主日礼拝

宿営の外に出て

「宿営の外に出て」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第6章1-13節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第13章7-16節  
・ 讃美歌:3、402、519

キリストの福音を伝道する教会
 この礼拝の後に教会全体修養会が行われます。本日の説教は、この修養会の主題講演をも兼ねるものです。修養会には、例年以上に多くの方々が参加を申し込んで下さっているとのことを聞き、喜んでいます。様々な事情で参加できない方も、本日の礼拝を共に守ることによって修養会に半分は参加することができるわけです。本日の修養会の主題は「キリストの福音を伝道する教会」です。これは2013年度の指路教会の年間主題です。その主題と共に掲げられている聖句が、先程朗読された新約聖書、ヘブライ人への手紙第13章の13節の言葉、「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」です。本日の説教題もそこから付けました。この聖句と、「キリストの福音を伝道する教会」という主題とはどう結びつくのか、それが本日の説教の課題ということになります。この13節は、必ずしも分かりやすい言葉ではありません。いやむしろ、何を言っているのかさっぱり分からない、というのが正直な感想でしょう。この言葉と「キリストの福音を伝道する教会」という主題との関係も、さっぱり分からないという人もいれば、自分なりにこういうことだろうなと考えて納得しているという人もいるでしょう。いずれにしても、改めてこの聖書の言葉と今年の年間主題とを合わせて考えていきたいのです。

神の言葉を語った指導者たち
 ところで本日の聖書の箇所は7節以下です。主題聖句である13節について考える前に7節からの流れを見ていきたいと思います。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」とあります。「あなたがた」というのは勿論この手紙が当てられている教会の人々、信仰者たちです。今信仰を持って生きているあなたがたにはそれぞれ、自分に神の言葉を語ってくれた指導者たちがいただろう、その人々のことを思い出しなさい、と語られているのです。私たちにはそれぞれ、神の言葉を語ってくれた指導者がいます。その人のおかげで、主イエス・キリストを信じる信仰を得ることができた、という人がいます。言い換えれば、私たちに伝道してくれた人がいて、そのおかげで私たちは信仰を得ることができたのです。その人のことを感謝をもって思い起こすことが「伝道」の第一歩です。それによって、今度は私たちが伝道のために主によって用いられていく、という可能性が見えてくるのです。私たちに神の言葉を語ってくれた人は、教会の牧師であるかもしれません。この教会の古くからの信者の方々の中には、村田四郎牧師こそ自分に神の言葉を語ってくれた指導者だ、と感じている方が沢山おられます。私にとっては自分の父親がそういう牧師でした。ある牧師を通して神の言葉に触れ、それに打たれることによって信仰を与えられる、そういう体験は皆さんそれぞれが持っておられると思います。しかしこの「神の言葉を語った指導者」は牧師だけとは限りません。自分を教会に誘ってくれた、また教会において親しく声をかけ、励ましてくれた、信仰への勧めを語ってくれた、そういう先輩の信仰者のおかげで信仰を得ることができた、という方も沢山おられるでしょう。「神の言葉を語る」ことは、少し広い意味に取れば、信仰者の誰でもができることです。つまり信仰者は誰でも、神の言葉を語ることができ、伝道をすることができ、人を信仰へと導くことができるのです。

信仰者として死ぬことを
 そしてここには、「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」とあります。その人が既に天に召されていることが前提となっています。「私に神の言葉を語ってくれたあの人はまだ生きている」という人も多いでしょうが、ここに語られている大事なことは、信仰者として生涯を終わること、つまり信仰を守り抜いて死ぬことの大事さです。教会に連なる信仰者として生き、教会に連なる信仰者として死ぬことによってこそ、私たちは神の言葉を語り、伝道することができるのです。生きている間の信仰生活において目覚ましい働きをするとか、人の出来ないような奉仕をすることが大事なのではありません。そういうことは、その人への尊敬は生むでしょうが、「自分はとてもあんなことはできない」という思いをも生むのです。しかし、そんな働きは何もなくても、私たちが信仰者として人生を最後まで歩み、そして召されるなら、そこには、私たちの人生を導き、最後まで支えて下さった主なる神様の恵みが証しされ、現されるのです。一昨日、私たちの教会のメンバーであったIさんが天に召されました。今週そのご葬儀が教会で行われます。Iさんは最後の数年間、次第に認知症が進んできておられ、そのことを嘆いておられました。でもその中でも、ご家族の支えの中で、指路教会で、またお嬢さんSさんのご主人が牧師である君津伝道所で礼拝を守り、またご家庭で聖書の通読を続けておられました。先週の主の日も、君津伝道所の礼拝に出席しておられたのです。私たちに身をもって神の言葉を語ってくれた信仰の先輩であるIさんを覚え、その生涯の終わりをしっかり見つめたいと思います。そして私たちも、その後に続いて、信仰者として生き、信仰者として死ぬことを追い求めて歩みましょう。そのような人生を神様が伝道のために用いて下さるのです。

