主日礼拝

キリストの足跡に続く

「キリストの足跡に続く」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章18-25節
・ 讃美歌:309、310、454

受難週
 本日は「棕櫚の主日」と呼ばれている日曜日で、今週は「受難週」です。今年は3月1日から、主イエス・キリストの苦しみと死を覚える「受難節」(レント)の期間に入っていますが、今週がそのクライマックスであり、今週の金曜日が「受難日」、主イエスの十字架の死の日です。主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺された、その最後の歩みを覚えつつ今週を過ごすのです。そのために、今朝から早朝祈祷会が始まっています。今週は毎朝6時30分から教会で祈りの時を持っていますので、どうぞ皆さん、早起きしてお集まり下さい。教会で祈ってから職場や学校へ行くというのもなかなかよいものです。また早朝はどうしても無理という方のためには、今週の水木金と受難週祈祷会があります。木曜と金曜は聖餐にもあずかりますので、こちらもどうぞご出席下さい。教会の信仰は、今週だけではなく常に、主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことを覚え続けていくことですが、しかしこの受難週を特別な期間として、普段の生活とは少し違う仕方で祈りつつ歩むことは大切なことだと思います。そのようにして今週を歩むことによって、来週の復活祭、イースターをより深い喜びをもって迎えることができるのです。

罪のない主イエスが
 受難週に入るこの棕櫚の主日の礼拝において読む聖書の箇所をどうしようかと考えまして、今連続して読んでいるローマの信徒への手紙からは離れて、ペトロの手紙一の第2章18節以下を読むことにしました。ここには、主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったこと、そしてその主イエスがお受けになった苦しみと死とによって私たちに救いが与えられたことがはっきりと語られています。21節にこうあります。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け」とあります。主イエス・キリストが苦しみを受けたのはあなたがたのためだったのだ、とはっきり語られているのです。そのキリストが私たちのために受けて下さった苦しみのことが22節以下に語られていきます。先ず22節には「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」という言葉が引用されています。それは本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるイザヤ書第53章の9節の言葉です。今私たちが読んでいる聖書では、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに」となっています。そしてそれに続いて「その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」と語られています。不法を働かず、偽りを語ったこともない人が、神に逆らう者つまり罪人と一緒にされて殺されたのです。「富める者と共に葬られた」とも言われており、「富める者」が「罪人」と同じ意味で語られています。それは、富んでいながら貧しい人たちのことを顧みず、自分が豊かに快適に暮らすことしか考えていない人々、ということでしょう。隣人を愛することのない罪人です。そのような人では全くなく、不法を働かず隣人を愛して生きたのに、神に逆らう罪人の一人とされて殺されてしまった人のことをこのイザヤ書53章は見つめているのです。これは主イエス・キリストがお生まれになるよりも何百年も前に書かれたものですが、まさに主イエスの十字架の死を前もって指し示していたと言うことができます。主イエスの十字架の死はまさにこのような出来事でした。主イエスは、神の国つまり神のご支配による救いの到来を告げ、その神による救いのしるしとして病人を癒したり、悪霊を追い出したり、苦しみの中にある人々を救う愛の働きをしておられました。神の愛を告げ、その表れである愛の業のみを行っておられたのです。そのように罪を犯したこともなければ、偽りを語ったこともない主イエスが、罪人として捕えられ、十字架にかけられて死刑にされてしまったのです。

神の御心に従って
 しかも主イエスは23節にあるように「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」。人々を愛することのみをしてこられたのに、ののしられ、苦しみを与えられ、裁かれたことに対して主イエスは、全く言い返すことをなさらず、苦しめる人々に対抗して戦おうとせず、裁きの場においても全く弁明をなさいませんでした。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というご自分がお語りになった教えをそのままに実行なさったのです。捕えられ十字架につけられていく最後の日々、主イエスはまさにそのように、自分をののしり、苦しめ、裁く人々に全く抵抗せず、されるがままだったのです。この主イエスのお姿は、イザヤ書53章7節の「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように彼は口を開かなかった」このままです。主イエスは羊のように抵抗することなく無言で殺されたのです。それは全く受け身の、敵対する者たちのなすがままになっていたお姿だったようにも見えます。しかしこの23節は、実はそうではないということをはっきりと語っています。主イエスがののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さなかったのは、自分をののしり敵対する人々に身を任せたのではなくて、「正しくお裁きになる方にお任せになった」ということだったのです。つまり主イエスの受けた苦しみと死は、主イエスが真実の裁き主である父なる神にご自分を委ね、神の御心に従い通した、という出来事だったのです。ですから主イエスの十字架の死において実現したのは、敵対する者たちの思いや目論見ではなくて、実は父なる神の御心だったのです。

