主日礼拝

愛は多くの罪を覆う

「愛は多くの罪を覆う」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:箴言第10章12節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一第4章7-11節
・ 讃美歌:15、140、481

よく祈りなさい
本日は、この主日礼拝を開会礼拝として、教会全体修養会が行なわ れます。その主題は、本年度のこの教会の年間主題である「祈りの交 わりを深め、伝道する教会」です。その主題を意識しつつ、本日の聖 書箇所であるペトロの手紙一の第4章7節以下を選びました。その最 初の7節に「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるま い、身を慎んで、よく祈りなさい」とあります。この「よく祈りなさ い」という勧めが、「祈りの交わりを深め」という主題と結び合うの です。祈りの交わりを深める第一歩は、私たち一人一人が「よく祈る 」者となることです。本日の修養会が、そのことを目指して新たな一 歩を歩み出すきっかけとなることを願っています。昨年から始めたこ とですが、分団での話合いの最後には小さな祈祷会を持つことになっ ています。一言ずつでも共に祈る時を持つことによって、「よく祈り なさい」という勧めを実践していきたいと思います。そのことを通し て、「祈りの交わりを深め」ていきましょう。

思慮深く、身を慎み<
何が起こるのか。この手紙の1章13節にこのように語られています 。「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリスト が現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」。「イ エス・キリストが現れる」、これが、万物の終わりに起こることです 。つまり、復活して天に昇られた主イエスが、もう一度この世に来ら れるのです。もう一度来られる主イエスは何をなさるのか、そのこと はこの第4章の5節に語られています。「彼らは、生きている者と死 んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりま せん」。もう一度来られる主イエスは、生きている者と死んだ者とを 、つまり全ての者を、お裁きになるのです。いわゆる「最後の審判」 です。主イエスがもう一度来られ、最後の審判をなさることによって 、万物が終わるのです。その時、主イエスのこの世界全体に対するご 支配があらわになり、確立するのです。その時全ての者は、この世界 の真実な支配者であり裁き主である主イエスの前に立ち、自分のした ことについて申し開きをしなければなりません。それは恐ろしいこと でもあります。しかし主イエス・キリストの十字架の死によって罪を 赦されている者は、その裁きにおいて、滅ぼされることなく救われる のです。だから先程の1章13節にあったように、「イエス・キリス トが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望」むことができ るのです。キリストによる最後の審判は、主イエスを信じる者にとっ ては、主イエスのご支配の確立によって、復活と永遠の命を与えられ る恵みの時、救いの完成の時なのです。「万物の終わりが迫っていま す」というのは、この主イエスによる救いの完成が近づいているとい うことです。主イエス・キリストがこの世に来て下さり、十字架の死 と復活による救いのみ業を行なって下さったことによって、その主イ エスがもう一度来られることによる万物の終わりは決定的に近づいて いるのです。万物の終りは、全てのものが滅び去る恐ろしい破局では ありません。勿論世の終わりにこの世の全てのものは滅び去るのです が、そのことを通して、キリストの復活にあずかり、キリストと共に 永遠の命を生きる者とされるという救いが完成するのです。キリスト 信者は、この救いの完成を待ち望みつつ生きているのです。この信仰 によってこそ、思慮深く身を慎んでいること、つまりこの世の事柄を 正しく判断し、平静であることができます。正しい判断とは、この世 の終わりにキリストのご支配が確立し、救いが完成することを見つめ つつこの世の物事を判断することです。それによって私たちは、罪の 力が圧倒的に支配しており、自分のまた他の人の罪や弱さや欠けによ って様々な悲惨な出来事が起り、自分の無力さを思い知らされ、苦し みや悲しみや怒りに捕えられてしまうというこの世の現実の中で、し かし全てのことを最終的に支配しているのは人間の罪の力ではなくて キリストによる神の恵みの力なのだということを見つめて生きること ができるのです。そして、諦めや絶望に陥ることなく、罪の力による 苦しみ悲しみと戦っていくことができるのです。正しい判断力をもっ てこの世の事柄を見極めるとはそういうことです。それによって私た ちは、この世の現実を平静な、落ち着いた心で見つめ、受け止めるこ とができるようになります。私たちを支配している罪の力は、私たち がそれに打ち勝つことはとうてい出来ないくらい大きいけれども、キ リストが世の終りに罪の力を滅ぼして救いの完成を与えて下さること を信じて、絶望せずに歩み続けることができるようになるのです。ま た、例えば昨日パリで起きたテロのような悲惨な現実を前にして、怒 りや憎しみ、あるいは恐怖に捕えられて冷静さを失い、憎しみを煽る 人々の声に押し流されてしまうことを免れることができるのです。主 イエス・キリストのご支配が世の終わりに明らかになり、救いの完成 が与えられることを信じて待ち望むことによってこそ、そのように思 慮深く身を慎むことができるようになるのです。

