「死は勝利にのみ込まれた」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ヨブ記第19章23-27節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙一第15章50-58節
・ 讃美歌:145、361、467
召天者記念礼拝
本日の礼拝は、「召天者記念礼拝」です。この教会の教会員として天に召された方々、およびこの教会でご葬儀が行われた方々を覚え、ご遺族と共に守るこの礼拝を始めて3年目となります。年に一度、このように先に天に召された方々を覚えて礼拝を守ることが定着してきたことを喜んでいます。この礼拝は決して、天に召された方々を「供養」するためになされるのではありません。私たちは、その方々の魂が既に主なる神様のもとに迎えられ、主と共にある平安を与えられていることを信じています。地上を生きている私たちが何かをすることでその方々のいわゆる「冥福」が増し加わるとは考えていません。この礼拝はそういうことのためではなくて、それらの方々のことを覚えることを通して、なおしばらくこの地上の命を生きて行く私たちが、遅かれ早かれ必ず直面する肉体の死をしっかりと見つめ、それに備えていくためです。つまり天に召された方々のためではなくて、私たち自身のために、この礼拝はあるのです。与えられた聖書のみ言葉を通して、私たち自身の死を見つめ、それにしっかりと備えていきたいのです。
肉と血は神の国を受け継ぐことができない
本日ご一緒に読む新約聖書の箇所はコリントの信徒への手紙一の第15章50節以下ですが、冒頭の50節にこう語られています。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」。ここで「肉と血」とか「朽ちるもの」と言われているのは、私たちが現在生きているこの肉体です。それは「神の国」を受け継ぐことはできないと語られています。「神の国」とは神様の恵みのご支配ということで、言い換えれば「救い」です。現在のこの肉体は救いを受け継ぐことができない、と言っているのです。なぜならばそれは「朽ちるもの」だからです。「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とあります。神の国を受け継ぐというのは、神様の恵みのご支配の下に、朽ちることのない命を生きる者となる、即ち、永遠の命という救いの完成にあずかることです。いつか必ず死んで朽ちていく今のこの体のままで、私たちは永遠の命という救いを得ることはできないのです。
私たちはこのことを先ずしっかりと見つめなければなりません。そこそこに満たされた、幸せな人生を送っていると、「肉と血は神の国を受け継ぐことができない」という事実を忘れてしまいます。そしてこの人生が平穏無事に過ぎていくことが救いであるように思ってしまうのです。しかしそのような人生に、ある時思いがけないことが起り、突然深い苦しみ悲しみのどん底に突き落とされてしまうことがあります。このところ私たちは地震や津波や大雨などの自然災害によってそういうことを見せつけられています。自然災害だけでなく、原発事故のような人間に責任がある事柄によっても、人生がズタズタになってしまうことがあるのです。そういうことを目の当たりにする時私たち、「神様がおられるなら何故こんなことが起こるのか」と思います。しかしこれらのことはまさに、肉と血をもって生きる私たちのこの人生、今のこの世界が、神の国を受け継ぐことのできるものではない、そこには救いの完成はないということを示していると言わなければならないでしょう。自然に与えられている命の体をもって生きているこの人生の中には、救いの完成、神様の恵みのご支配の完成はないのです。
朽ちないものへと変えられる
この手紙を書いたパウロは次の51節で「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と言っています。「神秘」というのは「隠されたこと、秘密」という意味の言葉です。私たちの目には隠されていること、信仰によってしかわからないことを告げると言っているのです。それは「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」ということです。今とは異なる状態に変えられる、つまり、肉と血、朽ちるものであり、それゆえに神の国を受け継ぐことができない私たちが、朽ちないものへと変えられるのです。そして、神の国を受け継ぐ、救いの完成にあずかるのです。そのことはいつ、どのようにして起こるのか。52節にこうあります。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」。「最後のラッパが鳴る」、それはこの世の終わりが告げられるということです。この「最後のラッパ」について、同じパウロが書いたテサロニケの信徒への手紙一の第4章16節には「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます」とあります。つまり最後のラッパは、復活して天に昇られた主イエス・キリストが、天からもう一度降って来られることを告げるラッパです。それをキリストの「再臨」と言いますが、それによって今のこの世は終わるのです。そしてこの主イエスの再臨の時に、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられる」のだとパウロは語っているのです。いつか死んで朽ちてしまう私たちが、この世の終わりの主イエスの再臨の時には、復活して朽ちない者へと変えられ、神の国を受け継ぐ者とされる、それが救いの完成なのです。肉と血をもって生きているこの人生の中に救いがあるのではなくて、その肉体が死んで朽ちてしまった後、この世の終わりに、神様の恵みによって復活して朽ちない者とされる、そこにこそ私たちの救いの完成があるのだとパウロは語っているのです。
復活と永遠の命を待ち望む者
