「七の七十倍赦しなさい」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第18章21-35節
・ 讃美歌:11、447、310
<赦すこと>
ペトロが、「主よ、兄弟がわたしに対捨て罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と主イエスに言いました。ペトロは、共に信仰の歩みをする兄弟が、自分を傷つけ、裏切り、苦しめるような時、何回まで我慢して、何回まで相手を赦せば良いですか、と尋ねたのです。それは、後で触れますが、この直前に、主イエスが兄弟の罪を赦すことについて語られたからです。
当時、ユダヤ人を指導するラビは、三回まで赦しなさい、と指導していたそうです。わたしたちは「仏の顔も三度まで」なんていう諺を思い浮かべますけれども、ペトロが提示したのは、それを大幅に上回る七回です。これは相当、頑張っていると言えます。
わたしたちには、たった一回の兄弟の罪だって、自分がそれによって本当に深く傷つけられ、苦しめられたなら、決して赦したくない、絶対に赦せない、と思うことがあります。
そもそも、わたしたちは自分に罪を犯した人を、一度だって、本当に心から赦す、などということが出来るのでしょうか。それは、わたしたちの寛容さの問題なのでしょうか。苦しみを押し殺して、涙や怒りを耐えて、心で血をドクドクと流しながら「あなたを赦す」と言わなければならないのでしょうか。
わたしたちが人を赦すということは、最も困難なことの一つではないかと思います。
ところが、ペトロの七回赦せばいいですか?という問い対して、主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。490回も赦すのでしょうか。そうではありません。
主イエスはペトロに、赦すということは、回数や、赦す人の忍耐、努力の問題ではない、と言われたのです。主イエスは、あなたがなぜ自分に罪を犯した兄弟を赦しなさいと言われるのか、それを知りなさい、と言われたのです。
<たとえ話の前提>
そうして主イエスは、今日の「仲間を赦さない家来のたとえ」をお語りになりました。これは23節に「天の国は次のようにたとえられる」とあるように、天の国、神のご支配についてのたとえです。
このたとえに耳を傾ける前に、今日は読みませんでしたけれども、このことの前提として、15~20節で語られた、兄弟を赦すことに関する、主イエスの教えがとても重要です。
19~20節に、「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあります。主イエスの名によって集まる二人、三人の祈りの輪の中に、主イエスご自身もいて下さる。そして天の父はその願いをかなえてくださる。
慰めと心強さを覚える聖句であり、ここが好きだという方も多いと思います。
しかしこの箇所は、15節以下の、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」という、兄弟の罪を赦す、ということの文脈で語られていることを、忘れてはいけません。
ここでは「主の交わりにあった兄弟が、自分に対して罪を犯したらどうすれば良いか」という、大変具体的な教会の中での人間関係について語られています。
教会は、完璧で優しい人々の集まりなのではありません。それぞれが罪と、弱さと、欠けを持っていながら、それでも主イエスに選ばれ、救われ、集められた群れなのです。聖霊に導かれ、主イエスに従うことを祈り求めながら、何度も罪を犯し、何度も赦されつつ、歩んでいる者たちです。
その中で、兄弟が自分に対して罪を犯すことがあります。お一人の主イエスを信じ、お一人の主イエスに結ばれて、同じ神の家族、兄弟姉妹となった者が、自分を傷つけ、裏切り、その関係が破れることがあるのです。
15節には、その時には、まず行って二人だけのところで忠告しなさい、と言われます。はっきり相手に罪を告げなさい、と言っているのです。そこで、兄弟が言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。破れた関係が回復し、共に生きる兄弟を得る、と言われています。
ここでは、傷つけられた者が、黙ったまま一方的に相手を赦しなさい、などということは言っていません。罪を犯した兄弟が、人を傷つけた罪を知り、悔い改めること。また傷つけられた側も、そのことを受け入れ、赦すこと。この双方の思いが一つとなって、やっと初めて「和解」が成立します。赦すということは、片方だけで出来ることではありません。人と人の間のことであり、破れた関係、交わりを、回復する、ということなのです。