終末への希望と祈り
「よく祈る」ことは、この終末における救いの完成を見つめて生き ることと結び合っています。私たちは、主イエス・キリストの救いが この世の終わりに完成することを信じているからこそ、祈ることが出 来るのです。私たちの歩みやそこに起こるいろいろな出来事が、この 世の様々な力や人間の思惑によってのみ支配されていると思っている なら、祈ることには意味がありません。そんなことをしても無駄だし 、祈っている暇があったら一生懸命考えて何らかの工夫や手立てを講 じた方がよいのです。私たちが祈りを失っていくのはそういう思いに 陥ることによってでしょう。祈っていても仕方がない、自分で何とか するしかないと思ったら祈れなくなるのです。しかしこの世の出来事 や私たちの人生の歩みを根本的に導き支配しておられるのは、主イエ スの父である神です。この世界はその神によって始まり、導かれ、そ の神によって終わるのです。私たちの命、人生も、神によって与えら れ、導かれ、そして神によって終わるのです。そのことを見つめ、世 の終わりに主イエスの父なる神による救いが完成することを信じてい るなら、その神に祈り、自分の思いを打ち明け、願い求めることこそ が、自分の抱えている問題、悩みや苦しみ悲しみなどについての最も 現実的な、また何よりも有効な対処法であることが分かるのです。だ から私たちは、主イエスがもう一度来られて万物が終わることを信じ ることによってこそ、祈ることができるのです。しかしその逆のこと もまた言えます。私たちは祈っていることの中でこそ、つまり神との 交わりに生きることによってこそ、神のご支配と主イエス・キリスト による救いの恵みを体験し、味わい知ることができるのです。礼拝の 中で、み言葉の説き明かしである説教において神の恵みを体験し、味 わうことができるとしたらそれは、この礼拝が神の前に出て神と対話 する時として、つまり祈りとしてなされているからです。ですから私 たちは日々の祈りにおいて、礼拝において味わうのと同じ神の恵みを 味わい、体験していくのです。それによって日々、神の恵みのご支配 を実感し、主イエスによる救いの完成をより深く信じて待ち望む者と されていくのです。このように、終末における救いの完成を信じて待 ち望むことによってこそ祈りが深められ、そして祈ることの中でその 救いの完成を待ち望む信仰が深められていきます。よく祈るようにな ることによってそのような信仰の深まりを与えられていくことを共に 追い求めていきたいのです。

