「神は我々と共におられる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章11-15節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章18-25節
・ 讃美歌:248、278、266、洗礼67、聖餐76
クリスマスを祝えるのはヨセフのおかげ
主イエス・キリストのご降誕を喜び祝うクリスマスを迎えました。神の独り子であられ、ご自身もまことの神であられる主イエス・キリストが、私たちを救うために、一人の人間となって、母マリアからこの世に生まれて下さったのです。クリスマスに私たちはそのことを喜び祝います。このクリスマスの出来事の根本的な意味を、先程読まれたマタイによる福音書第1章18節以下は、「インマヌエル」という言葉で言い表しています。ここは、自分の婚約者マリアが、誰によってか分からないが妊娠している、という衝撃的な事実を知ったヨセフが、どうしたらよいのかと思い悩んでいたところに天使が現れたという場面です。天使は彼に、マリアは聖霊によって身ごもったのだから、恐れず彼女を妻として迎え入れ、生まれて来る男の子にイエスと名付けなさい、と言ったのです。子どもに名前を付けるというのは、その子を自分の子として育てていく、ということです。天使は、あなたがそうすることによって、旧約聖書に語られている預言が実現するのだ、と言いました。その預言とは「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という、イザヤ書第7章に語られているものです。主イエスがおとめマリアから生まれることによって「インマヌエル」が実現する。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。あなたがマリアを妻として迎え入れ、生まれて来る子を自分の子として育てていくことによって、インマヌエル、神が私たちと共にいて下さるという恵みが実現するのだ、と天使は告げたのです。ヨセフはこの天使のお告げを信じて、自分によらずに妊娠しているマリアを妻として迎え入れたのです。もしもヨセフがこの決断をしなかったなら、つまりマリアのことを、自分という婚約者を裏切って他の男と関係した不届きな女として公の場に訴えていたら、当時の掟ではマリアは死刑になっていたかもしれません。たとえそうではなくて、19節に書かれているようにヨセフがこのことを表沙汰にせずにひそかにマリアと縁を切っていたとしても、主イエスは父親のいない子になってしまったし、何よりも、この福音書の冒頭に長々と記されている、アブラハムからダビデ王を経て主イエスに至る系図がつながらなくなってしまうのです。ダビデ王の子孫はヨセフなのですから、ヨセフが主イエスを自分の子として受け入れたことによってこそこの系図はつながり、ダビデ王の子孫に救い主が生まれるという預言が主イエスにおいて実現した、と言うことができるようになったのです。ですからヨセフが天使のお告げを信じてマリアを妻として迎え入れたことは、主イエスが救い主として歩むことができるか否かを決めたと言っても過言ではない、大事な決断だったのです。私たちが今クリスマスをこうして喜び祝うことができているのは、このヨセフの決断のおかげなのです。
インマヌエル
ヨセフがマリアを妻として迎え入れる決断をしたのは、彼が天使のお告げを信じたからですが、それは、彼自身が、インマヌエル、神が自分と共にいて下さる、という恵みを信じたからだと言えるでしょう。インマヌエル、神が我々と共におられる、とは、神さまが、この自分と共におられる、ということです。神は誰かと共におられる、というような他人事ではありません。ヨセフは、マリアに裏切られたのではないかという疑いの思いに苦しめられていて、どうしたらよいか分からないでいる、そういう苦しみや悲しみをかかえているその自分の傍らに、神が共にいて下さることを信じて、マリアとの結婚に踏み切ったのです。私たちも、苦しみや悲しみ、怒りやいらだちによって心穏やかではおれなくなっている、その自分と共に神がいて下さり、守りと支えと導きを与えて下さることを信じることによってこそ、一歩先へと歩み出すことができます。その歩みの先に何が起るのか、自分の人生がどうなっていくのか、はっきりとは分からないけれども、神が必ず共にいて導いて下さり、最もよいことをして下さる、恵みのみ業を行なって下さる、そう信じて人生の新たな一歩を歩み出していく、それがインマヌエル、神は我々と共におられる、という信仰に生きることです。ヨセフはこのインマヌエルを信じて、天使の言った通りに、マリアを妻として迎え、生まれた子にイエスと名付けたのです。そしてこの後の第2章を読むと分かりますが、彼はこの決断によって、マリアと幼な子主イエスを守るための大きな苦難を引き受けていくことになりました。しかしその苦難の中で、天使が常に歩むべき道を彼に示し、導いてくれることをも体験していきました。神のみ言葉に従って生きるゆえの苦しみの中で彼は、インマヌエル、神が共にいて下さるという恵みを体験していくことができたのです。このインマヌエル、神は我々と共におられるということこそが、主イエス・キリストの誕生によって私たちにもたらされた恵みであり、喜びなのです。