イエス・キリストにおいて一つ
 さてここには、そのように自分に伝道してくれた人のことを思い出しなさい、と語られています。つまり自分が伝道されたことを感謝をもって思い起こすことが大事だと言われているのです。それは勿論、自分に神の言葉を語ってくれた人に感謝し、その信仰を見倣いなさい、ということですが、それに続く次の8節には「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」とあります。神の言葉を語ってくれた指導者を思い出すことは、取りも直さず、永遠に変わることのないイエス・キリストを見つめることなのだ、と教えられているのです。指導者たちが語ってくれた神の言葉は、イエス・キリストを証ししていました。イエス・キリストこそ、神の言葉の内容であり、人となった神の言葉そのものなのです。信仰の指導者たちのことを思い出し、その生涯の最後を見つめることによって、私たちは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないイエス・キリストと出会い、イエス・キリストと共に生きる者とされるのです。それゆえにこそ、私たちがそれぞれ様々な人を、自分に神の言葉を語ってくれた指導者として覚え、感謝していても、私たちの間には一致があるのです。9節に「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません」とあるのは、神の言葉を語ってくれた指導者は様々に異なった人々だとしても、神の言葉が告げているのはイエス・キリストなのだから、そこにおいて私たちは一つであり、いろいろな異なった教えに迷わされるようなことはない、ということを言っているのでしょう。

食べ物ではなく、恵みによって
 9節の後半には「食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」とあります。「異なった教えに迷わされる」とは例えばこのように、「食物の規定に従って生活する」ことです。つまり、食べてもよい清い食物といけない汚れた食物とを区別して、汚れたものを避けることによって自分の身を清く保ち、神の前に出ることができる清い者となろうとするのです。私たちは、食べ物によって清い者となったり汚れた者になるなんて滑稽な話だと思います。しかしこれと同じような思いに陥ることは私たちにもあります。何かによって自分の清さを保とうとする思いは誰にでもあるのです。その思いは必ず、もう片方に汚れた者を作り出し、そういう人たちと自分とを区別し、その人たちを避け、退け、触れないようにするということを伴います。つまり人を清い者と汚れた者とに分けて、自分は清い者の方に入って汚れた者を批判する、ということが起るのです。信仰において私たちはしばしばそういうことをしているのではないでしょうか。いやむしろそのように汚れた者から自分を区別して清い者となるために努力することが信仰だと思っているのではないでしょうか。そういうことこそが、「食物の規定に従って生活する」ことです。しかしそのように生活した者は「益を受けなかった」のです。つまりそれは、神の言葉に基づく本当の信仰ではないし、そこには本当の救いはないのです。神の言葉に基づく本当の信仰は、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方であるイエス・キリストを信じる信仰であり、食べ物ではなく、その主イエスの恵みによって心を強められることです。そこにこそ本当の救いがあります。神の言葉を語った指導者たちが私たちに伝えてくれたのはこの信仰であり、この救いなのです。しかしイスラエルの人々が、神の言葉を聞かされていながらいろいろな異なった教えに迷わされてしまったように、私たちも、指導者たちが語ってくれた神の言葉を間違って受け止めてしまい、主イエスの恵みよりも食物の規定のようなものをそこに聞き取ってしまっていることがあるかもしれません。そうなると、そこには清い者が汚れた者を裁くようなことが起り、一致が失われ、心を開いた交わりが失われていきます。「食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした」というのは具体的にはそういうことが起ったのです。それは私たちにも起ることです。指導者たちが、信仰の先輩たちが語ってくれた神の言葉をそのように間違って受け止め、互いに批判し合うような益のないことをしていたのでは、神の言葉を語り、伝道をしていくことなどできるわけはありません。ですから私たちが「伝道する教会」であるためには先ず、神の言葉が語り示している恵み、つまり「キリストの福音」を、間違えずに正しく受け止めることが第一に必要です。きのうも今日も、また永遠に変わることのない方である主イエス・キリストによる救いの恵みとは何なのか、私たちは何を信じており、何によって心を強められながら生活しているのかを明確に意識することが、「キリストの福音を伝道する教会」であるための基本なのです。

