「主イエスは復活した」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第30編1-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第28章1-10節
・ 讃美歌:325、323、531、81
復活
主イエス・キリストの復活を喜び祝うイースターの日を迎えました。十字架につけられて殺された主イエスが、三日目のこの日曜日の朝、復活なさった、と聖書は告げています。しかし聖書が語っているのは、主イエスの遺体が息を吹き返し、むくむくと起き上がった、ということではありません。語られているのは、主イエスの遺体を納め、大きな石で蓋をされ、封印がなされ、番兵まで置かれていた墓が、からっぽだったということ、それから、生きておられる主イエスが婦人たちや弟子たちに出会って下さったことです。主イエスは勿論肉体をもって復活なさいました。主イエスの思い出が弟子たちの心に残り続けたとか、魂だけが戻ってきたというようなことではありません。しかし聖書は主イエスの復活を、肉体がどのように生き返ったかということとしてではなく、主イエスは墓の中にはもうおられない、生きた方として私たちに出会って下さる、ということとして捉えているのです。
墓を見つめる女性たち
主イエスの墓が空だったことを最初に見たのは、「マグダラのマリアともう一人のマリア」でした。この二人の女性が、週の初めの日、つまり日曜日の明け方に、主イエスの墓に行ったのです。何をしに行ったのでしょうか。マルコ福音書ではここは三人の女性たちになっていますが、彼女たちは主イエスの遺体に香料を塗るために行ったのだと語られています。しかしマタイ福音書は、「墓を見に行った」とだけ語っています。この「見る」という言葉は、「じっと見つめる」というような強い言葉です。彼女らは「墓を見つめるために行った」のです。それは、愛する者の死を深く嘆き悲しんでいる人の姿です。ここに出て来る「もう一人のマリア」というのは、主イエスの母マリアではないか、という説があります。愛する息子の死、しかも非業の死を嘆き悲しみ、絶望に陥っている母親の姿がここにあると言うことができるのです。
あの方は、ここにはおられない
彼女らが主イエスの墓に来ると、大きな地震が起りました。天使が、墓を塞いでいる石をわきへ転がしたのです。しかし天使によって引き起こされたこの地震によって主イエスが復活したのではありません。天使が石をわきへ転がしてくれたので、復活した主イエスが墓から出て来れた、というのでもありません。石が転がされたのは、彼女たちが、主イエスの墓が空であることを見るためです。主イエスご自身は既に復活して墓の中にはおられないのです。天使はそのことを彼女たちに告げました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。主イエスは墓の中にはもうおられない、それが復活ということです。主イエスの墓を見つめて嘆き悲しむために来た女性たちは、主イエスを深く愛しています。その愛が深いだけ、主イエスの死による絶望も大きいのです。天使はその女性たちに、あなたがたの嘆きや絶望はお門違いだと告げたのです。あなたがたが見つめるべきものは墓ではない、そこには主イエスはおられない、復活して生きておられるのだ、と告げたのです。そして天使は「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と言いました。彼女らが見たのは、「遺体の置いてあった場所」、今は主イエスのおられないその場所です。そのようにして彼女らは、死んで葬られた主イエスが、もう墓の中にはおられないことを確かに示されたのです。
恐れ
大きな地震が起り、主の天使が現れたことによって、祭司長たちに命じられて墓の蕃をしていた番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。彼らが恐れたのはよく分かります。しかしあの女性たちも、恐れに捕われました。天使が彼女たちに「恐れることはない」と語りかけていることからそれが分かります。彼女たちは何を恐れたのでしょうか。それは単なる恐怖ではないでしょう。彼女らは、生きておられるまことの神が今ここでみ業を行っておられることを知って恐れたのです。生きておられる神と出会うことには、深い恐れが伴います。復活して生きておられる主イエスと出会うとき、私たちもこの恐れに直面します。復活を信じるとは、死んで墓の中におられると思っていた主イエスが生きておられることを示されるということです。つまり主イエスの復活を信じるとは、二千年前にそういう出来事があったと信じるかどいうかという問題ではなくて、もう過去の存在となっていると思っていた主イエスが、今も生きて私たちと出会い、語りかけ、働きかけておられる、その主イエスと出会うことです。それは私たちにとって、喜ばしいことであるだけではなく、ある意味で恐ろしいことでもあります。死んで墓の中にいる主イエスなら、語りかけたり問いかけては来ません。主イエスを死んでしまった過去の方として捉えている限り、私たちは自分が変わる必要はないのです。過去の存在である主イエスを、お守りのように自分の懐に入れておいて、必要な時だけ出して来て頼る、ということができるのです。しかし復活された主イエスとの関わりはそうはいきません。そこで私たちは、生きている方と出会い、語りかけられ、問われ、歩みを正される、つまり自分が変えられることが起るのです。復活の主イエスと出会うとはそういうことであり、そこには恐れが伴うのです。
恐れることはない