既に天に召された方々を私たちがどのように覚えていけばよいかがここに示されています。それらの方々は、肉体の死によって神様のみもとに召され、神様と、主イエスと共にいる者とされました。肉体の死によって主と共にいる者とされるのだとパウロも語っています。それを「天国に行く」と表現したりしますが、それは救いの完成が与えられることではありません。死んで天国に行くことが、聖書の教える救いの完成ではないのです。救いの完成は、世の終わりのキリストの再臨において与えられる復活と永遠の命です。既に天に召された方々もまだその救いの完成にあずかってはいないのです。彼らもまた、主イエス・キリストの再臨によって実現する救いの完成を待ち望んでいるのです。そのことを語っているのが51節の「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません」という言葉です。聖書はしばしば、死ぬことを「眠りにつく」と表現しています。ここで「眠りにつくわけではありません」と言っているのは、死において、永遠の眠りにつくわけではない、ということです。眠りについた者は、いつか目覚めるのです。そのことを意識して、聖書は死ぬことを眠りにつくと表現しているのです。つまり眠りについた死者たちは、目覚める時を待っているのです。キリストがこの世にもう一度来られ、そのご支配があらわになり、神の国が実現する時、彼らは目覚め、復活して永遠の命を与えられるのです。私たちは先に天に召された方々のことを、神様のもとで平安の内にその救いの完成を待っている人々として覚えていくのです。そして私たち自身も、いつか死んで肉体は朽ちていっても、主のもとに迎えられて、彼らと共に終わりの日の救いの完成、復活と永遠の命を待ち望む者とされることを信じて、死に備えていくのです。
この世に埋没することからの救い
死に備えるために今私たちがなすべきことは、パウロが53節で告げている、「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」という神秘を信じることです。朽ちるべきもの、死ぬべきものである私たちが、終りの日に、主イエスによって与えられた救いにあずかり、朽ちないもの、死なないものへと復活し、永遠の命を与えられる、その救いの完成を待ち望みつつ今のこの人生を生きる者となることこそが、誰もが必ず迎える死に対する最も適切な備えなのです。そしてこの復活と永遠の命を信じることこそが、主イエス・キリストを信じて生きることの中心です。復活と永遠の命の希望を抜きにした信仰は、救いの兆しを得ただけで、結局朽ちるものであるこの世の事柄に埋没してしまうことになるのです。そこに埋没してしまうというのは、朽ちるものでしかないこの世の人生における喜びや誉れや豊かさを絶対化してしまい、それに捕えられてしまうことです。この世の喜びや誉れや豊かさを得ることが人生の最大の目的になってしまうことによって、本当に大切な、朽ちないものを見失ってしまうのです。また、幸いにしてこの世における喜び、誉れ、豊かさを得た者は、今度はそれを失うことをいつも恐れるようになります。しかしやがて必ずやって来る死は、それらのものを全て私たちから奪い去ります。だから常に死を恐れるようになり、そんな縁起でもないことは極力考えないで生きるようになるのです。しかし復活と永遠の命の希望に生きる者は、この世における喜びや誉れや豊かさが過ぎゆくもの、朽ちていくものであること、そしてそれらが全て失われても、その後になお神様の救いの約束が残っていることを信じて生きることができるのです。
同じように、復活の希望に生きる者は、この世の人生における苦しみ、不幸、不遇を絶対化することからも救われます。この世の事柄に埋没し、何十年かのこの世の人生が全てだと考えている者には、苦しみ、不幸、不遇は人生の敗北、失敗を意味します。それは絶望を生むのです。しかし復活の希望を与えられているなら、この世の人生における苦しみや不幸が、人生の価値を決める最後の事柄ではなくなります。地上の人生を、たとえ苦しみと不遇の内に終えることになるとしても、死の彼方に新しい、朽ちることのない、神の国を受け継ぐ歩みが与えられることを信じ、希望を持ち続けることができるのです。
死に対する勝利
これらのことを一言で言うならば、死に対する勝利を与えられるということです。この世の人生しか見つめることができない者にとっては、死は、津波のように人生を全て押し流し、破壊する不気味な力です。そして誰も死を免れることができないのですから、私たちは皆この不気味な力の支配下にあるということになります。人生は、死から与えられている一時の執行猶予期間になるのです。しかし復活の希望に生きる者は、肉体の死もまた神様のご支配の下にあることを信じることができます。神は死んだ者を復活させ、新しい命と体をお与えになることができる。つまり神は死の力に勝利しておられ、それをご自分の支配下に置いておられるのです。そこでは死はもはや私たちを脅かす不気味な力ではありません。人生は死から与えられた執行猶予期間ではなくて、神様が命を与え、生かしてくださっている恵みの時です。そして神様はその人生が終わった後に、私たちを死の力から救い出して、新しい、朽ちることのない命と体をも与えて下さるのです。復活の希望に生きる者にとっては、人生は、死に対する神様の勝利の下にあるのです。
死の意味の変化
このことをパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という、旧約聖書の言葉の引用によって言い表しています。この言葉は、イザヤ書25章8節と、ホセア書13章14節を結び合わせた引用なのですが、特にホセア書の方の元々の意味は、パウロがここで語っていることとは全く違っています。それはむしろ、イスラエルの人々の罪に対して神様が怒っておられ、死よ、早く来て彼らを滅ぼせと言っておられる言葉なのです。ですからこれは文脈を全く無視した引用であると言わなければなりません。しかしパウロは敢えてそういう引用をしているのです。そこには、旧約聖書の時代と、主イエス・キリストが来られた今では、死の持つ意味が決定的に変わったのだという思いが込められています。旧約聖書においては、死は神様の許しの下で人間を滅ぼす力を奮っていました。しかし主イエス・キリストの十字架の死と復活とによって、今やその力は打ち破られ、復活の命の約束が与えられているのです。つまり私たちに対して死が持っている意味が全く変わったのです。