イエス・キリストという祭壇
 さて、神の言葉が語り示しているイエス・キリストの福音とはどういうものでしょうか。そのことが10節以下に語られています。10節の冒頭に「わたしたちには一つの祭壇があります」とあります。祭壇というのは、神様に供え物を献げる場所ですが、それは私たちが神様と出会い、交わりをもって生きるための場です。つまり言い換えれば、私たちが信仰をもって生きることを可能にするものを象徴しているのが祭壇です。その祭壇は一つであって、いくつもあるのではないと語られているのです。そのただ一つの祭壇、それはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方である主イエス・キリストです。主イエス・キリストによってこそ、私たちは神様と出会い、神様と共に生きることができる、つまり信仰を持って生きることができるのです。このイエス・キリストという祭壇において何が行われたのか、そのことが、旧約聖書の時代の祭壇との比較において語られています。11節に「なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです」とあるのが、旧約の時代の祭壇で行われていた儀式です。年に一度、イスラエルの民全体の罪を贖い、赦しを与えるための犠牲の動物が屠られ、大祭司がその血を携えて聖所のさらに奥の至聖所に入るのです。この犠牲の動物の血によって罪の贖いがなされます。それは、血にこそその動物の命が宿ると考えられていたからです。ですから血が注がれるということはその動物の命がささげられることであり、その命の犠牲によって民の罪が赦されるのです。そしてその際に、その動物の体は宿営の外で焼かれます。通常の献げ物の動物の肉は、祭司のものとなり、祭司とその家族がそれを食べることができるのですが、この贖罪のための犠牲の動物の肉は、誰も食べることができず、全てを焼き尽くさなければならないのです。この旧約時代の贖罪の儀式は、主イエス・キリストにおいて私たちのためになされた救いの出来事の備えでした。12節に「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」とあることがそれを語っています。主イエス・キリストは、御自分の血で私たちの罪を贖い、聖なる者つまり神様の民として下さいました。動物の血ではなく神様の独り子である主イエスの血によって、私たちの罪は贖われ、赦されたのです。旧約時代の、動物の血による贖いの儀式は、主イエス・キリストの血による贖いの言わば予告編でした。不十分な予告編だったために、それは毎年繰り返されなければならなかったのです。しかし、神様の独り子であられる主イエスの血による贖いは、言わば本編であり、決定的な、完全なものです。それはただ一度限りで、私たち全ての者の罪を完全に贖う救いのみ業だったのです。しかしその贖いのみ業において、主イエスは門の外で苦難に遭わなければなりませんでした。それが主イエスの十字架の苦しみと死です。「門の外」というのは、エルサレムの城門の外にあるゴルゴタの丘で、という意味です。そのことが、旧約時代の儀式において犠牲の動物の体が宿営の外で焼かれたことと重ね合わされています。主イエスがゴルゴタの十字架にかかって死んで下さったことによって、その血による私たちの罪の贖い、赦しが実現したのです。それは別の面から言えば、私たちの罪を主イエスが全て背負って、私たちに代って十字架の死刑を受けて下さったことによって、私たちには罪の赦し、無罪放免が与えられたということです。これが、イエス・キリストという祭壇において私たちのために行われたことです。主イエスによるこの救いのみ業を通して私たちは神様と出会い、神様と共に生きることができる、つまり信仰を持って生きることができるのです。主イエスがきのうも今日も、また永遠に変わることのない方であるというのは、この十字架の死による救いを、罪の赦しの恵みを、きのうも今日も、永遠に変わることなく与えて下さることにおいてです。そしてこの救いの恵みこそが、神の言葉が私たちに語り示している「キリストの福音」なのです。

益のない歩みからの解放
 この「キリストの福音」を正しく受け止めるならば、私たちは、いろいろ異なった教えによって迷わされることはなくなります。食物の規定に従って生活し、清い者と汚れた者とを区別して汚れた者を批判したり責めたりするような益のない歩みから解放されるのです。その解放は、私たちが人を批判したり責めたりしないという清い者になることによって実現するのではありません。そうではなくて、自分が清い者ではなく、汚れた者、罪人であることを認めることによってこそ、その解放が実現するのです。何故ならば、自分が清い者、正しい立派な者になることによって救いを得ようとする所には、必ずあの「食物の規定に従って生活」しようとするのと同じ思いが生じるからです。罪の赦しは、罪のない者になろうとすることによっては得られません。自分が罪人であることを認める所にこそそれは与えられるのです。そして私たちは、罪と汚れに満ちているこの私のために、主イエス・キリストが血を流して下さり、十字架にかかって死んで下さったことによって、罪の赦し、贖いが既に与えられている、という福音を信じる時にこそ、自分が本来十字架につけられて滅ぼされなければならない罪人であることを心から認め、受け入れることができるのです。そして、救いとは、自分が罪のない清い者となることによって「獲得する」ものではなくて、罪人の救いのために死んで下さった主イエス・キリストの恵みによって「与えられる」ものであると知ることができるのです。その時私たちは、人との比較の中で自分の清さ正しさを誇り、その誇りを守るために人を批判したり責めたりすることが、目くそ鼻くそを笑うような滑稽なことであるのに気付き、そのような益のない歩みから抜け出すことができるのです。