天使は彼女たちに「恐れることはない」と語りかけています。ここも直訳すると「あなたがたは、恐れるな」です。「あなたがたは」という言葉が原文にはある。それは一つには、墓を見張っていた番兵たちとは違ってあなたがたは、ということでしょう。あなたがたは、主イエスに敵対している者ではないのだから、恐れることはない、ということです。しかしこの「あなたがたは」にはもっと大事な意味があります。それは、神が彼女らに「あなたがた」と語りかけておられる、ということです。神が「あなた、あなたがた」と語りかけて下さり、「私とあなた」という関係を結ぼうとしておられるのです。恐れからの解放はそこでこそ実現します。生きて働いておられる神と出会うことは、今述べたようにある意味で恐ろしいことでもあります。その恐れは、神の顔を避けて逃げていては乗り越えられません。神が私たちに対して「あなた、あなたがた」と語りかけて下さっているのですから、その神の前にしっかり立って、神からの語りかけを聞くのです。そこに、「恐れることはない」というみ声が響き、そして神からの喜びの知らせが告げられるのです。その喜びの知らせが7節以下です。
弟子たちに
天使は彼女らに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい」と言いました。しかし弟子たちとはいったい誰のことでしょう。主イエスにはかつて十二人の弟子たちがいました。しかし彼らの中で、ユダは裏切り、絶望の内に自殺してしまいました。ペトロは主イエスを三度、「そんな人は知らない」と誓って断言しました。そして他の弟子たちも皆、逃げ去ってしまったのです。つまり今や、主イエスの弟子などと言える人々はどこにもいないのです。しかし天使は「弟子たちに」と言います。ここも直訳するなら「彼の弟子たちに」となっています。彼の、とは主イエスの、ということです。つまりあの人たちは主イエスの弟子であると天使は強調しているのです。つまり神がなお彼らを、主イエスの弟子と呼んで下さっているのです。そこに、弟子たちに告げられるべき喜ばしい知らせ、罪の赦しの宣言があるのです。
ガリラヤへ
その恵みはさらに、彼女たちに託された言葉にも示されています。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。これが、彼女らに託された弟子たちへの言葉でした。主イエスは復活して、弟子たちより先にガリラヤへ行かれる、そこで復活された主イエスに会うことができる。ガリラヤは弟子たちの故郷であり、彼らが主イエスと出会い、弟子になった所です。彼らはガリラヤから主イエスに従ってユダヤのエルサレムまで来ました。しかしそこで結局主イエスに従い通すことができず、挫折してしまったのです。信仰者としての歩みを全うすることができなかったのです。その挫折の中で彼らがすごすごと帰っていく先がガリラヤです。失敗して、夢も希望も失い、ぼろぼろになった姿で帰っていく、そのガリラヤに、復活した主イエスが先に行っておられる、そこで彼らを待っていて下さり、再び出会って下さるのです。それは、彼らを主イエスの弟子として、信仰者として、もう一度招き、新しく歩ませて下さるということです。しかしその新しい歩みは、もはや自分の力や信仰心によるものではありません。どこまでも主イエスに従っていく、という彼ら自身の意志や決意はあえなく挫折し、もはや完全に打ち砕かれたのです。人間の力や意志、信仰心によって主イエスに従い通すことはできないことが明らかになったのです。彼らが信仰者として再び立つことができるのは、人間の力によってではなく、人間の弱さや罪の全てを背負って、その赦しのために十字架にかかって死んで下さった主イエスの恵みによってです。主イエスを死者の中から復活させて下さった父なる神のみ力によってのみ、彼らは弟子として、信仰者として再び歩み出すことができるのです。主イエスが弟子たちより先にガリラヤに行っておられ、そのガリラヤでこそお目にかかることができる、という天使のお告げはそういうことを意味しているのです。
恐れながらも大いに喜ぶ
「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と8節にあります。「恐れながらも大いに喜んで、走って行く」、これが主イエスの復活を信じる者たちの基本的な姿です。生きておられるまことの神である主イエスの前に立つことは、ある意味恐ろしいことです。そこで私たちは今ある自分のままではおれなくなり、変えられていくのです。神を礼拝することにおいては、そういうことが起るのですから、それは決してお気楽なことではありません。そこには深い恐れが伴うのです。しかしその恐れと共にそこには、主の恵みのみ言葉によってこそ与えられる大きな喜びがあります。主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪や弱さに打ち勝って神が救いを実現して下さり、また神は死の力にも勝利して主イエスを復活させ、私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さった、という喜びです。生きておられる神のみ前に出る礼拝において私たちは、「恐れながらも大いに喜ぶ」者とされるのです。
復活の主イエスとの出会い