そして、一対一で無理ならば、二~三人を伴って行きなさい。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい、と言っています。
そして、教会の言うことも聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。つまり、主イエスの救いにあずかる前の状態だと見なしなさい、と言っています。
これは、その人との交わりを絶ち切って、教会から追い出す、ということではありません。主イエスは、救いの外にいると思われていた異邦人、徴税人のところにこそ、自ら出かけて行き、関係を築き、愛をもって接して来られました。そうして、主イエスはそれらの人々に、神のもとに立ち帰るように呼びかけられたのです。
だから、わたしたちも、悔い改めない兄弟が、立ち帰るように祈りなさい、と言われているのです。
18節には、わたしたちが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる、とあります。兄弟のためにわたしたちが為すことが、天においてもそうなる、ということです。
罪につないだままにするか、罪を解くか。それはつまり、罪を赦さないか、それとも罪を赦すか、ということですが、そのようなわたしたちの祈りや態度が、天においてそれほど重んじられているのです。天の父なる神に期待されていると言っても良いでしょう。
だからこそ、心を一つにして祈り求めなさい、と言われます。兄弟が迷い出たまま失われるのは、主イエスの御心ではありません。この箇所のさらに前の10~14節には、「迷い出た羊のたとえ」があり、14節には「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われているのです。
だから、あなたたちは兄弟の回復を共に祈りなさいと言われているのです。
自分自身も、兄弟に罪を犯すことがあります。わたしたちは、そのような罪人の集まりです。しかし主イエスの名によって集まるのであれば、そこに主イエスもおられるのです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」とありますが、二人、三人の集まりというのは、人間関係が生じる最小の単位です。主イエスに結ばれたなら、そこに必ず共に救われた兄弟との交わりが生じます。
そこにおいて、主イエスは、わたしたちが互いを赦し、共に生きることを祈り求めること。兄弟の回復を共に祈り、罪を犯した兄弟の罪を赦すことを、願っておられるのです。
そして、天の父は、そのように集まって、地上で心を一つにして祈り求めることを、必ずかなえて下さる、というのです。
<ペトロの勘違い>
このことを受けて、21節にあるように、ペトロが主イエスのところに来て言ったのです。「あなたが、わたしたちが罪を犯した兄弟を赦すことを願っておられるとわかりました。それは難しいことです。でも、頑張ってみましょう。七回まで赦せばいいですか」。
ペトロは主イエスに最大限の努力と決意を表明したと言ってよいでしょう。でもペトロはまだ、兄弟の罪を赦すということを、自分の覚悟や努力や忍耐によって実現することだと思っています。
先ほど主イエスが教えて下さったことは、兄弟の罪を赦すために、また兄弟が悔い改めるために、主の名によって集まり、共に天の父に祈り求めることでした。
主イエスは、「兄弟の罪を赦すということ、兄弟との和解を得ることは、人間の忍耐や努力によってなすべきことではない。どこまで我慢すれば良いかという問題ではない。あなたたちは、基本的に兄弟の罪を我慢することはできない。自分に対する人の罪を心から赦すことなど、出来ないだろう。しかし、神によって、あなたは赦され、赦すことが出来る者とされている。神に罪を赦され、天の国に生きる者とされたなら、同時にあなたたちは兄弟を赦す者となるべきであることを知りなさい」と言われているのです。
わたしたちは、兄弟の回復を祈りなさい、赦しなさいと言われても、それを主イエスが願っておられると聞いても、どうして自分を傷つけた兄弟のために祈らなくちゃならないのか。いっそあんな人は失われたままでよい。いない方がよい。関わりたくない。そんな風に思ってしまうことも、あるかも知れません。
でも、主イエスは、なぜわたしたちが兄弟のために祈りなさいと言われているのか、なぜ兄弟の罪を赦さなければならないのか、それをたとえによって教えて下さったのです。
<仲間を赦さない家来のたとえ>
このたとえは、とても単純明快です。王が家来たちに貸した金の決済をしようとしました。そこに一万タラントン借金をしている家来が連れてこられました。