心を込めて愛し合う
しかしこの修養会の主題、今年度の年間主題は、私たち一人一人が よく祈るようになることだけを目指しているのではありません。「祈 りの交わりを深め」と言っているのです。「祈りの交わり」とはどう いうことでしょうか。「祈りにおける神との交わり」と捉えることも できます。しかしこの主題が意味しているのはそうではなくて、祈り において築かれる私たちの交わりです。祈ることと、私たちが交わり 、つまり人間関係を築くことが結び合わされているのです。これは考 えてみると不思議なことです。祈りは、神との交わりに生きることで す。その祈りと人間どうしの交わりはどう結びつくのでしょうか。神 に祈ることで人間どうしの関係がどう築かれると言うのでしょうか。 本日の箇所はまさにそのことを語っているのです。祈りのために思慮 深くあり、身を慎みなさいという勧めに続く8節に「何よりもまず、 心を込めて愛し合いなさい」と語られています。万物の終わり、つま り主イエスによる救いの完成が迫っていることを覚えて、思慮深く身 を慎んで、よく祈って生きる者は、何よりもまず、心を込めて愛し合 うようになるのです。互いに愛し合う交わり、人間関係がそこに築か れていくのです。それは祈っている者どうしの交わり、祈りによって 支えられた交わりです。そういう祈りの交わりを築いていくことによ って、私たちは心を込めて愛し合う者となるのです。

よく祈ることによって愛し合う者となる
祈る者はなぜ愛し合う者となるのか、それは、祈りにおいて私たち は、独り子イエス・キリストの十字架の死によって罪人である私たち を赦して下さった神の愛を受けるからです。神は私たちを心を込めて 愛して下さり、み子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの 全ての罪を覆って下さり、赦して下さったのです。祈ることによって 私たちは、自分の罪を赦して下さった神の愛を受け、その神と共に生 きる者となるのです。その神の愛によって、私たちの人間関係が変わ っていきます。特に、様々なわだかまりがあって良い関係が築けない でいる人との間に、新たな交わりを築いていくことができるようにな っていくのです。それは、自分とその人との関係を損なっている自分 の罪も、また相手の人の罪も、主イエスによって覆われ、赦されてい ることを知らされるからです。相手も自分と同じように主イエスによ って罪を赦されて生きていることが分かるようになるからです。そこ に、わだかまりを乗り越えて新たな関係を築いていく道が開かれるの です。それは決して簡単なことではありません。私たちには自分では どうしようもない罪があり、お互いの罪の中で、どうしても赦せない 人、うまが合わない人がいます。それがこの世を生きている私たちの 現実です。しかしその現実を、主イエスによって与えられた罪の赦し の恵みを通して見つめ直し、そして主イエスがもう一度来て下さる世 の終わりには、私の罪にもその人の罪にも勝利して、私にもその人に も救いの完成を与えて下さる、その希望の中でその人との関係を見つ め直していくことが、私たちには出来るはずなのです。それこそが、 万物の終りが迫っていることを思い、思慮深く、正しい判断力をもっ てこの世の事柄を見極めることです。そのようにして私たちは、人と の関係においても身を慎んで、怒りや憎しみに支配されてしまうこと なく、平静に落ち着いて、愛し合う関係を築いていくために努力して いくことができるのです。そしてそのような歩みは、先ほども見たよ うに、祈りにおいて神との交わりに生き、主イエスによる救いの恵み を体験し、味わっていく中でこそ与えられます。よく祈る者となるこ とによってこそ私たちは愛し合うことができるようになるのです。

愛は多くの罪を覆う
8節の後半には、「愛は多くの罪を覆うからです」とあります。心 を込めて愛し合う交わりを築いていくために、私たちがしっかり見つ めておくべきことがここに示されています。愛とは、罪を覆うものな のです。愛するとは、罪を覆うことです。その罪は自分の罪ではなく て、相手の罪です。相手の罪のために関係がぎくしゃくしている、そ れはお互いにそう思っているわけですが、そういう中で、相手の罪を 覆うこと、つまりその罪を指摘し、断罪し、批判攻撃するのではなく て赦すこと、赦して新しい関係を築いていくこと、それが愛すること なのです。「愛は多くの罪を覆う」というのは美しい言葉ですが、そ れは、愛によってこういう良いことがもたらされる、愛とはなんと素 晴しいものか、という話ではなくて、あなたは愛するためにはその人 の罪を覆い、赦さなければならない、そのことなしに愛することはで きない、と教えているのです。心を込めて愛し合う交わりを築くため には、多くの罪を覆う愛に生きなければなりません。私たち一人一人 が、自分はどのように他の人の罪を覆う愛に生きているかを顧みるこ とが求められているのです。