パウロはそのことを、56、57節で語っています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」。「死のとげは罪であり」という言葉に、生れつきの、つまりキリストによる救いにあずかる前の私たちにおける死の意味が明確に示されています。そこでは死は私たちに痛みを与え、苦しみを与えるとげなのです。それは私たちの罪のためです。人間にとって死が苦しみであるのは、神様に背き、自分を主人として生きようとする罪によって、私たちと神様との良い関係が失われ、疎遠になってしまっているからです。その疎遠な神によって私たちの命が終わらせらせる、そこに、死が恐ろしい不気味な力として感じられる原因があります。主イエス・キリストは、その私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。神の独り子である方が、私たちと神様との関係を損なっている罪をご自分の身に引き受けて死んで下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の死によって、神様は私たちと親しい、よい関係を結び直して下さったのです。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じる者にとっては、神様はもはや疎遠な方ではなく、近い、親しい、愛に満ちた方です。それゆえに、主イエスを信じる者にとっては、死のとげは根本的には失われているのです。しかしそれでもなお、肉体の死において、私たちがこの世で持っているものは全て、富や豊かさも、家族や友人との関係も、名誉や業績も、失われます。それゆえに死は、信仰を持って生きている者にとってもなお、苦しみと恐れと不安をもたらすものです。神様はその私たちのために、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させて下さり、死の力に対する神様の恵みの勝利を示して下さったのです。そして私たちにも、主イエスが与えられたのと同じ復活の命と体を、終わりの日に与えると約束して下さったのです。
主の業に常に励む
この復活の希望に生きる者となる時、私たちのこの世の生活は変わります。どう変わるのか。最後の58節がそれを語っています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。復活の希望に生きる者となると、「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励」むことができるようになるのです。それぞれが自分の置かれた場で、神様に仕え、神様が喜びたもう働きを、何によっても動揺させられることなく熱心に行っていくことができるのです。それは、そうしないと神様の救いにあずかることができないからではありません。肉と血における、つまり肉体をもって生きる歩みは、私たちがどんなに頑張っても、やはり朽ちるものです。この世でどんなにすばらしい働きをしたとしても、それによって神の国を受け継ぐことはできないのです。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神様から与えられるのです。ですから私たちが主の業に励むのは、救いを獲得するためではなくて、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを知っている」からです。無駄にならない、それは、滅んでしまわない、朽ちてしまわないということです。人間の業、この世の働きは全て朽ちるものであり、死ねば終わりになるけれども、その人生において私たちがする事の中で、朽ちることのない神の国とつながっていることが一つだけあるのです。それが、主の業に励むことです。どのようなことをすれば、主の業に励むことができるのでしょうか。実は、こういう業は主の業だけれどもああいう業はそうではない、というものではありません。私たちが主に結ばれているならば、つまり主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを信じて、主イエスの十字架によって神様との関係が既に良いものとされており、主イエスの復活によって、肉体の死を越えた彼方に復活と永遠の命の約束が与えられていることを信じて、主イエスとの交わりの中で生きているならば、私たちがこの世の人生においてする様々な業は全て主の業なのです。逆に主イエスとの関係なしに、その恵みを覚えることなしにどんなに素晴しい業をしても、それは朽ちていく人間の業です。ですから、主の業に励んで生きるというのは、立派な業をするために自分の力を蓄えスキルを磨くことではなくて、神様と、主イエス・キリストとの関係、交わりを持って生きていくことです。神様と関係を持ち、交わりを持って生きることの基本は礼拝です。主の日の礼拝を守りつつ、そこで神様のみ言葉を聞き、祈り、賛美しつつ、また共に神様の救いにあずかる兄弟姉妹との交わりに生きることによって、私たち自身が主に結ばれた者となります。主に結ばれ、主イエスが十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、復活によって死の力に勝利する新しい命を約束して下さっていることを信じて生きる者とされる時、その私たちの業は主の業となります。主がそこに働いてみ業を行なって下さるのです。それゆえにその業は、朽ちてしまうことのない、無駄になることのないものとなるのです。主イエスを信じてこの世を歩み、主に結ばれた者として天に召された召天者の方々も、主の業に励みつつその生涯を送りました。いや、主ご自身がこの方々を用いて恵みのみ業を行ない、それぞれの家族に、また教会に、つまり私たちに、祝福を注ぎ、導きを与えて下さったのです。今日、一人の召天者を覚えつつこの礼拝に集われた方があれば、まさにそこに、主がその召天者を用いて今与えて下さっている祝福、導きがあります。天に召された方々の業は、そのように、主の恵みの中で今も朽ちることなく、無駄になることなく用いられているのです。この主の恵みのみ業を見つめていく時に、私たちも「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」と歌うことができるのです。