私たちの救いのために
 それゆえに、主イエスの十字架の死は私たちのための救いのみ業でした。そのことが24節に語られています。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。主イエスは父なる神に身を委ね、神のみ心に従って十字架にかかって死んで下さったのです。その苦しみと死は、主イエスがご自分の身に私たちの罪を担って下さり、罪人である私たちの身代わりになって死んで下さったという出来事だったのです。主イエスがそのように私たちの罪を担って死んで下さったことによって、私たちは罪に対して死んで、義によって生きる者とされました。「罪に対して死ぬ」とは、罪に支配されている生まれつきの私たちが死んでしまって、罪を赦され、その支配から解放されることです。そして「義によって生きる」とは、神によって罪を赦され、義とされた者としての新しい命を与えられることです。主イエスが十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって、私たちにこのような救いが与えられたのです。その救いの印が洗礼です。洗礼を受けることによって私たちも、主イエスの十字架の死にあずかって、古い、罪に支配された自分が死んでしまい、主イエスの復活にあずかって、義とされた者として新しく生まれ変わって生きるのです。主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受けて下さったのは、私たちが罪に対して死んで、義によって生きる者となるという救いを与えて下さるためだったのです。

主イエスの傷による癒し
 そのことが24節の終わりには「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と言い表されています。これはやはりイザヤ書53章の5節から来ています。その5節全体にはこう語られています。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。この最後のところ、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」から「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」が語られているのです。この5節もまさに主イエスの十字架の苦しみと死によって実現した救いを告げています。主イエスは私たちの背きの罪のために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれたのです。刺し貫かれ、打ち砕かれるべきだったのは本来罪人である私たちです。私たちが受けるべき懲らしめを主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちには赦しが与えられ、神との平和が与えられたのです。罪のない主イエスが十字架にかかって受けて下さった傷によって、私たちの罪の傷が癒されたのです。このように、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって私たちに救いが与えられました。私たちはこの受難週に、このことを深く覚え、感謝しつつ歩むのです。

魂の牧者のもとに
 25節には、この主イエスの苦しみと死とによって救われた私たちに与えられている恵みが語られています。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが」というところはやはり、イザヤ書53章の6節です。そこにはこう語られています。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」。罪の下にあった生まれつきの私たちのことが、迷子になった羊に譬えられているのです。私たちは羊のようにさまよっていた、それはイザヤ書が言っているように、「道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」からです。羊飼いである神の下で守られ、養われていてこそ生きることができるのに、その神のもとに留まろうとせず、それぞれ自分の勝手な思いで勝手な方向へと歩んでしまったために、迷子になり、さまよってしまっているのです。しかし主なる神はその私たちの罪を全て彼に、主イエスに負わせられた。主イエスが私たちの罪を全て背負って、屠り場に引かれる小羊のように黙って死んでいかれたのです。この主イエスの十字架の死によって私たちは罪を赦されて、魂の牧者であり、監督者である方のもとに、つまりまことの良い羊飼いのもとに戻って来ることができたのです。群れから迷い出て勝手な方向へ歩んでしまったために迷子になっていた私たちを、良い羊飼いである主イエスが捜しに来て下さり、見つけ出して群れに連れ帰って下さったのです。洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかり、キリストの体である教会の一員とされている信仰者は今や、愛と恵みに満ちた魂の牧者の下に守られ、養われる者とされているのです。

主イエスによる執り成し
 このように21節以下には、キリストの十字架の苦しみと死とによって私たちに与えられている救いの恵みが、イザヤ書53章と重ね合わされて語られています。イザヤ書53章は、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって私たちに与えられた救いとはどのようなものかを教え示してくれているのです。その最後のところ、11、12節を読んでおきます。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびたただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」。神の独り子であられる主イエスが、神に従順に従う僕として、私たちの罪を自ら負って苦しみを受けて下さったことによって私たちは義とされたのです。主イエスは自らをなげうち、私たちの過ちを担い、罪人の一人として裁かれ殺されることによって、私たち罪人のための執り成しをして下さいました。この主イエスの執り成しによって、父なる神は私たちの罪を赦して下さり、神の民として新しく生かして下さっているのです。私たちはこの受難週に、主イエスによるこの救いの恵みを覚え、魂の牧者であり監督者の下に立ち帰った者としての新しい歩みを追い求めていくのです。