一万タラントンがどれくらいかというと、聖書の後ろに通貨換算の表があるのですが、1タラントンが6000デナリオンとあります。その1デナリオンは一日分の賃金に相当します。だから、6000デナリオンっていうのは、6000日分の賃金相当ということであり、6000デナリオン=1タラントンですから、1タラントンは20年分くらいの賃金ということです。それが1万タラントンですから、それは20万年分の賃金相当、ということになります。
まあ、想像もつかないですが、とにかく莫大な借金で、絶対にどうやっても返せない金額です。主君は家来に、自分も妻も子も売って、持ち物も全部売って返すようにと命じました。それをしたって無理な金額です。
家来はひれ伏し、「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」としきりに願いました。ぜったい嘘ですよね。決して返せる金額ではありません。
しかし主君は、それを憐れに思って彼を赦した、とあるのです。しかも、分割にするとか、まけてやるとかではなく、その借金を帳消しにし、ゼロにしてくれたのです。
ところが、その赦してもらった家来が、外に出て金を貸している仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、借金を返せと言いました。仲間は「どうか待ってくれ、返すから」とひれ伏し、しきりに頼みましたが、この家来は借金を返すまでと仲間を牢に入れたのです。
仲間がこの家来に借りていた金は百デナリオン。つまり、100日分の賃金です。小さな額ではないですが、家来が主君に赦してもらった20万年分の賃金とは比べ物になりません。
家来は自分が赦してもらったことを棚に上げて、仲間の借金を決して赦さなかったのです。
他の仲間たちが、これを見て心を痛め、主君にこの出来事を言いつけました。すると主君はその家来を呼びつけ、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言いました。そして主君は怒って、借金をすっかり返済するまで、とこの家来を牢役人に引き渡した、というたとえです。
あなたが大きな憐れみを受けたのだから、あなたが仲間を憐れむのは当然ではないか。そう言われているのです。
<赦された罪>
さて、このたとえで語られている、主君に対する家来の莫大な借金は、神に対するわたしたちの「罪」を表しています。罪は犯してしまったら、無かったことにすることは出来ません。負債のように積み重ねられ、償わなければ無くならないのです。
わたしたちは、神の御前に20万年分の賃金相当の負債を負っているようなものです。でもそれは、どうやったって返しようがありません。
ところが、神が、それを返すことのできないわたしたちを憐れみ、帳消しにして下さったのです。でも、帳消しにしても、負債自体が消えるのではありません。貸したお金は返ってきません。それは帳消しにして下さった方が、自分ですべての痛手を負われたのです。
わたしたちは、わたしたちの罪の償いのために、神の御子である主イエス・キリストが、十字架で御自分の命を代価として支払って下さったことを知らされています。
わたしたちの罪は大きすぎて、まことの人となられた、まことの神である方でなければ、償うことは出来なかったのです。主イエスが、わたしたちの罪をすべて負って下さいました。わたしたちは何を支払うこともなく、神の御子の命によって、罪を赦していただいたのです。
しかも、神は、わたしたちが悔い改め、憐れみを乞い願う前に、一方的に、先に赦しを与えて下さいました。わたしたちが悔い改めたから、罪を認めて、申し訳ないと泣いてひれ伏したから、赦して下さったのではありません。
すべてに先立って、すべての罪を赦して下さった。これは、神にしか出来ないことです。まず、「あなたの罪はもう赦された」と宣言して下さった。だからあなたは、主イエスによる罪の赦しを信じ、悔い改め、神のもとに立ち帰りなさい。赦された者として、新しく生きなさい、と言って下さるのです。
わたしたちは、この与えられた罪の赦しを、感謝して受け入れることしか出来ません。一方的に与えられた罪の赦しを前に、初めて自分の深い罪に気付き、神の御前に悔い改め、恵みを受け入れるのです。
その時、わたしたちは主イエスによって、神との破れた関係を回復させていただき、神との間の和解を得させられるのです。
わたしたちは、一人一人がまず、この大きな憐れみを受けました。
わたしたちは、いつでもまず、この自分の罪を赦して下さった、主イエスの十字架の御前に立たなければなりません。