13節の勧め
 これらのことを受けて、主題聖句である13節が語られています。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」。これは勧めの言葉です。主イエスが、御自分の血で私たちの罪を贖い、赦しを与えて下さった、そのために門の外で十字架の苦しみと死を引き受けて下さった、それによる救いを、罪の赦しの恵みを与えられているのだから、私たちはこのように生きようではないか、という勧めがなされているのです。どのような生き方が勧められているのでしょうか。イエス・キリストの十字架の苦しみによって与えられた救いを受けるのに相応しい立派な信仰者になって、私たちも苦しみを進んで引き受け、主イエスのために、神様のために犠牲を払い、頑張って主に仕え、その一貫として伝道していこうではないか、ということでしょうか。だとしたらそれはまたしても、自分が清い者、正しい立派な者になることによって救いを得ようとしていくことになるでしょう。そこにはまたしても「食物の規定に従って生活」しようとすることが起っていきます。そして、「自分は主イエスのためにどれだけ苦しみを担っているか」ということを誇りとし、「それに比べてあの人は何も苦しみを担っていないではないか」と人を裁いたり批判したりするというあの無益なことが繰り返されていくのです。それでは何にもなりません。それこそ、主イエスが罪人である私たちのために御自分の血によって贖いを成し遂げて下さったその救いのみ業を無にすることです。ここに勧められているのは、そのように私たちが頑張って立派な信仰者になることではありません。そうではなくて、私たちが、主イエス・キリストの十字架において示され、与えられた恵みによって心を強められていくことによって、私たちを様々な仕方で支配している食物の規定のようなものから解放されていくこと、つまり自分が清く正しく立派な者になろうとする思い、言い換えれば、より付加価値のある人間になることが救いだという思いから解放されていくことこそが勧められているのです。その勧めが「イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と言い表されているのです。何故ならこの解放は、主イエス御自身も受けて下さった辱めを担うことだからです。清く正しく立派な者、人より付加価値のある人間であることを誇りとし、そういう自負、自信を持って生きようとすることをやめて、自分が弱く、愛に乏しい、惨めな罪人であることを認めることは、主イエスが神の独り子としての栄光を捨てて人間となり、私たちの罪を代って背負って十字架の死刑を受けて下さるという辱めを担って下さったことに通じるのです。またこの解放は、私たちが慣れ親しみ安住している、言い換えれば引き蘢っている自分の狭い世界、親しく気心の知れた者たちだけで気持ちよく過ごすことができる、以前のままの自分を変えずにすむ、要するにそこでなら自分のプライドを保っていられる、その宿営から外に出て、主イエスのみもとへと赴くことです。それは14節の言葉で言えば、地上に永続する都を持つのでなく、来るべき都、神様が示し与えて下さるまことの故郷を探し求める旅に出ることです。そのように自分の宿営を出て、来るべき都を求めて主イエスと共にこの世を旅人として生きる者となることをこそこの箇所は勧めているのです。それこそが、信仰をもって生きることです。そしてそこには、15節が語っているように、「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げ」るという、喜びをもって神様をほめたたえつつ生きる人生が与えられていきます。また16節には「善い行いと施しとを忘れないでください」という勧めがあります。つまり隣人を愛し、仕えていくということです。それもまた、主イエスの十字架による罪の赦し、つまりキリストの福音によって、食物の規定から解放されて、恵みによって心が強められていくところでこそ、喜びをもって行なっていけることなのです。

キリストの福音を伝道する教会
 キリストの福音を伝道する教会は、このキリストの福音によって解放されている教会です。私たちが信仰の先達たちから受け継いだ神の言葉は、食物の規定を語っているのではなくて、きのうも今日も、また永遠に代ることのない方であるイエス・キリストを告げ知らせています。その主イエスが御自分の血によって罪人である私たちを赦し、私たちを聖なる者、神の救いにあずかる民として下さいました。その救いの恵みによって私たちが、自分の清さ正さ立派さを求める思いを捨てて主イエスも受けて下さった辱めを担い、自分が変えられることを拒んで安住しようとする宿営を出て、主イエスと共に旅立っていくことによってこそ、キリストの福音の本当の喜びが私たちに満たされ、そしてその喜びを他の人々にも伝えていくことができる、伝道する教会となっていくことができるのです。

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