委ねて生きる道を切り開いてくださったからです。
十字架の下で神を礼拝する
47-49節ではこの主イエスの十字架の死を見ていた人たちのことが語られています。まず47節で語られているのはローマの百人隊長です。彼は、「本当に、この人は正しい人だった」と言いました。「本当に、この人は正しい人だった」とは、罪のない正しい方が十字架で死なれた、という信仰の告白であるだけでなく、罪のない正しい方を自分が死なせた、という罪の告白、悔い改めの言葉でもあります。そして悔い改めと信仰の告白は神への賛美を引き起こします。だから47節で「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」と言われているのです。彼は主イエスの十字架の死を見て、十字架の下で神を賛美し、神を礼拝しました。それは異邦人である百人隊長にとって新しい生き方であったに違いありません。主イエスが十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫び死なれたことによって切り開かれた新しい生き方に百人隊長は生き始めたのです。罪の暗闇に覆われている世界ではなく、あるいは偽りの光に照らされている世界でもなく、主イエスの十字架の死がもたらした光の世界へと入れられ、神に自分の命と人生を委ね、神を賛美して生きる者へと変えられたのです。
新しい生活へと遣わされる
第二に48節で語られているのは群衆です。48節にこのようにあります。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」胸を打つことは悔い改めのしるしです。そして「帰って行った」と訳されている言葉は、ルカ福音書とその続編である使徒言行録に特徴的な言葉であり、しばしば「賛美して帰った」とか「喜んで帰った」というニュアンスで使われます。たとえばルカ福音書24章52-53節では、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とありますが、「大喜びでエルサレムに帰り」の「帰り」が、「胸を打ちながら帰って行った」の「帰って行った」と同じ言葉なのです。主イエスを「殺せ、バラバを釈放しろ」(23:18)、主イエスを「十字架につけろ、十字架につけろ」(23:21)と大声で叫び続けていた群衆が、主イエスの十字架の死を目撃することによって悔い改めと賛美へと導かれたのです。彼らは胸を打って悔い改めつつ神を賛美してそれぞれの生活の場へと帰って行きます。彼らが戻っていった生活は、表面的にはそれまでと何も変わらなかったかもしれません。しかし根本的にはまったく新しい生活なのです。その生活はもはや罪の暗闇の中にあるのではなく、主イエスの十字架の死によってもたらされた光の中にあるからです。神に裁かれ滅ぼされるべきこの私の代わりに、神が主イエスを十字架に架けてまでこの私を愛してくださったことを知らされ、自分の罪を悔い改め、神を賛美し、その救いの恵みに感謝して生きます。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という十字架上の主イエスの叫びが、自分の命と人生を神に委ねて生きる道を切り開いてくださいました。その歩みにこそ、本当の平安があり喜びがあります。持っているものを失うことに怯えて生きるのではなく、十字架で死なれた主イエスを死者の中から復活させてくださった父なる神に、この私の命、この私の人生を委ねることが赦されているのです。
どこで主イエスの十字架の死を見つめるのか
最後に49節で「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と語られています。主イエスを知っていた人たちとガリラヤから主イエスに従ってきた人たちは「遠くに立って」いました。この人たちについては悔い改めも信仰の告白も神への賛美も語られていません。
本日から受難週が始まります。私たちはどこで主イエスの十字架の死を見つめるのでしょうか。「遠くに立って」いるのでしょうか。それでは主イエスの十字架の死を傍観しているだけではないでしょうか。私たちは十字架の下にこそ立ちたいのです。そこで私たちの罪のために主イエスが十字架で死んでくださったことを見つめます。主イエスの死刑を執行したのは百人隊長だけではありません。ほかならぬ私たちが主イエスを殺したのです。私たちが主イエスを「殺せ」、「十字架につけろ」と叫んだのです。それにもかかわらず罪の暗闇の中にいる私たちを救うために主イエスは十字架上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んで死なれました。私たちは十字架の下でその主イエスの叫びを聞き続けます。そのことによって私たちは「自分の命は自分のもの」、「自分の人生は自分のもの」という不安と恐れに満ちた歩みから自由にされ、自分の命と人生を神に委ねて生きていくことができるのです