女性たちは、この大いなる喜びを伝えるために、墓を後にして走って行きました。するとその途上で、主イエスが行く手に立っておられたのです。彼女らが復活された主イエスに出会ったのはこのようにしてでした。主イエスは復活された、という福音を告げ知らされ、それを信じて、大きな喜びの内にその福音を語り伝えるために走り出していく、墓を見つめて嘆き悲しんでいた者が、主の復活を告げる言葉によって向きを変えて、喜びをもって墓から兄弟たちのもとへと急いでいく、その歩みの中でこそ、復活された主イエスとの出会いが与えられるのです。私たちは、復活された主イエスと出会ったから復活を信じるのではありません。「主イエスは復活し、生きておられる」と告げるみ言葉が先ず与えられるのです。この女性たちも、実際に見たのはからっぽの墓のみであって、主イエスの復活は、天使の言葉によって告げられただけです。しかしその告げられたみ言葉を信じて彼女たちは走り出しました。そうやって走って行く途中で、主イエスが彼女たちに出会って下さったのです。私たちが、復活された主イエスと出会うのもこのようにしてです。復活が納得できたら信じようと思っている間は、主イエスの復活を信じることはできません。まずみ言葉を信じて受け入れ、み言葉に従って歩み出すのです。その歩みの中で、生きておられる主イエスとの出会いも後から与えられ、復活を本当に納得することができるようになっていくのです。
喜びなさい
彼女らに出会って下さった主イエスは、「おはよう」と声をかけられました。「おはよう」と訳されている言葉は、言葉の意味としては「喜べ」です。その言葉が通常の挨拶の言葉として用いられていました。この時は朝だから「おはよう」と訳されたのです。しかしこの言葉には、「おはよう」だけでは表し得ない深い意味が込められています。「喜べ」という元の意味がここでは生きているのです。復活して生きておられる主イエスは私たちに出会って、「喜びなさい」と告げて下さるのです。その喜びの内容が、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」ということです。これは先程天使が彼女らに告げたことと内容的には同じです。しかし一つだけ大きな違いがあります。それは主イエスが弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることです。天使は、「彼の弟子たち」と言っていました。その言葉にも既に、神が、つまずき裏切った彼らをなお主イエスの弟子と呼んで下さっているという恵みが示されていました。しかしここでは主イエスご自身が彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んで下さったのです。そこに、弟子たちに、そして私たちにも与えられている深い喜びがあります。私たちも、弟子たちと同じように、主イエスを裏切り、信仰において挫折し、弟子であることが出来なくなっている者です。いやむしろ先週見つめたように、主イエスを十字架につけて苦しめ、「それでも神の子か」と嘲った者たちこそ私たちなのです。その私たちを、主イエスは赦して「わたしの兄弟」と呼んで下さるのです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことによって罪の贖いを実現して下さった主イエスが、今や復活して、私たちを、父なる神のもとでのご自分の兄弟姉妹として、主イエスを長男とする神の家族の一員として迎えようとして下さっているのです。主イエスの復活によって、この喜びが私たちにも与えられているのです。
私たちは人間どうしの間でも、様々な喜びを与え合います。「喜びなさい」と語り合うことがあります。けれども私たちが与え合う喜び、私たちが「喜べ」と言う喜びは、罪と汚れに満ちたものです。たとえばこの福音書の26章49節には、イスカリオテのユダが、主イエスを裏切って捕える者たちに引き渡す時に、「先生、こんばんは」と言って接吻したとあります。この「こんばんは」が、同じ「喜べ」という言葉なのです。この場合は夜だから「こんばんは」と訳されているのです。あるいは27章29節で、総督の兵士たちが主イエスを王に見立ててその前にひざまづき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱したとあります。この「万歳」と訳されているのも「喜べ」という言葉です。私たち人間は、「喜べ」と言いつつ相手を裏切ったり、侮辱して苦しめたりすることができるのです。主イエス・キリストは、そのような私たちの罪と裏切りによる苦しみと侮辱と死を全て引き受け、背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちを赦して下さったのです。その主イエスが復活して、今私たちに「私の兄弟たちよ、喜びなさい」と語り掛けておられる。そこには、人間どうしが与え合う喜びとは違う、本当の喜びがあるのです。
喜びをもって走っていく
「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。「ひれ伏す」という言葉は、後に「礼拝する」という意味になっていきました。この女性たちの姿に、私たちの礼拝の原型があります。「足を抱く」という言葉は、「足にしっかりとすがりつく」ということです。復活して生きて私たちと出会って下さり、「喜びなさい」と語り掛けて下さる主イエスの前にひれ伏し、その足にしっかりとすがりつく、それが私たちの礼拝です。その礼拝において、主の恵みのみ言葉が与えられます。あなたがたはもう、墓を見つめて泣いている必要はない、死はもはや、全てのものの最終的な支配者ではない、主イエス・キリストにおける神の恵みが、死の力を打ち破り、新しい命、永遠の命への道を切り開いたのだ。罪の中で悲しみ苦しんでいる私たちに、復活して生きておられる主イエスが、「わたしの兄弟」と語りかけ、「わたしの十字架と復活のゆえに、あなたがたは罪を赦され、新しくされた。だから喜んで生きていきなさい」と告げて下さるのです。主の復活を記念する主の日、日曜日の礼拝において、その喜びを告げられた私たちは、自分の愛する人々に、苦しみや悲しみ、孤独を覚えている隣人たちに、この喜びの知らせを伝えるために、足取り軽く走っていくのです。