モーセに示されたインマヌエル
先程共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章11節以下には、主なる神がモーセにインマヌエルの恵みを告げておられることが語られていました。イスラエルの民はこの時、エジプトで奴隷として苦しめられていました。主なる神はそのイスラエルを苦しみから救い出すために、モーセを指導者として立て、遣わそうとしておられるのです。しかしモーセは、自分にはそんな大それた働きをする力はありません、と言って、神が与えようとしておられる務めを断ろうとしたのです。そのモーセに12節で神は「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束しておられます。インマヌエル、神が私と共にいて下さるという恵みを、神ご自身がモーセにこうして約束しておられるのです。
それを聞いたモーセはさらにこのように神さまに問うています。「私がイスラエルの人々のところに行って、神さまが私に現れて私をあなたがたのもとにお遣わしになったと言った時、人々は、その神の名は何というのかと尋ねるでしょう、その時どう答えればよいのですか」。この問いかけは、単に神さまをどうお呼びしたらよいのか、ということではありません。神さまのお名前を問うというのは、その神さまがどのような方として自分と関わろうとしておられるのか、要するに自分にとって神さまはどのような方なのかを問うているのです。そういう問いへの答えをモーセは求めたのです。
「ある」と「いる」
モーセのこの問いに対して主なる神さまは、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになりました。この箇所をどのように訳すかは、聖書の翻訳における最大の困難の一つです。以前の口語訳聖書ではここは「わたしは、有って有る者」と訳されていました。また、つい数週間前に出た新しい翻訳、「聖書協会共同訳」ではここは「私はいる、という者である」と訳されています。「わたしは、有って有る者」から、「わたしはある。わたしはあるという者だ」となり、さらに「私はいる、という者である」となった翻訳の変遷から気づかされることがあります。口語訳と現在の新共同訳は「ある」という言葉を土台として訳されているのに対して、新しい訳では「いる」という言葉が土台となっていることです。「ある」という言葉を土台としてこの箇所を訳すということは、主なる神がここで、ご自分が確かに存在しておられることを強調しておられるのだと理解しているということです。「わたしは、有って有る者」という訳も「わたしはある。わたしはあるという者だ」という訳も、誰が何と言おうと、私は確かに存在している、生きている、私の意志を実現している、ということを語っていると言えるでしょう。それに対して、新しい訳が「私はいる」と訳したのは、この箇所についての解釈が少し違ってきていることを示しています。「いる」という言葉は、「ある」と同じく「存在している」という意味にも取れますが、それよりもむしろ、「どこにいるのか」ということを意識させる言葉だと言えます。つまり主なる神がご自分のお名前を告げているこの言葉は、神が「確かに存在する」ことを語っていると言うよりも、神がどこにおられるのか、つまり私たちとの関係においてどのような方なのか、を語っているのだ、と理解されるようになってきているのです。ということは、14節の神のお名前は、12節の「わたしは必ずあなたと共にいる」という神の宣言と結び付けて読まれるべきだ、ということです。わたしはあなたを遣わしてイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出す。あなたがその使命を行なっていくその歩みにおいてわたしは必ず共にいて、あなたを支え、導き、救いの業を実現する、そういう者としてわたしはあなたと共にいる。それが「わたしはある」ないしは「わたしはいる」と訳されている神のお名前の意味なのです。ですからこのお名前が示しているのも、インマヌエル、神は我々と共におられる、ということです。モーセは、インマヌエルの主と出会ったのです。そのことによって彼は、イスラエルの民をエジプトの王ファラオの支配から解放するための働きへと歩み出して行ったのです。