兄弟の罪を咎めたり、裁いたり、赦す赦さないを論じる前に、まず自分が主イエスの流された血によって、神に赦された者として立っていることを、覚えなければならないのです。
自分が、本当に神を愛することのできない、まったく隣人を愛することができない者であったこと。罪を赦されなければならない者であったこと。そして、既にその罪の赦しを与えられているということ。
その恵みに立った時、初めてわたしたちは、神の憐れみに生かされている者として、神がわたしに何を望んでおられるかを知るのです。神を愛し、隣人を愛する者になることを、神が望んでおられると知るのです。
わたしが兄弟を赦せない、愛せないと思う。兄弟との関わりを拒否する。それは神の御心にかなうことではありません。
しかし、その神になお従えないわたしを、神はすでに赦しておられる。憐れんで下さっている。主イエスが十字架に架かり、あなたの罪は赦されたと言って下さる。今も赦され続けている。
そして、罪を犯した兄弟のことも、神は愛し、憐れんでおられるのです。この神の愛が現わされた、主イエスの十字架による罪の赦しの中でのみ、わたしたち兄弟姉妹は、本当に相手を赦し、悔い改め、和解をすることができるし、神はそうすることを願っておられるのです。
わたしたちは、確かに、兄弟によって深く傷つき、悲しみ、苦しんだかも知れません。決して赦したくないようなことがあったかも知れません。
しかし、わたしたちはそれを自分の忍耐や、頑張りによって赦すことは出来ないのです。ただ、神の御前に出て、十字架にすがり、祈り求めることしか出来ないのです。わたしを赦して下さった神の愛に、憐れみに、頼るしかないのです。
でも主イエスは言われます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエスがわたしたちの間に立って下さることによって、わたしたちは関係を築き、破れを回復し、まことの兄弟を得ることが出来るのです。
そして、天の父が、どんな願い事であれ、兄弟の罪を赦すという困難なことであれ、わたしたちが地上で心を一つにして求めるなら、かなえてくださるのです。
だからわたしたちは、そのことを祈り求める者になりたいのです。そのように生きなさいと、神が望んでおられるからです。
それでも、わたしたちが兄弟の罪を赦すときには、相当な痛みと苦しみが伴うでしょう。悔しさや怒りもあるでしょう。しかし、その痛みは、わたしたちの罪をもっと大きな苦しみと痛みによって赦してくださった主イエスの痛みにあずかるものなのです。それが、主イエスに従って歩むことなのです。
また、その痛みを知ることで、神がわたしのために、どれほどの痛みを負って下さったか、どれだけ深い憐れみをもって、わたしを赦して下さったかを、少し、知ることが出来るのです。
<もう赦されているから>
さて、最後の35節には、主イエスのお言葉で「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたと同じようになさるであろう」と言われています。
わたしたちが、心から、本当に兄弟を赦さないなら、天の父も、同じように赦して下さらないだろう、と仰るのです。これは、まるで交換条件のように聞こえます。わたしたちが赦すということをして、はじめて天の父なる神もわたしたちを赦して下さるというのでしょうか。神の救いは、罪の赦しは一方的だったのではなかったでしょうか。
そうです。天の父なる神は、もうすでにわたしたちを赦しておられます。
あなたがたが赦さなければ、天の父もあなたがたを赦さない。でも、天の父はもうあなたがたを赦している。となれば、もう赦されてしまったあなたがたも、心から兄弟を赦すしかないでしょう、ということです。先に天の父の赦しが与えられてしまっているからです。
あなたは赦されている。だから、あなたがたも、心から兄弟を赦すのだ。赦すことが出来るのだ。そう言われているのです。
もし家来が、主君に莫大な借金を赦されていなければ、当然、金を貸した仲間への取り立ては更に厳しくするでしょうし、借金を赦すことが出来ないのは仕方のないことです。
でも、家来は主君に借金を帳消しにして頂いたのではなかったでしょうか。
わたしたちも、自分では償うことの出来ない、莫大な罪の負債を、すでに赦されたのです。だから、あなたが赦されたように、兄弟を赦してやりなさい。主君に憐れんでいただいたように、あなたも憐れむ者となりなさい。主イエスの名によって集まり、祈り、共に十字架の御前に立ち、赦す者、赦される者となることを、祈り求めなさい。天の父はそれをかなえてくださる。そう主イエスは教えて下さるのです。
それが、神のご支配、天の国に入れられた者の生き方なのです。