他者の罪を覆う愛に生きるとは
それは極めて具体的なことです。あの人のこの罪を、弱さを、欠け を、覆い、赦し、その人を受け入れ、交わりを築いているのか、それ ともそれを責め、あんなことでは駄目だと批判し、交わりを築こうと せず、そっぽを向いて無視しているのか、ということです。9節以下 にはその具体的なことが語られています。9節には「不平を言わずに もてなし合いなさい」とあります。もてなし合うこと、つまりお互い に相手のために支えや助けの手を差し伸べ合うこと、それが「多くの 罪を覆う」愛の具体的な姿なのです。そこに「不平を言わず」とあり ます。ともすればそこに不平が生じるのです。「自分は一生懸命もて なしているのに、あの人は感謝しない」とか、「自分ばっかりがもて なしていて、他の人は協力しない」とか、「あんな人はもてなしたく ない」とかです。しかしそのような不平を言わずにもてなしていく、 どんな場合でも人を支え助けていく、それが「多くの罪を覆う」愛に 生きることなのです。また10節には「あなたがたはそれぞれ、賜物 を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として 、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とあります。私たちにはそ れぞれ、神から様々に異なった賜物が与えられている、そのことを先 ず確認しなければなりません。それは、自分に与えられている賜物だ けを見つめ、それを生かすことだけを考えていたのでは出来ません。 他の人にも、その人なりの賜物が神から与えられている、それを認め 、尊重し、それが生かされていくようにすることが求められているの です。他の人に与えられている賜物はしばしば、自分にとっては理解 できなかったり、嫌いだったりします。そんなものは神の賜物ではな い、生かされる必要はない、と思ってしまうことがあるのです。しか し神が私たちに与えておられる賜物は、私たちの思いをはるかに超え て大きく広いものです。それをお互いに受け入れ合い、生かし合って 、それによって互いに仕え合うことが必要なのです。そこにもまた、 多くの罪を覆う愛が求められています。心を込めて愛し合う交わりは 、お互いの異なった賜物を認め合い、生かし合い、仕え合う交わりな のです。

祈ることによってこそ
このような具体的なことを見つめていく時に私たちは、自分が、自 分たちが、心を込めて愛し合う交わりを築くことが出来ていないこと 、多くの罪を覆う愛に生きることが出来ていないことをはっきりと示 されます。そしてそれは、私たちがそのことを反省して、これからは ちゃんと愛し合って生きる者となり、そういう共同体を築いて行こう と努力することによってどうにかなるような事柄ではない、というこ とも示されるのです。私たちは、人間の力や努力で愛し合う関係を築 くことは出来ません。それゆえに私たちは、祈らなければならないの です。この礼拝をも含めた祈りにおいて、私たちを愛し、私たちの、 自分ではどうすることもできない多くの罪を覆って下さった主イエス ・キリストのみ前に出て、主イエスとの、そして主イエスの父なる神 との交わりに生きることが必要なのです。その祈りにおいてこそ、聖 霊なる神様が私たちに働いて下さって、主イエスによる罪の赦しの恵 みを味わわせ、世の終わりに主イエスがもう一度来られることによっ て罪が滅ぼされ、救いの完成が、復活と永遠の命が与えられることを 待ち望む希望を確かなものとして下さるのです。私たちがそのような 祈りに生きる者となり、また私たちの交わりが祈りの交わりとなるこ との中でこそ私たちは、本当の意味で思慮深く、主イエスによる罪の 赦しの恵みを通してこの世の事柄を見つめ判断し、隣人との関係、兄 弟姉妹との交わりを見つめ直していくことができるのです。そして罪 による悲惨な出来事に満ちているこの世の現実の中で、平静に、落ち 着いて苦しみや悲しみと戦い、またお互いの罪を覆い合いつつ生きる 愛の関係を新たに築いていくことができるのです。

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