主イエスの足跡に続く
 21節以下は、私たちが追い求めるべき新しい歩みとはどのようなものかを語っています。もう一度21節を読みます。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。キリストが私たちのために受けて下さった苦しみは、私たちがその足跡に続くための模範だったのです。私たちが追い求めるべき新しい歩みは、キリストを模範として、キリストの足跡に続いて行く歩みなのです。その歩みにおいてキリストの何を模範とし、どのような足跡に続いていくことが求められているのかを示すためにこの21節以下が語られていたのです。つまり私たちが主イエス・キリストを模範とし、その足跡に続いていくというのは、キリストのように人々を愛して生きるとか、世の中の悪や矛盾と戦っていく、というようなことであるよりも先ず、自分は罪を犯していないのに他の人の罪を負わされ裁かれる、そういう苦しみを引き受けることです。つまり人間による不当な裁きを受ける中でも、正しくお裁きになる神に全てをお任せして、神のみ心に従って歩むことです。そのようにして自らの苦しみによって罪ある人のための執り成しをすることです。主イエス・キリストはまさにそのように歩むことによって、罪人である私たちのための執り成しをし、救いを与えて下さいました。その主イエスの足跡に続いていくことが、私たちの追い求めるべき新しい生き方なのです。

不当な苦しみを忍耐する
 そのことは19節においては「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」と言い表されています。何の罪もない主イエスが私たちの罪を背負って受けて下さった苦しみはまさに「不当な苦しみ」でした。主イエスが不当な苦しみを、神のみ心に従って引き受け、耐えて下さったことによって、私たちは救われたのです。その主イエスの足跡に続く私たちも、不当な苦しみを自らの身に引き受けるのです。この勧めは18節の冒頭に「召し使いたち」とあるように、召し使い、つまり奴隷の身分で主イエスを信じる者となった人々に対して語られているものです。奴隷である信仰者に、「心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と勧められています。無慈悲な主人の下に使われている奴隷は、不当な苦しみを日々受けるのです。そのことを前提として読むと20節はよく分かるのです。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」。そしてこれが21節の「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」へと続いていくのです。無慈悲な主人の下にいる奴隷は、善を行って苦しみを受ける、つまり不当な苦しみを受けますが、その苦しみを、キリストの模範に従って、神が自分にお与えになった苦しみとして耐え忍ぶなら、それは神のみ心に適う歩みなのです。キリストが忍耐して受けて下さった苦しみと死を私たちの罪の赦しのための執り成しとして受け止めて下さった神は、私たちの忍耐をも、キリストの忍耐の足跡に従う信仰の歩みとして受け止めて下さるのです。
 ですからここに語られていることを、キリスト信者は不当な苦しみを受けてもそれに対抗してはならない、黙って忍耐しなければならない、という教えとして読むべきではないでしょう。この世には様々な不当な苦しみがあり、またそれを人に与えてしまうような仕組みがあります。人間の努力でそれと戦うことによって事態を改善できることも沢山あるのです。それらにおいて、戦えるのに戦わずに不当な苦しみを放置しておくことは神の御心に適うことではないでしょう。しかし事柄によって、また人それぞれの置かれた状況によって、戦うことができない場合もあります。無慈悲な主人に使われている奴隷というのはまさにそういう立場だったでしょう。しかしそこにおいても、不当な苦しみを耐え忍ぶことにおいて、主イエスの足跡に続き、神の御心に従って歩むことができるのだ、ということをここは語っているのです。

主イエスの足跡に続いて歩む私たち
 そういう意味でこの教えは、私たち全ての者に当てはまるものです。私たちはこの世において、様々に異なった賜物を与えられており、違った環境に生きており、与えられている立場も違います。しかしどのような者として生きていようとも、それぞれの人生において、主イエスの足跡に続き、その模範に従って生きることができるのだし、そのことへと召されているのです。主イエスの足跡に続き、その模範に従って生きることは、華々しい愛の業をするとか、他者のための献身的な奉仕活動に生きるというようなことだけではありません。そういう働きをしていないと主イエスの足跡に続いて歩んでいない、などということはありません。主イエスを模範とし、その足跡に続くことの根本は、他者の罪のゆえの不当な苦しみを忍耐して引き受けることです。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶことです。そこにおいて、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方に自分をお任せすることです。主イエスはそのようにして、私たち罪人のための執り成しをし、私たちの罪の赦しを実現して下さいました。私たちはこの主イエス・キリストの苦しみの足跡に続いていくことへと召されているのです。その歩みは決して華々しいものでも、人々に感心されて褒められるようなものでもありません。イザヤ書53章2、3節にもこう語られていました。「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」。しかしこの主の僕が、そのみすぼらしい、見栄えのしない、軽蔑され見捨てられるような歩みによって私たちの罪を背負い、執り成しをしてくれたおかげで、罪人が義とされ救われたのです。私たちは、この主イエスの足跡に続いていくのです。そこにこそ、キリストによる救いを受けた私たちが追い求めるべき新しい歩みがあるのです。この受難週、主イエスの私たちのための苦しみと死とを覚えることを通して、この新しい歩みを追い求めていきたいのです。そこでは私たちが不当な苦しみを耐え忍ぶことを、神が、主イエスに従うこととして位置づけ、意味あるものとして下さるのです。

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