具体的に共にいて下さる神
神の独り子主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことによって、インマヌエルの恵みが私たちに示されました。それは、神さまが共にいて下さるのだと信じて、希望をもって頑張ろう、というような、単なる励ましの教えではありません。モーセは、イスラエルの民を奴隷として支配しているエジプトの王ファラオのもとに遣わされて、民の解放を求め、何度も拒まれながら、厳しい交渉をしていきました。彼と共にいて下さった主なる神ご自身が、数々の奇跡を行い、様々な災いを下してご自身こそ神であることを示して下さったことによって、ついにファラオもイスラエルの解放を認めたのです。インマヌエルの神は、そのような具体的なみ業をもってモーセを支え、導き、イスラエルの民の救いを実現して下さったのです。ヨセフも、天使が語った言葉を全てその通りに信じて受け入れ、マリアを妻として迎え、生まれた子をイエスと名付けました。そして彼はこの後、幼子を殺そうとしているヘロデから主イエスを守るために家族を連れてエジプトにまで逃れていくことになりました。マリアを迎え入れ、主イエスの父となったために、そういう苦労の多い人生を歩んでいったのです。しかしその人生には、インマヌエルの神がいつも共にいて下さいました。エジプトに逃れることも、そこから帰ることも、全て神が具体的に指示して下さったのです。インマヌエルの神はこのように、ただ励ましを与えるのではなくて、私たちの人生を具体的に導いて下さるのです。
私たちは、神に背き逆らっている罪人であり、み心に反する思いや言葉や行いを繰り返している者です。だから私たちの人生は、罪と汚れに満ちており、弱さや欠けだらけです。でも、その私たちと同じ人間となってこの世に生まれて下さった主イエスは、その私たちの罪を全てご自身の身に負って、十字架の死へと向かう人生を歩んで下さったのです。主イエスの十字架の死こそ、主イエスにおいてインマヌエル、神が我々と共におられる、という恵みが具体的に実現していることの明確なしるしです。私たちがどんなに罪深い、神に背き逆らっている者であっても、主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちと共にいて下さり、私たちの罪を赦し、救いを与えて下さるのです。
人生の新しい一歩を歩み出す
本日のこのクリスマス礼拝において、四名の方々が洗礼を受け、このインマヌエルの主イエス・キリストと結び合わされ、人生の新しい一歩を歩み出そうとしておられます。またお一人の方が、幼い日に、親の信仰に基づいて既に自分が主イエスと結び合わされていた、その恵みを信じて受け入れる信仰の告白をします。五名の方々が新たにこの群れの一員となって、共に聖餐にあずかる者として新たに歩み出すのです。それぞれの人生のこれからの歩みには、様々な出来事があるでしょう。苦しい事、つらいこと、悲しいこともあるでしょう。主イエスを信じ、受け入れたがゆえに起って来る苦しみを味わうことだってあるでしょう。しかしその人生の全ての場面において、インマヌエルの神主イエスが共にいて下さり、具体的な支えと助けを与えていって下さるのです。そのことを私たちがこの体をもって具体的に味わい、体験するために、聖餐が与えられています。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、インマヌエル、神が我々と共におられる恵みを、この体をもって繰り返し体験していくのです。インマヌエルの主イエスは、私たちが地上の命を終える時にも、共にいて下さり、私たちをみもとに迎えて下さいます。私たちは肉体の死によって、主イエスが神の子としての栄光をもって再び来られる世の終わりの日に与えて下さる復活と永遠の命を待ち望みつつ主イエスのもとで憩う者とされるのです。主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされるなら、私たちの人生は、生きている時も死においても神が共にいて下さるインマヌエルの恵みの中に置かれるのです。このインマヌエルの恵みを実現するために、神の独り子イエス・キリストが人間となってこの世に生まれて下さったことを、私たちはクリスマスに喜び祝うのです。今この礼拝に集っている全ての者たちに、インマヌエルの主イエス・キリストが臨んで下さり、人生の新しい一歩を歩み出させて下さいますように。